徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

吉野宮ものがたり

2015-07-16 16:41:44 | 歴史
 宮崎県の北部、九州山地に囲まれた諸塚村。人口1700人余り、林業が盛んなこの村の南川地区に、吉野宮神社(別名座頭神)と呼ばれる神社がある。この神社には、500年来語り伝えられてきた悲しい物語がある。
 頃は室町時代中期、位の高い盲僧が旅の途中に諸塚と北郷の境の峠で盗賊に襲われ、大金を奪われて命を落とす。その盲僧の霊を祀っているのが吉野宮神社。毎年、命日にあたる3月28日に、地元の人々による座頭神祭(通称「座頭さん」)は、目の神様として崇められ、宮崎県北部三大祭りの一つとして伝統ある行事となっている。

 今年の2月22日、森都心プラザホールで行われた「くまもと全国邦楽コンクール」の各年度最優秀者による「邦楽新鋭展」において、第12回最優秀賞の薩摩琵琶奏者北原香菜子さんが演奏した「琵琶経 ~3.11後の供養曲~」に感動した。その後、彼女の演奏会情報をネットで検索していて、諸塚村の座頭神祭に北原さんが毎年出演していて、最近、CD「吉野宮ものがたり」をリリースしたという情報を見つけた。ぜひ聴いてみたいと思い、このほど諸塚村観光協会さんにお願いして送っていただいた。
 16分ほどにわたり、薩摩琵琶に乗せてとうとうと歌い上げられる「吉野宮ものがたり」は、北原さんにとって、500年前に無念の最期を遂げた琵琶の大先輩の霊をなぐさめる鎮魂歌である。
 古典芸能に興味のある方にぜひお勧めしたい。
 
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じゃがたらお春 ~ハーフ受難の時代 ~

2015-07-15 23:52:45 | 歴史
*** 精霊流しの日に寄せて ***

 じゃがたらお春ことジェロニマお春は、1625年に上筑後町(聖福寺近く)で生まれた。一説によれば、父親はイタリア人航海士ニコラス・マリン、母親は貿易商で築町乙名小柳理右衛門の娘とされ、母親はお春を産むとすぐにこの世を去り、父親のニコラスもお春を祖父の理右衛門に託しオランダへ戻ってしまったので、理右衛門が養父となりお春を実の子同然に育てていた、といわれている。
 この当時、国外追放されたのはポルトガル人だけではなかった。徳川家光は、1636年に「紅毛子女追放令」なるものを発布し、長崎在住のポルトガル人をはじめ西洋人との間に生まれた混血児たちが次々と奉行所へ集められた。同年、子どもとその母親たち287人が4隻のオランダ船で長崎からマカオに追放されている。このような状況の下、理右衛門はお春を自分の子として必死に隠し通そうとしたが、結局3年後の1639年、お春は3歳年上の姉マグダレナ万ほか同じ境遇の32名とともにオランダ船で長崎から平戸を経由してバタビア(現在のジャカルタ)へ送られた。このように国外へ配流された日本の“受難の人々”は319人にも及んだ。
 当時、15歳のお春がバタビアから密かに長崎の幼馴染のお辰に宛てて書かれたとされる「じゃがたら文」には「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや」と望郷の思いが綴られている。
(注)「じゃがたら文」とは、配流された人々がバタビアから遠い日本を慕って書き綴った便りのことで、長崎や異国に関する諸事を記した西川如見の『長崎夜話草』には「じゃがたら文」が紹介されており、この中にお春の手紙が含まれている。
※長崎さるく博ガイドブックより

▼「流れ灯」(下の写真をクリックすると動画を再生します)

さしよりビール! のはなし。

2015-07-14 20:19:29 | 文芸
――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情ない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎に這入ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛の返事をする。
「じゃ、ともかくもその栓を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」

 これは、夏目漱石が五高教師時代に、友人で同僚の山川信次郎とともに阿蘇登山した体験をもとに書いた「二百十日」の中の一節。泊まった内牧の温泉宿における女中とのやりとりのくだりである。
 当時の恵比寿ビールのブランド力もすごいが、漱石も「とりあえずビール!」派だったのだろうか。ちょっと微笑ましい。熊本人に言わせるとさしずめ「さしよりビール!」てなもんだが、この「さしより」も実はれっきとした標準語。ちゃんと国語辞典にも載っている。また、女中の「ねえ」という返事は、今日ではほとんど使われないが、下男や下女が主人に対して「はい」の意味で「ねい」と答えていたという。「ねい」と同じ意味で「へん」という返事もあったが、こちらの方は僕が子供の頃、物売りのおばさんが使っていた覚えがある。

