徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

夕涼み子ども舞台 ~ 熊本いのちの電話チャリティ公演 ~

2012-08-23 14:07:52 | 音楽芸能
 明日午後6時半より、熊本市民会館崇城大学ホールにおいて下記のとおり行われます。
 少女舞踊団ザ・わらべを始め、熊本の元気な子どもたちが日頃のたゆまぬ修練の成果を見ていただきたいと精一杯のパフォーマンスを発揮してくれます。
 週末のひと時を夕涼みがてら、元気をもらいにいらっしゃいませんか。
 お誘いあわせの上のご来場をお待ちしています。


若山牧水と海達公子

2012-08-23 08:34:25 | 文芸
 今日は大正末期から昭和初期にかけて天才少女詩人と謳われた海達公子の生誕96年の日にあたる。これまでも海達公子については何度もブログで紹介してきたが、たまたま昨日、若山牧水の話を書いたので、今日は若山牧水と海達公子のかかわりについて紹介したい。
 公子は8歳だった大正13年「赤い鳥」7月号に「ひし」が推奨作として入選して以来、選者の北原白秋からその才能を注目されるようになる。以後、特別に目をかけてもらうようになるが、昭和3年7月に白秋が郷里柳川に帰省した際、初めて対面してからは白秋も公子のことを「私の弟子」と公言するようになった。この帰省の折、開局したばかりの熊本放送局に出演した白秋はわざわざ公子を同行させ、放送局に紹介している。これによりその2か月後、公子は小学校の同級生たちとともにラジオ出演を果たしている。その後も白秋の支援は続くのだが、実は公子は白秋と対面するよりも前に野口雨情や若山牧水らとも会って直接指導を受けている。特に若山牧水は、童謡誌「金の星」誌上で、幼年詩の選者であった牧水が、公子が尋常小2年生の頃から彼女の詩を見始めてその素質を認め、特別の期待を寄せていた。作品の掲載についてもしばしば破格の待遇をしていたが、その公子に一度会いたいと、大正14年11月25日、九州旅行の途中に妻の喜志子を伴って荒尾の公子の家に立ち寄った。牧水が公子の家を訪問した時、たまたま公子は近くの厳島神社へ松葉掻きの奉仕作業に行っていた。しばらくして帰って来た公子は、手拭いをかぶり、自分の丈より高い松葉掻きを手に、背中には籠を背負っていた。そのすすけた顔の公子を一見し、牧水は驚いて、この子が想像していた公子だろうかと絶句した。才気煥発な子供を予想していた牧水にとって、現実の公子の容貌はあまりにも異なっていた。牧水は「今のその茫っとした性質を大切に大きくなってもなくさぬ様に」と優しく声をかけたという。時に牧水41歳、公子9歳であった。この3年後に牧水は世を去るが、高等女学校に入ってからの公子は、若山貴志子に短歌の指導を受けることになるのである。
 公子の家を訪問した翌日、大牟田の料亭で行われた牧水夫妻を囲む文士の会に、公子と父の松一(貴文)が招待される。下の写真はその時の記念写真で、前列の牧水夫妻の間に主役然と座るのが公子。前列右端が父の松一。



※参考文献 規工川祐輔「評伝 海達公子『赤い鳥』の少女詩人」(熊日出版2004)