今朝、所用で新町の方へ車を走らせていると、一新地域コミュニティセンターの前を通り過ぎようとすると、「明治天皇行幸150年・120年記念年」の幟が目に入った。帰ってから確認してみると、たしかに明治天皇の熊本行幸は明治5年(1872)と明治35年(1902)の2回なのでそうなる。何か記念行事をやるのだろうか。
これまでこのブログにも明治天皇の熊本行幸について何度か記事を書いたことがあるのでちょっと整理してみた。
最初の行幸は明治5年6月のこと。西国・九州巡幸の折、6月18日長崎から、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤艦」で熊本小島沖に到着された。1日目の行在所となったのは旧藩時代、細川家の御旅所となっていた米村家(現存)。明治天皇が父のように慕っていた西郷隆盛が随行していた。そのわずか5年後、西郷は西南戦争で逆賊として死んでいった。2日目の行在所となったのが新町の会輔堂、旧藩時代は御客屋として肥後藩の迎賓館だった所である。その8年前には長崎に向かう勝海舟や坂本龍馬も宿泊している。現在はその跡地に一新幼稚園や一新地域コミュニティセンターが建っている。一新幼稚園の敷地には行幸記念碑が建っている。
2度目の行幸は明治35年11月のこと。熊本で陸軍特別大演習が行われた時だった。維新以来、富国強兵を推し進めてきた日本の陸軍特別大演習には先進諸外国の日本駐在武官も招かれ、明治天皇も大いに面目を施されたことだろう。極東の小国日本が大国ロシアと戦火を交えるまであと2年という歴史の1ページである。
この2度目の行幸に際し、御料車が登れるようにと行幸坂(みゆきざか)と行幸橋(みゆきばし)が造られた。
熊本には明治天皇の行幸を記念する「みゆき」という名前を冠するものがいくつかある。この行幸坂と行幸橋はもちろんそうだが、明治天皇が最初に上陸された小島には「御幸(みゆき」という地区があるし、熊本市の南区には頭に「御幸」を付けた町名が多い。すなはち御幸笛田町や御幸西無田町など。
明治5年の熊本行幸第1日目の行在所となった米村家(熊本市西区小島下町)
同じく明治5年の第2日目の行在所となった会輔堂跡(熊本市中央区新町)
明治35年の陸軍特別大演習の際、外国の駐在武官宿舎となった済々黌(熊本市中央区黒髪二丁目)
玉名市の梅林天満宮例大祭において太宰府天満宮の巫女によって舞われる「扇の舞」
明治天皇御製の歌「わが国は神の末なり神まつる昔の手ふりわするなよゆめ」を詞章とする。
これまでこのブログにも明治天皇の熊本行幸について何度か記事を書いたことがあるのでちょっと整理してみた。
最初の行幸は明治5年6月のこと。西国・九州巡幸の折、6月18日長崎から、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤艦」で熊本小島沖に到着された。1日目の行在所となったのは旧藩時代、細川家の御旅所となっていた米村家(現存)。明治天皇が父のように慕っていた西郷隆盛が随行していた。そのわずか5年後、西郷は西南戦争で逆賊として死んでいった。2日目の行在所となったのが新町の会輔堂、旧藩時代は御客屋として肥後藩の迎賓館だった所である。その8年前には長崎に向かう勝海舟や坂本龍馬も宿泊している。現在はその跡地に一新幼稚園や一新地域コミュニティセンターが建っている。一新幼稚園の敷地には行幸記念碑が建っている。
2度目の行幸は明治35年11月のこと。熊本で陸軍特別大演習が行われた時だった。維新以来、富国強兵を推し進めてきた日本の陸軍特別大演習には先進諸外国の日本駐在武官も招かれ、明治天皇も大いに面目を施されたことだろう。極東の小国日本が大国ロシアと戦火を交えるまであと2年という歴史の1ページである。
この2度目の行幸に際し、御料車が登れるようにと行幸坂(みゆきざか)と行幸橋(みゆきばし)が造られた。
熊本には明治天皇の行幸を記念する「みゆき」という名前を冠するものがいくつかある。この行幸坂と行幸橋はもちろんそうだが、明治天皇が最初に上陸された小島には「御幸(みゆき」という地区があるし、熊本市の南区には頭に「御幸」を付けた町名が多い。すなはち御幸笛田町や御幸西無田町など。
明治5年の熊本行幸第1日目の行在所となった米村家(熊本市西区小島下町)
同じく明治5年の第2日目の行在所となった会輔堂跡(熊本市中央区新町)
明治35年の陸軍特別大演習の際、外国の駐在武官宿舎となった済々黌(熊本市中央区黒髪二丁目)
玉名市の梅林天満宮例大祭において太宰府天満宮の巫女によって舞われる「扇の舞」
明治天皇御製の歌「わが国は神の末なり神まつる昔の手ふりわするなよゆめ」を詞章とする。
いいですね~、このような催しが開催されるということは。
小学生にも生きた歴史が学べますね。
家から2kmくらい下ったJR大久保駅のすぐ近くには明治天皇大久保御小休所という石碑が建っていて古いボロボロの建物があり、とうとう建物の前のスペースは月決め貸し駐車場になってしまいました。
だから地元では皆無関心だと思います。
>明治天皇が父のように慕っていた西郷隆盛が随行していた。そのわずか5年後、西郷は西南戦争で逆賊として死んでいった。
そんな史実もあるんですね。
私が生まれる前に亡くなっていますが、母方の祖父は熊本陸軍に居まして日露戦争時には対馬や?ウラジオストクにも駐留したようですが、実戦には関わっていないので優雅な暮らしをしていたようです。私の長兄は熊本の幼年学校で終戦を迎えています。
太宰府天満宮には幼いころから何度もお参りしたので巫女さんには何か親しみを感じます。
有難うございました。
熊本でも、ここはせめて記念碑でも残すべきではと思うようなところが消えてしまうことがよくあります。悲しいですね。
熊本は第六師団がありましたので、兵隊として熊本にいましたという方によく出会います。
梅林天満宮は太宰府天満宮の第一分霊社だけあって例大祭では昔から巫女さんがやって来て舞いますので楽しみにしています。
観たいなと思い、それから何年かして、10年位前になるかもしれませんが、園児がいない時間に、「遥か昔の卒園生ですが、園の中に明治天皇関係の碑があったと思うんですが、観せていただけませんか。」と言って観せてもらいました。
一新幼稚園の明治天皇行幸記念碑ご覧になりましたか。
11年前にも一新コミュニティセンターの前を通りかかって会輔堂の説明版がいつのまにか立っていてビックリしたことがあります。