おやすみなさい。いきなり激しい腹痛に見舞われて目が覚めトイレへ直行。錐揉みさせられて、ついに解放。どどっと凪の海。戻って布団に転がり、胃を手当してあたためる。もういい。あたたまったようだ。凌いだのだ、ようやく。冷たいビールが災いしたのか。入浴後の腹を冷やしたのか。分からない。でももうすんだことだ。おやすみなさい。睡魔が子守唄を歌って聞かしてる。
無差別に澄み渡っている大空である/この無差別をほしいままにす/だらしない者には澄み渡らないということがない/功績のない者には澄み渡らないということがない/不正義者には澄み渡らないということがない/ほしいままにしていていいというこの眼前の果報/これにどう匹敵しうるか/黒い瞳の黒さで匹敵するか/踏ん張った足の踏ん張りで匹敵するか/鼓動する方寸の力強さで匹敵するか/小心者があれこれ戸惑っている内に/五月が山を新緑にして/すっかり独り占めにしてしまった/
気まぐれ者の今日のランチはパスタ料理だった。気の利いた料理屋さんのことを聞き知って食べにいった。今日はそういう気分の日だった。若い女性客が多くて、老爺が入れる雰囲気ではなかったのに、押し入ってしまった。店員さんお勧めのランチ、野菜たくさんの和風パスタを食べた。1100円と値が張った。席の真ん中がガラスで仕切られていたが、隣の席の向かい側に女性が一人で座っていた。なんとなく目が合ってしまった。若者ではなく老爺であるから、その女性はがっかりだっただろう。
美しい人だった。魅力的だった。もしさぶろうがもっと若ければ立ち上がって行って「ああ、あなたは美しい人だ。魅力的な人だ」と言って認証してあげたくなるほどの人だった。(実際はそんなことはしたことがない)こんな美人が一人でいるはずがない。彼氏を待っているのかも知れない。そろそろやって来るだろう。店を出るまでそんなことが気になってしまった。早く誰か勇気のある若者が現れて、誘惑の声を掛けてやればいいのにと思った。和風パスタは醤油だしでこの老爺にはうってつけだった。
今日書いたブログを読み返してみた。分かりづらい。読者もきっとそうだろうと思う。滅多に読み返さない。推敲をしていない。浮かんだままをトコロテンにしている。見直しも校正もしていない。これじゃいけないが、彼の性格はいい加減である。丁寧さがない。周到さがない。無責任男である。その迂闊な性格を矯正してから書き出せということになれば、もう書く気持ちすら失せてしまいそうだ。申し訳がない。
庭を蝶々が飛んでいる。白い蝶々だ。いい気なものだ。ひらひらしているきりだ。当てがない。こうでなければならないという行儀がない。飛ぶコースも気紛れだ。なんだかさぶろうに似ているところがある。そう思って失笑した。
イヌタデが咲いている。まだ小さい。
華やかな業績を残した人たちに難癖を付けるわけではないけれど、終生目立たない生き方をしてそして静かに息を引き取ったという人もいる。大勢いるだろう。いや、そういう人が多いのかも知れない。そしてそれでいいのだ、と思った。ふっとそう思った。そうやって生きた人は、そうやってでも生きる力があったということになるはずだ。世人の称賛を浴びないでも、高い評価を受けないでも平気で、まったくそういうことは気にせずに淡々と野の一輪の蓼草のようにして生きることができたのだ。「その他大勢」という束に括られて歴史から抹消されてしまう人たちはそういう生き方を死後も恥じてはいないのではないか。そういうことを思った。さぶろうがその範疇の人間だから余計そう思うのかも知れない。
五月の空が澄み渡っている。いまごろの天気を「清和」ともいうらしい。空は差別をしないのだ。華やかな業績を残した人にも、そうではなく、それとは全く無縁の平凡な凡庸な人にも、等しく澄み渡っていてくれるのである、大空というのは。恥じることを要求してくることもないのである。
