虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

自閉っ子が月曜日に学校に行きたがらない時に 1

2013-11-30 21:03:03 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

今日は、昨年の春から1年の間、レッスンの様子を記事にさせてもらっていた名古屋の★くんが

レッスンに来てくれました。久しぶりに会った★くんは

ずいぶん成長して、しっかりした受け答えができるようになっていました。

 

出会った当初は、会話が成り立ちにくく、自分の世界にこもっていて、

人と関わることに強いストレスがあるようだったので、

★くんのお母さんは小学校はホームスクーリング(学校には通学せずに家庭を拠点に置いて学習すること)

という形を考えておられたようでした。

 

しかし、それからの1年間、ひとりの友だちを通して成長していく★くんの姿を見守る中で、

★くんがどれほど人との関わりを欲しているのかがわかってきました。

それまでできなかったことに自分からチャレンジしようとし、

課題を乗り越えた時に達成感を味わっていることも。

 

今年になって、★くんは無事、小学校に入学し、

がんばって学校に通っています。

文字も覚え、算数の学習もがんばっているそうです。

お母さんにうかがったところ、週の大半は学校で楽しく過ごしているけれど、

唯一の困った点は、月曜日にだけ学校への行き渋りがあることなのだとか。

 

自閉症の子の困った習慣を修正する時、教室では人形を使った小さな劇を演じて、

こんな時にどうすればいいのか、考えさせることがあります。

★くんに、「月曜日、学校に行くクマの人形」のお話を

見せてあげることにしました。

 

小さな劇の続きは明日にでも書きますね。

 

下のリンクは、これまでの★くんのレッスンの様子です。

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ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 1

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 2

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 3

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 4

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 5

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 6

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 7

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 8

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 9

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 10

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 11

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 12

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 13

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 14

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 15

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 16

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 17

 ファンタジーの世界にどっぷり浸かってしまう自閉っ子に、論理的に考えてることを教えるには? 18

自閉っ子がファンタジーの世界から出て、お友だちとの遊びに興味を抱きだすとき 1

自閉っ子がファンタジーの世界から出て、お友だちとの遊びに興味を抱きだすとき 2

自閉っ子がファンタジーの世界から出て、お友だちとの遊びに興味を抱きだすとき 3

自閉っ子がファンタジーの世界から出て、お友だちとの遊びに興味を抱きだすとき 4

 

自閉っ子と社会性の発達 1

自閉っ子と社会性の発達 2

自閉っ子が急に成長する時

 自閉っ子と対話能力の発達

自閉っ子とトラブル解決法 1

自閉っ子とトラブル解決法 2

自閉っ子とトラブル解決法 3

自閉っ子とトラブル解決法 4

自閉っ子とトラブル解決法 5

自閉っ子とトラブル解決法 6

自閉っ子とトラブル解決法 7

 

自閉っ子とお友だちの存在がその子の世界を広げていくこと 1

自閉っ子とお友だちの存在がその子の世界を広げていくこと 2

自閉っ子と学校ごっこ 

自閉っ子とお友だちとの心の結びつきがもたらす大きな成長 1

自閉っ子とお友だちとの心の結びつきがもたらす大きな成長 2

自閉っ子とお友だちとの心の結びつきがもたらす大きな成長 3

 


ゴミ処理場が作りたい♪

2013-11-29 18:51:09 | 工作 ワークショップ

年長さんの★くんに、「今日は何がしたい?」とたずねると、

「ゴミ処理場が作りたい」と即答。

ゴミ処理場の見学に行った

教室では、ゴミ収集車のおもちゃが2,3歳児さんたちの間で大人気で、

毎回、取り合いになっているのですが、

ゴミ処理場が作りたいと言ったのは、★くんが初めてです。

ネットでゴミ処理場のしくみを調べて、さっそく処理場作り。

処理場に到着したゴミは、ゴミピットという1週間分のゴミを溜める

場所におろされるそうです。

おろすシーンを作るために、高い位置にゴミ収集車が入っている場所を作っています。

小さめのドミノをゴミにしています。

ゴミクレーンは、空き箱で作りました。

引っぱると開くしくみです。

★くんが焼却場の雰囲気を出すために

プラズマボールを取ってきました。

手前のホースがついたものは、有毒ガスの除去装置のつもりです。

算数の時間は、しっかり集中して取り組めていました。


機能不全家族について  もう少し 16

2013-11-28 18:51:31 | 日々思うこと 雑感

機能不全家族について  もう少し 15 の続きです。

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「~12」までの自分の体験から気づいたことについて、言葉が足りないまま

別の話題に移っているので心苦しいのですが、

それについてはまた別の機会に書かせていただきますね。

 

肝心の「苦しい状態から抜け出し世代間連鎖を断ち切るための

わたしなりのひとつの答え」というのに行きつかないままダラダラと記事が続いています。

 こうだろう、という自分の体感の中に残っている答えのひとつは、

最初、自分自身の体験から得たものではありませんでした。

 

親として、わが子たちが思春期の複雑な心理状態を超えて

成長していく姿を見届ける中で、

見えてきたことです。

特に娘は、同性であり、感情や人との関係について

わたし以上に細やかな洞察力を持っていて、それを言葉で表現する力もあるので、

葛藤を抱えた心が、何を足がかりにして成熟に向かっていくのか

親のわたしが本当にたくさんのことを教わった感があります。

 

大人になっていくある時期、

母親も父親も疎ましかったり、めんどくさかったり、

生き方も考え方も、それこそ一挙一動にすらイライラと癪にさわってしょうがない時があるのに、

ふと気づくと、どれもどうでもいいことになって受容するようになり、

よその親に比べてこんないい面があると認めるようにもなり、

感謝や尊敬を口にするようにもなっていく姿。

親との境界線を保ちながら、

自分自身の弱さや不安や憧れや願望を正直に見つめながら

現実の世界と格闘していく姿。

 

そうした成長の軌跡を支え、推し進めていくのは

自己肯定感であり、

自分を信じ、認めて、欠点も弱みも含めて受容できる心なんだな、と

わが子を通して実感したのです。

また大切なのは、どんなことでもいいから、

親や他人を喜ばせるためでも、評価や注目を得るためでもなく、

自分が選んだ何かで、自信をつけていくことなんだな、ということです。

 

