虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

水遊びで頭と心を使う 2

2017-03-31 20:52:51 | 工作 ワークショップ

お知らせ。国立民族学博物館の集合時間は、11時30分です。

 

あいかわらず、水遊びがブームの教室。

もうすぐ3年生になるAくんが、ウォータースライダーを作りました。

水を循環させたいAくん。

シャンプーのポンプ部分に100円ショップのタピオカ用ストローをつなぐと、

ぴったりはまりました。

これで、ウォータースライダーのスタート地点まで水を上げられます。

ポンプを押すと、水が遠くまで吹き飛んでしまうので、

水槽用のチューブをポンプの吹き出し口の先に取り付けました。

これで水がきちんとプラスチックコップの中に戻りました。

 

それにしても、毎回、写真に写り込むトラ……!教室の人気者です。


矛盾から生まれる「かけがえのないもの」 2

2017-03-30 14:12:21 | 日々思うこと 雑感

これまでの経緯について、マイコ雑記のマイコさんが、わかりやすい記事を書いてくださっています。

「子どものために」から生まれる矛盾に気づき・考え・行動し続ける大切さ、奈緒美さんの記事に寄せて

ウェブ上に、拡充学習や創作活動のアイディアのデータベースを作ろう、という話が

持ち上がっているという話を書きました。

 

 

虹色教室通信でも、これまで、微力ながら、そうした学びや創作の

アイディアを提供してきましたが、

そうした一方通行の情報発信だけでは、十分でないことを実感してきました。

 

ウェブでアイデアを見てもらって、教室で実際に体験してもらって、

ユースホステルでのレッスンのようにゆったりと過ごせる場で、じっくりと話しあいを繰り返し、

長い期間、子どもの育ちを見守った上で、ようやく

子ども自身がいきいきとその子らしさを発揮し、

自主的な学びを身に着けていく姿を目にしてきましたから。

 

もし、ウェブ上で、同じ思いを抱く方とそうした場作りをしていくとしたら、

情報を提供する場も、情報を目にする人も、取り組みに関わった子も、

それぞれが、「自己組織化」していくようなものに……とイメージしています。

 自己組織化とは、自律的に秩序を持つ構造を作りだす現象のことです。

 

自己組織化していくような活動にするということは、

情報を提供する側も受け手も、参加する子どもたちも、

毎回、「やってみたい」という内なる動機で参加できて、

子どもも大人も体験し、発言することで、

視野が広がり、観察眼が育って、学びが蓄積されていき、

それぞれが自分の力で学びの環境を作り出せるようにすることです。

 

こうした場に参加するすべての人が自己組織化のイメージは、これまで

何度か工作のワークショップを開いた際に、

子どもたちといっしょに、他の子の作品を見て回る時間から得たものです。

前回、再アップした

子ども自身の見る目を育てる 気づく力を養う

ワークショップでは、最後に他の子の作品を見て回りながら、

「この作品のすばらしいところはどこだと思う?」

「面白いところ、工夫しているのは、どこだと思う?」とたずねて、

口々に気づいたことを言い合います。

一見したところ、スルーしてしまいそうな魅力であっても、

「これは、こういう問題を、こんな方法を使って解決している」とか、

「これは、もしかして、こうしたらこうなるんじゃないか、と試してみたのね。」とか、

「この材料の使い方は、すごい」とか、「こういう方法で作ると、他にもこんな場面で使えそう」

「この作品で、磁石のこういう力が使われているのね」などと、できるだけ具体的に、

お互いの学びを深められるようにしています。


そうした見る側の能力が高まると、作り手の子どもは、

自由に自分自身の興味を探求しやすくなり、

場にフローの状態が生まれやすくなります。

 

そうした「作るのが楽しい」「学ぶことが面白い」というフロー状態が、

ただ、面白かったで終わらずに、お互いの成長を促進していくには、

参加している子は、今の自分のブームにドップリ浸かっていられる状態を作る一方で、

次のような工夫が必要なのかもしれません。

 

場としては、「問題疑問、仮説、手段、材料、内容、結果、結論、展開」といったものを

ていねいに押さえて、常に、アイデアのバトンタッチをしながら、

内的基準を創り上げていこうていこうという循環があるということです。

 

 

ウェブ上で、拡充学習や創作のアイデアを載せるにしても、

ひとりの人が発表して、

それを見た人が、「わたしはそのアイデアをちょと発展させてこんなことしました」

「わたしは、こうやって、この部分の問題を克服しました」と

いったひとつのアイデアがどんどんつながっていけるような形があったり、

どこまでも、マイペースで、「自分がやりたいようにつきつめている」という

世界感のようなページもあったりする場はどうか、と思っています。

教室内では、ピタゴラスイッチ作りなどで、そうした循環が起こっています。

 

それには、アイデアを発表しやすい掲示板的な場を設けたり、

作品のコメントに、自分がどの視点から発見したことを書くのか、

場に用意してある視点を表すキャラクターなり記号なりを選んでコメントできるようにしておく

といったことです。

 

