徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

“八幡のおくに”っていったい だれ?

2012-08-09 18:06:50 | 音楽芸能
 熊本県立美術館では「生誕450年記念 加藤清正展」が行なわれているが、連日の猛暑もあってまだ観に行っていない。9月2日までだそうなのでギリギリになってから行こうと思う。
 ところで僕は江戸時代前期に書かれた清正公の伝記「續撰清正記」の第六巻に登場する「八幡の國」なる女歌舞伎のことが気になってしかたがない。「續撰清正記」によれば慶長14年(1609)の秋のことのようだが、清正公は熊本へ帰る船の上、家臣たちとの語らいの中で「奥州の伊達正宗公が遊女歌舞伎を催したところ家康公がたいそうお気に召したと聞いた。石田三成らの謀反も治まり、豊臣恩顧の代表格である自分も謀反の心がないことを示し、家康公を安心させる意味でも歌舞などに興じてみようと思う。」てなことを仰って早速熊本へ女歌舞伎を呼んで興行を行なった。そのくだりは「續撰清正記」の中に下記のように書かれている。

續 八幡の國と云歌舞妓女肥後國へ下たる事
其頃八幡の國と云ややこを下し熊本の鹽屋町三町めの武者溜りにて勧進能をいたし其能の跡に歌舞妓をして家来の諸侍は銀子一枚宛出し桟敷を打て見物し地下町人は八木を持来て鼠戸の前に市をなし押合々々見物したり・・・

 要するに、八幡の国と名乗る女歌舞妓を呼んで塩屋町三丁目の武者だまり(現在新町のゆめマートがある辺りか)で勧進能を行ない、その後で歌舞妓の興行を行なった。家来たちは銀子一枚(貨幣価値不明)で桟敷を設置して見物させ、町人たちは米を持ってこさせて小さな鼠木戸から入らせたが、とにかく人が押し寄せ大変な賑わいだったようである。
 しかし肝心の八幡の国なる芸能者がいかなる人物だったのかにはふれていない。ただ「ややこ」と書いてあるので子供だったのか、あるいは「ややこ踊」をする人という意味なのか。八幡というのは「やわたのはちまんさん」で有名な京都の石清水八幡宮のことだと思われるが、当時は出雲大社の巫女から大スターになった出雲阿国を模倣する芸能者が大勢いたらしいので、その中の一人なのか。また、この慶長14年というのは出雲阿国が消息不明だった時期のようで、ひょっとしたら本人もしくはその関係者ということも考えられなくもない。いずれにせよこれは永遠のミステリーのままのほうがロマンがあって面白いかもしれない。

▼阿国歌舞伎夢華(Click to Movie)