西村直子さんの歌謡ショー

2015-07-13 13:24:41 | 音楽芸能
 家業の農園経営のかたわら、民謡歌手、歌謡教室主宰、料理研究家、タレントなどマルチに活躍している西村直子さんは、舞踊団花童の舞台でも「檜垣水汲みをどり」や「水前寺成趣園」など多くの曲で唄方として参加しておられます。
 このほど、西村さんと西村さんに指導を受けた方々を中心とした歌謡ショーが下記のとおり開催されることになりました。著名なゲストの出演もあり、バラエティに富んだ楽しいプログラムとなっています。お誘いあわせの上、多くの皆様のご来場をお待ちしています。





▼熊本民謡「ポンポコニャ」と西村直子さん

細川家と能 ~「細川コレクション 能の世界」を見て~

2015-07-12 20:08:40 | 歴史
「三斎様丹後江被成御座候節之御番附田辺宮津所々古来番附」

 これは、細川家がまだ京丹後にあった時代、三斎(細川忠興)が田辺城や宮津城で催した演能を家臣が記録したものである。驚くのは番数の多さと、かなり頻繁に催されていたこと。当の三斎もいくつもシテ方を務め、幽斎公が太鼓方を務めるなど、細川家主従が挙って参加している。演目は式三番を始め、羽衣、敦盛、松風村雨、松虫、山姥、龍田、玉葛、杜若、楊貴妃、当麻、老松など実に多彩。
 三斎が能役者を評価したり、能面製作に細かい指示を与えた直筆の書状なども展示されているが、演能実績や書状の内容から三斎の能に対する造詣の深さが窺える。細川家の歴史は能の発展の歴史とともにあったと言っても過言ではないように思われた。
※写真は「翁」の白式尉の面

    ▼八坂神社・初能奉納「翁」

国体最終予選に野林さん登場!

2015-07-11 21:38:53 | スポーツ一般
 今日から陸上の国体最終予選が始まり、今日は100mの決勝があるというので、雨の中、午後から出かけた。千葉国体の少年B100mで、当時中学3年の野林祐美さん(立命館大2年)が優勝してから5年の歳月が流れた。国体の陸上と聞くと、いまだにあの快挙を思い出してしまう。今日はその野林さんも熊本へ帰って来て出場した。大学入学後調子を落とし、復調に苦労しているようだが、今日の走りを見てもポテンシャルは大いに残っていると感じた。今20歳、まだまだこれからだ。大学を卒業してから急激に力を発揮し始めた選手も何人もいる。長い目で応援し続けたい。それにしてもスタート時に彼女が紹介された時の拍手の大きさ。いまだに人気は健在だ。



2015.7.11 :熊本県民総合運動公園陸上競技場

女子成年100m決勝
 1着 野林 祐実(2) 立命館大 12.29
 2着 田中 芹奈(1) 法政大学 12.37
 3着 福嶋 美幸(1) 中央大 12.49
 4着 小林 桃子(3) 武庫川女子大 13.06
 5着 中村 絵美 熊本大AC 13.45
 6着 諸留 綾華(2) 熊本学園大 13.87

女子少年A100m決勝
 1着 宮崎 亜美香(2) 必由館高 12.11
 2着 酒井 優香(3) 熊本商業高 12.37
 3着 有働 陽奈子(2) 八代東高 12.61
 4着 木村 綾香(3) 八代東高 12.66
 5着 有働 長子(2) 九州学院高 12.67
 6着 堀 真帆(3) アスリートワーク 12.70
 7着 山崎 未来(3) 矢部高 12.72
 8着 蓑毛 明日香(2) 人吉 12.92



2015.7.12 熊日朝刊

鎮守と氏神

2015-07-10 13:51:53 | ファミリー
 夏祭りのシーズンがやってきた。祭りというと今日では、楽しいイベントを見たり参加したりするものという認識が一般的。本来は氏神様やご先祖様などに対する尊崇の念をもって「五穀豊穣」「商売繁盛」「無病息災」「天下泰平」などを願ったり、感謝したりする儀式のこと。つい忘れがちだ。
 ところでわが家の氏神様は藤崎八旛宮というのが祖母からの言い伝え。古より藤崎八旛宮は「肥後一国の総鎮守」とされていたからそうだったのか、あるいは地域的な理由があったのかどうもよくわからない。祖父方の家は黒髪村、祖母方の家は一番被分町といずれも現在の藤崎八旛宮に近いところにあった。しかし、藤崎八旛宮が現在の井川淵に遷座したのは明治10年の西南戦争後。それ以前から藤崎八旛宮を氏神としていたのかどうかはさだかではない。祖父は僕が生まれるずっと前に亡くなっているので、わが家は祖母の影響が色濃く残っている。祖母が生まれた明治16年にはすでに藤崎八旛宮は祖母の生家の目と鼻の先にあった。おそらく真相はそこら辺にあるのだろう。