ウェブ上であっても、参加者全員が、前回の記事で取り上げた

「①経験にもとづいた豊かな発想力  ②高い創造力  ③察知力

④環境の変化に対応しようとする積極性  ⑤意思決定の柔軟性」といった

人間が機械より優れている点とされる強みを、十分に発揮し、
 
それを伸ばしていけるようにできないかな、と考えているのです。
 
 
教室では、「わたしはやらないよ。」「何もしたくないし」なんて毒づいている
 
高学年の女の子も、結局はわくわくする気持ちに負けて、
 
夢中になって参加しているような状態が常にあります。
 
そんな風に、人が思わず、参加せずにはいられないような場面というのは、
 
案外、創れるものだと、体験の中で感じています。
 
ハードルが低くて、すぐにできそうなのに、五感が求めるような面白さがあったり、

 未知の部分を含んでいて、好奇心をそそられるようなものだったり、アイデアがひらめいて、思わず自分を表現したくなる

ようなものだったりするのです。

子どもたちは、自分の弱い面も含めて、出してみて、認められたいと感じているし、表現することで自分を知りたいと

思っています。

それまで評価に傷ついてきた経験を、新しい経験で塗り替えたいとも。

創作活動にしても、拡充学習的な学びの活動にしても、それが自己イメージの刷新となる時、

子どもは本気を出します。


大人にしても、欠点と思われていた部分も、それまで失敗の原因だった面も、

創造性というものを通して表現すると、結局、

それが何よりも自分の強みだったことに気づくことはあると思うのです。

そうした自発的な学びや創作活動を通じての変容の体験について、

先日のチャットの場で、「子供も大人も、自分の殻を自分が破りたいと心の底から思うとき、

本気になれるのかもしれません。そのとき力になるのは、

それまで自分がだめだと思っていたところを、新しい形で使ってみること。」とおっしゃった方がいました。

また、「突き動かされたように、以前の経験を含めた自分から一歩前に進むことに

夢中になるとき、創造性を発揮しているということですね。」という声がありました。

↑ 折り紙の兜を紙コップにかぶせて、合戦ごっこ。

↓ 息子がまだ小学生だった頃、新聞に投稿して載せていただいた文章です。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<なぜチームが勝ち始めたか>

「ドッチボールでね、このごろぼくたちのチームが勝っているだよ」
4年生になる息子がうれしそうに打ち明けた。
聞くところによると、ずいぶん長い間、
息子のチームは、機敏で力のある子が多い相手チームに
連敗してきたらしい。
それが最近、勝ち始めた理由は、
「向こうのチームはね、下手な子が拾ったら、すぐに
うまい子にパスする作戦なんだ。
だから、いつも強くて速いボールが飛んできて、
負けてた。
でも、ぼくのチームの子は下手な子が拾っても
その子が投げていたんだ。」
「でも、何度も何度も投げるうち、下手だった子も
少しずつうまくなって、
今じゃ逃げていた女の子も、ボールを取りにいくぐらい
なんだ。
数人のすごく強い子より、皆のやる気!」
子どもは子ども同士、群れて遊ぶなかから、
さまざまなことを学ぶのだな、と実感した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



子ども自身の見る目を育てる 気づく力を養う

2017-03-29 17:56:24 | 工作 ワークショップ

毎年、京都で開催している工作のワークショップの話題です。(過去記事です)

 

子どもたちと他の子の作品を見てまわる時間のこと。

それぞれの作品の前で、

「この作品のすばらしいところはどこだと思う?」「面白いところ、工夫しているのは、どこだと思う?」と

たずねました。、子どもたちから、「ここでしょ!」「あそこ!」「こういうところがすごい」「こんなところを工夫している」

と次々声があがりました。

未完成に見える作品も、目立たない地味な作品も、見たところ他の子の模倣にしか映らない作品も、

そこにある長所を探す目で眺めたとたん、

たちまち、その作品にしかない独創的な魅力が輝きを放ち出すから不思議です。

 

個々の作品の『動き』や『形』に潜んでいる科学的なものや数学的なものが、

「次はそのアイデアをどう発展させようか」という

ワクワクの火を子どもたちの心に灯していくのがわかります。

上の写真の作品のすばらしい点と問うと、

子どもたちは、ビー玉の滑って行くスロープのひとつひとつが

つるっとした素材、ざらざらした素材、パリパリした素材、ガタガタガタした素材、さらっとした素材などに

見た目も美しく貼り分けられている点に気づきました。

見ると、ビー玉スロープを受ける部分も、異なる素材で異なる形に作られています。

 

たいてい、違いを生み出す時には

色分けして視覚的な違いを出す場合がほとんどです。

でも、ざらざらガタガタといった触った感じからくる違いを意識して作品を作ると、

ビー玉の滑り方、滑る速度、滑って行く時に出る音などに

違いを出すことができるのです。

 

触感の違う素材は、「探すこと」と「作ること」の

ふたつの方法で集められています。

ガタガタした触感を作るには、「紙を階段状に折ればいい」といった

あたり前のような発見は、

探すことに行き詰った時、「作る」に転換することができる知恵につながります。

 

今回、ビー玉迷路を作る方法をお手本で示したのですが、この作品では、

「ビー玉の通って行くコースはひとつだけ」という先入観を打ち破る

面白いアイデアが使われています。「ふたのある箱」という形もうまく活用されています。

子どもたちが、そうした基本の応用させる

コツをこうした目に見える作品から学べるように

言葉を添えています。

 

写真の作品の良いところをたずねると、

子どもたちは、引き出し式の箱で作ったビー玉用エレベーターや

箱を切って作ったビー玉を飛ばしたり移動させたりする道具を指さしました。

どちらも今回、作り方を説明したものではあるのですが、

実際、自分で作るとなると難しい個所がたくさんあったでしょうに、上手に作っています。

わたしは子どもたちを土台に使われている紙に注目させました。

薄手の画用紙を土台としているので、最初から形が整っている箱のふたや段ボールを

使うよりも見栄えが悪いのです。

でも、「紙の端を折って立体にする」というアイデアは、紙さえ継ぎ足せば、どんなに大きなサイズでも

作れるという利点や簡単に壁面の高さを変えられるという利点、

材料が足りなくても自由自在に自分のアイデアを

実現できるという利点があってすばらしいのです。

また、このように紙を折って立体を作る作業は、

算数の世界の気づきにもつながります。

そうした発見を面白いな、と味わうことができる間を大事にしています。

 

