徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

熊本城本丸御殿 ~秋夜の宴~

2014-08-16 14:00:26 | イベント


【期 間】平成26年9月6日(土)~10月25日(土)までの毎週土曜日 ※10月11日は除く 計7回
【時 間】午後6時~午後7時30分
【場 所】熊本城 本丸御殿大広間
【料 金】観覧無料(熊本城入園料が必要です。)

■9月プログラム
  6日(土)「和楽と邦舞」 出演…少女舞踊団ザ・わらべ/こども舞踊団こわらべ/花と誠の会     
 13日(土)「秋の夜の怪談語り」 出演…朗読:石岡まゆみ/音楽:Viento
 20日(土)「和楽と邦舞」 出演…少女舞踊団ザ・わらべ/こども舞踊団こわらべ/花と誠の会
 27日(土)「ジャズライブ STREET ART-PLEX KUMAMOTO IN 熊本城」 出演…中田Quintet

■10月プログラム
  4日(土)「和楽と邦舞」 出演…少女舞踊団ザ・わらべ/こども舞踊団こわらべ/花と誠の会
 18日(土)「和楽と邦舞」 出演…少女舞踊団ザ・わらべ/こども舞踊団こわらべ/花と誠の会
 25日(土)「和楽と邦舞」 出演…少女舞踊団ザ・わらべ/こども舞踊団こわらべ/花と誠の会



山鹿はあいにく雨模様 。゜・(>A<)・゜。

2014-08-15 18:38:56 | イベント
 今日から「山鹿灯籠まつり」が始まったが、山鹿地方は断続的に雨が降るあいにくの天気。呼び物の「灯籠踊り」は実施が危ぶまれている。なにしろ灯籠娘が頭にいただく灯籠の材料は和紙と糊だけ。雨は大敵なのである。もし踊りの最中に雨が降ってくると準備しているビニールを掛けることになるが、これが何とも味気ない。そうならないことを祈るばかりだ。
 なお、明日16日も八千代座では午後1時半より、舞踊団花童が「山鹿灯籠踊り(よへほ節)」を始めとする舞踊を披露する。まずこれをご覧になっておくことをお勧めしたい。

▼山鹿灯籠踊り(よへほ節)


▼まつり


古調 よへほ節

2014-08-14 18:19:25 | 音楽芸能
 明日から「山鹿灯籠まつり」。サラリーマンの頃、盆休みで里帰りすると、たいがいこの祭りの日に勤務地へUターンしなければならなかった。だから僕はこの祭りには「夏の終わり」のメランコリックなイメージがつきまとう。
 それはさておき、今では「山鹿灯籠まつり」とは切っても切れない関係の「よへほ節」だが、現在の「よへほ節」は昭和8年(1933)に山鹿温泉の再興を願う旦那衆が、野口雨情に依頼してリメイクしたもの。もともとの「よへほ節」は明治初期頃から歌われていた座敷唄。いつも見慣れた灯籠娘の踊る「よへほ節」とはかなり趣きが異なる。たまにはこんなしっとりとした「よへほ節」もいいものだ。


「熊本能三昧」と狩野了一さん

2014-08-13 12:26:32 | 音楽芸能
 能をよく見るようになってから、家で能の話をすると、母が必ず話題にするのが喜多流能楽師・狩野了一さんのこと。狩野了一さんは東京を拠点に活躍する40代半ばの気鋭の能楽師だが出身は熊本である。ご先祖は京都から肥後細川藩に仕えた9代続くお抱え絵師だったのだが、 祖父が能楽師に転じ、彼はその3代目。
 なぜ僕の母が彼を話題にするかと言うと、彼が熊大附属幼稚園に通園していた頃、母もこの幼稚園に勤務していた。母が附属幼稚園に勤務していた36年間に6千名を超える園児を送り出しているが、その中でなぜ彼のことを憶えているかというと、卒園後、東京へ能楽の修行に出されるという話があり、幼稚園の先生方がみんな「可哀想だ、可哀想だ」と嘆いていたという忘れられない想い出があるからだそうだ。実際には彼はその後、熊大附属小学校に進み、卒業と同時に上京したようだ。
 その狩野了一さんも出演する今回の「熊本能三昧」。劇場へは行けない母の分も合わせて観に行きたいと思っている。

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姉妹都市

2014-08-12 20:47:31 | 熊本
 わが熊本市は、友好姉妹都市・友好協力都市・交流都市など、国内外合わせて10ヶ所ほどの都市と交流している。それぞれの意味合いの違いはよくわからないが、国内では福井市が唯一の姉妹都市となっている。姉妹都市となったのは、経済や産業面での共通点もさることながら、決定的なものはやはり、1840年に肥後熊本藩10代藩主・細川斉護公の娘である勇(いさ)姫が、越前福井藩主・松平春嶽公へ輿入れし、姻戚関係になったことや、横井小楠が福井藩に招聘されて藩政改革にあたるなど深い歴史的関係があったからという。
 姉妹都市の関係を結ぶことにどれほどの意味があるものなのかよくわからないが、かつて肥後熊本藩の飛び地だった鶴崎のある大分市や、加藤清正公や忠廣公の加藤家終焉の地、山形県鶴岡市などは姉妹都市となってもおかしくないように思う。特にこの二つの町は、清正公の命日には熊本以上に敬虔な供養が行われていると聞くが。

