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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

かずちゃんの快挙!

2013-12-16 21:04:32 | ファミリー
 昨日、宮崎市の宮崎県立芸術劇場で行われた「全日本きもの装いコンテスト九州大会」に、従姪のかずえちゃんが必由館高校のメンバーの一人として出場した。
 学校対抗の部で見事優勝!来年4月の全国大会を目指す!

















「八重の桜」 と 徳冨記念館 と 祖母

2013-12-15 17:08:56 | ファミリー
 今年の大河ドラマ「八重の桜」が今日で終わる。毎回見たわけではないが、要所要所はのがさず見たつもりなので、近年では珍しく物語のプロットがおおよそつかめたシリーズとなった。
 「八重の桜」には物語の重要な役どころで徳富蘇峰・蘆花兄弟が登場するというので、放送開始前から徳冨記念館や熊本近代文学館では「八重の桜」にちなんだイベントが行われた。


徳冨蘇峰・蘆花兄弟の旧邸(大江義塾跡)


熊本近代文学館のイベントの中の一つ


そのうちのいくつかに僕も足を運んだが、やはり徳冨記念館は行く度に祖母のことを想い出してしまう。昨年2月に一度掲載した父の手記を再編集して再掲してみた。

▼母の娘時代
 母が大江村にあった河田経緯堂という絹織物工場に通い始めたのは16歳の時だったという。この工場は、かの文豪・徳富蘇峰先生が開いた大江義塾があったところである。先生がこの塾を閉鎖して上京するや、先生の姉婿河田精一氏がその屋敷を譲り受け、この絹織物工場を開設したそうである。若くして寡婦となった母は、私と弟の幼い子供二人と出戻りの義姉を養うため、この河田経緯堂で身に付けた機織り仕事に、夜を日に継いで働いていた。母は娘時代に機織りの工場に行った理由について、縮緬、羽二重、絽などの特殊な織りの技術を身に付けるためであって、けっして労賃目当てではないと言い張った。というのは、娘時代、母の父親は大江村の村長を務めていて、祭りや折々の行事に家で行われる宴が盛大であったことや水道町一帯の大火で持ち家十数軒が烏有に帰してしまったことなど、娘時代は恵まれた家庭環境にあったことを私と弟に何十ぺん、何百ぺんとなく話して聞かせたものだ。
 私が小学6年生の頃、こんなことがあった。母と二人で街を歩いていると向うからやってきた70歳前後と思しき老婆が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」と言う。母も一瞬驚いた様子だったが、それからなんと1時間にもおよぶ立ち話が続いた。盛大な酒盛りのこと、水道町の火事のことなど話題は尽きない様子だった。あとで聞いた母の話によると、その老婆は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者だったそうである。また、わが家によく訪れていた母の昔の機織り仲間が、「阿部村長の時は父が戸籍係として大変お世話になりました」と言っていたのを聞いたこともあった。
 母の実家は女系の家だったから、私が生まれると祖父は6キロの道もいとわず、孫の顔を見に日参したそうである。その祖父も私が生まれた翌年には他界した。