この作品は小2の子が全て自分で作ったものです。そのように子どもが自分で

作った作品は、ビー玉を転がした時の面白さがしっかり追求されているところが

すばらしいです。

遊ぶと面白いこと。それはとっても大切です。

 

『ようちえん』という作品。

箱やストローやペーパータオルの芯などを

ダイナミックに貼り合わせて作った作品です。

作る作業を心から楽しんでいたことがわかる出来栄えでした。

 

子どもたちに「この作品のどこがすばらしいと思うかたずねると、

下の写真のように牛乳パックの先を切り抜いて色付けしている部分と

幼稚園の建物中貼りめぐらされているストローを指しました。

 

写真ではわかりにくいのですが、

牛乳パックの口の部分は三角形の山折り谷折り線が入っているので、

科学館のプラネタリウムの天井部分やミラーボールのように

近未来的な建物を思わせる美しさが感じられるのです。

「三角と三角でできている建物の屋根はかっこいいね。

これは何でできていると思う?

何を使うと作ることができるでしょう?」とたずねると、

みんな目を丸くして考え込んでいました。

正解した子と作品を作った男の子はとてもうれしそうでした。

牛乳パックの口の付近にどうして三角形の折目が入っているのか、

実際に空の牛乳パックを切って考えてみると、子どもの探究心を刺激してくれます。折り方によって

ひっこんだり、飛び出したり、開いたり閉ったりするのですから。

 

この後、子どもたちが自分の作品の一部を指して、「これは何で作ったでしょう?」という

クイズを出して楽しむ姿がありました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これも小2の子が自分ひとりで作った作品です。ストローで作った迷路は

まばらで、スロープはストーローだけでできていますから、ちょっと手を抜いて作ったようにも

見えます。でも、実際にビー玉を動かす過程を実演してもらうと、

「こういう風にしたい」という目的のもと、

何度も試行錯誤を重ねてできた作品であることがうかがえました。

作品見物に集まった子どもたちに、

「この作品のどこがすばらしいと思う?」とたずねると、

いっせいに乳酸菌飲料の容器に銀色の紙を貼ったものを指さしました。

 

どうしてそれが子どもたちにすばらしいものに見えたのかというと、この容器には

ひもがついていて、それをひっぱると容器が段差で傾いてビー玉が飛び出すのです。

おそらく容器にひもをつけただけだと段差で傾けることができなかったのでしょう。

ひもは土台に貼ったストローを通してから引っぱる仕掛けになっていました。

ひもをつけて引くだけでは思うような動きにならなかったので、

工夫を凝らしたようです。

 

ストローだけのスロープは、ビー玉のサイズより幅を狭くするとちゃんと機能します。

新しいとてもいいアイデアですね。

 

ティッシュの空き箱のベッドに寝かされた5人の赤ちゃん。

トイレットペーパーの芯に目と口が描かれているだけなのに、

何ともいえない可愛らしさ。

「あっかわい~」という声が漏れていました。


水が流せるトイレ

2017-03-28 23:22:08 | 工作 ワークショップ

小2のAちゃんの力作。

水が流せるトイレです。

水玉風船用のポンプを押すと、トイレに水が流れます。

白いビニールテープを貼りまくって作った便座。

水を流す仕組みの基本は、空気を送り込むを水が噴き出す『水でっぽう』です。

ペットボトルのふたに穴をふたつ開けてストローを通し、

一方のストローは水の中に浸かる長さにし、もう一方は短くします。

短いストローに空気を送りこむと、空気が増えることで水が押されて、

水に浸かっているストローの先から水が噴き出ます。

そのストローをトイレの内部に差し込んでいます。

 

教室では、水遊びアイデア合戦が、まだしばらく続きそうです。


創造力と成長と

2017-03-25 21:32:40 | 通常レッスン

過去記事です。


先日、小1の★くんのお母さんから、次のような報告をいただきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最近 テレビを購入しました。
いろいろな機能がついているのですが、取扱説明書は厚く読むのも抵抗があり設置された状態でいます。
★はテレビの機能が気になりますが
母がほっておくので、いっきに300pを超える
取扱説明書を読み教えてくれました。

「テレビにUSBでハードディスクを繋ぐと録画できるよ・無線ランのUSBをテレビにつけるとインターネットもできるんだよ・テレビチューナーを使い録画するとデッキにデジタル録画できるよ」と。

エレキットの工作を一人で完成させ、
キロボを作りそのプログラムを書き換え
自分の思うままに動作させたい・ボールを
追いかけさせたい等、
取扱説明書と常に向かい合ってきたことで
300Pを超える取扱説明書も抵抗が無いのでしょうね。
母がずぼらな事も役立っているのかも……。

1年生で読める漢字が限られている中で分厚い取扱説明書に立ち向かうことが
できるのは、簡単に答えを求める学習をしてこなかったことが作用していると
考えています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

★くんのお母さんは、教えたり強制したりせず、本人がやりたがることを適度な枠組みを設けながらやらせてきました。

好奇心旺盛で何でも自分の目で見て触れて考えたい★くんのために、何よりもまず体験を重視して育ててきました。
(年長さんの半ばくらいからは、本人の能力に適したワークの学習も
責任を持ってやらせていました。)