♪コンチキチン ヽ ヽ  北岡神社・祇園祭 神幸行列(2014.8.3)

去年の今ごろ何してた?

2015-07-09 23:20:25 | 
 このブログを始めて10年くらいになるが、よく去年の今ごろは何してたんだろうとブログの記事で振り返ることがある。さらに2年前は? 3年前は? と遡ることもあるのだが、全然変わんねぇなぁと思うこともあれば、エライ元気があるなぁと様子の違いに驚くこともある。歳とともに行動範囲は狭くなっていくだろうし、非活動的になっていくのだろうが、1年前の自分、2年前の自分、3年前の自分を振り返りながら老化度チェックをするのも意味のあることかもしれない。

▼去年の7月4日、万町の早川倉庫で行われた「なかの綾LIVE」を見に行った。ラテン調にアレンジした昭和歌謡にノリノリだった。




▼2年前の7月6日、山鹿のさくら湯で行われた、新曲「やまが湯の町」の発表会に行った。この頃は遠方のイベントにもよく出かけていたものだ。


世界人気ナンバーワン都市“京都” あれこれ

2015-07-08 18:57:25 | ニュース
 昨日テレビで、アメリカの大手旅行誌「トラベル・アンド・レジャー」が行う「世界人気都市ランキング」で、京都市が2年連続1位になったというニュースが流れていた。
 さすがである。お隣の滋賀県に住んだこともあり、京都には公私にわたり何度も行ったことがあるが、当然の結果だろうと思う。

▼原風景
 その京都の風景写真の中で一番好きな写真がこれ。平家物語ゆかりの嵯峨野の祇王寺。苔のじゅうたんと青もみじが彩る緑の世界が幻想的である。僕はここに行ったことはない。なのになぜこの風景が僕の心をとらえて放さないかというと、実は幼い時に見た父の生家の風景にそっくりだからである。父の生家は立田山の麓、泰勝寺南側の鬱蒼とした木立の中にあった。いわば僕の原風景なのである。今日ではコンクリートのアパートが立ち並び、昔の面影はどこにもない。父がもし、生前この写真を見たらいったい何と言っただろうか。




▼京の街を彩るもの
 京都に長く住んでおられた舞踊団花童理事長の中村花誠さんがよく「京都の街づくりは神社と伝統芸能を中心とした花街が絶妙に融合し、京の風情を彩っている。この街づくりのシステムを熊本でも活用できないだろうか」とおっしゃる。
 たしかに京都には多くの素晴らしい神社仏閣が遺産として残っている。しかし、花街の文化や伝統芸能が残っていなければ、はたしてこれほどの人気を得ただろうか。僕はいつもそう思う。


宮沢りえ という女優。

2015-07-07 17:09:18 | 音楽芸能
 「ヨルタモリ」(フジテレビ)の宮沢りえがなんともいい。バー「ホワイトレインボー」のママに扮し、店を訪れるタモリ扮するキテレツな疑似キャラクターやその他の客あしらいが実に上手い。タモリらがくり出す下ネタも柳に風と受け流す。放し飼いでやりたい放題のタモリの面白さと相乗効果を生み出している。期待していた新「ブラタモリ」(NHK)が、まるでタモリ様ご接待番組になってしまい、今や「ヨルタモリ」の方がよっぽど面白くなってきた。
 それはさておき、この宮沢りえ、今年42歳になる。アイドル時代から見てはいたが、憶えているのは1991年11月、新聞朝刊に全面広告を打ったヘアヌード写真集「サンタフェ」。りえ17歳の写真集だ。その後は婚約破棄騒動くらいしか記憶になく、彼女が立派な女優であることを認識したのは2002年の映画「たそがれ清兵衛」だった。彼女はすでにアラサーになっていた。以降、多くの映画やテレビドラマで彼女を見ることになったが、今や実力派の女優として確固たる地位を築いている。おそらく平成を代表する女優の一人として後世に名を残すだろう。

▼たそがれ清兵衛(2002)で日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を受賞。代表作となる。


▼一大センセーションを巻き起こした「サンタフェ(1991)」の1枚。この時17歳!