 最後に、徳冨蘆花の晩年の自伝的小説「富士」に登場する新町の文林堂の外壁に設置された詩碑をご紹介したい。
 

船場川
まちうらつゞき
きさらぎの
雨ふり来れば
紅白の梅はしたゝり
柳はけぶる
川面に立つや 雨あしの
それよりしげき 思い出の
うれし うれし
ふる里の雨

舞台芸能の普及 ~ 熊本の場合 ~

2013-12-14 20:21:12 | 音楽芸能
 昨日の記事「江戸歌舞伎発祥の地」の中で、慶長12年(1607)に、江戸城内の観世・金春の能舞台で阿国歌舞伎が行なわれたのが江戸歌舞伎の端緒であることを書いたが、実はこの3年後に加藤清正が阿国歌舞伎を熊本に招き、塩屋町3丁目の武者溜りで勧進能の後に、熊本初の歌舞伎を催した。これが大評判をとったので、その後も何度か歌舞伎役者を招いて興行を催しているようだ。しかし、その後、女歌舞伎や若衆歌舞伎が幕府によって禁制となり、野郎歌舞伎へと変わって行く中、熊本では、歌舞伎などの舞台芸能が大衆に根付いたのかどうか文献を調べてもよくわからない。江戸や京の歌舞伎役者の中には旅芸人として諸国をまわる者もいたようだから、時々は熊本にもやって来て小屋掛けしていたのかもしれない。記録として表れるのは、江戸時代も後期になった1700年代の終わり頃、古町の川塘の外にできた白川右岸の洲、下河原と呼ばれた地に芝居小屋が出来、後に上座と呼ばれるのである。それに数年遅れて、やや下手に新たな芝居小屋が出来、これを下座と呼ぶようになった。当時、武士の芝居見物は公認されていなかったが、子女はその限りではなく、藩士の婦女子が見に行くのが上座と決まっていた。しかし、藩士も大小を外し、頭巾・頬被りなどで人目を忍んで見に行っていたらしい。そして町人が見に行くのが下座となっていた。従って、演じられる芝居も武家向き、町人向きと対照的だったという。こうしてこの両芝居によって下河原は旧藩時代の娯楽の中心地となった。
※参考文献:熊本民謡「ポンポコニャー」と熊本名所地名考(鈴木喬)


熊本で初めて阿国歌舞伎が行われた「塩屋町3丁目の武者溜り」跡


旧藩時代の娯楽の中心地「下河原」

江戸歌舞伎発祥の地

2013-12-13 21:03:52 | 歴史
 僕が二度、合計すると約10年勤務したブリヂストン本社は、東京駅の八重洲口にほど近い京橋1丁目の中央通りと八重洲通りとの交差点のところにあった。あったというのは、つい最近、数100メートル銀座寄りの方に引っ越したらしいからである。元のビルには美術館などが残っているようだ。



ここら辺は江戸時代は中橋広小路と呼ばれたところで、江戸初期までは、今の八重洲通りは紅葉川という川だったそうで、東海道(今の中央通り)は紅葉川に架かった中橋を渡って日本橋の方に向かっていた。紅葉川が埋められ、中橋の名前だけが残って中橋広小路となった。
 この中橋界隈は、実は江戸歌舞伎の発祥の地でもある。京から江戸に下った初代猿若(中村)勘三郎が寛永元年(1624年)に「猿若座」を開いたのが、この中橋南側だったというから、ちょうどブリヂストンビル周辺だったかもしれない。現在、ずっと銀座寄りの京橋3丁目に「江戸歌舞伎発祥の地」の記念碑が建てられているが、実は建てる場所がなくてやむなくそこに建てられたもので、実際の発祥の地とは随分離れている。
 そこら辺の事情について「Google Earthで街並散歩(江戸編)」に次のように詳しい説明が書かれている。

 慶長12年(1607年)は、江戸城内に五層楼の天守閣の落成を見た年である。この年、徳川家康は、当時京都にあって人気を独占していた出雲阿国を江戸へ招致して、江戸城本丸・西の丸にある、観世・金春の能舞台で、女歌舞伎を観覧した。これが江戸歌舞伎の行われた初めで、その後、その亜流が陸続江戸へ下り、江戸中橋南に小屋掛けして興行を行うようになった。
 元和8年(1622年)京都から江戸へ下った、歌舞音曲の名人猿若勘三郎は、時の町奉行板倉四郎右衛門に劇場建設を願いいで、四海泰平の御祝という願意が通って、中橋に芝居櫓を挙げたのは実に寛永元年(1624年)3月。座名は始め猿若座で、後に中村座と改めた。中村座は江戸歌舞伎の開祖だけに、芝居道の種々の慣例を残した。たとえば、最初、櫓の上で人寄せの太鼓を打ったところ、お城に近い場所なので、旗本の登城の太鼓と紛らわしいと禁止されて、舞台で打つことになった。これが今日の着到太鼓の初めである。
 寛永5年(1628年)4月3日、中橋の歓楽街から火を発して、猿若座その他七軒の芝居小屋が焼失した。江戸幕府はこれを機会に、劇場街があまりお城に近すぎるとの理由で、寛永9年(1632年)5月これらの芝居小屋をすべて称宜町へ移転を命じたのであった。
江戸時代初期に、最初の劇場地となった中橋南地は、現在の八重洲通りと、東海道の交叉する所に架かっていた中橋の、南側に当る。現在、越前屋ビルやブリヂストンビルの建つあたり、あるいはも少し南よりの丸善付近ででもあったろうか。しかるに、昭和33年7月、「歌舞伎発祥の地記念碑」を建設するに当って、閑地を求めかねて、旧地から500メートルも離れた京橋橋畔に建てたのは、いささか場違いの感なきをえない。