ものづくりに目覚めた★くん。
ブロックの大作作りや電子工作に燃えに燃えて、
説明書を覗き込んで必死に熱中し製作を続けていました。

★くんは、とにかく遊ぶことが大好きです。
放課後はほぼ毎日いっぱいいっぱいまで外で遊んでいます。
外で遊ぶことで、たくましさ、集中力、根気、機転、リスクを背負って立ち向かう心などが育ってきています。
とにかくエネルギッシュなのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教室では科学クラブの子たちが、毎月、理科工作を楽しんでいます。
ものづくりを通して、高い思考力と観察力、ねばり強さ、知恵などが
身についてきました。
新しいメンバーが加わると、最初の1,2回は、その子だけが、「えー自分で作るの?」「何もしたくなーい」「めんどくさーい」とぶつぶつぼやいては友だちにちょっかいを出しているのですが、
見守っていると、友だちと親しくなるにつれ、お互いの知恵をしぼって
「あーでもない、こうでもない」と自分の手で作っていく作業に夢中になっていきます。
そして、3ヶ月目には、その子らしい個性的な好奇心や長所が、
はっきりあらわれてきて、「自分はこれがしたい」「こんなことがしたい」という気持ちで、製作や実験を楽しみはじめます。
4~5人のグループで親しさが増していく様子を見守っていると、
「子どもって、どんなおもちゃより、旅行よりも、友だちなんだな」
「子どもが好きな遊びは自分で知恵をしぼって、自分でやってみることなんだな」と感じます。


0歳児の個性

2017-03-24 19:46:51 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

0歳8か月のAくんのレッスンの様子です。

Aくんは人が大好きなよく笑う赤ちゃんです。

まだ0歳の子たちも、その子とだけじっくり関わると、好みも遊び方も

その子ならではの個性がはっきりあるのがわかります。

 

教室に着いたAくんは、前回、3歳のお兄ちゃんが遊んでいたバンジーコイルを

見上げては、声をあげていました。そこでAくんが扱いやすいように

バンジーコイルをいくつかつなげて

紙コップをつけてあげると、やわらかいバネを引っ張って上機嫌で遊びだしました。

最初のうちは引っ張る手ごたえを楽しんでいましたが、

次第に自分が引っ張っているものがどこに

つながっているのか気にしはじめ、バネをたどって天井近くに視線を

投げかけていました。

 

Aくんは知的好奇心が豊かな赤ちゃんのようです。

AくんとErster Obstgartenn という幼い子向けのゲームのコマを出して

遊んでいた時のこと。

サイコロのカラスの面を見せてから、サイコロを転がして見せると、

拾いあげたサイコロを上手にゆっくり手で回しながら、

一面一面を確かめていました。

色つきの紙コップにゲームのコマのくだものを入れたり、

色のついた洗濯ばさみをつけたり、紙コップの底に穴を開けて、のぞきっこしたりして

遊びました。Aくんはわたしのすることにとても興味があるようで、

遊びの見本を見せたものは、必ず後から手を伸ばしていました。

でも、うまく真似できないとなると、いったんそれを口に入れて舐めてみて、

少しすると、こちらの顔をまん丸い目で覗き込んで、再度、真似っこにチャレンジしようしていました。

Aくんが熱心に遊んでいた、回転させてボールを下に落としていくおもちゃです。

 

上のくぼみにガチャポンのカプセルを入れてみせると、

Aくんも自分でガチャポンのカプセルをくぼみに入れたがりました。

まだ指が自在に扱えないのですが、わたしの手からカプセルを受け取って、くぼみの方へ持っていこう

として真剣そのものでした。

こうした遊びをする時、とても真剣で集中力があります。

また、「こういう風にしたい」という目的をしっかり持ち続けることが

できるようです。

Aくんとハリガリゲームを出して遊びました。

わたしが考えた適当な遊び方です。

「いちごがでるかな?」「いちごかな?」と言いながら、

カードをめくっていき、イチゴが出たら、

ベルを鳴らします。

Aくんは、わたしがベルを鳴らすたびに、真似してベルに手を乗せていました。

 

 


「作る・創る」ことを通し「考える力・創造力・自主性を育む場」

2017-03-23 22:27:10 | 教育論 読者の方からのQ&A

マイコー雑記のマイコさんが、こんな記事を書いてくださっています。

「作る・創る」ことを通し「考える力・創造力・自主性を育む場」を築くというビジョンに向けて話し合い

興味のある方はぜひリンク先に飛んでみてくださいね。


見えないものが見えるように 触れられるように おわりです

2017-03-22 13:36:14 | 教育論 読者の方からのQ&A

わたし 「お母さんは今やっている仕事が好きだし、自分にあっていると思う。

それに、小さい教室で自由がきくからこそできることがあるって感じてる。

算数や工作を教える時には、経験からくる慣れや自信を持ってもいるわ。

でもね……。

 

このところ時間がなくて休みがちだけど……

教室でやったことや気づいたことをブログに記録しているでしょ。

飽き性でコツコツ続けるのが苦手だから、持続しているってものが見える形で残る

だけで満足というのもある。

それに何より、ブログをコミュニュケーションツールにして、

アイデアを伝えたり、いっしょに疑問を共有したり、意見を交換したりできるしね。

 

……そんなふうに、いいことばっかり並べながら、なんかぐちぐちと言いたいような

煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろう

なってことなのよ。

だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と一目でわかる

形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。

 

ただ、このまま放っておくわけにいかないって焦ってもいるのは、

パッケージ化された体験がどんどんあたり前になりつつある、という事情もあるの。

お母さんの教室も、

『活動とそれをしたらどんないい結果を得られるか、先々どう役立つか』という視点で、

どんなパッケージを提供してくれるんですか、と暗にたずねられているように感じる

ことが増えてる。

それに対して、相手が満足するような答えを返すことはできるし、

たいてい、相手に満足する結果を手にしてもらうこともできはする。

教えることは得意だし、工夫しながら微調節を繰り返してきた仕事でもあるから。

それが、さっき、いい面も悪い面も、外にあるものとしても、

教室内の課題としてもパッケージ化された体験を意識しながら仕事をした、

と言った理由。

 

