徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

御旅所能舞台の鏡板

2022-09-14 09:11:22 | 伝統芸能
 今朝の熊日新聞に下の記事が載った。藤崎八旛宮例大祭で御能奉納が行われる御旅所能舞台(熊本市中央区新町)の鏡板を崇城大美術学科の学生らが新たに描いたという。百年以上の歴史を有するこの能舞台は老朽化が進んだため、熊本市が昨年から改修工事を進め、檜をふんだんに使って見違えるほど美しくなっているのを6月末の新町大祓の時に見ていた。今回新調された鏡板は例大祭の「神幸行列」がある18日に〝こけら落とし〟が行われるという。
 神事として始まった原始の能は、野外に土を盛り上げただけの簡素な舞台で、神社の境内などの大きな老松の下などで行われた。まずこの自然木の老松に神を降ろすことから始まった。この神が宿った松の木を「影向の松(ようごうのまつ)」と呼ぶ。つまり、もともと舞台のそばにあった天然の松の木を模して描かれたのが能舞台の「鏡板の松」なのである。
 藤崎八旛宮例大祭の御能奉納は今年413回目。この能舞台が熊本の祭礼文化を次世代に継承し、熊本の能文化をさらに発展させる役割を担うことを願ってやまない。
 なお、例大祭の御能奉納は、神幸行列の朝随兵が御旅所に到着する午前9時から、金春流と喜多流の御能、和泉流の狂言が演じられる。観覧無料。


2022.9.14 熊日新聞朝刊より



改修工事前の鏡板

火に身を投げたうさぎ

2022-09-12 18:35:08 | 日本文化
 昨夜は中秋の名月。一応撮影に挑んでみたものの満足できる写真は撮れませんでした。中秋の名月をブログのネタにする方も多かろうと思い、昨日はあえて名月をネタにするのはやめました。
 ところで、子供の頃、大人たちによく聞かされたのは「月ではうさぎが餅をついている」という話。そう言われると満月の暗い部分がうさぎが餅をついている影絵のように見えたものです。
 この言い伝えが日本で始まったのは、平安時代に書かれた「今昔物語集」の巻五第十三話に「月の兎が生まれた話」という一節があり、それがもとになったようです。もっともこの話には原典があり、インドの仏教説話からきているといわれています。それはこんな話です。

 昔、天竺(インドの旧名)にうさぎときつねとさるがいました。三匹は菩薩の修行をしていましたが、これを見た帝釈天(仏教の守護神)は獣である彼らが誠の心を身に付けたのか試してみようと思いました。そこで帝釈天は落魄の老人に姿を変え、彼らの前に現れました。さるは木の実や畑の作物を、きつねは魚や海の幸などをとってきましたが、うさぎは何もとってくることができませんでした。老人から嘲りを受けたうさぎは自分の不甲斐なさを恥じ、わが身を焼いて食べてもらおうと火の中に身を投げました。もとの姿に戻った帝釈天は、万人にこれを知らしめるため、火に入ったうさぎの形を月の中に移しました。

 メルヘンとはほど遠い凄まじい話ですね。また、満月のことを昔は「望月(もちづき)」と言いましたので、「もちづき⇒餅つき」となってうさぎが餅をつく姿になったという説もあります。


喜多流能楽師一行の南仏公演

2022-09-11 12:34:34 | 伝統芸能
 現在、南フランス能公演ツアー中の喜多流能楽師・大島衣恵さんがFacebookに中間報告を投稿されていた。その中で一行のエクサンプロヴァンス市長への表敬訪問が地元新聞に掲載されたことを紹介されていた。
 記事にはジョワサン市長とレイナル副市長が、交流都市である熊本市の大西一史市長と約1時間にわたってオンライン会議を行い、来年、交流都市10周年を迎える両市をつなぐプロジェクトやパートナーシップについて話し合った。その後、市庁舎で狩野了一さんを団長とする能楽師一行の表敬訪問を受けたことなどが書かれていた。