▼江戸中橋界隈の賑わい(江戸名所図会)


▼猿若座と初代勘三郎(江戸名所図会)

能楽 から キーラ・ナイトレイ まで

2013-12-12 20:12:17 | 文芸
 何か調べものに没頭していると、連想ゲーム的に興味が展開して行き、気がつくと予測もしなかったところに辿り着いているということがよくある。最近もそんなことがあった。
 能楽に興味を持つようになってから、ネットや文献で調べていると、頻繁に目にする名前が「野上豊一郎」。いったい何者?と調べてみると、大分県臼杵の出身で、東京帝国大学時代に夏目漱石に師事し、漱石の影響を受けて能楽の研究に勤しみ、今日では能楽研究の第一人者といわれる人物。しかも、僕の出身大学、法政大学総長まで勤め、「法政大学能楽研究所」を立ち上げた人だという。知らなかった~ お恥ずかしい限りだ。能に関する著書も数多く、能の海外への普及にも力を尽くしたという。さらに教授として英国に派遣された経験もあり、英国文学の翻訳にも手を染めた。その中の一つにジェイン・オースティンの「高慢と偏見」がある。数年前に見た映画、僕の好きなキーラ・ナイトレイ主演の「プライドと偏見」の原作だ。この小説をまだ22、3歳だったオースティンが書いたのは、1797年頃というが、野上翻訳の上巻の出版が大正15(1926)年というから、日本で最初だったかどうかは不明だが、かなり早い時期のオースティン翻訳本だったのだろう。今日では近代文学の祖と称えられるオースティンも、当初日本ではあまり評価されなかったが、夏目漱石は高く評価して自らの文学の手本にしていたという。漱石の高弟であった野上がそれを翻訳したのは必然だったのだ。能を調べていてキーラ・ナイトレイに行き着くとは思いもしなかった。


東雲節(しののめぶし)

2013-12-11 20:55:09 | 音楽芸能
 代表的なお座敷唄「東雲節」(別名ストライキ節)は、その発祥について、かつては名古屋発祥説、熊本発祥説があり、識者の間でも見解が分かれていたらしい。たまたま名古屋と熊本(実は東京吉原にも)に「東雲楼」という遊郭があり、明治後期の自由解放の波に乗って全国的に娼妓たちの自由廃業運動が起こり、もともとあったこの端唄に妓楼の名をかけて風刺した唄といわれている。自由廃業運動は名古屋の方が1年ほど早く始まっているらしいが、明治時代の代表的な演歌師・添田唖蝉坊はこの「ストライキ節」については、作者は不明だが熊本で最初に唄われ始めたと言っている。
 ちなみに、「熊本県大百科事典」では次のように解説している。

 熊本とかかわりのある民謡で、のちにストライキ節となって流行する。本来は端唄の一種で、元歌の
「なにをくよくよ川端柳/こがるるなんとしょ/水の流れを見てくらす/東雲の暁の鐘/ごんとつきゃ辛いね/てなことおっしゃいましたかね-」
は遊客が娼妓とのきぬぎぬの別れを惜しむ情歌だった。それが明治30年代から全国的に起きた娼妓解放運動にひっかけて、次のような替え歌が普及したといわれる。
「祇園山(花岡山)から二本木見れば/倒るる(自由廃業)なんとしょ/金は無かしま(中島)/家も質(茂七)/東雲のストライキ/さりとは辛いね/てなことおっしゃいましたかねー」
 東雲というのは熊本市二本木遊廓の大店・東雲楼のこと。米相場師中島茂七の経営で、90人の娼妓を抱える御殿のような豪勢さだったが、借金に縛られる娼妓たちの生活にはひとかけらの自由もなかった。しかし全国的解放運動の中で、熊本でも明治33年(1900)10月から12月にかけて110人前後の廃業届が出た。楼主たちはありとあらゆる手段を使って自由廃業を妨害したが、そうした楼主たちの悪どさ、それに廃業した娼妓たちが容易に社会復帰できない哀れな現実を歌ったストライキ節が流行したのである。楼主の名前を巧みに盛り込んだ替え歌は、娼妓と民衆との間の一種の共同幻想の歌といってよかろう。この時期には二本木遊廓での娼妓の集団脱走やストライキの記録は残されていない。(藤川治水・小川芳宏)