最近は、赤ちゃんからスタートするプリント学習の教室とか、

3年保育といわずもっと幼い時期からの集団保育も珍しくないから、

家庭での体験の先に集団生活があるんじゃなくて、

集団生活のために家庭が待機場所としてあるように見える子もめずらしくないの。

だから、お母さんは、教室といったって、家庭や近所の大人や友だちとの関わりや

会話や活動に近いものを目指したいのよ。

 

でも、それは自分のしていることの質を考えないことではないの。

外から見ると、行き当たりばったりで、漠然と時間を過ごしているように見える時も、

その状況で追える最善を考えてはいるから。

ある面、質を高めるほど、気づくことが増えるほど、

自分が扱えるものの種類が増えるほど、

こういうことをしています、とひとことで表しにくいところがある。

その一方で、細かいことに配慮するほど、相手が気づきにくいものを提供しているわけで、

わかりやすい説明が必要になってくるのにね」

 

わたしの自分でも整理のついていない愚痴もどきを聞いた息子は、

「あーお母さんが教室でしているのは、何かのメソッドって感じじゃないからなぁ」

と言って笑いました。

 

息子 「ほら、何かをマスターさせるための教授法じゃないよね。

それに、朝食を食べると授業に集中できる、とか、自然と触れ合うべき、

外遊びは頭にいい、とかいった正しいと思う考えを実践していくのとも違うよ。

じゃあ、何をしているのかというと、相手に見えなかったものを見えるようにしたり、

感じられるようにしたり、触れられるようにすることじゃないかな。

 

算数の表とか、まわりの長さとか、旅人算は何を計算しているのか、とか

マス目の入った数字の羅列やプリントに印刷された線や公式という名前の

暗記物にしか見えなかったものを、

日常の感覚で直観的に把握できる形に変えることとか。

工作にしても、おもちゃとか身の回りにあるものの内部の動きを可視化させて、

子どもが自分の考えを目で追えるようにすることが目的になっているしさ。

お母さんたちの相談に乗るとしても、

カウンセリング的な役割を果たしているのではなくて、

子どもについて見えなかった面が見えるように手助けしているんだと思うよ。

子どもを知るためのパラメーターの種類がやたら少ない人がいるから」

 

わたし 「パラメーターの種類が少ないってどういう意味?」

 

息子 「能力値を体力10、集中力8 みたいに表したらって例えだけど、

○○ができる能力とか、スポーツ教室の級みたいに

すごく少ないカテゴリーでしか自分の子どもを把握していない人がいるってことだよ」

 

わたし 「ああ、わかったわ。

それと、★の話を聞いて、自分が教室でしていることをひとことで表すと、

確かに、見えないものが見えるように、触れられるように……ってことだなと

いうことも。でも、それを自分のしていることとして、ひとことで説明するのは

無理そうだけどね」

 

 

(星雲を作っています♪)

 

わたし 「『見えないものを見えるように手助けする』のも、ずっと続けていると、

見えない理由はいろいろで、見えるようにするにはどうすればいいのか……

それに相手の子の頭や心がちゃんと乗っかるようにするってことへの答えが、

『見えるようにさせていく過程』では『外からはほとんど見えない』ってものも

出てくるの。正しい答えというより、経験からくるお母さんの勘が答えだとつかんで

いるものの話だけど。

 

自閉圏の子たちと関わる時には、

特にそういうややこしい『見えなさ』を相手にすることになるわ。

共同注意が難しい子と体験を共有するには、

いっしょに同じものを見るようにする工夫だけじゃ足りないから。

 

共同注意っていうのは、『わたしはこれを見てます!』ってことを相手にわからせて、

自分が見ているものに対して取ってる態度を相手と共有することよ。

『わたしはこれに注目している!』ということを相手が理解して、

それへの態度を共有するってことでもある。

自閉症スペクトラムの子たちは、程度の差はあるけど、それがすごく難しいのよ。

頭がとてもいい子であっても。

 

だから、お母さんは、ただ見るのではなく、

自分の目に見えたものがこちらにも見えているのか

確認するような気持ちが生じるようなシーンを作ったり、

見えているものを、その子も『先生も見てるな』って気づいた上で、

お母さんがそれをどう思っているのかを参照にしたくなる場面をごっこや人形劇や

工作のプロセスで作ろうとしているの。

難しいようで、あらゆる活動で、そこにフォーカスすることで、たいてい成功しているわ。

どのような活動がそうした状況を生むのか、経験を蓄積しているし、

お母さんには、いつもその際が見えてもいる。

 

でも、さっき言った『見えるようにさせていく過程』で、

何に働きかけているのか、何が起こっているのかは、

『外からはほとんど見えない』ということが足かせになって、上手くいかないことが

結構あるの。

すると、お母さんの仕事のほとんどは、子どもに対してどうする、というより、

見えない時期に親御さんの辛抱をどうやって保ってもらうかになってくるわ。

というのも、共同注意が難しい子のお母さんは共同注意が難しい方もいて、

子どもの姿を共有するのが大変なケースも多いから。

 

だから、あれこれ経て、子どもの困り感が激減した時、

何をしたからよかったということより、

子どものお母さん(親御さん)の『見えなさ』に寄り沿い続ける根気の良さというか、

ただただ歩き続ける姿勢のようなものへの尊敬の念だけが自分の中に余韻のように

残っている気がするの。

わたしの言うことやすることをずっと信じてくれた……というんじゃなくて、

ただただいっしょに、一人の子、一人の人間に近づこうとして、

寄り沿い続けてきたという事実が響いている感じがあるのよ」

 