 熊本市とエクサンプロヴァンスとの交流は1984年の熊本日仏協会のエクサンプロヴァンス市訪問に始まるが、80年代初めからフランスでの能公演を行なっていた喜多流能楽師の狩野琇鵬さん(2016年没)が1992年、エクサンプロヴァンス市へ能楽堂を寄贈、以後も度々公演やワークショップなどを行なってきたことにより、2013年に両市の交流都市が締結された。狩野琇鵬さんは2009年にフランス芸術文化勲章「オフィシエ」を受章、2012年には「ジャンヌダルク600年祭」を記念して、自ら演出した新作能「ジャンヌ・ダルク」を、オルレアン、パリ、エクサンプロヴァンスで公演した。
 
 今回の能公演は9 月 9 日と10 日の両日、サンミトル公園に建つ能舞台「狩野丹秀記念能楽堂」で行われたという。


エクサンプロヴァンス市長へ表敬訪問する狩野了一団長


新作能「ジャンヌダルク」

宇土櫓の傾き

2022-09-10 22:12:19 | 熊本
 熊本城宇土櫓の解体・復旧工事がいよいよ来月から始まります。宇土櫓というと通常は五階櫓の部分を指してそう呼んでいますが、熊本地震で倒壊した二階の隅櫓と平櫓からなる続櫓を合わせた総称が宇土櫓です。隅櫓と平櫓は既に解体保存されていますが、熊本地震前の平櫓をご覧になった方は、五階櫓に向かってやや下がって行く構造だったことを憶えておられるでしょうか。
 これは何か損壊があったというわけではなく、櫓を支える石垣そのものに傾斜があるためその上に建てられた平櫓も傾斜がついたというわけです。
 下の熊本地震前の2枚の写真を見ますと傾斜の度合いがよくわかると思います。まだだいぶ先になりますが、復旧された時はこの傾斜も再現されると思います。




病院の待合室で

2022-09-09 21:02:44 | 歴史
 今日は姉を国立病院に連れて行って診察が終わるまで待合室でテレビを見ながら待った。
 一番印象強かったのは昨日96歳で亡くなったイギリスのエリザベス女王の話題。
 昭和28年、僕が小学2年生の時、学校の映画見学会があった。当時、通町筋にあった大劇で見た肝心の映画は何だったか思い出せないが、その前に上映された映画ニュースで見たエリザベス女王の戴冠式の様子は鮮明に憶えている。約70年の長きにわたり女王に君臨したエリザベス2世の死は、第二次大戦後世界の一つの時代が完全に終わったという感慨とともに寂しさを禁じ得ない。外国の元首の死でこれほど寂しさを感じたことはかつてない。


 夕方だったので、NHKで朝ドラの再放送をやっていた。今放送しているのは1996年に放送された「ひまわり」。2話続けて放送していたが、近年の朝ドラとは何かが違う。脚本といい主題歌といい、品格を感じた。主題歌の山下達郎「DREAMING GIRL」は今でも大好きな歌だが、脚本は誰だったかなとタイトルに目を凝らすと「井上由美子」とあった。あゝあの大河ドラマなど数々の秀作ドラマを書かれた方だなと思い出し、やっぱり最近の朝ドラは質が落ちているのだろうか?と思った。

阿蘇 ~青春の1ページ~

2022-09-08 21:44:08 | 
 1968年、僕が大学を卒業して最初に就いた仕事はM社のトラックやバスを販売するディーラーだった。ここには1年余りしかいなかったのだが、このわずか1年余りの経験が、後にいろんな場面で生きることになった。顧客は運送業や土木建設業などに限られるので、新入社員の僕の仕事と言えば、定期的な顧客への挨拶回りとご用聞きだった。そして僕の担当テリトリーは、阿蘇五岳を挟んだ南郷谷と阿蘇谷を中心とする阿蘇地方一円。地域特性もあっていろんな体験をし、多くの人々に出会った。中でも特に忘れられない思い出をあげてみた。

ッチハイク
 当時はモータリゼーションのさなかにあったが、阿蘇ではまだマイカーはそれほど普及しておらず、乗用車で行くと羨ましがられたものだ。顧客回りをしているとその家の娘さんなどから「ついでに〇〇まで乗せてって」などと頼まれることも多かった。山道では下校途中の小中学校の女の子が普通に手をあげて車を停め、乗り込んできた。まだ舗装道路も少なく車が通ると土埃モウモウ状態、雨が降ればぬかるみだから無理もない。当時の小中学生の間ではそれが一つの流行みたいなものだったようだ。今ではとても考えられない。車を停めて声をかけようもんなら、不審者として通報されるのがオチである。

