昭和10年に水前寺北郊で開催された「新興熊本大博覧会」の公式ガイドブックに、熊本の民謡として次の8曲が歌詞付きで紹介されている。
火の国小唄/五十四万石/田原坂/おてもやん
キンキラキン/東雲節/新興熊本博覧会会歌/新興熊本小唄
その筆頭に挙げられているのが「火の国小唄」。最後の2曲は博覧会用に特別に作られた歌なのでさておき、他の5曲と比べ今日では「火の国小唄」の影は薄い。というよりこの歌を知っている熊本県民はほとんどいないといってもいい。この歌について、昭和から平成にかけて発刊された「新熊本市史」の編纂過程で発行されていた「市史編さんだより」第16号(1998年3月発行)に、瑞鷹酒造専務(当時)吉村圭四郎氏の「戦前の熊本の歌あれこれ」という一文の中で次のように紹介されている。
この時代は一方で民謡調流行歌(新民謡ともいわれるが大正期に始まった新民謡運動の歌と紛らわしいのでこう呼ぶことにする)が盛んに作られた。詩人の西條八十氏が作詞し中山晋平氏が作曲するというコンビが有名で、全国各地の音頭や小唄が次々とできた。その中に「沖の不知火流れて消えてヨ…」という「火の国小唄」がある。もっともこの歌は九州新聞社が募集し、阿蘇郡宮地小学校訓導の山口白陽氏の応募による入選歌詞で、西條氏の撰、補作になるものであった。「火の国小唄」はA面が藤本二三吉嬢、B面は三島一声氏というこの時代の黄金歌手の歌唱により昭和六年十月新譜でビクターから発売されている。
戦前、熊本の研屋旅館には西條氏と共に宿泊した中山晋平氏の「ホンニヨカヨカ、ヨカバイノバイ」という部分の揮毫があったということで、この部分は中山氏の作ではないかと思われる。「波浮の港」の「ヤレホンニサ」とか東京音頭の「ヤートナソレヨイヨイヨイ」とかの囃子ことばは中山氏が作曲時に付けることが多かったとのことである。
このように作詞・作曲・歌い手と大物が揃って制作され、期待も大きかったと思われるが、同じような経緯で作られた2曲目の「五十四万石」(作詞:野口雨情 作曲:大村能章)と比べると、その認知度の差は歴然である。大正から昭和前期にかけてプロの音楽家たちがこぞって新民謡あるいは民謡調歌謡曲(いわゆるご当地ソング)づくりに取り組み、その数、数百あるいは数千曲ともいわれるが、今日まで唄い継がれているのはほんのひと握りなのかもしれない。
火の国小唄/五十四万石/田原坂/おてもやん
キンキラキン/東雲節/新興熊本博覧会会歌/新興熊本小唄
その筆頭に挙げられているのが「火の国小唄」。最後の2曲は博覧会用に特別に作られた歌なのでさておき、他の5曲と比べ今日では「火の国小唄」の影は薄い。というよりこの歌を知っている熊本県民はほとんどいないといってもいい。この歌について、昭和から平成にかけて発刊された「新熊本市史」の編纂過程で発行されていた「市史編さんだより」第16号(1998年3月発行)に、瑞鷹酒造専務(当時)吉村圭四郎氏の「戦前の熊本の歌あれこれ」という一文の中で次のように紹介されている。
この時代は一方で民謡調流行歌(新民謡ともいわれるが大正期に始まった新民謡運動の歌と紛らわしいのでこう呼ぶことにする)が盛んに作られた。詩人の西條八十氏が作詞し中山晋平氏が作曲するというコンビが有名で、全国各地の音頭や小唄が次々とできた。その中に「沖の不知火流れて消えてヨ…」という「火の国小唄」がある。もっともこの歌は九州新聞社が募集し、阿蘇郡宮地小学校訓導の山口白陽氏の応募による入選歌詞で、西條氏の撰、補作になるものであった。「火の国小唄」はA面が藤本二三吉嬢、B面は三島一声氏というこの時代の黄金歌手の歌唱により昭和六年十月新譜でビクターから発売されている。
戦前、熊本の研屋旅館には西條氏と共に宿泊した中山晋平氏の「ホンニヨカヨカ、ヨカバイノバイ」という部分の揮毫があったということで、この部分は中山氏の作ではないかと思われる。「波浮の港」の「ヤレホンニサ」とか東京音頭の「ヤートナソレヨイヨイヨイ」とかの囃子ことばは中山氏が作曲時に付けることが多かったとのことである。
このように作詞・作曲・歌い手と大物が揃って制作され、期待も大きかったと思われるが、同じような経緯で作られた2曲目の「五十四万石」(作詞:野口雨情 作曲:大村能章)と比べると、その認知度の差は歴然である。大正から昭和前期にかけてプロの音楽家たちがこぞって新民謡あるいは民謡調歌謡曲(いわゆるご当地ソング)づくりに取り組み、その数、数百あるいは数千曲ともいわれるが、今日まで唄い継がれているのはほんのひと握りなのかもしれない。