▼2007年11月、天草の苓北真珠を訪問、経営者の阿倍夫妻とともに。(写真は阿倍氏提供)

出水神社薪能

2015-07-06 12:17:23 | イベント
 今年の出水神社薪能は下記のとおり行われます。

◇日 時 8月1日(土)18:00~ 
◇場 所 水前寺成趣園能楽殿
◇番 組 仕舞 「鶴亀」「高砂」「嵐山」
     狂言 「佐渡狐」
     能  「羽衣」


 「羽衣」は能の演目の中でも最も人気が高い演目の一つ。僕はこれまで舞囃子仕舞では何度も見ているのだが、を見たことはない。やっと念願がかないそうだ。
 「羽衣」はおなじみの「羽衣伝説」に題材をとったもの。能をもとにした歌舞伎舞踊の演目もある。
 童話などで一般的によく知られているのは、三保の松原を舞台にしたものだが、「羽衣伝説」は日本中いたるところにあり、熊本では阿蘇の田鶴原神社に伝わる話が「肥後國志」などにも書かれている。ただ「羽衣伝説」は土地土地で結末が違うところが面白い。「鶴女房伝説」と同様、男の永遠の願望なのかもしれない。

▼能「羽衣」のあらすじ
 漁夫の白龍(ワキ)が随行の漁夫たち(ワキツレ)と三保の松原に釣に出る。春の朝である。白龍は、空から花が降り、普楽が聞こえ、なんともいえないよい香りがただようなかで、松の枝に美しい衣がかかっているのを見つけ、家の宝にと持ち帰ろうとする。そこに天人(シテ)が現われ、衣を返してほしいと頼む。しかし、白龍は衣を返そうとしない。天人は、嘆き悲しみ、天上世界をなつかしむ。その様子を見て心を動かされた白龍は、天人の舞楽を見せてくれるなら衣を返そうという。天人は喜び、羽衣を着て、月の世界のことや地上の三保の松原をともに讃えつつ「駿河舞」を舞う。天人の舞によって、地上の世界はあたかも極楽世界になったかのようである。天人は月の世界の天子を礼拝し、風にのって、<序舞>・<破舞>と舞いつづける。やがて、天人は、三保の松原から浮島が原へ、富士の高嶺へと舞い上り、大空の霞にまぎれて消える。

▼阿蘇の羽衣伝説
 昔、田鶴原にはきれいな泉がわいていた。ある時、天女が三人舞い降り、ここで水浴びをしていた。これを見ていた新彦命(にいひこのみこと)が羽衣を隠し、一人の天女が天へ昇れなくなった。天女に一目ぼれした新彦命は懇願して二人は夫婦となった。天女は天姫(新彦神子)と天王(若彦神)の二人の子を産んだ。夫婦は仲睦まじく暮らしていたが、ある日、天女は子守女が歌う子守歌から、新彦命が隠した羽衣のありかを知る。そして天女は新彦命と二人の子を残し天へ舞い戻って行った。阿蘇神社の七の宮に新彦神、八の宮に新彦神子(にいひめのかみ) 、九の宮に若彦神(わかひこのかみ)が祀られている。

▼昨年の出水神社薪能の様子

展覧会「細川コレクション 能の世界」

2015-07-05 17:53:28 | 音楽芸能
 細川家は、古くから能に深く関わり、代々重きを置いて当主自らも嗜み、発展に寄与してきました。特に、文武両道に秀でた初代藤孝(幽斎)は7世観世元忠について稽古し、8世観世元尚に師事し、謡、仕舞、囃子に通じ、中でも太鼓は名手と呼ばれる程の腕前でした。以来、2代忠興(三斎)から昭和に至るまで、歴代当主は能を愛好してきました。一方、初代熊本藩主の細川家3代忠利の頃からは、金春流、喜多流の能楽師たちを庇護しました。各時代に愛用された多くの能面、能装束、能関係資料等は、いまも永青文庫に残ります。

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フジタ(FOUJITA)

2015-07-04 20:46:27 | 美術
 1920年代よりフランスを中心に活躍した日本人画家の藤田嗣治(レオナール・フジタ)の半生を描いた映画「フジタ(FOUJITA)」が今秋公開される。オダギリジョー主演、小栗康平監督の話題作である。
 熊本ゆかりの画家であり、わが母校の大先輩でもあるフジタについては、これまで何度かブログで取り上げたが、その中から主なものを再掲してみた。