親のわたし自身は、結婚し、子育てに追われるようになっても、

依然として、思春期の心の状態に留まっていたところがあります。

さなぎの中から出られない自分に嫌気がさしたり、焦燥感にかられたりしながら、

長い間、そんな自分の状態を詩に綴るくらいしかできませんでした。

 

ある時、気づいたら、

その頃書いた詩の言葉は、過去のものになっていたのですが、

いつ、どうやって、何をきっかけに、そこから抜け出すことができたのかと

振り返ると、

わが子たちが思春期を卒業していく時の道筋とそっくりだと感じたのです。

また、教室の幼い子たちが、最初の反抗期を終えていったり、

葛藤を抱えて、問題行動を起こしている子たちが、その状態を脱していったり

する時とも重なります。

 

自分自身に自信をつけていくこと。

それも他人の目を通して自信をつけるのではなく、

自分で自分にOKを出す機会を増やしていくことなのです。

 

機能不全家族に育つということは、

子どもの自己肯定感を搾取する親、自分への信頼感を奪っていく家族、

どんなにがんばっても、どんなに成果をあげても、

自分に自信を持つことを許してくれない家庭で育つということでも

あります。

大人になって、自由な生き方や考え方を選べるようになって、

自分の自信を育くんでいこうと決心しても、

何もかもゼロからのスタートです。

自分の中に取りこんできた親や他人の手厳しい評価に傷ついて、

結局、本当に自分の自信につながるような何かに手をつけられない

という方は多いのではないでしょうか。

 

そうやって、自分を育てる作業から目を逸らしていると、

わが子の欠点が気になってしかたがなくなったり、

常に騒動の中にいる機能不全状態の実家の問題に巻き込まれずにはいられなく

なったりしがちです。

もちろん、現実にある問題は問題ですから、

それに対処する必要はあるのです。

でも、それは、自分自身を育てること、自分の自信につながるような何かに時間を使うことを

避けるための裏の目的になってはいけないと思うのです。

 

「子どもを健全に育てていくには、まず、自分自身と真摯に向きあい、自分の自信につながるものを育んでいくことが

大事なのではないでしょうか?」

熊本で出会ったお母さんたちにそう伝えると、

「そうです。確かに、その通りです。わが子の心配ばかりしていたけれど、実は……」という返事が返ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自閉症の子と想像力に弱さのある子 の ごっこ遊び 

2013-11-27 21:15:55 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

最近接領域に注目して伸ばす(自閉っ子と言葉のない5歳の子) 1

最近接領域に注目して伸ばす(自閉っ子と言葉のない5歳の子) 2

最近接領域に注目して伸ばす(自閉っ子と言葉のない5歳の子) 3

最近接領域に注目して伸ばす(自閉っ子と言葉のない5歳の子) 4

でレッスンの様子を記事にさせてもらった

未熟児で生まれた後遺症から

さまざまな面で発達に遅れがあり言葉のない世界で暮らしている年長さんの●くん

(先の記事では★くんとさせていただいています)

と自閉症の診断を受けている4歳になったばかりの☆ちゃんのレッスンの様子です。

また、今回は、「心が大きく広がり始めた♪」うれしい成長

の記事で紹介させてもらった年中さんの★くんもこの日のレッスンに参加していました。

少し前まで、興味や遊び方に偏りがあって、

絵カードを1枚ずつめくって、「これなあに?」とたずねていくだけの遊びや

マス目のあるシートにマグネットシールを貼っていくだけの遊びに

こだわり続けていた☆ちゃんが、

最近になってごっこ遊びを楽しむようになってきました。

ままごとやドールハウスで長い間遊んでいます。

 

また、カードをめくっていくだけの遊びに興じている時も、

これまでなら、いつまでもひとり遊びを続けていたのですが、

自分からカードを手にして他の子のところにいって

いっしょに遊ぶことを求めるようになってきました。

 

人との関わりを楽しいものとして受け入れ始めている☆ちゃんの

成長がうれしいです。

川のイラストがついているブロックの基礎板で遊んでいるところです。

★くんは想像力に弱さがあるため、いつまでたっても

川の上を舟を行き来させる遊びから発展しにくいです。

そこで、★くんが目で見て判断しながら遊べるようなシーンを

いくつか作ってあげることにしました。

 

① 舟の乗り場

 

人形を待たせておいて、ここから舟に乗せます。

」乗り場で人形を乗せる」遊びができるようになると、

バス停でバスを待つ遊びや、駅で電車を待つ遊びや、飛行場で飛行機を待つ遊びなどに

つながりやすいです。

それぞれアナウンスや切符のやりとりなどを工夫すると

ごっこ遊びが盛り上がります。

 

② 舟が滑って行く坂

 

ブロックの基礎板に最初から坂があったので、

今回はそれを利用していますが、

そうしたものがない時も、板やブロックで坂を作って、

滑るシーンを作ると、想像力に弱さがある子も遊びやすいです。

★くんが舟が転覆するようことにして遊びはじめたので、

●くんのお母さんがおぼれたお人形が岸まで泳いでいくシーンをやってみせると、

大喜びでした。

 

●くんも★くんの遊びに興味があるようでしたが、「乗り場で人が待っているということ」や

「舟が転覆するということ」「転覆すると人形がどうなるのか」ということは

理解できていないようで、

遊び方に★くんとの質的な違いを感じました。

また、その部分にこれからの●くんの課題も見えました。

●くんはブロックの車をつないで、トンネルをくぐらせて

遊ぶことができます。非常にシンプルなものとはいえ、

ごっこ遊びにつながるようなある一定の流れのある遊びが理解できているという

ことです。

でも、その段階からなかなか抜けられないのも事実です。

その鍵をみにぎるのは、川のごっこ遊びの際に見えてきた

●くんの課題にあるようです。

●くんは身体の筋力をコントロールする力が弱い子です。

自閉症ではないのに、

気に入ったおもちゃをテーブルの上に持ってきては、目の前で前後させるようにして

遊ぶのは、目周りの筋力の弱さから来ているようです。

目を動かすことに困難があるので、どうしても視野が狭くなり、

遊びの内容が理解しずらくなるようです。

他の子の遊びも、断片的にしか見えていないため、理解するのが難しいようです。

もちろん、もっと複雑でさまざまな原因が絡み合って

理解するのが難しくなっているのですが、

そうした身体の問題に配慮することで、それまで興味を持たなかったことにも

注意が向くようになることもよくあるのです。

 

