虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

プログラミン

2011-01-31 18:58:40 | その他
文部科学省のホームページで、
プログラミン
というプログラミングソフトで遊べるようになっています。

幼い子たちも遊べて楽しい作りです。

うちの子も小さいころ、『キッドピクススタジオ』というこれによく似たソフトで遊んでいました。
ただ、こうした簡単に遊べてしまうおもちゃ風のプログラミングソフトは、どうしてもあちこちいじっただけで飽きてしまいがちなので、
取っ掛かりは地味に見えるハイパーカードやRPGツクールの方が、何か制作しはじめると楽しかったようです。

子どもに何か与えるときは、即楽しめるものだけでなく、
自分の想像力や思考力や創造性で補いながら遊ぶ
シンプルで地味な遊び道具も十分用意してあげることが大切だと思います。



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おみくじ

2011-01-28 19:19:28 | 国語
小1の★くんがお家で『おみくじ』を作ってきてくれました。
(文の内容の記憶が正確でないのですが……)

大吉 なにをしてもせいこうします。ねがいごとがなんでもかないます。りょこうにいくとよいでしょう

凶 ともだちとけんかになりそうになったら、ぐっとがまんしてやさしいきもちでせっしましょう。どうぶつをかわいがるといいことがあります。

など、ひとつひとつにていねいなアドバイスが書いてあります。
『いわぬがはな』などのことわざや慣用句も書いてありました。

★くんは、
「お母さんが引けばいいな」と言いながら、

凶 あかんことをしてもすぐにおこらないようにしましょう。
『たんきはそんき』

というおみくじを作ったそうです。

おませな3歳の妹さんにいつもとっちめられているので、
「妹が引けばいいな」と言いながら、
「2、3さいのときから、わるいことばづかいをしないようにしましょう。」
というおみくじも作っていました。

「おみくじの箱は6角柱ね。どうやって作ったの?」とたずねると、
お菓子の箱をばらして、その展開図を参考にして作ったそうです。
いいアイデアですね。

今日からクレパス絵画展をしています♪

2011-01-28 15:55:16 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

今日からフリーギャラリーI HAVE A DREAMでクレパス絵画展をしています。

開催期間は、次の2週間です。
2011年
1月28日(金)~2月16日(水)
【2月5日(土)は休館日】
11:00AM~5:00PM

私は、土日と祝日の11時半~5時の間、ギャラリーにいる予定です。
(2月5日はお休みです)

地図は、
コチラです。
新大阪センイシティーの近くです。

(JR新大阪駅からお子さん連れでいらっしゃる場合、歩いて15分はかかるのでタクシーを利用しないと大変かもしれません。)

わざわざ足を運んでくださるという方々、どうもありがとうございます。
お会いするのを楽しみにしています。



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子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの? 2

2011-01-27 18:58:48 | 教育論 読者の方からのQ&A
喉元過ぎると熱さを忘れるものですが、 
息子の受験では高校に上るときも、かなり苦しい受験を体験しました。
息子の場合、灘には落ちたものの地元の中高一貫校に通っていたので、
入試なしで自動的に高校に上れることになっていました。
そこの高校の偏差値は70ありますし(高校から入るのは難しい学校なのです)、先生方はみな親切で教育熱心でした。それに、快活で気持ちの優しい友だちに囲まれて全てが順風満帆でしたから、
親の私は、学費の捻出でこそ悩みはしましたが、
まさかこのタイミングで受験に遭遇するとは思ってもみませんでした。

それは中3の夏のこと。
ある日、息子が意気揚々と学校から帰ってきました。
何でも、学校の先生から、すごくよい情報を聞いてきたというのです。
「うちは中高一貫校だから、高校入試は無理ってあきらめていたんだけど、
できるらしいんだ。今から半年くらいしかないけど、がんばって勉強するから、もう一度、灘を受けさせてよ」
唐突にそう切り出されて、
驚いたものの反対する理由もないので、
「それなら、がんばりなさい」とだけ伝えました。
当時、息子がいきなり受験を決意した理由は、
授業時間が長くて宿題が多い学校のシステムに、「過保護すぎる!もっと自由な校風の学校に移りたい」という不満を抱いていたことと、
単に、自分の全力をぶつけるチャレンジがしてみたいと思っていたからのようです。
確かにこの学校、宿題の量が半端じゃなかったのですが、
授業は長いし、通学に時間はかかるし、大量の宿題を済ませてから、高校受験の勉強するのは、あまりにも無茶な話のようにも見えました。
学校の定期考査や小テストの勉強もさぼるわけにはいきません。

とにかく勉強したくても時間がないのです。
それでも、寸暇を惜しんで猛勉強する息子の姿を見るうちに、
私は、どこまでがんばれるのかしっかり見届けたいという気持ちになっていました。

しばらくして、息子が先生から聞いたという情報は、ひと昔前のことか他校のことで、実際には、息子の通う中高一貫校は外部の受験をいっさい認めていなないことがわかりました。

自分の勘違いがわかった後も、いったんお尻に火がついて受験勉強に燃え出した息子は、何が何でも受験したいからと先生方を説得しはじめました。

先生方は、どんなことがあってもそれは許されないからと息子を説得し続けていました。
親の私も何度も学校に出向いて話し合いが続きました。
最初は、頭から反対していたダンナは、
どんな状況になっても必死で勉強し続ける息子の姿を見るうちに、しまいには折れていました。