酒運転
 新車の納車には同僚が乗用車で同行した。同僚が納車する時は乗用車で付いて行ったものだ。阿蘇は舗装されていない車幅ギリギリの狭い山道を登ることも度々だった。テレビの「ポツンと一軒家」でよく見るあの光景だ。しかし怖さよりも納車するトラックを傷つけないことだけが心配だった。新車しかも商売道具なので顧客にとって納車は祝事だった。必ず祝い酒が振る舞われた。当時はまだ「運転しますので」などと断れる時代ではなかった。ついてきた同僚とともにしこたま酒を飲まされた。帰りはいったいどんな運転だったのか思い出すのも怖い。

権回収
 学校を出て間もない若者がトラック1台で運送などの商売を始めることもよくあった。トラック販売はほとんど手形取引だったが、ちゃんとした経営計画もなしに始めるものだから、数か月経つと手形が落ちなくなる。支払いの催促に何度も訪れているとそのうち本人が行方不明になるケースもあった。そうなると管理部から「すぐにトラックを引き上げて来い」という指令が降りる。とり急ぎ駆けつけると、なんとトラックは既にほかの債権者に持ち去られていたというケースもあった。

 そんなわけで、けっしていい思い出ばかりではないが、当時阿蘇で出会った顧客の皆さん、販売協力店の皆さんなど今でもよくお一人お一人の顔を思い出す。僕にとって阿蘇は大事な青春の1ページとなった。


 



本條秀咲さんのホームページ

2022-09-07 20:05:37 | 音楽芸能
 本條流三味線の奏者として10年以上前から存じ上げている本條秀咲(ひでさき)さんがこのほど自らのホームページを立ち上げられた。秀咲さんを初めて拝見したのはたしか2011年の春だったと思う。当時、ザ・わらべ&こわらべ(現舞踊団花童)の熊本城本丸御殿などでの公演では、本條秀美社中と藤本喜代則社中が交互に地方を務めていたが、本條秀美社中の時は立三味線の本條秀美さんの脇のワキ三味線がいつも秀咲さんだった。当時はまだ本條流の名取りは許されていない頃で本名で出演されていた。今日、本條秀美さんに確認したところ、その年の10月に家元の本條秀太郎さんから名取りを許されたそうである。その後もずっと本條秀美さんについて修行を重ねられ、今では家庭を持ちながら自分の三味線教室も開設して日々奮闘中とのことである。
 秀咲さんが三味線を始めたのは、山鹿出身の秀咲さんが山鹿灯籠踊り保存会で活動していた20年ほど前、地方の指導に来られていた本條秀美さんと出会ったことがきっかけだったそうである。

 下の画像をクリックしますと「本條秀咲会」のページにジャンプします。



 下の映像は「俚奏楽 島めぐり」より「八丈ショメ節」。立三味線の本條秀美さんのワキを務め
「ショメ~ショメ」とはやし詞を唱えているのが本條秀咲さん。


海舟・龍馬の歩いた道

2022-09-06 21:02:00 | 歴史
 先週の「明治天皇行幸150年・120年記念年」の記事をご覧になったFB友の大分の栗田さんが、明治天皇の行在所となった新町の会輔堂には長崎行途上の勝海舟と坂本龍馬も泊ったということに強く興味を抱かれたようだ。栗田さんが所属しておられる鶴崎文化研究会の研究テーマの一つにもなっているようで、いずれ機会があれば海舟・龍馬の歩いた道を追体験するのも面白いかなと思う。
 毎年8月には、小中学生を対象とした「大分~熊本125km参勤交代徒歩の旅」なる催しが行われている。海舟・龍馬の歩いた道もほとんど同じなのだが、高齢者には125kmというのは過酷なので、その一部分を歩いてみるというのはどうだろうか。
 例えば、後半の次のような行程が考えられる。
 大津宿―二里木―一里木―立田口(立町構え)―坪井番所―観音坂―新堀御門―百間石垣―二の丸御門―二の丸―法華坂―新一丁目御門―会輔堂