かつて そこに 飛行機に命をかけた人たちがいた・・・

2013-12-10 13:44:56 | 歴史
 今朝の熊日新聞に、戦時中、米軍機が撮影した熊本県内の空襲のカラー映像が掲載されていた。その中に、当時父が勤めていた三菱重工熊本航空機製作所が空襲を受けている写真があり、複雑な想いが胸に去来した。



 父は戦時中、健軍にあった三菱重工熊本航空機製作所で青年学校の教員をやっていた。爆撃機を作る軍需工場で常に空襲の危険性に怯えながら生活をしていたという。熊本製作所で作っていたのは「飛龍」(右写真)という陸軍の最重要爆撃機で、月産50機を目指していた。当時のことを父は手記に残している。

 昭和19年に入ると航空機工場の生産も次第に軌道に乗り、この年の後半になるといよいよフル体制に入った。労働力も在来の従業員3千名に、徴用工、学徒動員、女子挺身隊などが加わり、最終的には3万人という大工場に膨れ上がったのである。操業は24時間体制により営々として続けられた。青年学校の職員のわれわれも授業を終えた後は工場に出向いて雑事に携わり、徹夜することも度々あった。この年の前半までは日本本土への敵機の空襲もなく、昼夜を分かたず飛行機造りの突貫作業が続けられた。ところが、6月に入り突如として中国重慶を基地とする米軍B29爆撃機により、北九州初空襲を受けたのである。この時、わが熊本にも初めて空襲警報が発せられた。これはまさしくわが国に対する西からの脅威である。一方、太平洋方面においては、日本軍の占領下にあった島々も、米軍の空陸海しての熾烈な反抗により次々と奪回され、東から南から飛石伝いにわが国に迫りつつあった。そして7月7日、遂にサイパン島守備隊3万人玉砕の悲報が伝えられた。敵はこの地を制圧すると、ここを基地として東より、そして西の重慶と呼応してわが本土の空襲を繰り返した。
 わが熊本への初空襲はこの年11月21日、花園町柿原への500キロ爆弾投下である。被害地は妻と同勤のT先生宅の竹林であったが、幸い家族全員不在で人身に障りはなかった。
 昭和20年に入ると敵機の来襲は益々酷くなり、3月以降は毎日のごとく警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響いた。その時刻がいつも授業の始業時刻頃で、授業に入らないまま退避することが度々だった。工場においては操業の停滞で生産に支障を来すこと甚だしかった。
 わが三菱熊本工場への大きな空襲は二度程あったが、その第1回目が3月26日である。当日はたまたま徹夜明けの休みで家にいたので幸い難を逃れた。翌日出社してみると、校庭のいたるところに直径10メートルほどの穴が空いていて爆撃の物凄さを物語っていた。学校は人員、建物など安泰であったが、工場では14人の死傷者が出ていた。その中には3日前、長崎造船所から着任したばかりのS課長、その側で事務を執っていたT君、彼は私が入社を斡旋した熊工の新卒だったが、ともに銃撃により失命したと聞いた時は全く暗然たるものがあった。
 第2回目の襲撃は5月13日であった。この日も私は幸か不幸か特別休暇をもらい、この日が応召日だった義弟を、親族を代表して営門に送ることにしていた。彼の実家は玉名の大浜飛行場のすぐ近くだったが、この頃連日、敵機の来襲があり、住民は戦々恐々、家族も隣村の親戚に避難しており、晴れの門出を熊本の部隊まで見送る余裕などなかったのである。
 工場が空襲を受ける場合、一番貴いのは人命であるから警報とともに全員退避するが、第2に貴いのは粒粒辛苦の末、造り上げた飛行機である。これを置き去りにして退避し、爆破されたら一も二もない。この様な場合、警報が出るといち早くテストパイロットにより安全な場所に飛び立ち、警報解除になると再び健軍飛行場へ帰って来たものである。たしか退避の場所はいつも朝鮮の某地であったとか。やがて、米軍の沖縄上陸作戦が始まり、6月21日に遂に沖縄が米軍の手中に帰した。そして7月の熊本市大空襲の日が迫っていたのである。

