日本舞踊の源流の一つである念仏踊り。その歴史を調べていると、柳田國男の「踊の今と昔」という文献の「念仏踊」の項目の最初に「肥後上盆城郡乙女村大字津志田なるヒナイ神の社頭に於ける七月十四十五日の念佛踊(肥後國志)」と書かれていることに気付いた。さっそく「肥後國志」を確認すると、巻十二の上益城・甲佐の頁に下記のように書かれていた。

この文章を、僕の推測も含めながら要約すると、九州にあって暴れまわっていた源為朝(鎮西八郎為朝)が、朝廷より召喚されて帰京する時、為朝に仕えていた早川城主・渡辺氏に内室を託して帰った。内室は為朝の帰りを待ちわびたが、それは叶わぬこととあきらめ、世を儚んで淵川に身を投じた。早川城下の人々はこれを悼み、念仏踊りをし、源氏の白旗を竹に結び付けて笹踊りを踊って弔った。これが毎年恒例となり後々の世まで伝承された。
今もこの念仏踊りが残っているのだろうかと甲佐町役場に尋ねたが、とうの昔に失われたという返事だった。残っていないと聞くと余計、どんな踊りだったのか知りたくなる。他に何か手がかりはないかと調べていたところ、「こじょちゃんの戯言」 というブログに行き当たった。12月12日の記事の中に、このブログの開設者が早川城主・渡辺氏の子孫であるらしいことが書かれていた。さっそくブログにコメントを書き込んだ。先祖からの言い伝えなどが残っていないかどうか知りたかった。すぐに丁寧なリプライが書き込まれた。ご本人も先祖のことについて調べておられる様子だった。今後、新たなことが分ってくるかもしれない。楽しみである。

甲佐町の津志田河川自然公園

この文章を、僕の推測も含めながら要約すると、九州にあって暴れまわっていた源為朝(鎮西八郎為朝)が、朝廷より召喚されて帰京する時、為朝に仕えていた早川城主・渡辺氏に内室を託して帰った。内室は為朝の帰りを待ちわびたが、それは叶わぬこととあきらめ、世を儚んで淵川に身を投じた。早川城下の人々はこれを悼み、念仏踊りをし、源氏の白旗を竹に結び付けて笹踊りを踊って弔った。これが毎年恒例となり後々の世まで伝承された。
今もこの念仏踊りが残っているのだろうかと甲佐町役場に尋ねたが、とうの昔に失われたという返事だった。残っていないと聞くと余計、どんな踊りだったのか知りたくなる。他に何か手がかりはないかと調べていたところ、「こじょちゃんの戯言」 というブログに行き当たった。12月12日の記事の中に、このブログの開設者が早川城主・渡辺氏の子孫であるらしいことが書かれていた。さっそくブログにコメントを書き込んだ。先祖からの言い伝えなどが残っていないかどうか知りたかった。すぐに丁寧なリプライが書き込まれた。ご本人も先祖のことについて調べておられる様子だった。今後、新たなことが分ってくるかもしれない。楽しみである。

甲佐町の津志田河川自然公園