 元治元年(1864)、勝海舟は幕府の全権を受け、長州攻撃を目論む米・英・仏・蘭の4ヶ国との交渉のため坂本龍馬を伴い鶴崎から豊後街道を通って長崎へ向かう途中、熊本城下へ入った。そのくだりが「海舟日記」に記されており、熊本城遠望の素晴らしい景観に敬嘆したことが綴られている。




大津街道を行く肥後細川藩の御行列。海舟も大津街道(豊後街道)のスケールに驚く



海舟が「天守孤立、築制他城の比にあらず。外周最大なり。」と表現した熊本城の景観

初めはみんな創作舞

2022-09-05 22:46:46 | 音楽芸能
 先日、FB友のNさんから「天麻那舞(あまなまい)ってご存じですか?」というメッセージが届いた。初耳だったが、添付資料を見ると神社などで奉納舞をするグループらしい。また全国各地で舞レッスンの活動もやっているようだ。
 昨年12月、加藤神社へ参拝に行った時、たまたま「太宰府まほろば衆」というグループの奉納舞を見た。こちらは和踊りと称しているようだが、飛鳥時代をイメージした衣装や音楽を現代風にアレンジした舞踊集団だった。
 この二つはモチーフとする時代背景は違えど宗教性をもった創作舞踊であることに変わりはない。創作舞あるいは創作舞踊というのは古典があるからそう呼ぶのであって、芸能の始祖といわれるアメノウズメの天岩戸伝説における神がかりした舞も創作舞だったわけである。
 舞と踊りの違いについては、以前、折口信夫の「舞ひと踊りと」を引用して記事にしたことがあるのでここでは省略する。
 ネット情報では、こうした宗教性をもった創作舞踊グループは意外と多いようだ。今の時代にそれが発生した社会的背景を一度調べてみたい。


天麻那舞


大宰府まほろば衆

 実はこうした創作舞活動は熊本にも10年以上も前からあった。長い間ご好誼をいただいている松田真美さんはお仲間と一緒にいろんな神社で奉納舞をしておられる。アメノウズメを祀った宮崎県高千穂町の荒立神社でも奉納舞をされたことがある。そんな彼女の活動の中から2007年に玉名市の高瀬蔵で行われたビエント(Vient)とのジョイント公演から創作舞「卑弥呼の舞」をどうぞ。



熊本城櫓群解体保存および復旧工事進む

2022-09-04 22:33:25 | 熊本
 現在、熊本城は監物櫓(国指定重要文化財)、戌亥櫓、馬具櫓など櫓群の解体保存および復旧工事が進行中だ。
 このうち監物櫓と戌亥櫓は散歩の時に見るので工事の進捗状況は概ねわかる。2018年に解体保存された監物櫓は今年前半に石垣補修も終わり、復旧工事が進行中で組まれた足場の中に姿が見えてきた。来年末には完成の予定だそうだ。
 一方、戌亥櫓、馬具櫓は解体保存工事が進行中。馬具櫓は今年10月下旬には解体完了、戌亥櫓は来年3月下旬に解体完了するという。だが、その後の復旧工事はまだだいぶ先になりそうだ。
 そして、来月からは最重要の宇土櫓(国指定重要文化財)の解体保存工事が始まる。僕は生まれてこの方、宇土櫓のない熊本城を見たことがない。いずれ復旧されるとはいえ寂しさを感じられてならない。


解体保存工事が進む戌亥櫓



熊本地震前の監物櫓(来年末には再び姿を現す)