息子 「見えないものを見えるようにする作業は、ほんと、いろいろだよね。

話が変わるけど、『虚数』ってあるじゃん。

負の数の平方根なんて、架空の現実の世界じゃ意味を持たないもの、

役に立たない想像上の数って思われがちだし、実際、ぼくもそう感じていたんだけどさ。

でも、このところ、電気系統をあれこれいじってると、

回路では虚数が役立っているところが見えるというか……

虚数が可視化できているわけじゃないし、虚数計算した値が目に見えているとは

言い難いんだけど、虚数を使って実態のあるものの動作の現象を目にできることに

感動したんだ。

実際には、1、2、3……と見て確かめられると信じられている数にしても、

数自体が目に見えているわけじゃないから、数学と現実の見える世界の関係は面白いよ」

 

 

河合隼雄先生と大江健三郎先生の対談で、大江先生が、こんなことをおっしゃっていました。

「小説家のイマジネーションというものは、いわば不思議なもので、

読者とわれわれ書き手とが断絶しているところと、

その上でこちらで起こったイマジネーションの作用が、

向こうでむしろこちらより深いような共鳴現象を起こしているということを

感じ取る場合がありますよね(省略)」

 

『見えないものが見えるように 触れられるように』は家でのおしゃべりを

記事にしたもので、小説家の文章とは違うけれど、

この記事にいただいたコメントを読んで、この大江先生の言葉が浮かびました。

この記事の締めくくりにいただいたコメントを紹介しますね。

(非公開のコメントには、コメント主さんの親としての視線の確かさが伺えて

素晴らしいいものがいろいろあったのですが、残念ながら非公開なので

紹介できませんでした。)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここまで読んで「なるほど」とタイトルと内容がつながりました!

見えないものを見えるように」とはそういうことでしたか。

確かに、わたしから見ると、先生の立ち位置って橋をかけているんだなって

おもうことがあります。

わたしはコアな?内向直観タイプというか、普通の人があまり興味ない「見えない世界」

のことを考えるのが大好きな変わった人間ですが(もちろん霊とかそういうことじゃ

ありません…)なおみ先生は教室をやり続けることで、前線でいろんな子どもや

お母さんたちと日々接してらっしゃいますよね。

小さいといえど、教室というビジネスをやることで最前線に立って、

親子のニーズに応えている。

だからもともとの素質もあるのだろうし、立場として見えない部分と見える部分の

橋渡しをしてらっしゃるな、とすごく感じます。

わたしみたいに見えない世界どっぷりの人と見える価値観の世界に住む人とでは

全然話しが通じない、と思うのですが、なおみ先生は通訳のように

その2つの世界を行ったり来たりしているイメージです。

このブログを読んでいて発見したのは、こどもにとって「見えない世界」の栄養が

とても大事なんだな、ということ。

ただ、その2つの世界はまったく違うものだから、

見える世界に上手に対応できればできるほど、自分の中のコアなメッセージとの

矛盾にもやもやしてしまうのかもしれませんね。

わたしからするとその2つの世界を行き来しつつ、ビジネスを成り立たせている

なおみ先生の能力がすごいとおもいますが。

わたしは逆にこのブログを拝見していて、コアなメッセージがたくさんの記事に

埋もれていることで、守られている面もあるな、と感じていました。

なおみ先生が前線で進化し続けているからこその過渡期なのでしょうか。

どっちの方向に向いていくのかはわかりませんが、どちらにしても応援しています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ひとつのキーワードとしては、心、頭、感性を自由に働かせる、

それに夢中になって時間のないところまで行く、ということかなとおもいました。


そして、そういうことがなかなか難しいという状況があるということなのですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 “煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、

今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろうなって

ことなのよ。だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と

一目でわかる形にまとめてアピールするとなると、

活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。”

先生のこの考えに納得する部分はあります。

先生のおっしゃる通り、個別のニーズに応える部分の根底は同じであっても、

安易に自分たちのパターンにそのまま当てはめるてしまうのは危険だと感じているし、

昔の先生のブログと今のブログの根底は同じであっても少しずつ表現が変わって、

うまく言葉にできないですが、さらに経験が深まり、より慎重に、より鋭敏になって

きているにも関わらず、時間の変化の部分を考慮せず、安易に一辺倒に扱っては

いけないなと感じているからです。

わたしにとって先生のブログを読んで色々考えることは、

子育ての中核になっていると言っても過言でないです。

その膨大な情報の表面に現れることだけを再現することに躍起になると

本質的なことを見過ごすのではないかなと思っています。

でも無秩序な情報の中から秩序を見いだすことができれば、この膨大な情報の

一つ一つが生きてくるのではないでしょうか。

また先生の考えは先生の考えとして、一旦心にとどめて、自分の考えを展開する

ことは可能だし、私自身、できているかはわかりませんが、

のようにしているつもりです。その他の書物や他の方の考え方も同様です。

私は基本的に、多くの情報は本質的なものに近づく情報に収束させるタイプなので、

比較的混乱はないのかもしれません。確かに状況によって見えないものが

見えなくなったり、触れなくなったときは、先生の考えやその他書物、

各種のHow toなど奥底に流れる本質的なものに気付かないまま、

お手軽に表面上のやり方に固執したり、あれやこれやと試してみたりとしがち

なのかなあとは思います。

でも子どもたちと先生の様子を勉強させて頂くたびに、私も見えないものが見えたり

触れるようになってきていると実感しています。

子どもたちもたくさんの種を植え付けてもらっているなと実感しています。

これは子どもたちを表面上の評価やできるようになったばかりに焦点をあわせて

いると気付かないのだろうなと実感しています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前先生が書かれたブログで取り上げられていたブログを読ませて頂いて以来、