▼藤田嗣治の幻の作品にやっと出逢う!(2010.2.25)
 藤田嗣治(Leonard Foujita)の幻の作品にやっと出逢えた。場所は熊本大学附属小学校の校長室。学校創立135年を記念して、大金を投じて修復を行なったらしい。1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」で昭和3年(1928年)の作。トレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれている。もう1点は墨で描いた「女性像」で昭和4年(1929年)の作。なぜここにあるかというと、藤田嗣治は、実はこの学校のOB、つまり僕の大先輩になる。陸軍軍医だった父親が熊本鎮台に勤務した時期、藤田嗣治は2歳から10年間を熊本で成長した。彼が寄贈した絵がわが母校に飾られているという話は随分昔から知っていたが、まだ一度もお目にかかったことはなかった。最近、修復されたという話を聞き、とにかく一度は見ておきたかった。もとこの学校の職員でもある母を連れて数十年ぶりに校門をくぐった。

▼藤田嗣治 ~ 乳白色の裸婦の秘密 ~(2012.5.10)
 今から90年前、フランス・パリで絶賛を浴びた日本人画家レオナール・フジタこと藤田嗣治(ふじたつぐはる、1886-1968)。彼が国際舞台で成功したのは「寝室の裸婦 キキ」をはじめとする裸婦像の、半透明の“乳白色の肌”が人々を魅了したからだといわれる。昨夜のBSプレミアム「極上美の饗宴」では、現代のカメラマンが写真技術を駆使してその“乳白色の肌”の再現にチャレンジした。また藤田が終生秘密にしたという乳白色の技法を洋画家によって再現しながらその秘密を探っていた。
 番組を見ながら、熊大附属小のOBでもある藤田が寄贈したという絵を見に、母を伴って熊大附属小の校長室を訪れた時のことを思い出していた。熊本県立美術館に展示されている「バイオリンを持つ子供」やブリヂストン美術館の何点かの藤田の作品はホンモノを見たことがあるが、機会があれば「寝室の裸婦 キキ」などの裸婦像もホンモノを見てみたいものだ。

▼3年ぶりの再会! ~ レオナール・フジタとパリ 展 ~(2013.7.2)
 今日から熊本県立美術館で「レオナール・フジタとパリ」展が始まったのでさっそく観に行った。フジタ独特の乳白色で描かれた裸婦像を始め、初めて実物にお目にかかるものばかり。その中に3年ぶり2度目の再会をはたした作品が2点あった。それは、1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」でトレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれたもの。もう1点は墨で描いた「女性像」である。この2点、実は普段、熊大附属小学校の校長室に飾られている。3年前に母と一緒に附属小学校の校長室を訪ね初めて拝見した。その時は作品にまつわる詳しい話はあまり聞けなかったが、今回は詳しい解説が掲示されていて経緯がよくわかった。それによると、昭和4年(1929)9月、フジタは17年ぶりにパリから当時の妻ユキ(リュシー・バドゥー)を伴って帰国する。そして東京、大阪、福岡で個展を開いたが、福岡の会場に附属小学校の関係者がフジタを訪問。熊本へ強い望郷の念を抱いていたフジタはその場で作品2点を母校に寄贈することにした。というわけだ。3年前に観た時にはよくわからなかった「女性像」の隅の書き込みが、今回は間近で見ることが出来たので読み取れた。それは次の様に書いてあった。
「為 記念 報恩 或寄贈 昭和四年十一月二十七日(誕生日)
 熊本縣第一師範学校附属小学校 小学校卒業生 藤田嗣治」

▼藤田嗣治が子どもだったころ(2013.7.4)
 一昨日、「レオナール・フジタとパリ」展を見て、藤田嗣治が少年時代を過ごした熊本の町や母校・熊大附小の様子がどうだったのかが急に知りたくなった。何か手がかりになるものはと考えたら、わが家に熊大附小の百年誌があることを思い出した。今から38年も前の昭和50年(1975)に発行されたものだ。学校創立の正確な年月日はわかっていないようだが、明治天皇の行在所となったり、古くは勝海舟や坂本龍馬らが訪れた新町の御客屋を一時期校舎としていたことや、西南戦争で熊本隊を率い西郷軍に加わった池辺吉十郎がさかんに授業参観に訪れていたという記録が残っていることなどから明治10年の戦争よりは前であることは確からしい。藤田がこの小学校に通ったのは生年からみて、西南戦争から10数年後の1890年代であることは間違いない。さすがに当時の藤田の様子を知る方もいなかったのか彼に関する記述はない。しかし、当時の小学生や教職員の様子が写真とともに断片的に紹介されている。ついでに稗田町の一角にある彼の旧居跡を訪れてみた。わが家から歩いて10分くらいのところだが、ここは今では記念碑が建てられている。僕が小学生の頃、すぐ近くの同級生の家へしょっちゅう遊びに来たものだが、その頃は記念碑などはなかったと思う。これは時代とともに藤田の評価が変わったことの一つの表れなのかもしれない。