漱石が見た水前寺と江津湖

2013-12-09 18:10:57 | 熊本
 先日ご紹介した明治41年の夏目漱石のインタビュー記事(九州日日新聞)には、漱石のお気に入りだった水前寺や江津湖についてもふれている。

 「湧くからに流るるからに春の水」という句は漱石が水前寺成趣園を訪れた時、阿蘇の伏流水である清水が、こんこんと湧き出ているさまを詠んだ有名な句。ハッと目を奪われるほどの清流が成趣園を流れ出、砂取橋をくぐり、上江津湖を経て下江津湖に流れ込むあたりの景色がことのほかお気に入りだったようだ。
 もし今日の風景を漱石が見たら、あまりの変わりように絶句するに違いない。しかし、江津湖に流れ込む清流の美しさは百年以上経った今も変わらない。

▲水前寺と画図湖(江津湖) これが頗る気に入った。第一水が奇麗で、魚がいる。特に水が水前寺外に流れ出ようとするあたりは最も奇を尽くし妙を極めて、澄み切った水がさらさらと青い草の音を縦横に縫うているところなどは何とも言えぬ。流れを下れば砂取橋というのがある。そこから舟を浮かべると、次第に江津湖に近づくに従って景は益々よくなる。岩もある、山も聳えて見える。江津湖の弁天も見える。実に絶景であるにもかかわらず、江津湖に一度滑り込んでしまうともうよくない。つまらぬと口が言う。

※来る新年元日には「水前寺活性化プロジェクト」の一環として、水前寺成趣園にて
舞踊団花童の「新春寿ぎの舞」が行われます。初詣をかねてお越しください。




72年前の今日、熊本は・・・ ~ 開戦の日! ~

2013-12-08 18:28:20 | 歴史
 その日は意外と早く目が覚めた。それと言うのも、この日は朝8時から防空監視哨当番の日だったからだ。いつになく早起きしたし、間もなく6時というので、珍しくラジオのスイッチを入れた。すると間髪を入れず、「臨時ニュースを申し上げます! 臨時ニュースを申し上げます!」というアナウンサーの切迫した声が聞こえた。何事ならんと耳を傾けると、「大本営陸軍部発表、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり!」。そして、その後は軍艦マーチが鳴り止まなかった。
 まさに青天の霹靂であった。ラジオの前にしばし呆然としていた私は「ハッ!」とわれにかえった。奇しくもこの開戦の日、熊本市防空監視哨の一番立ちの任務につくことに、私は異常な興奮と身の引締まる思いで一ぱいだった。朝食もそこそこに教練服に身を固め、監視所に急いだ。私が現地に着くと、班員は全員既に集合を終えていた。正8時、いよいよ上番との交代である。この頃になると、在熊の防空部隊が、手に肩に高射機関銃や実弾の一ぱい入った弾薬箱を携え、続々と監視所のある屋上に詰めかけた。たちまち辺りは緊迫した雰囲気に包まれた。
 防空監視哨というのは、昭和12年の防空法公布に伴い、各都市において空襲に備えて置かれた監視哨である。大方の町や村では青年学校の生徒をその要員としていた。熊本市には当時、十数校の青年学校があったが、島崎校区には第七青年学校があり、陸軍歩兵伍長の資格を持つ私は島崎校の教練指導員も兼務していた。だから島崎校が当番の日には班長として指揮をとったのである。監視所は紺屋町の元九電熊本支店の屋上にあった。任務は望楼に立つ見張員が敵の機影を視認したり、爆音を耳にした場合は、直ちにこれを班長に報告。班長はこれを確認し、間違いなしと見れば電話で市の防空監視哨長に報告するのである。この報告が場合によっては警戒警報あるいは空襲警報、避難命令となって市民に伝えられるのである。監視哨はいわば市民の尊い生命財産を守る尖兵というわけだ。
 防空監視哨の創設以来、わが国が最初の空襲を受けたのは昭和13年5月、中国軍機が熊本県の球磨芦北地方に反戦ビラをまいたのが嚆矢とされる。これ以来、太平洋戦争開戦まで空襲はなかった。こうして開戦第一日の任務についたのであるが、敵機の来襲もなく、緊張とは裏腹に平穏に、気合抜けの一日が過ぎて行った。