次回に続きます。

 


旅のスクラップブック と カセット付き絵本 と 音読教材 2

2013-11-26 17:16:59 | 通常レッスン

教室には買い置きのカセットテープが4巻ありました。

20分テープが2巻と10分テープが2巻です。

「かなり長いお話を書いても10分テープに十分入ると思うわよ」と言うのだけれど、

絵本を読み終えたら、「宣伝とか歌を入れたいから……」と3人とも20分テープを

使いたがりました。

「20分テープはそれだけしかないから、じゃんけんするなり、あみだくじ作るなり

自分たちで解決してちょうだい」と伝えて、

材料を取りに行って、戻ってみると、

★ちゃんと☆ちゃんが20分テープをもらって、○ちゃんは10分テープ2巻にそれぞれ①②とマジックで書いて、

絵本も2冊作っていました。

「これで平等に20分ずつになった」とのこと。

2巻で100円の100円ショップのカセットテープでよかったです~。

 

一番先にカセットの吹き込みを終えた☆ちゃんは、

ダイエット商品の宣伝を吹きこんでいたのですが、

★ちゃんと○ちゃんから、「カセット絵本は1年生向けの教材だったはずなのに、

そこにダイエット商品のCMが入っているのはおかしい……」というダメ出しをされ、

「子どものお母さんにって入れようか……」とか「カセット絵本じゃなくて、

ラジオとかの番組でお話が流れていて、その後で、ダイエット商品の宣伝になることにしようか?」

と本気で悩んでいました。

どうしてもダイエットネタを手放したくない様子の☆ちゃん……。

上のオレンジの色画用紙に書きこんでいるのは、

ダイエット商品の宣伝文句です。

 

 


旅のスクラップブック と カセット付き絵本 と 音読教材 1

2013-11-25 13:01:48 | 通常レッスン

1年生の女の子たちのレッスンで、★ちゃんが素敵な旅行のスクラップブックを持ってきて

くれました。

道の駅のパンフレットやご当地キャラクターの切り抜きや買い物のレシートなどを

貼ったノートです。

他の子らがうらやましそうにスクラップブックを眺める中、

★ちゃんはキャンプ小屋の名前について……「あさがお」とか「ぼたん」なんて名前がついているのですが……

説明してから、「お父さんが作っているこういうノートには、もっといろんなものが貼ってあるよ。」と

言いました。

「そういえば★ちゃんのお父さん、面白い絵本を作ってたわよね」とわたしが言うよ、

★ちゃんは、「そうそう、お父さんはね、毎年、わたしの誕生日に絵本作ってくれるのよ。

ぺらぺらさんとか忍者のなんとかとかお父さんが考えたキャラクターが出てきて、

動くようになっている絵本よ。

でも、今年の誕生日は仕事が忙しかったから絵本をもらってないわ」と言いました。

そこで、「★ちゃんも、今年はさ、★ちゃんが絵本を作ってお父さんにあげたら?

みんなもどう?」とたずねると、そこにいた☆ちゃんも○ちゃんもふたつ返事で

「作りたい!作りたい!」と大乗り気でした。

お友だちが何か作ってきた時、「すごいな」「面白いな」と夢中になって眺めたり、

それに刺激を受けて、「自分もやってみたい」と思ったりする子らは、

それまでさまざまな物作りを体験してきた子たちでもあります。

家庭でも想像力や創造力を使う場面をたくさん設けてもらっているのです。

 

 

さっそく絵本に登場するキャラクター作りを始めた子たち。

製本の仕方に凝りたいようで、糸綴じにしたい子とホッチキスで見開きごとにつなげていきたい子に

分かれました。

そうしながら、どんな話を書くのかアイデアが飛び交っていました。

 

大きなサイズの紙に「毎日、お正月とクリスマスだけが順番にやってくる世界の話」

を書き始めていた☆ちゃんが、

「先生、絵はなしにして、文章ばっかりの本にしてもいいかな?」

とたずねました。

「そりゃ、いいんじゃない?ほら、読むのがめんどくさいって子の勉強にもなるじゃない?

音読教材?」と言うと、☆ちゃんはうれしそうに

「そうそう、そういうのにしたいのよ。漢字ができるだけやめとくわ。1年生の子が

本を読む練習になるようなのを作りたいから」と言うやいなや

ものすごいスピードで紙を文字で埋めていきました。

「☆ちゃん。音読教材が作りたいんだったら、カセットテープがあるけど、録音する?

それだけ文字があったら、読むのがめんどくさいって子もいるでしょ?

カセットを付録につけておいたら、読むのも聞くのもできて一石二鳥でしょ?

教室に置いておいてくれるんなら、小さい子たちがきた時、勉強に使わせてもらうわ」

そうたずねると、☆ちゃん、★ちゃん、○ちゃんが口をそろえて、

「いいね~いいね~カセット絵本を作りたい!」と大きな声をあげました。

 

 

次に続きます。

 


もやもやした憂鬱な気分と生きる力

2013-11-25 12:53:59 | 日々思うこと 雑感

↑ 100円グッズを分解して、ブロックに輪ゴムで装着しました。

ぴったりサイズでかわいいです。

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(過去記事にコメントをいただいたので、再度アップします……季節はずれの話題から始まりますがすいません~)

 

このごろ、嫌な天気が続きますね。

5月には「これって5月病かな?」と感じるような何となくぼんやりした不調が心に生じがちですよね。

6月になると、それに続いて梅雨のせいで身体の不調まで加わわって、
何もなくても憂鬱でどんよりした気分になりがちです。

私も定期的にこの憂鬱でどんよりした気分に陥るときがあります。

といっても、この「どんより鬱々とした気分」に浸ること自体、それほど嫌いじゃありません。

「どんより鬱々とした気分」に陥ったとき、
私がまずするのは、
もやもやの気分のもとを静かに眺めてみて、その理由だと思っていたものや、ぐるぐる同じ場所を回っていた考えや、
期待や願望や罪悪感や習慣的に執着していた物事を
手放していくことです。


