The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

憲法と仏法 4

2015-08-13 04:55:39 | 世界経済
            R.デカルト 1596-1650     

 日本国憲法の「個人の権利」の個人は、やはり、デカルトの第一原理から出発するのだが、これは、仏法の己事究明と、どのように関係するか。

 近代を開いた巨人・ルネ・デカルトは、世界を支える確固不動の一点を探索する、そのためには、すべてを疑わなければならない、
 1、キリスト教の神
 2、社会の伝統や慣習
 3、学問の真実
 4、法律の正義   
 5、ありとあらゆる価値
 6、こうして疑っている自分

 デカルトの懐疑の前には、キリスト教ほど曖昧なモノはない、もちろん失格、また、地球上にいると思っているが、実は、違う天体かもしれない、こうして見ている景色も、ちがって見える動物がいる、だが、疑っている自分がいるということは、どうだろうか。

 一般に、「我思う故に我あり」と理解されているようだが、これでは「我思う」を証明しなければならない、その証明を証明・・・どんどん後退していく、だから、これは、
 「考えている我がある」

 直観的直証的事実であり、形式論理ではないということ、「事実」である、ここに、近代世界を支える確固不動の定点がセットされたことになる、そして、ここから、「近代的個人」と「合理的理性」が引き出された。

 だが、やはり「己を忘れることが萬法に証される」までには、行かなかった、それが、近代の限界といいたいが、そもそも次元がちがう、立っている次元がちがっていた。


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