わたし 「お母さんは今やっている仕事が好きだし、自分にあっていると思う。
それに、小さい教室で自由がきくからこそできることがあるって感じてる。
算数や工作を教える時には、経験からくる慣れや自信を持ってもいるわ。
でもね……。
このところ時間がなくて休みがちだけど……
教室でやったことや気づいたことをブログに記録しているでしょ。
飽き性でコツコツ続けるのが苦手だから、持続しているってものが見える形で残る
だけで満足というのもある。
それに何より、ブログをコミュニュケーションツールにして、
アイデアを伝えたり、いっしょに疑問を共有したり、意見を交換したりできるしね。
……そんなふうに、いいことばっかり並べながら、なんかぐちぐちと言いたいような
煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、
今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろう
なってことなのよ。
だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と一目でわかる
形にまとめてアピールするとなると、
活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。
ただ、このまま放っておくわけにいかないって焦ってもいるのは、
パッケージ化された体験がどんどんあたり前になりつつある、という事情もあるの。
お母さんの教室も、
『活動とそれをしたらどんないい結果を得られるか、先々どう役立つか』という視点で、
どんなパッケージを提供してくれるんですか、と暗にたずねられているように感じる
ことが増えてる。
それに対して、相手が満足するような答えを返すことはできるし、
たいてい、相手に満足する結果を手にしてもらうこともできはする。
教えることは得意だし、工夫しながら微調節を繰り返してきた仕事でもあるから。
それが、さっき、いい面も悪い面も、外にあるものとしても、
教室内の課題としてもパッケージ化された体験を意識しながら仕事をした、
と言った理由。
最近は、赤ちゃんからスタートするプリント学習の教室とか、
3年保育といわずもっと幼い時期からの集団保育も珍しくないから、
家庭での体験の先に集団生活があるんじゃなくて、
集団生活のために家庭が待機場所としてあるように見える子もめずらしくないの。
だから、お母さんは、教室といったって、家庭や近所の大人や友だちとの関わりや
会話や活動に近いものを目指したいのよ。
でも、それは自分のしていることの質を考えないことではないの。
外から見ると、行き当たりばったりで、漠然と時間を過ごしているように見える時も、
その状況で追える最善を考えてはいるから。
ある面、質を高めるほど、気づくことが増えるほど、
自分が扱えるものの種類が増えるほど、
こういうことをしています、とひとことで表しにくいところがある。
その一方で、細かいことに配慮するほど、相手が気づきにくいものを提供しているわけで、
わかりやすい説明が必要になってくるのにね」
わたしの自分でも整理のついていない愚痴もどきを聞いた息子は、
「あーお母さんが教室でしているのは、何かのメソッドって感じじゃないからなぁ」
と言って笑いました。
息子 「ほら、何かをマスターさせるための教授法じゃないよね。
それに、朝食を食べると授業に集中できる、とか、自然と触れ合うべき、
外遊びは頭にいい、とかいった正しいと思う考えを実践していくのとも違うよ。
じゃあ、何をしているのかというと、相手に見えなかったものを見えるようにしたり、
感じられるようにしたり、触れられるようにすることじゃないかな。
算数の表とか、まわりの長さとか、旅人算は何を計算しているのか、とか
マス目の入った数字の羅列やプリントに印刷された線や公式という名前の
暗記物にしか見えなかったものを、
日常の感覚で直観的に把握できる形に変えることとか。
工作にしても、おもちゃとか身の回りにあるものの内部の動きを可視化させて、
子どもが自分の考えを目で追えるようにすることが目的になっているしさ。
お母さんたちの相談に乗るとしても、
カウンセリング的な役割を果たしているのではなくて、
子どもについて見えなかった面が見えるように手助けしているんだと思うよ。
子どもを知るためのパラメーターの種類がやたら少ない人がいるから」
わたし 「パラメーターの種類が少ないってどういう意味?」
息子 「能力値を体力10、集中力8 みたいに表したらって例えだけど、
○○ができる能力とか、スポーツ教室の級みたいに
すごく少ないカテゴリーでしか自分の子どもを把握していない人がいるってことだよ」
わたし 「ああ、わかったわ。
それと、★の話を聞いて、自分が教室でしていることをひとことで表すと、