心からできるだけノイズを減らして、
クリーンでスッキリした状態に近付けていくと、
それまで気付かなかった「どんより鬱々とした気分」のもとが見えてきます。


たいがいが「Aをしても、Bをしても、Cをしても、問題が起こる。どれもしなかったとしても問題が起こる」という状況に巻き込まれていたり、

他の人が悩むべきことを私が勝手に引き受けて悩んでいたりします。


また、ダブルバインドという矛盾するふたつのメッセージを受けやすい状況になっていたり、

何らかの理由で、私の言動が相手をダブルバインドの状況に陥らせていたりするのも、

鬱々した気持ちの背後に見えてくるもののひとつです。

ダブルバインドというのは、最初に「これこれしてはダメ」という否定的なメッセージが出され、
次にそれと矛盾する否定的なメッセージが出されて、
その矛盾する事態から逃げ出してはならないという3つめのメッセージがあるという状況です。

「Aをしちゃダメ、Aをしないのもダメ、この状況から逃げるのもダメ」という

かつてグレゴリー・ベイトソンが
その状況に置かれた人は統合失調症に似た症状を示すと指摘した状況です。
(統合失調症の原因はまだ不明な点が多いので、ダブルバインドと直接、関連つけることはできないです)



「何らかの理由で、私の言動が相手をダブルバインドの状況に陥らせている」というのは、
発達障害のある子を育てている親御さんとの間で生じることがあります。

なぜそんなまずい状況に陥るのかというと、
その背後には、公立小も私立小も発達障害児への支援の体制が
ひとりひとりの子の最善を考えられるところまで整っていないということがあります。

何が必要なのか、何が正しいのかといったごくごく基本的なことさえ、
現場で対応が練られていなかったり、
解決法が共有されていなかったりするのです。

そこで、発達障害をもっている子たちは、その子なりに精一杯がんばっていても、
しょっちゅう困ったことにぶつかるか、
問題を先送りして悪化させてしまいます。

親御さんにしても、私に解決法を相談したり、本やネットで解決法を探ったとしても、
「学校での問題は学校の協力なしには解決しない」
という無力感につながる答えにしか
たどりつけないことが多いのです。

そうした支援が整っていない場というのは、
問題を見えにくくするために、
「子どもが悪い」とか「親が悪い」とか「先生が悪い」とかといった
悪者探しや、

「クラスの他の生徒に迷惑をかける場合、特別支援教室に入れざる得なくなる」といった
見えない圧力があるものです。

そうした表立った問題はなくても、
「お客さん」状態で授業を受けるうちに、だんだん勉強が手に負えなくなって
困る子も出てきます。

小学校での発達障害の子への支援をどう整えるのか、
特別支援級での支援だけでなく
普通級で学んでいる発達障害のある子たちへの対応を
いろんな人が意見を出し合って本気で考えていく必要があるんだろうな、と思います。

そうでなければ、「子どもの心に配慮する」「子どもの自己肯定感を高める」という
当たり前とも思われるメッセージが、
親御さんにとってダブルバインドの状況を作りだし、

「Aをしちゃダメ、Aをしないのもダメ、この状況から逃げるのもダメ」

という心をかき乱すメッセージとなってしまうことがあるのです。

この問題は簡単に書ききれません。またの機会にくわしく書きますね。

話がずいぶんそれましたが、
最初に私は「どんより鬱々した気分」に陥るのがそれほど嫌いではない……
と書いたのは、
だいたいこういう「もやもや~」とした不愉快な気分は、
自分の本当の気持ちや直視してこなかった現実の抱えている問題に
向き合うきっかけをくれることが多々あるからです。

こういう気分とうまく付き合えるようになってきたことが、
私にとって、何十年もかけて身についてきた「生きる力」のひとつだなと感じています。

「生きる力」さえあれば、うまくいかなそうなことも、やってみる力が湧いてくるし、
実際結果がうまくいかなくても、それはそれ、と立ち直りが早いです。


勝負師の世界で無敗伝説を築いた桜井章一氏が、次のようなことをおっしゃっていて、「なるほど」と納得したことがあります。

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才能を磨かない。「生きる」という才能があれば十分だ。
人の才能や能力いうのは、相対的なものだ。
そんなものより私はもっと人の根っ子にある大きな才能のほうが大事だと思う。
それは何かというと「生きる」という才能だ。
生きとし生けるものはみな生命に恵まれて、生命を連続させることで今を生きている。
私はそれこそが人が持つ
普遍的な才能だと思う。
世間で最も評価される才能や能力にばかり関心がいくと、「生きる」という才能は
いつの間にか忘れられてしまう。
そんな才能や能力と違って、人が生命を連続させて、「今ここにある」という才能は
普遍的な強さを持つすごいものだと思う。

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そういえば、うちのダンナやうちの子たち、欠点もたくさんあるし、
しょっちゅううまくいかないことにぶつかっているけど、「生きる力」は
強いです。
娘にしても、ものすごく大きな挫折を経験しても、
「こんな気分のときは、友だちと思い切りしゃべらないとスッキリしないわ」といって家を飛び出して行ったり、
「部屋の徹底掃除でもすれば、あきらめがつくわ」といって動きまわっていたかと思うと、
さっぱりした様子で「それなら、ゼロからやりなおせばいいわ」という結論に行きついています。
「生きる力」の方が強くて、うずくまりそうになる気持ちを押し切ってしまうようです。

ダンナも息子も超人的に「生きる力」が強いので、きっと無人島に流されても、
なんとか楽しくいきていくはず……。

世間で評価される才能や能力だけが注目を浴びがちだけど、
こうした地味な「とにかく生きていく」という力も大事なんだなと再確認しました。

 



今日の記事は、自分用の日誌のようなものなので、だらだらと長ったらしく自分の気持ちについて書いていますから、
忙しい方はスルーしてくださいね。



私は、「このどんより鬱々とした気分に浸ること自体、それほど嫌いじゃありません」などという自分の「何だか変」な
感じ方を言葉にしたのですが、
それについてもう少しくわしく説明することにしますね。

「どんより鬱々とした気分」の背後には、たいてい言語化されていない、意識にのぼってすらいない
「もやもやとくすぶっている考え」が隠れているのです。

私は、これまでの経験から、この「もやもやとくすぶっている考え」に対して、
ある種の奇妙な信頼感のようなものを持っていて、
「もやもや」を感じ取ると、まるで名探偵にでもなった気分で、
「あれっ?何かおかしい」「どうもしっくりこない」
と、自分の心や最近の出来事に探りを入れ始めるのです。

