徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

祇王寺祇女桜

2024-06-08 22:35:54 | 歴史
 監物台樹木園が3年ぶりに開園したが、開園日が4月25日だったので、残念ながら今年の桜開花時季は過ぎていた。何種類かの桜の中でも残念だったのは「祇王寺祇女桜(ぎおうじぎじょざくら)」の花が見られなかったことだ。この「祇王寺祇女桜」という桜の種類があることを知ったのは、10数年前、あるブログ記事で見つけた京都市右京区嵯峨の祇王寺の写真が、立田山麓にあった父の生家のイメージとそっくりだったことがきっかけだった。
 「祇王寺祇女桜」は祇王寺に植栽されていた桜で「平家物語」に登場する白拍子、祇王・祇女の姉妹がその名の由来である。

▼『平家物語』巻一「祇王」のあらすじ
 祇王は容姿にすぐれた白拍子(しらびょうし=「今様」という当時の流行歌謡を歌い、舞を舞う男装の遊女)の名手として、京の町中に知れ渡っていた。
 祇王は平清盛の寵愛を独り占めにしていた。清盛は彼女の母「とじ」をも立派な屋敷に住まわせ、毎月、米百石・銭百貫を贈ったので、一家の豊かさ華やかさは例えようもないほどであった。そんなある日、清盛の住む西八条の御殿に仏御前(ほとけごぜん)と名乗る年若い白拍子が訪ねてきた。
 彼女は、自分の舞を清盛にご覧に入れたいと申し出る。しかし、清盛は仏御前を門前払いにした。祇王は、「そんなに素っ気なく追い返すのはかわいそうです。せめて出会うくらいのことは」と清盛にとりなした。
 祇王の頼みを聞き入れ、清盛は仏御前を呼び戻した。彼女の姿は、驚くほどの美しさ。今様を歌わせてみると、その声、節回し、ともに見事であった。つづいて舞を舞うよう命じたが、舞い姿もまたまた見事。清盛はその場で、すっかり仏御前にこころを移してしまった。そして、仏御前が辞退するのも聞かず、祇王を追い出し仏御前に御殿にとどまるよう命じた。
 祇王は障子に人情や運命のはかなさを詠んだ歌一首をしたため、清盛の西八条殿を去った。
 一年が経った。妹の祇女とともに御殿を追い出された祇王に、清盛から「いちど仏御前の前で舞を舞い、彼女の退屈を慰めてやってくれ」という命令がとどいた。
 「言いつけに背けば、都を追い出される。恥をこらえてでも出仕しておくれ」という母・とじの、たっての頼み。祇王は泣く泣く妹・祇女とともに清盛の御殿を訪れた。
 祇王は、下座に侍らされ、今様歌を歌い落ちる涙をぬぐいつつ舞いを舞う。
 我が身のあまりの惨めさに、世をはかなんだ祇王は母・とじ、妹・祇女とともに、嵯峨の山里の小さな庵に移り住み二十一歳で出家した。
 春が過ぎ夏も終わり、秋風の吹くころとなる。三人が念仏をとなえる粗末な庵を、ある夜、訪ねてきたものがあった。不思議に思った祇王がよく見ると、それは黒髪を剃り落とし尼僧姿となった仏御前であった。
 「つくづく物を案ずるに娑婆(しゃば)の栄華は夢の夢」と悟り、彼女はみずから念仏の輪に加わりたいと祇王たちの庵を訪ねてきたのであった。
 それいらい四人はともに朝夕念仏をとなえつつ、「往生の素懐」をとげたという。
(平成23年1月2日滋賀報知新聞記事より)


祇王寺祇女桜


父の生家(今は痕跡も無し)からほど近い泰勝寺跡

白拍子の舞


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2 コメント

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Unkown (油屋種吉)
2024-06-17 08:07:13
早朝に失礼します。
なんとこれがあなたのお父さんのお生まれになった家ですか。見逃していました。この家のたたずまいが好きです。
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Re:油屋種吉様 (FUSA)
2024-06-17 09:04:13
いえいえ、これは泰勝寺跡の仰松軒という茶室です(笑)
わが父の生家はここから歩いて5分ほどのところにありました。今は影も形も残っていません。
もう10年以上も前になりますが、京都の祇王寺の風景写真が、私が幼い頃に見た父の生家辺りの風景とそっくりで驚いたことがあります。下記のブログにそんなことを書いています。

https://blog.goo.ne.jp/np4626/e/2d11f96cac1b2fd4356936aa91130a5c
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