僕が「熊本学」にハマったワケ

2014-08-11 21:29:43 | 
 熊日新聞の連載コラム「わたしを語る」は現在、考古学者の富田紘一さんである。
 1997年、僕は20数年ぶりに熊本に帰って来た。帰って来て気付いたのは、熊本に生まれ育ったにもかかわらず、熊本について何にも知らないということだった。このままじゃあまりにも寂しいと思い、今さらの勉強をしようと思ったのだが、何をどこから始めればいいのか見当もつかない。そんな時、ふと目にしたのがケーブルテレビで放送していた富田紘一さんが案内する「熊本城見てある記」や「城下町見てある記」だった。熊本城と城下町から入った僕の学習は、その後、歴史、文化、民俗などへと興味が広がって行った。しかし、いまだに「へぇ!そうなの!」と初めて知ることが次々と出てくる。「熊本学」は無限に広がっているが、ともかく扉を開いてくれたのは富田紘一さんであることは間違いない。そんな感謝の気持を抱きつつ、連載コラムを読ませていただいている。

なぜ言えない 「・・・でございます」

2014-08-10 19:39:14 | テレビ
 今日「和風総本家 東京下町24時間スペシャル」(TV東京系)という番組が放送されていた。東京下町の風情や伝統を支える人々に密着取材していた。
 その中で、今春、青森県の高校を卒業して銀座の老舗しゃぶしゃぶ店で働き始めた18歳の女性が紹介されていた。彼女は先輩から接客の指導を受け、客に料理を運ぶのだが、「・・・でございます」と言うべきところを「・・・になります」と言ってしまう。何度も先輩から注意を受けるのだが、やっぱり「・・・になります」と言ってしまう。
 この「・・・になります」という変な日本語が話題になったのはもう何年前になるだろうか。ウェイトレス言葉から始まったといわれているが、最近では各世代各層に当たり前のように使われている。NHKのアナウンサーの中にさえ使っている人がいた。
 僕はこの「・・・になります」が最も嫌いな日本語の一つ。なぜ、「・・・です」とか「・・・でございます」と断言できないのだろうか。何かそう断言できない「うしろめたさ」でもあるのではないかと勘ぐってしまう。だいたい「・・・になります」ということは今はまだそうなっていないようにも聞こえる。もう随分前になるが、歌人の俵万智さんが「・・・になります」という言葉を聞いて、「なれるもんならなってみせてよ」と毒づいていたのを思い出した。
 それはともかく、自信を持って「・・・です」と断言するような社会になってもらいたいものだ。

残念!「植木町はってん祭」の中止

2014-08-09 20:05:53 | イベント
 台風の影響で各地の夏祭りやイベントの中止や延期が相次いでいる。祭りの開催に関わるすべての人々への打撃は極めて大きいと思われる。
 そんな中で、今日予定されていた「第42回植木町はってん祭」も中止となってしまった。残念でならない。5年前に熊本市と合併した植木町は来年3月22日で、合併特例区の措置が期限切れとなる。ということは、この「はってん祭」も今回が最後の開催となる可能性があったのだ。町民の皆さんも「最後のわが町の祭り」という思いが強かったに違いない。住民の参画意識が高いこの祭りを、来年以降もなんとか残す方法はないのだろうか。
 3年前のこの祭りで、ザ・わらべ が出演したり、本條秀美さんが新作民謡「田原坂花音頭」を初披露したりした場面を懐かしく思い出す。

▼写真は「本條秀美オフィシャルブログ」よりお借りしました

「田原坂花音頭」を初披露


ザ・わらべ の異色創作舞踊「座頭市」


古代ロマン! ~大宰府へつながる官道~

2014-08-08 18:24:14 | 歴史
 熊本大学の五高記念館で開かれている「テーマ展示 大宰府へつながる官道」を見に行った。7世紀から10世紀頃までの律令時代の日本。五畿七道と呼ばれた行政区画のうち、現在の九州にあたるのが西海道(さいかいどう)。そしてその行政府が置かれたのが大宰府(現在の福岡県太宰府市)。中央と地方機関を結ぶための官道(かんどう)が整備され、さらに大宰府から西海道の各地方へ官道が放射状に伸びていた。交通手段は徒歩か馬しかなかった1200年も前の時代、日本全国に道路網を張り巡らせた当時の人々の方が、情報や手段に恵まれた現代人より何倍もスケールが大きいように思われた。
 肥後国内の官道の図を見ていてふと気づいた。わが家の墓参りに行く時、必ず通る立田山西麓に沿った道は菊池方面から子飼へとつながる車路(くるまじ)と呼ばれる官道だった。熊大からの帰りに通ってみたが、なんだか急にロマン溢れる道に見えてきた。