※2011年12月7日に掲載した父の手記を再編集して再掲しました。


昭和14年(1939)8月23日 教練指導員講習会 - 野砲第六聯隊
前列右から二人目が父

漱石が見た百年前の熊本人

2013-12-07 20:57:10 | 熊本
 夏目漱石が熊本を去って8年後の明治41年(1908)2月、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を語った中に、熊本の人について語った部分がある。それから105年過ぎた今の熊本に生きるわれわれにとって、少々面映ゆい思いを禁じ得ず、漱石一流のアイロニーに聞こえてならない。

▲熊本人の親切 にはまた驚いた。一例をあげるとある日坪井の郵便局のそばで買物をしたことがある。ところが買物をするうちに雨が降り出したら、見ず知らずの私にそこから傘を貸してくれたことがある。こんなことは東京などでは到底見るべからざることであると深刻に感じた。

▲熊本の学生 松山の中学に初めて教員となって赴任した当時は、学生は教師に対して少しも敬意を払っていなかったから、教員というものはこういうものかと思っていた。が熊本に行って、熊本の学生のおじぎにまず感じた。あんなおじぎをされたことは未だかつてない。よほど礼儀に厚い、これは一般に武士道の精神が家庭に残っているからだろう。服従というか、長幼序ありというか、着実で質素で、東京あたりの書生のように、軽薄で高慢痴気なところがなく、まことに良い気風である。

今年最後の 玄宅寺舞踊の会

2013-12-06 23:02:53 | 音楽芸能
 水前寺公園・玄宅寺における舞踊団花童の月例舞踊の会も今日が今年最後の会。花童のお蔭でずっと前から訪れてみたいと思っていたけれど、なかなかキッカケがなかった玄宅寺に何度も行くことが出来た。
 そもそも玄宅寺を訪れてみたいと思ったのは、やはり森鴎外の短編小説「阿部一族」を読んでからである。「阿部一族」の中で細川忠利公の死去の際、殉死を願って許された18人の筆頭に寺本八左衛門直次の名が登場する。その名前が強く印象に残っていて、ある時、ネットの情報で寺本八左衛門の墓が玄宅寺にあることを知った。さらにブログで知り合ったS氏の奥様が寺本家の末裔であるという奇遇もあった。
 しかし、舞踊団花童の舞踊の会がなければ、おそらく僕はまだ玄宅寺に行けてなかっただろう。それが、ほんの半年ばかりの間に何度も寺本八左衛門の墓に手を合わせることができたのは、必ずしも偶然とは言えないような気もする。それは、わが家の墓を改葬する前にあった古い墓の墓碑銘に、島原の乱に細川藩の一員として参戦し、戦死した先祖がいることが記されていたからである。


ブログの不具合

2013-12-05 19:47:51 | Web



 昨日、このブログのトップページに、記事が何も表示されず、上のような、本来はページ最下端の部分だけが表示されるという事象が発生していた。
 gooブログからの不具合情報もなかったので、ひょっとしたら僕自身が記事の編集でミスったかなと思い、直近の記事の編集画面に戻って調べた。僕は基本的には「TEXTエディター」モードで記事を作成するが、HTMLタグを多用するので、終了タグを忘れたりすることが時々あって、ブログ画面を見てビックリすることがある。昨日も一瞬、そんな類のミスかと思ったわけだが、くまなく調べてもどこもおかしいところはない。でも、不具合は直らないので、とうとうギブアップ。
 そして、今日になっていつの間にか現象は消え、正常な状態に戻っていた。そして、gooブログから不具合解消の情報がひっそりと掲載されていた。もっと早く情報を流してくれればムダな努力をせずにすんだのに。