ブラックボックス化を意識して生活をしています。

子どもたちにブラックボックスの世界をどのように伝えていったら良いか、

私なりの方法はまだこれといってないのですが、

意識することでずいぶん違ってくると思っています。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今回の記事を読ませていただいて、

ふと去年買おうと思ったキネティックサンドのことが頭をよぎりました。

「室内用砂あそび」というキャッチフレーズで、何かのTV番組で紹介されていて

思わず欲しい!と12月の娘のBDプレゼントかクリスマスプレゼントに買おうと

思ったものです。

ただ、何故だかわからなかったんですが欲しかったのに買う気がしなかったので

結局購入しないままでした。

でも、今回の「パッケージ化されて人から与えられた体験」とか

「自分自身の体験」などの言葉を目にして、「そっかぁ、私はこれを娘に与えて

砂遊びの代用にさせるのが嫌だったんだな」…と気づきました。

お持ちの方、スミマセン。私がそういう与え方しかきっとできなかった気が

するので・・・この商品自体を批判している訳では決してないですm(__)m)

砂遊びって、どの位の水を足すと丁度いいとか土のどの部分を使えば固まりやすい

とかから始まって、土の中に何だか触りたくないものが入っていて

友達とキャーキャー言ったり、ビール瓶の割れたのを見つけて親に危ないと

叱られたり、たまたま入っていた葉っぱや棒があればそれを使ってお墓に見立てたり、

まだ出来上がってなくて後で続きをしようと思っていたのに誰かに踏まれて

壊されていたり・・・先が読めないハプニングが沢山あって、

完成してもしなくても色んな体験があって楽しかったのを覚えています。

なのに、汚れず触感もよさそうなこの新商品を見たとき、

そんな過程など全く思い出さずにうちの娘はこれでどんなものを造って、

どんな風に想像力を刺激されるんだろうと、結果にのみ興味をもってしまいました(>_

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「パッケージ化された体験」「昔も今も同じような自然があるのに、

そこに自分の頭や心を使う発想がない」「複雑なものを単純化する」

どれも本当に本当に考えさせられる内容ですね。

息子5歳は生き物の採集や飼育、逆立ち、サッカー、戦隊物、料理、折り紙、

父親の影響を受けギャンブルの予想をするなどやりたいことや好きなものが

いっぱいです。

どれも全力で取り組み、それが彼の一部になっていることがよくわかります。

この前は霜柱を延々掘りだし、氷の山を作っていました。社会的に歓迎されたり

学校教育などで受け入れられるようなものもあるし、全然そうではないものも

あるけれど、息子を見ていると、ずっと今のように、何か好きなことに全力で

取り組んでほしいと思います。

娘2歳も、植木鉢に水をやったり、風呂掃除を手伝ってもらってスポンジを渡すと、

息があがるくらい興奮して一心不乱に取り組んでいるのがわかります。

以前のブログの中に息子さんが「クラス全員が殺しあう内容にはまっている友人は、

今までの人生の中で好きなことをたくさんして生を感じるような経験が少なかった

のではないか」というような話をしているものがありました。

まさに、パッケージ化された中での体験、自分の好きなものにたっぷり取り組む

ことが少ないと、友人同士が殺しあうような内容に強烈な生を感じるのでしょうね。

私も読んだことがあるので、その感覚はわかります。

かなり多くの子どもが自分のブログや同人誌で上記のものと似たような物語を

作って発表したという話を聞いたことがあります。

今どきの子どもたちは…という論調でしたが、

子どもたちがそうするのは何故かも考える必要がありますね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新しい年を迎えて子供と向き合うなかでまたひとつ、指針ができました。

今は、物も情報も多すぎて、親も子も、ある意味流されているんだと思います。

パッケージ化された体験に満足しがち…

ハッと考えさせられました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いつも読ませていただいてありがとうございます。

最近、過去にさかのぼり必死で2010年位目?まで読ませていただいておりました。

おかげで自分の子が、感覚型ど真ん中らしいこともわかり一歩理解へ進むことが

できました。

巨大な感覚のプールの中に何やら私にはうかがい知れないものをため込んでいく

息子の姿が不可解で、反復を伴いそこに何やら価値を見出しているらしき姿が

またまた無意味に思え、「そんなゴミ情報」と切り捨て、捨てさせようとさえ

してきたこともあったと、振り返れば思います。親の自分自身も、時には感覚に

耽溺することもあるので理解できないこともないのですが、

いかにも価値のありそうなものだけを取って置かせようとするのが、

よくない選別だったかなと思いました。

まあ、どれだけ選別しても底知れぬ感覚パワーであっというまに感覚の世界を

修復してしまうことにも驚きがあったのですが、それが息子の生地なのですね・・。

それはさておき、ブログ、先生と息子さんとで交わされたお話の内容や、

日々の雑感・・などが特に面白くてつぶさに拾わせていただいております。

今回のお話も、さすが、小学三年生の時に「白い紙と鉛筆」一枚の白い紙から

全てを切り出して組み立てていかれたという、息子さんらしさを感じました。

そのとき言われた言葉がとても素敵で、ちょっと初泣きしそうになりました。



 

(今、火山ブーム♪)


リモコンロボットで課題にチャレンジ

2017-03-21 23:37:17 | 工作 ワークショップ

リモコンロボット制作セット

は、作る過程も作った後も

たっぷり遊べるおもちゃです。

今回は、小学3年生のAくんと

「リモコンだけで荷物をティッシュ箱内に移動させて、

箱を空中に持ち上げる」

という課題にチャレンジしました。

 