▼熊本市西区稗田町の藤田嗣治旧居跡




ルックアップのはなし。

2015-07-03 17:06:11 | スポーツ一般
 サッカーやアイスホッケーなどで「あの選手はルックアップがいい」などという言葉がよく使われる。この場合の「ルックアップ(look up)がいい」というのは「視野が広い」というような意味で、ゲームメーカーなどには必須の要件だ。もともとサッカーやアイスホッケーは、ボールやパックを操作するのは足もとなので、視線が下にばかり行ってしまい、まわりが見えなくなるため、「Look Up!(視線を上げろ)」と言っていたことから、まわりがよく見えている選手のことを「ルックアップがいい」と言い始めたようだ。
 わが水球の場合は顔の位置よりも上でボールを操作するし、基本はフロントクロールという顔を上げたままのクロールで泳ぐのだが、顔の前にボールを置いてドリブルをしたり、相手ゴール前にドライブをかける場合などにスピードを上げるため顔を水につけたりするので、どうしても視界が悪くなることが多い。だから水球の場合もこの「ルックアップの良さ」がいい選手の必須要件になっている。
 実は今日、車を運転しながらふと、自分の動作が緩慢になっていることに気付いた。例えば脇道から優先道路へ左折して入る時などの左右確認の首の動きだ。若い時に比べれば明らかに緩慢になっている。水球の現役選手だった頃、瞬時にパスの出しどころを確認するため、素早く首を左右に回転させていた。ルックアップの良さというのは、こうした機敏な動きとセットであることをあらためて強く感じた。運転に限らず、「ルックアップ」が僕の今後の課題かな、なんて思ったりした。


少女哀史と南十字星

2015-07-02 21:11:37 | 音楽芸能
 「ザ・わらべ」の演目の一つにもなっている「愛の南十字星」は、「からゆきさん」の一生をテーマにしたNHK熊本放送局制作のラジオドラマ「ぬれわらじ」をモチーフとして、長唄三味線の今藤珠美さんが制作したもので、三味線や筝に加え二胡の響きが、遠い異国で南十字星に明日への希望を託す少女たちの哀しい心情を表現している。
 このラジオドラマ「ぬれわらじ」の脚本をずっと前から探していたのだが、このほど山鹿市教育委員会のご紹介で、この脚本を書いた山鹿市出身の民俗研究家で放送作家の木村祐章さん(S40年没)の御子息とのアポイントがとれ、後日、ご自宅をお伺いすることになった。先日、中村花誠先生にお会いした時、その話をしたところ、「愛の南十字星」の振り付けに込めた思いなど、興味深い話を聞かせていただいた。
 そこで、2013年3月18日に掲載した記事を再編集し、再掲することにした。

 父が書き遺した備忘録の中に、天草のからゆきさんに関するものがある。
 からゆきさんとは、江戸時代後期から昭和の前期頃まで、東アジアや東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことで、熊本の天草や長崎の島原出身の女性が多く、貧困にあえぐ農村や漁村の娘たちだった。
 父がその実態を目の当たりにしたのは昭和11年、大矢野島の上村尋常高等小学校に勤務している頃である。義憤に駆られて校長や父兄たちに「人身売買」を非難したり、父が仮住まいする宿屋へやってくる女衒(ぜげん、人買い)たちとの攻防が綴られている。
 今では全国的に知られている「島原の子守唄」も島原地方で歌い継がれていた子守唄をもとに、「まぼろしの邪馬台国」で知られる宮崎康平が戦後作ったものだが、この唄も実は「からゆきさん」がモチーフとなっている。



♪さあさ踊ろよあなたと二人
 輝く南十字星
 星の下にもきらめいて
 愛を語った十字星
 二人朝まで 踊れや踊れ

  -----リフレイン-----