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かつて大宰府へつながる官道だった熊本市北区室園町の道

水辺立秋

2014-08-06 19:16:57 | 音楽芸能
 台風による猛雨や猛暑がこうも続くと、季節感もマヒしてしまうが、明日は「立秋」。きっと台風一過となれば、秋が近いことを実感するのかもしれない。
 「立秋」といえば、花童が踊る「水辺立秋」は、北原白秋の詩集「思ひ出」の中の「柳河」、「立秋」、「水路」などをモチーフとして、白秋の詩の世界を長唄にしたもの。
 白秋は少年時代を過ごした水郷柳川を、廃市(廃れた町)と言い、街を掘り巡らした水路やたった一つ残った遊女屋懐月楼や古い白壁など、故郷の水郷の町の廃れゆく姿とそこで暮らす人々の哀感を、愛を込めた眼差しで描き出している。
 そんな白秋の随筆や詩集を読んだ上でこの「水辺立秋」を聴くといっそう味わい深い。
※青空文庫「思ひ出


※歌詞は耳コピーですので不正確な個所があります。ご了解のほどを。


能の魅力 ~ 幽玄 ~

2014-08-05 16:57:34 | 音楽芸能
 先週土曜日の「出水神社薪能」を見てからの帰り道、能楽殿から水前寺の出口へ向かってぞろぞろと歩く観客の群れの会話を聴くともなく聴いていた。能を観たのは初めてと思しき若い女性が連れの年配の女性とこんな会話をしていた。「日本文化のレベルの高さを認識したわ」「そうねぇ」「あの上品さはどこからくるのかしらね?」
 僕はその言葉に強い共感を抱いた。これが世阿弥のいう「幽玄」ってやつかな。「風姿花伝」も読んでみたが、やはり言葉づらだけではなかなか理解できない。ちなみに国語辞書には「幽玄」について次のように説明されている。

1.物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。
2.趣きが深く、高尚で優美なこと。また、そのさま。
3.気品があり、優雅なこと。また、そのさま。
4.中古の「もののあはれ」を受け継ぐ、中世の文学・芸能の美的理念の一。
  言葉に表れない、深くほのかな余情の美をいう。
  ア.和歌では、言外に感じられる王朝的な上品で優しくもの柔らかな情趣をいう。
  イ.連歌では、艶でほのかな、言葉に表されない感覚的な境地をさしていう。
    後に、ものさびた閑寂な余情をもいうようになった。
  ウ.能楽では、初め美しく柔和な風情をさしていったが、後、静寂で枯淡な風情をも
    いうようになった。

 この説明を読んでもよくわからない。やっぱりナマの舞台をいくつも観て体感して初めてわかるもののようだ。


昨年の「秋のくまもとお城まつり」における熊本城薪能「熊坂」

北岡神社のふるさと ~ 歴史のまち 二本木 ~

2014-08-04 18:33:08 | 歴史
 北岡神社の神幸行列を見ながら、二本木の歴史に思いを馳せた。御旅所で言葉を交わした地元住民の「二本木と聞くとほとんどの方が遊郭を思い浮かべるようですが、それは明治から昭和の一時期であって、実は二本木には熊本の深~い歴史が刻まれているんですよね~」という言葉が心に残った。


 明治39年、坪井川の上に架けられた三嬌橋(さんきょうばし)。この橋を渡ると坪井川と白川に挟まれた二本木遊郭が広がっていた。三嬌橋という名前の響きもどこか艶めかしい。


 奈良時代から室町時代にかけて肥後の国府があったと考えられている場所(二本木遺跡群)がこの熊本朝日放送の辺り。大きな建物や道路、溝、塀などの遺構が見つかっている。この辺り一帯が当時の肥後の中心地であり、官庁街だったと考えられる。


 北岡神社神輿神幸の御旅所になっているのは、明治5年、熊本県が白川県と名を変えていた一時期、県庁が置かれていたところ(二本木4丁目)。北岡神社が京都の祇園社(八坂神社)の御分霊を勧請し、承平4年(934)、最初に創建されたのは、ここから少し南へ下った湯の原(現二本木5丁目)である。


 二本木に国府があった平安時代中期の寛和2年(986)に肥後の国司として赴任したのが、平安時代の歌人として名を馳せ、また清少納言の父としても名高い清原元輔(きよはらのもとすけ)である。北岡神社の北側に元輔を祭神とした清原神社がある。


 清原元輔と交流があったと伝えられるのが女流歌人の檜垣。この清原神社には檜垣も祀られている。小さな祠を覗いてみると、元輔と思しき座像が左側に、右側には女神と思しき座像が二体見える。このどちらかが檜垣なのか。