徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

瀬戸坂とその周辺のはなし。

2024-08-30 17:51:38 | 熊本
 先日放送されたRKK熊本放送「水曜だけど土曜の番組」で「第1回KING OF ドウロ」というちょっとワケのわからない企画をやっていた。熊本県内の個性的な道路をピックアップして№1を決めようというものだが、6つ選ばれたうちの一つになぜか「瀬戸坂」が選ばれていた。坂の街である京町の中でもわが家から最も近く幼い頃から慣れ親しんだ坂である。僕も高校時代はこの坂を通学路としていたが、自転車通学の友人には難所だったという。番組ではこの約300㍍、傾斜角度9.6度の坂をノーギア自転車で一気に登り切れるか番組MCのローカルタレントまさやんがチャレンジし、なんとか成功した。


瀬戸坂

 その話はさておき、「瀬戸坂」、古い文書では「迫門坂」とも書かれているが、その名の由来は、坂を下りきったところに坪井川が流れており、川幅が狭まっていた、つまり「瀬戸(迫門)」があったのでその名が付いたという。昭和初期頃まで坪井川の舟運が盛んで、瀬戸は船着場として物流の要衝だったらしい。
 今日、地域住民の間では常識となっているが、この一帯(旧称 寺原田畑)はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。また、かつて打越では貝塚が発掘されたこともある。ところが、いったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、6千年も前に、まるで和歌にでも出てきそうな美しい地名がつくとは到底思えない。ということは「平安海進」の時ということになるかというと、この一帯が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもそんな史料は見出せない。推測だが、おそらく、海が退いた後、低地が沼沢として残り、かつて海だった記憶が子々孫々まで伝わり、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。ちなみに寺原(てらばる)とはこの地に浄国寺(静国寺)があったことからこの名がついた。現在の浄国寺は北区高平2丁目にあるが、元は瀬戸坂から家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路に入ったところにあった。平清盛ゆかりの寺といわれ、寺号は清盛の法名である静海(浄海)に由来するという。浄国寺は近年、松本喜三郎作の生人形「谷汲観音」があることで有名になり、県内外からファンが訪れている。