天井から吊らしているバンジーコイル(100円ショップ)に、

ひもつきのティッシュ箱を吊らして、ブロックにひっかけています。

リモコンロボットのアーム部分があまり高い位置まで上がらないので、うまく

ティッシュ箱に、入れることができません。

そこで、ティッシュ箱側に切り込みを入れて、

荷物を乗せる間は開いていて、吊りあがると

箱の形に戻るようにしました。

 

 

ところが問題が発生。ひもがロボットのギア部分にからまったのです。

そこで、ひもを細い紙に変えることにしました。

リモコンロボットの力で箱を押して、ブロックのストッパーを外すと、

荷物を入れた箱がポンッと空中に浮きあがりました。

 


見えないものが見えるように 触れられるように  続きの続き

2017-03-21 07:43:51 | 教育論 読者の方からのQ&A

(ひと押しで、一番下の段まで宝が落ちる仕掛け作りに知恵を絞る)

 

わたしの話を聞いて、しばらく考え込んでいた息子は、こんな言葉を返しました。

 

息子 「もっともっと上を目指して、知識を増やして、技能をマスターして……

という形で、『単純なものから複雑なものへ』と進歩していくイメージばかり

重要視されがちだよね。

子ども向けにパッケージ化された体験はどれも、単純なものをひたすら足し合わ

せていって、より複雑なものを構成していく価値観でできているようにみえる。

 

でも、実際には、それとは逆方向に

『複雑なものが単純なものに書き換えられていく』ってプロセスも、

大事なんじゃないかな。難しいものを簡単な言葉で言いかえることや

情報のダイエットをするって意味じゃないよ。

 

ほら、ブレークスルーが起こると、それまで苦労して大量の情報を使っても上手く

いかなかったことが、シンプルな新しいやり方であっさり片付くようになるよね。

一つの方法が、それまでの膨大な情報を必要としていたことが、

一瞬にして少ない情報で行われるようになるってこと。

 

そんなふうに複雑なものが単純化されることって、

一人ひとりの頭の中では、よく起こることだと思うよ。

単純なものを複雑化していくのなら、努力次第で、誰がやっても同じプロセスを

踏んで行くよね。

でも、複雑なものを単純化する時には、何に着目して、それをどう捉えたか、

どう認識したか、どう意味づけたかが関わってくるから、

人それぞれ違ってくるはず。

複雑なものをどう単純化するかは、ただ知っているのか、理解しているのかを

分けるポイントにもなると思うよ」

 

わたし 「複雑なものの単純化……。今まであまり考えたことがなかったけれど、

確かに教室の子どもたちにしても、無秩序なものから秩序を見つけ出したり、

ただ『できる』だったものを、応用のきく『わかる』の形にコンパクトに書き換える

ときがあるわ。自分で意味を作りだす力を使って。

複雑なものを単純化するプロセスでは、それぞれの子の資質や個性がはっきり

出やすい気がするわ」

 

息子 「同じものを見ていても、それをどう解釈するかは人それぞれだから。」

 

わたし 「そういえば、遊びにしろ、工作にしろ、算数にしろ、一人ひとりの子が

強く意味を感じる部分の違いは見ていて面白い。

今ある環境ですぐに評価されるものもあれば、最終的にはその子の一番大事な力と

なるはずなのに、今は無駄に見えるか、良い成果を出すのを邪魔しているものもある。

お母さんがそういう力を活かしてあげられることもあるし、

この子はこういう能力があるんだな、と心に留めておくしかできないこともあるわ。

★(息子)は、幼稚園時代から、サイコロやチップやトランプをさんざん散らかした

あとで、その並べ方や出し方の中に潜在している秩序に気づいたり、

不思議を感じる点を見つけ出したりするのが得意だったわよね。

教室にも、着眼点や秩序の見いだし方は違うけれど、

そうしたランダムに見えるものから応用のきくシンプルな気づきを得る子らは

たくさんいるわ。

遊びの世界で、子どもがそうやって自分らしい資質を使うのを見るのはうれしい瞬間よ。

考えてみたら、子ども時代、お母さんが複雑なものを単純化する対象は、

いつも目に見えているものの目には見えない部分だったわ。

★のように見えないルールというものではないんだけど。

お母さんにも、子どもの頃のお母さん独特の『複雑なものを単純化』する感性の

ようなものがあった、あった。

団地のぐるりにピラカンサっていうオレンジ色の小さな実を大量につける木が植え

られていたのをしょっちゅう眺めていたのよ。

どんな葉の形でいつごろ実がなるか、なんて、植物図鑑的な興味は微塵も持たない

まま何年も過ぎたのに、飽きもせずに眺めていたのは、

こんなことを考えていたからなのよね。

このオレンジ色の実の一つひとつが顔で、それに一つひとつ心が宿っていたとしても、

お互いに同じ根っこでつながっているなんて気づかないはず。

知らないからけんかして、相手が枯れてしまったら、

結局自分も枯れてしまうなんてことはあるのかな……といったこと。

ピラカンサを見ながら、人間の場合、地球上を移動はしているけれど、

移動しながらも地球の一部としてひっついているってことはあるのかな、とか、

星の光は長い時間をかけて地球に届いて、ずっと昔の姿を今目の前で見ることが

できると聞いたけど、心は、光と同じような性質かな、とか考えていたわ。

団地の壁に貼りついている蛾を眺める時も、蛾の模様が偶然の産物には見えなくて、

進化の過程にどうやって、意味を持った画像が取り込まれていくのか、

誰のどんな目に映ったものが、何世代もかけて美しい模様を作っていくんだろう、

とかね。

受験に役立ったわけじゃないけど、それを思い出すと、自由でのびのびした幸せな

心地になるから、教室で接する子たちには、そういうその子ならではの頭や心の

使い方の自由を守ってあげたいと思う。」