今日は「母の日」。僕は「母の日」に必ず想いだすことがある。今年102歳となった母はもう炊事をすることはないが、まだ元気に炊事をしていた頃、時々作ってくれたのが「炊き込みご飯」だった。といっても、にんじんと揚げとゴマメを入れ、醤油で味付けしただけの質素な「炊き込みご飯」である。実はこれ、昭和15、6年頃、母が勤めていた島崎尋常高等小学校で、待労院(慈恵病院の前身)から登校していた孤児たちに給食として食べさせていた一品らしい。おかずはない。孤児たちはこれが大好きで喜んで食べていたそうだ。
2006年だったか、慈恵病院が「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を立ち上げた時、メディアなどでは売名行為などと批判する声もあった。時の某首相など、この件を記者から尋ねられると、あからさまに不快な表情を隠さなかった。孤児の救済を戦前からやっていた慈恵病院にとっては、ごく自然な取り組みだったのである。新聞やテレビで取り上げられるたびに母は「昔からやってたのにね」と言った。そして、母は必ず当時の孤児たちと、この給食のことを思い出すらしかった。
2006年だったか、慈恵病院が「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を立ち上げた時、メディアなどでは売名行為などと批判する声もあった。時の某首相など、この件を記者から尋ねられると、あからさまに不快な表情を隠さなかった。孤児の救済を戦前からやっていた慈恵病院にとっては、ごく自然な取り組みだったのである。新聞やテレビで取り上げられるたびに母は「昔からやってたのにね」と言った。そして、母は必ず当時の孤児たちと、この給食のことを思い出すらしかった。
日頃は貴ブログの丁寧な作りを勉強させていただいております。
「こうのとりのゆりかご」の立ち上がり時にはいろんな風当たりもあったようですが、母は「こどもの命を守ることが最優先であるべきなのに」と言っていました。母は養護教員でしたから看護婦(師)の資格も持っていたようです。貴兄のお母様の病院も社会的に恵まれない子供たちの病院だったようですので、私の母と似たような環境にあったのかもしれませんね。
「こうのとりのゆりかご」経由でやって来た児童がいる養護施設のそばをよく歩いて通りますが、みんな屈託がなくて可愛い子ばっかりです。
お母様は早くにお亡くなりになったんですね。いろいろご苦労がおありだったんでしょうね。
シーボルトには日本に多くのサポーターがいたようで、それがシーボルト事件につながったとも言えそうですね。
待労院(慈恵病院)の孤児の皆さんのこと初めて聞きました。そんな歴史を経ての今のコウノトリの揺りかごだったんですね。その子供たちを小学校の先生として暖かく包んでおられたお母さんの姿が浮かんできます。炊き込みご飯の味も何だか感じてしまいました。
102才のお母様の当時の気持ちもわかるような気持ちがしています。私の母は看護婦(士)でした。高校生になった頃肢体不自由児の病院でしたから「可愛いかわいい・・」と病院での出来事を話してくれました。私が教師になった一因だったかもしれません。
私も水俣に勤務したとき養護施設の子ども達といっぱい関わりました。受け持った女子ソフトボール部には養護施設の子ども達が次々に入部してくるんです。遠征は施設のバスを使わせてもらっていました。
こんなことを思い出させてもらいました。母は72才でなくなりましたが、私も今年で同じ年になります。ご先輩とお見受けしましたが、これからも色々なお話楽しみにしています。
私のお袋の味「ごまさば」を思い出しました。
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下の記述、しみじみと読ませていただきました。
素晴らしいお話です。
シーボルトのお抱え絵師だった川原慶賀っていたのですか!
有難うございました。