ある種の奇妙な信頼感というのは、
自分が今、感じていることや、考えていることや、信じていることや、見えていることよりも、

この「もやもや」を信用するというか……
「火のないところに煙は立たない」ということわざじゃないですけど……

これといった理由は見当たらなくても、「もやもや」と心がくすぶるからには何か未解決の問題があるし、
潜在している課題があるし、
それを突き止めて、言語化して向き合えば、必ず次の段階に進めると
直観しているところがあるのです。

そのために、憂鬱になった時点で、ちょっとワクワクもしているという
奇妙な心の状態があります。

といっても、ワクワクするには、問題を突き止めて解決する自信があって、
それに至るプロセスが具体的にわかっていないと難しいです。


『「脳にいいこと」だけをやりなさい』 マーシー・シャイモフ著 茂木健一郎訳  三笠書房
に、次のようにありました。

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研究によれば、人は一日に六万個の物事を考えていて、その95パーセントは前日も前々日も
考えていたことだといいます。
問題なのは、その習慣的な考えの約80パーセントが
ネガティブなものだということ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は楽観的でルーズな性格な上、
もともと短期記憶が弱いので、
何かするときは今現在していること以外ほとんど考えることがありません。
それで、「ネガティブなことを考えることって、一日、5パーセントもあるかなぁ?」という程度なのですが、
(その5パーセントも、たいてい食べ過ぎと肩コリについて……と平和なものなので)

それでも、毎日、生活して、働いて、人と交流していれば、
いつの間にか「もやもやした憂鬱な気分」を抱え込んでいることはめずらしくありません。


ずいぶん後になって、その「もやもやした憂鬱な気分」を振り返ると、

「今ならみんなの常識となっていることが、
その時期には言葉にするのもはばかれるようなタブーになっていて、
考えたり言葉にしたりするのも悪いような空気があったんだな」

と、時代の変化とともに、自分も周囲の人も、同じ問題に対する捉え方が、180度変わっていることに
驚くことがあります。
だから、悩む必要はなかった、憂鬱な気分に落ち込まなければよかったというわけではなく、

もやもやしていたからには、

そこには解決しなくてはならない
潜在的な未解決の問題が存在していて、

それは個人的な悩みというより、
その時代と社会が抱えている難題である場合も多いんだな、とも思いました。


たとえば、そのもやもやが、主婦同士の人間関係上の
すれ違いが原因で起こっていたとしても、
性格がどうのとか、言いすぎた言葉がどうのといった表面的な問題ではない
「もやもや」のねっこがあるのではないでしょうか。

それをたどっていくと、
「公園デビュー」とか「ママ友」とかいう言葉に不快感を抱きつつ
やむを得ずその上に関係が築かれていったために、
ある程度親しくなった時点で、

こうした言葉が作っている人間関係の問題を改善しなくては
いてもたってもいたれないようなジレンマに陥る……なんてことが
誰にも起こってくるんじゃないかな?……
それは初め「もやもやした憂鬱な気分」として
心に浮上してくるんじゃないかな?
と思うのです。


何を言いたいのかさっぱりわからないかもしれませんが、
うまく言葉にできないので、ごめんなさい~。

話は変わって
数年前、私が子どもを預かる有料ボランティアをしていた頃、
私の「もやもやした憂鬱な気分」のもととなっていたことは、

おそらく当時、保育の関わっている多くの人々が
同じように自分の中にくすぶらせていた「もやもや」ではないか、
と感じています。
個人の悩みだけど、個人の悩みではない気がするのです。


この有料ボランティアは、
親御さんが病院に行くなどの用事で出かける際、
利用していただくことがよくありました。

市の有料ボランティアとはいえ、長時間になると、けっこう料金がかさむため、
「本当は連れて行きたいのだけど、子どもがあまりに聞き分けがないので、
とても連れていく自信がない」という理由で預かることが
よくありました。

すると、親御さんが「連れて行けない」と判断するのもごもっとも、と納得するほど、
子どもが突拍子のない危険なことを次々としようとしたり、
奇声をあげ続けていたりする場合が多々ありました。


言葉の遅れだけではなく、手をひらひらさせたり、
ピョンピョン飛び続けたりといった
さまざまな常同行動がたくさん見られて、
現在なら、病院で自閉症の診断がつくだろうと思われる子も
当時はたいていが、相談先から「様子を見ましょう」と言われるか、
「もっと子どもにかまってあげて」とアドバイスされるか、
「集団に入れるとよくなるから……」と保育園に入るように勧められることどまりでした。

預かった際に、子どもが、
物を壊したり、階段から飛び降りようとしたり、外に飛び出そうとしたりするなど、
危険な行為を繰り返す場合、
親御さんと市の職員さんに渡す報告書に
起こったことをひとつひとつ細かく書いて提出する必要がありました。

が、そこで私がもやもやと気持ちをくすぶらせて悩んでいたのは、

子どもを預けにきている親御さんが、すごく大変な子育てから解放されて、
ひとりで外出したとたん、
子どもがこんな悪いことをした、あんな危険なことをした……と矢継ぎ早に言われたのでは、
次から困っても他人を頼ることができなくなるんじゃないか……?
ということなのです。

親御さんの姿から、子育てに疲れ果てていて、
どんなささいな指摘にも、過剰に敏感になっているのが伝わってきましたから。



といって、正しい報告をしなければ、次にどんな事故につながるか
わかりません。
報告するだけでなく、子どもを預かる側が
情報を共有して、
事故をふせぐ手立てを打っておく必要があります。

でも、発達障害についての情報を目にすることがほとんどなかった当時は、
そうした問題について話合うことすらタブーとなっているところがありました。

話題にできないので、対応もできない、事故の予防や、問題解決もできないまま
「自分の関わっている範囲で問題が生じなければいいから」と思ってやりすごすしかありませんでした。

「親御さんの子育てをサポートしながら、同時に子どもの安全を守る」という方法や、
「子どもに気がかりな様子が見られた時、どのような対応をすればいいか」という指針が
定まっておらず、
親御さんが悩むか、子どもが困るかするのを、
黙って見ているしかなかったのです。

どうしようもないこととして、意識にも言葉にも上がってくることがないとはいえ、
人間って、自分が困らなくても、自分と関わっている人や子どもが
困っているのを黙って見ていると、
いつの間にか解決しようのない「もやもやと憂鬱な気分」を抱えてしまうものです。

