お年玉付年賀はがきの抽選が明日だと思い出したので、今年いただいた年賀状をあらためて眺めていたら、ふと酒井恭次先生のことを思い出した。酒井先生は永年ブリヂストン横浜工場の産業医を務められた方で、僕は在職中大変お世話になった。残念ながら7年前95歳で他界されたが、毎年先生からいただく手書きの年賀状が楽しみだった。何度かブログネタにさせていただいたが、その中から二つ再掲して先生を偲びたい。
▼2019年3月11日
熊本城二の丸の西大手門への通路の脇に「歩兵第十三連隊の跡」記念碑がある。今日散歩のついでにしばらくながめていたら、ふと4年前に他界された酒井恭次先生のことを思い出した。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医である。亡くなる数年前から、毎年、年賀状には必ず戦時中の熊本の「西部第十六部隊」にいた頃の思い出が書かれていた。よほど懐かしい想い出だったのだろう。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」が昭和12年の支那事変で出征した後、その補充部隊が集められ、この部隊が後に「西部第十六部隊」となった。
先生は久留米のご出身だが横浜勤務が永く、亡くなるまで逗子市に住まわれた。今日は先生のお住まいにほど近い小坪漁港で歌い継がれている「小坪いかとり歌」でも聞きながら先生を偲びたい。

歩兵第十三連隊(西部第十六部隊の前身)記念碑 熊本城二の丸広場
▼2016年1月4日
今年いただいた年賀状の中で最高齢の方は、今年93歳を迎える酒井恭次先生。文面には相変わらず「無為徒食の輩」などと先生一流の自虐ネタが書かれていた。もう30年ほど前になるが、横浜工場で産業医を務めておられた酒井先生のところへ仕事で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。行きつけの店へ行くと先生は必ず、財布を店の女将に預ける。精算は女将にまかせていて店を出る時、財布を受け取って帰るというのが慣わしだった。ある時、何軒か回った後、カラオケバーに行った。そこで先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。呼び出したわけはその若い男性のプロパーさんはおそろしく歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのかもしれない。特に松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」などは絶品だった。松田聖子はその頃デビューして5、6年経っていたと思うが、実は僕の会社の大先輩に久留米出身で、かつて松田聖子のお父さんと職場が一緒だったという人がいて、彼女がデビューする時、応援を頼まれたりして、彼女にはずっと注目していたこともあり、この夜のプロパーさんの歌は特に印象深かった。毎年、酒井先生の年賀状を見る度にあの夜のことを想い出す。
▼2019年3月11日
熊本城二の丸の西大手門への通路の脇に「歩兵第十三連隊の跡」記念碑がある。今日散歩のついでにしばらくながめていたら、ふと4年前に他界された酒井恭次先生のことを思い出した。酒井先生は僕がブリヂストン時代に最もお世話になった横浜工場の産業医である。亡くなる数年前から、毎年、年賀状には必ず戦時中の熊本の「西部第十六部隊」にいた頃の思い出が書かれていた。よほど懐かしい想い出だったのだろう。「西部第十六部隊」というのは、この記念碑の「歩兵第十三連隊」が昭和12年の支那事変で出征した後、その補充部隊が集められ、この部隊が後に「西部第十六部隊」となった。
先生は久留米のご出身だが横浜勤務が永く、亡くなるまで逗子市に住まわれた。今日は先生のお住まいにほど近い小坪漁港で歌い継がれている「小坪いかとり歌」でも聞きながら先生を偲びたい。

歩兵第十三連隊(西部第十六部隊の前身)記念碑 熊本城二の丸広場
▼2016年1月4日
今年いただいた年賀状の中で最高齢の方は、今年93歳を迎える酒井恭次先生。文面には相変わらず「無為徒食の輩」などと先生一流の自虐ネタが書かれていた。もう30年ほど前になるが、横浜工場で産業医を務めておられた酒井先生のところへ仕事で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。行きつけの店へ行くと先生は必ず、財布を店の女将に預ける。精算は女将にまかせていて店を出る時、財布を受け取って帰るというのが慣わしだった。ある時、何軒か回った後、カラオケバーに行った。そこで先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。呼び出したわけはその若い男性のプロパーさんはおそろしく歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのかもしれない。特に松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」などは絶品だった。松田聖子はその頃デビューして5、6年経っていたと思うが、実は僕の会社の大先輩に久留米出身で、かつて松田聖子のお父さんと職場が一緒だったという人がいて、彼女がデビューする時、応援を頼まれたりして、彼女にはずっと注目していたこともあり、この夜のプロパーさんの歌は特に印象深かった。毎年、酒井先生の年賀状を見る度にあの夜のことを想い出す。