確かに、見えないものが見えるように、触れられるように……ってことだなと
いうことも。でも、それを自分のしていることとして、ひとことで説明するのは
無理そうだけどね」
(星雲を作っています♪)
わたし 「『見えないものを見えるように手助けする』のも、ずっと続けていると、
見えない理由はいろいろで、見えるようにするにはどうすればいいのか……
それに相手の子の頭や心がちゃんと乗っかるようにするってことへの答えが、
『見えるようにさせていく過程』では『外からはほとんど見えない』ってものも
出てくるの。正しい答えというより、経験からくるお母さんの勘が答えだとつかんで
いるものの話だけど。
自閉圏の子たちと関わる時には、
特にそういうややこしい『見えなさ』を相手にすることになるわ。
共同注意が難しい子と体験を共有するには、
いっしょに同じものを見るようにする工夫だけじゃ足りないから。
共同注意っていうのは、『わたしはこれを見てます!』ってことを相手にわからせて、
自分が見ているものに対して取ってる態度を相手と共有することよ。
『わたしはこれに注目している!』ということを相手が理解して、
それへの態度を共有するってことでもある。
自閉症スペクトラムの子たちは、程度の差はあるけど、それがすごく難しいのよ。
頭がとてもいい子であっても。
だから、お母さんは、ただ見るのではなく、
自分の目に見えたものがこちらにも見えているのか
確認するような気持ちが生じるようなシーンを作ったり、
見えているものを、その子も『先生も見てるな』って気づいた上で、
お母さんがそれをどう思っているのかを参照にしたくなる場面をごっこや人形劇や
工作のプロセスで作ろうとしているの。
難しいようで、あらゆる活動で、そこにフォーカスすることで、たいてい成功しているわ。
どのような活動がそうした状況を生むのか、経験を蓄積しているし、
お母さんには、いつもその際が見えてもいる。
でも、さっき言った『見えるようにさせていく過程』で、
何に働きかけているのか、何が起こっているのかは、
『外からはほとんど見えない』ということが足かせになって、上手くいかないことが
結構あるの。
すると、お母さんの仕事のほとんどは、子どもに対してどうする、というより、
見えない時期に親御さんの辛抱をどうやって保ってもらうかになってくるわ。
というのも、共同注意が難しい子のお母さんは共同注意が難しい方もいて、
子どもの姿を共有するのが大変なケースも多いから。
だから、あれこれ経て、子どもの困り感が激減した時、
何をしたからよかったということより、
子どものお母さん(親御さん)の『見えなさ』に寄り沿い続ける根気の良さというか、
ただただ歩き続ける姿勢のようなものへの尊敬の念だけが自分の中に余韻のように
残っている気がするの。
わたしの言うことやすることをずっと信じてくれた……というんじゃなくて、
ただただいっしょに、一人の子、一人の人間に近づこうとして、
寄り沿い続けてきたという事実が響いている感じがあるのよ」
息子 「見えないものを見えるようにする作業は、ほんと、いろいろだよね。
話が変わるけど、『虚数』ってあるじゃん。
負の数の平方根なんて、架空の現実の世界じゃ意味を持たないもの、
役に立たない想像上の数って思われがちだし、実際、ぼくもそう感じていたんだけどさ。
でも、このところ、電気系統をあれこれいじってると、
回路では虚数が役立っているところが見えるというか……
虚数が可視化できているわけじゃないし、虚数計算した値が目に見えているとは
言い難いんだけど、虚数を使って実態のあるものの動作の現象を目にできることに
感動したんだ。
実際には、1、2、3……と見て確かめられると信じられている数にしても、
数自体が目に見えているわけじゃないから、数学と現実の見える世界の関係は面白いよ」
河合隼雄先生と大江健三郎先生の対談で、大江先生が、こんなことをおっしゃっていました。
「小説家のイマジネーションというものは、いわば不思議なもので、
読者とわれわれ書き手とが断絶しているところと、
その上でこちらで起こったイマジネーションの作用が、
向こうでむしろこちらより深いような共鳴現象を起こしているということを
感じ取る場合がありますよね(省略)」
『見えないものが見えるように 触れられるように』は家でのおしゃべりを
記事にしたもので、小説家の文章とは違うけれど、
この記事にいただいたコメントを読んで、この大江先生の言葉が浮かびました。
この記事の締めくくりにいただいたコメントを紹介しますね。
(非公開のコメントには、コメント主さんの親としての視線の確かさが伺えて
素晴らしいいものがいろいろあったのですが、残念ながら非公開なので
紹介できませんでした。)
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ここまで読んで「なるほど」とタイトルと内容がつながりました!