「もやもや」の最中にいるときは、理由も原因も見えないか、
他の表面的な悩みとごちゃごちゃにしていることが多いのです。

そういう時に
「何かおかしい」「私はいったい何に引っかかっているんだろう?」
「正しいことといわれても、正しいと納得できないのはどうしてだろう?」
「どこに問題があるんだろう」「どうすればこの問題の突破口はある?」
「本当に考えても無駄なことなの?」「問題を解決するのに何が必要なんだろう?」

と、自分が執着していることや、錯覚に陥っていることや、信じ込んだり思い込んだりしていることを
手放しながら、
自分のもやもやの原因がクリアーになるまで「もやもや」とつきあっていました。

すると、問題を解決できる人材や解決したい意志があっても、
それらがきちんと機能するような仕組みがなかったり、
人と人をつなぐネットワークがないと、
本来ならプラスに生かせる思いも、
もやもやした憂鬱な気分にすり替わっているときがあるんだな~ことに気づきました。


また「私が悩んでいたことは、私だけの悩みではなくて、
今の時代と社会が抱えている難題でもあって、
でも改善に向けて動き始めているからこそ、
私まで、もやもやそわそわした気分になって、
何かしなくちゃいけないけど、何もできない……というジレンマに陥って
いたんだな。」とも感じました。

偶然なのか、自分の心と同期するように、
自分の悩んでいた問題をめぐって社会が
急速に変化していくのに気づいて、ハッとすることがありましたから。



無視したくなるような「もやもやした気分」も、自分の言葉で表現できるまで
つきあってみると、社会を良い方向に変化させるための
ひとつの力になるのかもしれないな~と思いました。

 

ブログで記事を書いていると、
ちょっとしたジレンマに陥るときがあります。

言葉って難しいです。

伝えたいことが、伝えたい人々にちょうどいい程度に伝わるなんてことは
まれで、ひとつ書けば、そこに新たな疑問や誤解が生まれ、
それを解決すれば、またそこにくわしい説明の必要な問題が生じます。

たとえば、子どもが自由に動けなくなるほど
干渉しすぎてしまう方に会うことがたびたびあって、
それに対する気がかりを言葉にすると、
それをしっかり受け止めてくれる方というのは、
「もうちょっと干渉したり、厳しくしてもいいかも」という
子育てが甘めの方だったり……。

そこで、きちんと叱るべきときは叱ることの必要性を言葉にすると、
それが心に響く方は、
「もうちょっと大目に見る場面が多くてもいいかな」と感じるしつけが厳しい方だったり……。

それでも「終わりよければすべてよし」じゃないですけど、

親子だけで密着したカプセルに入ってしまわず、

ああでもない、こうでもない……と目の前の子どもを見ながら、
外の意見も適度に取り入れて、
自分の頭と手を使って試行錯誤しながら子育てしている方の子育ては、

最終的には、どんな子育てマニュアルより「わが子仕様のベストの方法なんだな」と感じます。


その過程で心が揺れたり、失敗したり、大きな壁にぶつかったりして、

「子育てって、マニュアルも正しい解答もないないんだ、
でも解くことを放棄することもできないんだ」

って事実に足元をすくわれそうになっても、

それでも何とか態勢をとりなおして、
自分らしい楽な姿勢で歩いていけるようになったら、結果オーライなんでしょう。



そんなことを考えたのは、先日、読んでいた本の影響があります。


『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』 檜垣立哉  NHK出版

という一般人向けの易しい哲学書です。

何となくパラパラと読み進むうちに、

ドゥルーズの「解けない問い」に対するポジティブな捉え方に共感して、

ここのところもやもやとくすぶっていた気持ちがすっきり晴れて
勇気がわいてきました。

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ドゥルーズは徹底してポジティブに解けない問いに立ち向かう。

解けないことに直面するこの時代において、ドゥルーズは、現象学のように、
失われた基盤を回復させることはしない。そしてデリダのように、
現在の不可能性をバネにして、到りえない彼方を語ることもしない。

ドゥールズにおいて未決定性とは、新たなものの産出を語るための、
ポジティブなテーマである。
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……ドゥールズは完全に生命系である。

あくまでも唯物的で、彼方の真理も想定せず、無限の流れに内在しながら多様な接合をとげつづける
生命のあり方が、そこでのモデルをなしている。

ドゥルーズは、この世界の解けなさを、未決定的なポテンシャリティー(潜在力)であると
捉えるが、
それは、いつも新たなものの産出をあらわにするためである。

            (『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』 檜垣立哉  NHK出版)
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私が、ドゥルーズを読んだのは、
子どもの頃から「創造的進化」とか「自己組織化」の話題が大好きで、
そうした関連本を集めているからです。

が、今回は全く別の意味で、強く心に響いてくるものがありました。

この著書の内容からかけ離れているのですが、

子育てや教育について、
関われば関わるほど、新たな 
ややこしい問題が立ち現われてくる現状に直面している今、


このドゥルーズのポジティブな捉え方に、
ふっと救われる心地がしたのです。

「人間を相手にしていると、子育てにしても、教育関係の仕事にしても、
次から次へと解くことができないような問題が
生じてくる。

ある一部分に注目すれば、そこから無数の新しい疑問が湧いてくるし、
ひとつの問題を解決すれば、それは次の数えきれないような別の問題につながっている。

でも、そうした解けない状態はそれ自体が、
潜在しているものの大きさや深さを表してもいて、
だからこそ、いつもそこから新しいものが生まれてくるとも言えるだな」

と妙に納得したのです。


私自身が、うまくいかない状態にぶつかるのも、
そこでいったんもやもやとくすぶった気持ちを抱えるのも、
あまり嫌な気がしないのは、

ドゥルーズと同様に解けない問いに向かうときに、
「問題とは解かれるものではなく、創造されるべきもの」と捉えていたからなんだなと気づきました。


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一般的には、問題とは解かれるべきものだろう。
そうした発想は、問題の設定が、真偽という枠組みに深くかかわっていることを
示している。
しかしドゥルーズは、問題が真偽という枠組みにかかわるのは、
社会的・教育的な偏見にすぎないという。