いよいよ来月から宇土櫓の解体保存工事が始まる

二百十日も過ぎて

2022-09-03 20:59:47 | 
 暑い日が続くとつい億劫になって日課の散歩をサボるようになった。台風が近づいたこともあってか、今日は時々雨がぱらついたりして強い日差しもなかったので夕方散歩に出かけた。京陵中学校前の漱石記念緑道に立てられている「すみれ程の小さき人に生れたし」という漱石の句碑のそばのベンチに腰を掛けてひと休みした。句碑はいつの間にかコスモスに覆われている。
 そうか、二百十日も過ぎて季節はすっかり秋だなという感慨にふける。漱石の小説には阿蘇を舞台にした「二百十日」というのもあるし、今まさに11号台風がやってこようという時だが「野分」(台風の古称)というのもあった。熊本時代の秋の句には「傘(からかさ)を菊にさしたる新屋敷」なんてのもあったなと思い出しながらひと時を過ごした。



長唄「秋の色種(いろくさ)」より

阿蘇神社楼門の上棟式

2022-09-02 22:12:52 | ニュース
 熊本のテレビ各局は今夜のニュースで阿蘇神社楼門(国指定重要文化財)の上棟式を報じた。
 熊本地震で楼門が倒壊して6年4ヶ月。再建工事が始まって3年。来年末の竣工が待ち遠しい。

 阿蘇神社のある一の宮町は僕自身にとってカーディ-ラー時代の懐かしい街であり、楼門再建の暁には必ず訪れて参拝するとともに、当時お世話になった方に長い間のご無礼を詫びに行きたいと思っている。


楼門の上棟式を伝えるニュース


2016.4.17 ショッキングな阿蘇神社楼門倒壊のニュース



熊本地震で倒壊する前の阿蘇神社楼門



阿蘇神社神主友成が登場する能「高砂」

明治天皇行幸150年・120年記念年

2022-09-01 20:23:59 | 歴史
 今朝、所用で新町の方へ車を走らせていると、一新地域コミュニティセンターの前を通り過ぎようとすると、「明治天皇行幸150年・120年記念年」の幟が目に入った。帰ってから確認してみると、たしかに明治天皇の熊本行幸は明治5年(1872)と明治35年(1902)の2回なのでそうなる。何か記念行事をやるのだろうか。
 これまでこのブログにも明治天皇の熊本行幸について何度か記事を書いたことがあるのでちょっと整理してみた。
 最初の行幸は明治5年6月のこと。西国・九州巡幸の折、6月18日長崎から、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤艦」で熊本小島沖に到着された。1日目の行在所となったのは旧藩時代、細川家の御旅所となっていた米村家(現存)。明治天皇が父のように慕っていた西郷隆盛が随行していた。そのわずか5年後、西郷は西南戦争で逆賊として死んでいった。2日目の行在所となったのが新町の会輔堂、旧藩時代は御客屋として肥後藩の迎賓館だった所である。その8年前には長崎に向かう勝海舟や坂本龍馬も宿泊している。現在はその跡地に一新幼稚園や一新地域コミュニティセンターが建っている。一新幼稚園の敷地には行幸記念碑が建っている。
 2度目の行幸は明治35年11月のこと。熊本で陸軍特別大演習が行われた時だった。維新以来、富国強兵を推し進めてきた日本の陸軍特別大演習には先進諸外国の日本駐在武官も招かれ、明治天皇も大いに面目を施されたことだろう。極東の小国日本が大国ロシアと戦火を交えるまであと2年という歴史の1ページである。
 この2度目の行幸に際し、御料車が登れるようにと行幸坂(みゆきざか)と行幸橋(みゆきばし)が造られた。

 熊本には明治天皇の行幸を記念する「みゆき」という名前を冠するものがいくつかある。この行幸坂と行幸橋はもちろんそうだが、明治天皇が最初に上陸された小島には「御幸(みゆき」という地区があるし、熊本市の南区には頭に「御幸」を付けた町名が多い。すなはち御幸笛田町や御幸西無田町など。


明治5年の熊本行幸第1日目の行在所となった米村家(熊本市西区小島下町)


同じく明治5年の第2日目の行在所となった会輔堂跡(熊本市中央区新町)


明治35年の陸軍特別大演習の際、外国の駐在武官宿舎となった済々黌(熊本市中央区黒髪二丁目)


   玉名市の梅林天満宮例大祭において太宰府天満宮の巫女によって舞われる「扇の舞」
   明治天皇御製の歌「わが国は神の末なり神まつる昔の手ふりわするなよゆめ」を詞章とする。