「見えないものを見えるように」とはそういうことでしたか。
確かに、わたしから見ると、先生の立ち位置って橋をかけているんだなって
おもうことがあります。
わたしはコアな?内向直観タイプというか、普通の人があまり興味ない「見えない世界」
のことを考えるのが大好きな変わった人間ですが(もちろん霊とかそういうことじゃ
ありません…)なおみ先生は教室をやり続けることで、前線でいろんな子どもや
お母さんたちと日々接してらっしゃいますよね。
小さいといえど、教室というビジネスをやることで最前線に立って、
親子のニーズに応えている。
だからもともとの素質もあるのだろうし、立場として見えない部分と見える部分の
橋渡しをしてらっしゃるな、とすごく感じます。
わたしみたいに見えない世界どっぷりの人と見える価値観の世界に住む人とでは
全然話しが通じない、と思うのですが、なおみ先生は通訳のように
その2つの世界を行ったり来たりしているイメージです。
このブログを読んでいて発見したのは、こどもにとって「見えない世界」の栄養が
とても大事なんだな、ということ。
ただ、その2つの世界はまったく違うものだから、
見える世界に上手に対応できればできるほど、自分の中のコアなメッセージとの
矛盾にもやもやしてしまうのかもしれませんね。
わたしからするとその2つの世界を行き来しつつ、ビジネスを成り立たせている
なおみ先生の能力がすごいとおもいますが。
わたしは逆にこのブログを拝見していて、コアなメッセージがたくさんの記事に
埋もれていることで、守られている面もあるな、と感じていました。
なおみ先生が前線で進化し続けているからこその過渡期なのでしょうか。
どっちの方向に向いていくのかはわかりませんが、どちらにしても応援しています。
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ひとつのキーワードとしては、心、頭、感性を自由に働かせる、
それに夢中になって時間のないところまで行く、ということかなとおもいました。
そして、そういうことがなかなか難しいという状況があるということなのですね。
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“煮え切らない気分になっちゃうのは、読む側にすれば、お母さんのブログ自体、
今日話していたような情報が増えすぎて全体像が見えないものになってるだろうなって
ことなのよ。だからといって、教室での活動を、『こういうことをしています』と
一目でわかる形にまとめてアピールするとなると、
活動のひとつひとつが個別のニーズに応えている面が大きいから難しいの。”
先生のこの考えに納得する部分はあります。
先生のおっしゃる通り、個別のニーズに応える部分の根底は同じであっても、
安易に自分たちのパターンにそのまま当てはめるてしまうのは危険だと感じているし、
昔の先生のブログと今のブログの根底は同じであっても少しずつ表現が変わって、
うまく言葉にできないですが、さらに経験が深まり、より慎重に、より鋭敏になって
きているにも関わらず、時間の変化の部分を考慮せず、安易に一辺倒に扱っては
いけないなと感じているからです。
わたしにとって先生のブログを読んで色々考えることは、
子育ての中核になっていると言っても過言でないです。
その膨大な情報の表面に現れることだけを再現することに躍起になると
本質的なことを見過ごすのではないかなと思っています。
でも無秩序な情報の中から秩序を見いだすことができれば、この膨大な情報の
一つ一つが生きてくるのではないでしょうか。
また先生の考えは先生の考えとして、一旦心にとどめて、自分の考えを展開する
ことは可能だし、私自身、できているかはわかりませんが、
そのようにしているつもりです。その他の書物や他の方の考え方も同様です。
私は基本的に、多くの情報は本質的なものに近づく情報に収束させるタイプなので、
比較的混乱はないのかもしれません。確かに状況によって見えないものが
見えなくなったり、触れなくなったときは、先生の考えやその他書物、
各種のHow toなど奥底に流れる本質的なものに気付かないまま、
お手軽に表面上のやり方に固執したり、あれやこれやと試してみたりとしがち
なのかなあとは思います。
でも子どもたちと先生の様子を勉強させて頂くたびに、私も見えないものが見えたり
触れるようになってきていると実感しています。
子どもたちもたくさんの種を植え付けてもらっているなと実感しています。
これは子どもたちを表面上の評価やできるようになったばかりに焦点をあわせて
いると気付かないのだろうなと実感しています。
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以前先生が書かれたブログで取り上げられていたブログを読ませて頂いて以来、
ブラックボックス化を意識して生活をしています。
子どもたちにブラックボックスの世界をどのように伝えていったら良いか、
私なりの方法はまだこれといってないのですが、
意識することでずいぶん違ってくると思っています。
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今回の記事を読ませていただいて、
ふと去年買おうと思ったキネティックサンドのことが頭をよぎりました。