問題を与える教師がいて、つまりは真偽とは何かが
明確にされうる場面があって、そこで問題が与えられるという構図が、
この発想では前提とされている。

だが、こうした構図は、この世界のリアルさを考えるならば、ほとんど戯画的なもの
ではないか。そこで問題の真偽を握っている特権的な人物は誰もいない。

だから論じられるべきは、真偽の枠にとらわれて、正解を見出すことが要求されるような問題についてではない。
むしろ逆に、問題を提起することが、つまり、真偽がそれに従属するような問題を生み出すことが
ここで考えられるべき事柄なのである。

              (『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』 檜垣立哉  NHK出版)

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ドゥルーズは歴史を生きることについて、
「ひとつの正解が設定されることはありえなくて、
解かれ方はさまざまで、
さまざまな解かれ方があることを踏まえて模索し続けること」と説明しています。

それって、今、私が関わっていること全て……
子育てや教育や自分の生き方にも
大いに言えることだなと感じました。

またドゥルーズは生命の本質について次のように説明しています。
「生命の本質とは、できあがった器官=眼にあるのではない。むしろ眼という問題を設定し、
状況に応じて解答を与え、
なおかつ問題を発しつづけていく、その力にこそあるのである」

ドゥルーズの語る生命の本質は、子どもの姿そのものともいえますね。
自分で解くべき問題を発しつづける存在、提示しつづける存在。

親や身近な大人たちも、
子どもとの関わりのなかで次々と問題にぶつかりながら、

子どもも親自身も周囲も全てを成長させるような創造的な展開に巻き込まれて
いるのかな……?

とポジティブな気持ちで、
日々のごたごたを眺めなおしました。


機能不全家族について  もう少し 15

2013-11-24 18:21:05 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

機能不全家族について  もう少し 14 の続きです。

 

問題を抱えている家庭に育つと、

大人になって生き方を取捨選択できるようになっても、

新しく出会う人々を相手に過去の苦しい人間関係を再現しがちです。

 

わたしの母にしても、子どもの目から見ても信頼のおける本当の意味で母を尊重してくれるような

人とは少し距離をおいていて、常に無理難題を押しつけてくる自分を振り回すような人と

いっしょにいることがよくありました。

自分が利用されていることに気づいても離れられないし、

いずれ自分を傷つけたり、不安にさせたりする人だとわかっていても、

多少困った性格の人とも仲良くしなくてはと自分に言い聞かせて、苦手な人を避けることが

できないのです。

 

前回の記事で辛い過去を言葉にしておられた方にしても、

「子どもの困った行動が気にかかり、繰り返し注意するうちに、さらに問題行動が増えていき、

厳しく叱責する日が続くようになりました……」といった

子どもさんが発達障害の診断を受けに行くまでの経緯をくわしくうかがうと、

その背後には、子どもに常にいい子でいてもらわないと親子共々、残酷な苦しみを味わうような

人間関係に身を置いておられることがわかりました。

 

自分にとっては利にならない苦しいだけの関係だとわかっていても、

離れた後で悪口を言われるのが嫌だったり、

自分から動く勇気が出なかったり、

世の中我慢もいるからと自分に言い聞かせたりして、

そこからくる不安や悲しみや怒りを、全て子どもの問題にすり替えて

悩んでおられるようでもありました。

 

 

もちろん、病院で診断名がついたとすれば、

子どもの発達に何の問題もないとは思われません。

ただ、自分や子どもの心を追い詰めるような悪循環や

親が子どものささいな他の子との違いも許容できないような心理状態が続いているようなら、

それをやわらげることが先なのかもしれません。

 

子どもの問題ばかりを近視眼的に眺めて、

心身ともに疲弊するだけではなく、

子どもといっしょに安全で心地よい生活を送ることを一番に考えて、

子どもの困り感を無理のない形で手助けしてあげられる状態に自分を整えていく

必要があるはずです。

 

次回に続きます。

 


「心が大きく広がり始めた♪」 うれしい成長 7

2013-11-23 20:35:22 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

「心が大きく広がり始めた♪」 うれしい成長 6

の続きを書く予定が、ずいぶん伸び伸びになってしまいました。申し訳ありません。

 

「★くんのお気に入りなんだから。使いたいんだったら、先生に言うんじゃなくて、

★くんに聞いてちょうだい」と○くんに告げると、

○くんがすかさず、「★くん、川のやつ貸して」と頼みました。

すると、後ろを向いてキッチンセットをいじっていた★くんが、

「いいよ~」と答えました。

 

この日のレッスンの後で、再び★くんと○くんが教室に来る日がありました。

★くんはこの半月ほどの間にも、さまざまな面で大きな成長を遂げ、

園でも加配の先生が付かなくても大丈夫な時間が増えたり、参加できる遊びには積極的に

友だちの輪に入っていけるようになったそうです。

 今回のレッスンでも、★くんの成長を感じる場面がたくさんありました。

★くんが、「トンネル」と言いながら

上の写真のようなビー玉を転がすおもちゃを組み立てていました。

転がる距離が長くなるように、ブロックを置いて、傾きを作る提案したり、

いくつかの出口があるパーツを渡したりすると、

「こっちから出る、こっちから出る」とビー玉の出口をそれぞれ指さして、

うれしそうな声を上げました。

 

 

★くんはそれからもビー玉転がしのパーツを増やしながら、

わたしの声かけに対して、

「くるくる回るよ」「ビー玉がずっと転がる」と答えながら熱心に遊んでいました。

○くんが作っていたジオラマ作りや刑事ドラマごっこ(今回は、列車のガソリンが盗まれ、高層ビルのてっぺんに

時限爆弾が仕掛けられているというストーリー)にも

関わっていました。

そうして遊びや相互のやりとりが長く続くようになってきたためか、

責任感が生まれてきて、算数タイムには決められた課題を最後まできちんと

やり遂げる姿がありました。

 

 

 


「こだわり」を新しい興味や課題につなげる工夫  (自閉症スペクトラムの子のレッスンで) 

2013-11-23 19:51:58 | 初めてお越しの方

過去記事です。

自閉症の診断を受けている2歳後半の☆ちゃんと診断はまだ受けていないものの

目が合わず、他人との関わり方にさまざまな問題を持っている3歳前半の●くんのレッスンでした。

 

目まぐるしく動き回る☆ちゃん。

次から次へとおもちゃを広げていきます。

言葉はまだ単語がほとんどですが、前回会った時より語彙がずいぶん増えて、

物の名前を聞きたがる仕草をするようになっていました。

 

