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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

東雲節(しののめぶし)

2013-12-11 20:55:09 | 音楽芸能
 代表的なお座敷唄「東雲節」(別名ストライキ節)は、その発祥について、かつては名古屋発祥説、熊本発祥説があり、識者の間でも見解が分かれていたらしい。たまたま名古屋と熊本(実は東京吉原にも)に「東雲楼」という遊郭があり、明治後期の自由解放の波に乗って全国的に娼妓たちの自由廃業運動が起こり、もともとあったこの端唄に妓楼の名をかけて風刺した唄といわれている。自由廃業運動は名古屋の方が1年ほど早く始まっているらしいが、明治時代の代表的な演歌師・添田唖蝉坊はこの「ストライキ節」については、作者は不明だが熊本で最初に唄われ始めたと言っている。
 ちなみに、「熊本県大百科事典」では次のように解説している。

 熊本とかかわりのある民謡で、のちにストライキ節となって流行する。本来は端唄の一種で、元歌の
「なにをくよくよ川端柳/こがるるなんとしょ/水の流れを見てくらす/東雲の暁の鐘/ごんとつきゃ辛いね/てなことおっしゃいましたかね-」
は遊客が娼妓とのきぬぎぬの別れを惜しむ情歌だった。それが明治30年代から全国的に起きた娼妓解放運動にひっかけて、次のような替え歌が普及したといわれる。
「祇園山(花岡山)から二本木見れば/倒るる(自由廃業)なんとしょ/金は無かしま(中島)/家も質(茂七)/東雲のストライキ/さりとは辛いね/てなことおっしゃいましたかねー」
 東雲というのは熊本市二本木遊廓の大店・東雲楼のこと。米相場師中島茂七の経営で、90人の娼妓を抱える御殿のような豪勢さだったが、借金に縛られる娼妓たちの生活にはひとかけらの自由もなかった。しかし全国的解放運動の中で、熊本でも明治33年(1900)10月から12月にかけて110人前後の廃業届が出た。楼主たちはありとあらゆる手段を使って自由廃業を妨害したが、そうした楼主たちの悪どさ、それに廃業した娼妓たちが容易に社会復帰できない哀れな現実を歌ったストライキ節が流行したのである。楼主の名前を巧みに盛り込んだ替え歌は、娼妓と民衆との間の一種の共同幻想の歌といってよかろう。この時期には二本木遊廓での娼妓の集団脱走やストライキの記録は残されていない。(藤川治水・小川芳宏)