野郎帽子と“おねえ”文化

2013-12-04 16:56:19 | 歴史
 毎日、テレビで「おねえキャラ」のタレントを見ない日はない。いわゆるゲイの中でも、セクシャリティは別にして、女性的なものの見方・考え方を女性言葉で発言する男性のことを「おねえ」と呼ぶらしい。今の時代、男性でも女性でもないニュートラルな立場の人が求められているのかもしれない。
 それはさておき、「おねえ」はいったいいつ頃から存在していたのだろうか。僕らの子どもの頃、すでに丸山明宏さん(今の美輪明宏さん)が中性的な歌手として人気があったが、彼はボーイッシュな印象が強かった。僕が社会人になって間もない70年代初めの頃、熊本に「青柳」というナイトクラブがあった。会社の先輩に何度か連れて行ってもらったが、ママさんというのが日本帝国陸軍で軍曹だか伍長だかやったという猛者で、何人かの「おねえ」を雇っていた。もちろんその頃は「おねえ」なんていう言葉はなく、僕らは普通に「オカマ」と呼んでいた。その中の一人と僕の先輩は特別仲がよく、アフターで中央街の飲み屋に付き合わされたこともある。その頃のオカマたちのしゃべり言葉は今の「おねえ言葉」と何ら変わらない。
 歴史的に見ると、歌舞伎の舞台から女性がシャットアウトされ、若衆歌舞伎も禁止された1600年代の半ば、月代(さかやき)を剃り上げた野郎頭の役者だけが演じる野郎歌舞伎が始まる。女性役の役者(女形)は「野郎帽子」(別名紫帽子)と呼ばれた布で月代を隠し、普段も女性言葉でしゃべるようになったといわれる。これが、今日の「おねえ」の始まりではないかという説が有力だ。「野郎帽子」は粋で色気を感じさせると人気を博し、市井の女性たちにも広まったと言われる。
 しかし、この「野郎帽子」の始まりについて、代表的な民俗学者の一人、折口信夫は「はちまきの話」の中で、もともと日本には古くから、女性の頭には蔓草で頭を纏う「かづら」や頭を被う「領巾(ひれ)」などがあり、それらが合わさった京の「桂女」の「桂まき」などがある。男性が女性を演じるためにはこういう小道具が必要だったわけで、「野郎帽子」もその流れの中の一つである。と、ちょっと異なるニュアンスの起源を述べている。
 とりとめのない話になったが、今日、ザ・わらべやこわらべが頭に着ける「野郎帽子」にもそんな歴史があったのである。
※右の絵は写楽の「二世瀬川富三郎と中村万世」


年賀状の季節に想うこと・・・

2013-12-03 21:42:49 | 美術


 先週あたりから年賀状関連のサポート依頼が舞い込み始めた。
 S先生が亡くなられてもう2年以上経つが、いまだにこの季節になると、今にもS先生から年賀状作成依頼の電話がかかってきそうな気がしてならない。先生が毎年描かれる熊本城の水彩画をスキャンし、その画像を年賀はがきに貼り付けて仕上げることが年末の楽しみだった。今年はどのアングルから熊本城を描かれたのだろうかと、先生から水彩画を預かる時はワクワクしたものだ。
 僕自身もそうだが、最近は年賀状にも写真を使う人が多い。確かに写真は鮮明で美しい仕上がりにはなる。しかし、絵の持つやわらかく深い味わいは写真では出せないような気がする。僕もそろそろ絵を始めてみようかと思う。
※上の絵はS先生が平成22年に描かれた平櫓

日本のモノづくりの原点 ~ からくり儀右衛門 ~

2013-12-02 21:43:12 | イベント
 僕にとって第二の故郷とも言うべき久留米出身の発明王と言えば、幕末から明治時代にかけて活躍した「からくり儀右衛門」こと田中久重。現在、久留米市の石橋美術館で「からくり儀右衛門展」が行われている。大ヒットドラマ「JIN-仁」で南方仁に豆電球を渡した人物だ。東芝のルーツとなる会社を興した人でもある。子供の頃から「からくり人形」に始まり、実に様々なものを発明しているが、実は久留米の伝統工芸品、久留米絣(くるめがすり)の創始者・井上伝を織機開発で手助けしたのも儀右衛門だという。また、日本に7基しか残っていない儀右衛門が発明した和時計、須弥山儀(しゅみせんぎ)の一つは熊本市の大橋時計店が所有しており、現在、セイコー時計資料館に寄託されている。日本の「モノづくり」の原点ともいうべき、「からくり儀右衛門展」をぜひ見に行きたいと思っている。