☆ちゃんのお母さんは、すばしっこく動きまわっては

ものを散らかしていく☆ちゃんの姿に圧倒されて、

接するタイミングがわからなくなっているようでした。

 

「わたしが遊びに誘っても、こちらの話を聞こうとせず、

好き勝手に振舞うばかりで、どう関わってあげたらいいのか

わかりません。

どうしたらいいのか‥‥‥」

☆ちゃんのお母さんはそう困惑しきった声でおっしゃいました。

 

☆ちゃんは確かに、こちらの提示する遊びに、

惹きつけられるように

興味を示す子ではありません。

相互に関わりあうのも苦手です。

おまけにこのところ注意されることが増えたため

お母さんの声がわずらわしいのか、以前にもまして

大人からかけられる声を遮断して、避けているようでもありました。

 

その一方で、スキンシップを好むし、積み木をドミノのように並べてガラガラ倒す遊びや、

「あれれ?あれれ?」と言いながら椅子やテーブル越しにのぞきっこする遊び、

「おにさん」「きりんさん」と言いながらお母さんに絵を描くように催促してそれを眺める遊び等、

本人がケラケラ笑い出すような遊びを作れば、いっしょにやり取りするのも楽しめます。

 

また、これまで何度かいっしょに過ごした●くんと●くんのお母さんのすることに

関心を寄せていて、

●くんがやりはじめたことはたいてい自分もやりたがるのです。

 

そうした☆ちゃんの姿からは、自閉症の特性を持っているとはいえ、

人と関わる力の高さが感じられます。

また、さまざまな物を受け入れる許容する力の大きさや

利発さも、遊ぶ姿から伝わってきます。

 

ただ、☆ちゃんのお母さんが、意思疎通が難しい☆ちゃんの動き方に圧倒されて、

主導権の全てを☆ちゃんに明け渡してしまっていることが、

☆ちゃんの良い面を見えにくくも、活かしにくくもしているようでもありました。

 

 

 

 

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☆ちゃんのお母さんが、意思疎通が難しい☆ちゃんの動き方に圧倒されて、

主導権の全てを☆ちゃんに明け渡してしまっていることが、

☆ちゃんの良い面を見えにくくも、活かしにくくもしているようでもありました。

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ということを書きました。

 

☆ちゃんは自閉症の子の特性を持ちながらも、

人と関わっていく力をたくさん備えた子です。それは今後の伸びを予感させてくれる潜在的な能力として

とても魅力的な個性です。

 

他の子や他の大人のしていることに興味を持って、真似ようとするのもそのひとつ。

 

といっても一般的な2歳後半の子の模倣の仕方よりは荒っぽく、

興味を持ったものを

片っ端から奪い取っていこうとしたり、

相手の場に無理に自分の身体を滑り込ませて占領したりして終わることも多々あります。

またお母さんが手本を見せて真似させようとしても、

素直に乗ってくるわけではありません。

大人のすることを何でも模倣するというわけではなく、

☆ちゃんに模倣したい気持ちを起こさせるのには、☆ちゃんが好きな動作や活動を

提示してあげなくてはならないのです。

 

最初は難しく感じるかもしれませんが、☆ちゃん自ら他人のしていることに関心を持って近づいてきて、

☆ちゃんの喜ぶ提示の仕方をすれば模倣しはじめるのですから、

☆ちゃんの世界を広げてあげるチャンスはたくさんあることと思います。

☆ちゃんは感覚過敏等はあまりないようで、スキンシップを好む子です。

抱き上げて、あやすような遊びを繰り返すと、ケタケタと笑い声をあげて喜びますし、

そうしてこちらから積極的に働きかける中で、だんだん息を合わせて、共同注意をいう

他者と同じものを目で追う活動につないでいくことも可能です。

 

わたしが☆ちゃんを抱っこした状態で(ある程度、身体を拘束していないと

絶え間なく動き回るために共同注意行動はほとんど起こらないです)

積み木を並べていって、☆ちゃんに崩させることを繰り返しつつ「バラバラ~」とか「ガラガラ~」と言いながら

遊んでいると、いっしょに同じ方向や同じものを見て遊ぶ活動を長い間続けることができていました。

 

そのように☆ちゃんが他の人と同じものに注意を向けて遊ぶ場面をたくさん

作っていくことは、☆ちゃんの発達を促進させてくれるように思われます。

 

そう言葉で言うのは簡単ですが、☆ちゃんのお母さんにすると、

「さあ、こうやって相手をしてみよう」と働きかけると、

☆ちゃんはそれを振り切るようにして好き勝手に動き回るという結果に終始しているようです。

 

そこで、☆ちゃんの好きなカード遊びを通して、お母さんに

☆ちゃんとの関わり方を学んでいただくことにしました。

☆ちゃんは絵カードが大好きです。

絵カードを触らせていると、カードをめくったり、バラバラにしたりしながら

独り言を言って、延々と遊んでいます。

 

そんな☆ちゃんの姿を見て、「独り言を言わせたくない」と思うというお母さんは、

「これなあに?」「これなあに?」とカードを指して聞いていきます。

後ろを向いたまま、「きりん~」「ぶど~」などと返事をしていた☆ちゃんですが、しまいに

お母さんの声をわずらわしそうにしはじめ、カードの扱い方が乱暴になって

遊び方が崩れてきました。表情は口を一文字に結んで、固まっています。

 

その様子を見て、☆ちゃんと関わる時は、だんだん表情がほぐれてきて、

さらなる関わりを求めたり、模倣しようとする意欲を引き出すように

配慮する大切さを伝えました。

 

わたしが☆ちゃんを触り心地のいい薄い生地のお弁当袋にカードを入れる遊びに誘うと

カードを詰め始めた☆ちゃんは、次に一番下からカードを引き抜いて、裏返して一番上に重ねて

袋に入れるという遊びをはじめました。

そういう☆ちゃんが自発的にやりはじめる遊びは、

「こだわり」にもなりますが、

同時に、☆ちゃんの興味を新しい何かにつなげたり、課題を作り出したりするのに

役に立ちます。

☆ちゃんのお母さんの問題は、そうした☆ちゃんが自発的にしはじめる遊びに

気づかないか、不安を覚えて、

遊びに誘う行動が、☆ちゃんが楽しんでいる活動を邪魔することと

イコールで結ばれる場合がとても多いことでした。