「室内用砂あそび」というキャッチフレーズで、何かのTV番組で紹介されていて
思わず欲しい!と12月の娘のBDプレゼントかクリスマスプレゼントに買おうと
思ったものです。
ただ、何故だかわからなかったんですが欲しかったのに買う気がしなかったので
結局購入しないままでした。
でも、今回の「パッケージ化されて人から与えられた体験」とか
「自分自身の体験」などの言葉を目にして、「そっかぁ、私はこれを娘に与えて
砂遊びの代用にさせるのが嫌だったんだな」…と気づきました。
(お持ちの方、スミマセン。私がそういう与え方しかきっとできなかった気が
するので・・・この商品自体を批判している訳では決してないですm(__)m)
砂遊びって、どの位の水を足すと丁度いいとか土のどの部分を使えば固まりやすい
とかから始まって、土の中に何だか触りたくないものが入っていて
友達とキャーキャー言ったり、ビール瓶の割れたのを見つけて親に危ないと
叱られたり、たまたま入っていた葉っぱや棒があればそれを使ってお墓に見立てたり、
まだ出来上がってなくて後で続きをしようと思っていたのに誰かに踏まれて
壊されていたり・・・先が読めないハプニングが沢山あって、
完成してもしなくても色んな体験があって楽しかったのを覚えています。
なのに、汚れず触感もよさそうなこの新商品を見たとき、
そんな過程など全く思い出さずにうちの娘はこれでどんなものを造って、
どんな風に想像力を刺激されるんだろうと、結果にのみ興味をもってしまいました(>_
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「パッケージ化された体験」「昔も今も同じような自然があるのに、
そこに自分の頭や心を使う発想がない」「複雑なものを単純化する」
どれも本当に本当に考えさせられる内容ですね。
息子5歳は生き物の採集や飼育、逆立ち、サッカー、戦隊物、料理、折り紙、
父親の影響を受けギャンブルの予想をするなどやりたいことや好きなものが
いっぱいです。
どれも全力で取り組み、それが彼の一部になっていることがよくわかります。
この前は霜柱を延々掘りだし、氷の山を作っていました。社会的に歓迎されたり
学校教育などで受け入れられるようなものもあるし、全然そうではないものも
あるけれど、息子を見ていると、ずっと今のように、何か好きなことに全力で
取り組んでほしいと思います。
娘2歳も、植木鉢に水をやったり、風呂掃除を手伝ってもらってスポンジを渡すと、
息があがるくらい興奮して一心不乱に取り組んでいるのがわかります。
以前のブログの中に息子さんが「クラス全員が殺しあう内容にはまっている友人は、
今までの人生の中で好きなことをたくさんして生を感じるような経験が少なかった
のではないか」というような話をしているものがありました。
まさに、パッケージ化された中での体験、自分の好きなものにたっぷり取り組む
ことが少ないと、友人同士が殺しあうような内容に強烈な生を感じるのでしょうね。
私も読んだことがあるので、その感覚はわかります。
かなり多くの子どもが自分のブログや同人誌で上記のものと似たような物語を
作って発表したという話を聞いたことがあります。
今どきの子どもたちは…という論調でしたが、
子どもたちがそうするのは何故かも考える必要がありますね。
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新しい年を迎えて子供と向き合うなかでまたひとつ、指針ができました。
今は、物も情報も多すぎて、親も子も、ある意味流されているんだと思います。
パッケージ化された体験に満足しがち…
ハッと考えさせられました。
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いつも読ませていただいてありがとうございます。
最近、過去にさかのぼり必死で2010年位目?まで読ませていただいておりました。
おかげで自分の子が、感覚型ど真ん中らしいこともわかり一歩理解へ進むことが
できました。
巨大な感覚のプールの中に何やら私にはうかがい知れないものをため込んでいく
息子の姿が不可解で、反復を伴いそこに何やら価値を見出しているらしき姿が
またまた無意味に思え、「そんなゴミ情報」と切り捨て、捨てさせようとさえ
してきたこともあったと、振り返れば思います。親の自分自身も、時には感覚に
耽溺することもあるので理解できないこともないのですが、
いかにも価値のありそうなものだけを取って置かせようとするのが、
よくない選別だったかなと思いました。
まあ、どれだけ選別しても底知れぬ感覚パワーであっというまに感覚の世界を
修復してしまうことにも驚きがあったのですが、それが息子の生地なのですね・・。
それはさておき、ブログ、先生と息子さんとで交わされたお話の内容や、
日々の雑感・・などが特に面白くてつぶさに拾わせていただいております。
今回のお話も、さすが、小学三年生の時に「白い紙と鉛筆」一枚の白い紙から
全てを切り出して組み立てていかれたという、息子さんらしさを感じました。
そのとき言われた言葉がとても素敵で、ちょっと初泣きしそうになりました。
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(今、火山ブーム♪)