ハハコグサが咲いている。黄色い小さな素朴な花だ。庭の片隅にこれを見つけた。見つけないでもそこに咲いたいたはずなのだが、わざとそうじゃなくて、さぶろうが見たときからやっと咲いたというふうに曲折して思ってみた。彼に見られたことが力になって咲き出したのだという具合に捩ってものを考えてみた。目立たない花だ。質実な誠実な花だ。そういうふうに彼は受け止めてみた。草丈は20cm未満だ。黄色も濃い黄色ではない。ずっと控え目な色だ。昔昔、彼が小学生であった頃に同名の映画がやって来た。学校全体で町の映画館まで歩いて見に行った。4キロくらいあるから子供の足では1時間くらい掛かったのではないか。内容はもうあんまり覚えていない。名の通り母と子の愛情物語のようなものだったと思う。その頃は食糧難の時代だった。山麓を開墾してそこにサツマイモや南瓜などを植え付けて凌いだ。さぶろうの母は真夏の炎天下でも畑仕事をしていたから顔が日に焼けていた。おしろいをつけたお母さんがほしいと思ったことがあった。それを後になって恥じた。ハハコグサは素朴な花だ。目立たないが誠実な花だ。この花を見ていると似通ったところがある母親の頬がうっすら浮かんで来る。
生きられる分を生きよう。生きられない分は生きられないのだから、生きないことにしよう。ごり押しをしないでいようと思った。その場に及んだら、それでもこの内決めは破られようとするかもしれない。どうなるかは分からない。あくまで今の時点である。生きられる分を生きたことに礼を言うようでありたい。夕月が浮かんでいたし、夕焼けもしていた。美しいものを見せてもらった。これ以上を欲張ってはならないと思った。
これは自分が引き受けなければならないものだ。逃れられない。逃れてはいけない。そう観念する。腹が決まる。苦しんだ分だけはゼロになる。うんうん唸る。そうするとそこで借りが返せて行く。すべては自業である。自らが為したカルマである。借りて置いて返さないというのはない。病のさぶろうの対処法である。苦しみや悲しみの引き受け方である。これを引き摺るよりもこれをこの生で償った方がいい。カルマは重い荷物である。これをこの生で下ろして軽くなることができるのなら、やはりここは堪忍をした方がいい。そのような諦め方を、さぶろうはするのである。帳消しされてまっさらになったということをイマジンするとこころは爽やかになれる。
悪業もあるが、善業もある。いずれもリターンがある。今此処をそのスタートにすることも出来るし、ラストにすることも出来る。今日ここで善業をスタートさせて、悪業をラストにできたらあとあと楽しみが増えて行くだろう。一つの悪業をラストにするにはそれを己に引き受けて苦しむことだった。善業をスタートさせるには、では、どうすればいいか。給料の前取りみたいなものがあるかどうか知らないが、善業のラストが喜びであるとすれば、スタートの今日此処を喜んでおくことかもしれない。今を生きているということを喜んでいることかもしれない。分からない。
99が好きでも残りの1がキライだとその人が嫌いになってしまうことがあるが、その逆、99がキライでも残りの1が好きだと好きになってしまうこともある。好き嫌いというのはとっても気紛れだ。己の所感など当てにはできない。好きだと言われた人も嫌いだと言われた人も両者ともそれが断定ではなく表面だけだということを知っていていい。
そんなこんなを考えながら畑で草取りをしていた。まあ、のんべんだらりとして作業しているから、こんなふうだ。とても生活禅の空にはならない。邪念ばかりだ。早朝からやったので、しかし、かなり広域できれいになった。10時半。早くも一休憩入れた。シャワーを浴びて石鹸をつけて汗を洗い流した。(さぶろうは石鹸派である。液体ソープを使わない。洗髪もそうだった)邪念の頭の中までさっぱりした。