そして、
「どうしても他校を受験したいというのであれば、いったんうちの学校を自主退学して、公立に転校して、そこから受験しなおしてください。
でも、うちの学校は、内申点はつけることができないので、転校先の中学でつけてもらってください」と告げられました。
文で書くと冷たく見えるのですが、この学校の先生はかなり生徒思いで、
親身になって息子の相談に乗り、本当に受験が決まると、心から応援してくれていました。

そうして、中高一貫校を自主退学して、地元の公立中にいったん編入しました。

「中3から、荒れていると噂されている地元の公立中に編入して大丈夫なんだろうか?」と気を揉みましたが、
息子は平気で、久ぶりに会う小学校のときの友だちとの再会を楽しんでいました。

公立に戻るのは、思った以上に大変で、公立中の教頭から……そんなわがままは許されないし、子どもの人生が無茶苦茶になる、
内申点はいっさいあげられないから、もしその灘がダメだったときは、かなり偏差値の低い高校を受験してもらう!
と親の私がガミガミ叱られ通しでした。

私の方も、息子の言うままにこんな無茶な受験をさせて、みんなに迷惑をかけて、これは甘やかしだろうか?
子どもの意志を尊重するといったって、もし失敗したら息子のこれからの人生を間違った方向に進ませるかもしれない……。

わがままとして息子の決意を押さえつけた方がいいのか、それとも人生の急所としてしっかり関わった方がいいのか……?
悩み苦しみました。

「受けてもいいよ」と言った時点で、
親としては、その結果に責任を持つことを覚悟しました。
苦しいときは腹をすえて、乗り越えようと考えていました。
でも実際には、これほどまでに覚悟が必要だったとは思いもしなかったし、
困難が連続して降りかかってきたときは、振り返らずにただまっすぐ進むしかありませんでした。

とにかく勉強に全力投球して臨んだ受験ですが、灘高も落ちてしまいました。
本気で受験勉強に励んでいたので、安穏と中高一貫校で過していたときより何倍も学力はついていたのですが、運は別物です。
中途の編入で内申点がゼロになるからと、学校からは偏差値が4、50の公立校を勧められました。
「それならそれで、その学校に通って独学で京大受験(息子は京大の自由な校風に憧れているのです)をするよ」と言っていた息子ですが、
運良く後期入試で、
以前通っていた中高一貫校と同レベルの学校の特進クラスに入学することができました。このときは、本当に救われた気持でした。

この受験ばかりは、親の私も大いに勉強になりました。

「親の選択で子どもがどんな困難に遭遇しても、
そのとき、誰かに責任転嫁したり、子どもを責めたり、
弱気になったり、絶望したりせずに、
しっかり腹をすえて、その現実にぶつかっていくなら、
結果がどうなっても必ず子どもの成長となる」と、身を持って知ったのです。

自分の受験を振り返って、息子はこんな言葉をつぶやきました。
「中学の友だちと離れ離れになったから、その大切さがわかったんだ。離れていても、ずっと親しい友だちでいれることもわかったし。
それに、こっちの学校でできた友だちも、すごく気が合うから、ふたつの学校に仲の良い友だちがいるのはうれしいよ。
あっちの中学は、宿題が多いといったって、先生たちはとっても甘くって、生徒たちが好きでしょうがないんだ。勉強法はぼくには合わなかったけど、中学は大好きだったよ。いつもとても大事にされていたからさ、優しい良い先生ばかりだよ。ダライ・ラマにも会えたし。(ダライ・ラマは理事長と親しいそうで、お忍びで中学に見えたことがあったのです。)
今の学校はかなりシビアだからね。
あそこにずっといたら、友だちとワイワイするのが楽しくて、いつまでも本気を出さずに甘えていたかもしれないから、やっぱり受験して良かったと思うんだ。ぼくは、どっちの学校も経験できて本当に良かった。
お父さんとお母さんには、ずいぶんお金を使わせちゃったから、がんばって働いてちゃんと返すよ。
ぼくは社会に出たら、中途半端では終わらないよ。」

めでたしめでたし……と思っている間に大学受験なので、子育てって、息つく暇がありません。
まぁ「子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの? そんなはずない……しっかり自分の人生と向き合って生きていく子に育てたらそれで十分」と、自分で自分に言い聞かせています。



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子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの? 1

2011-01-26 14:37:53 | 教育論 読者の方からのQ&A
ずいぶん前になるけれど、「大学受験」を中心とする日本の教育システムの問題を指摘して、

「大学の格差を無くして受験を廃止すると、日本の教育問題の多くが解決する」
とおっしゃっている方と、議論をしたことがあります。
当時も今も、私は賛成でもなく反対でもなくどっちつかずのままです。

この教育システムの問題は身にしみてわかるし、
確かに、日本の学校が入りやすく出にくい大学になって、
子ども時代を塾通いと受験の準備に費やしてしまう子たちが減るのは魅力的ではあります。

でも現実には、生徒が集まらなかった大学が消えたり、
大学を卒業できずに困る人がたくさん出たり、一時期の混乱ではすみそうもないので、経済的な面で実現は難しい気がするのです。

わが家は、
「子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの? 
そんなはずない。早い時期から受験準備に明け暮れて、
友だち付き合いや読書や
やりたいことが十分できないなんて、もっての他!」と、

どんなに周囲が受験に過熱していても、親子ともどもマイペースに過してきました。

うちの子たちは、受験テクニックとか受験対策なんてそっちのけで、
「目の前に山があるから登る。どうせ登るなら高い山がいい」という感覚で、
受験を体験してきました。

その結果、子どもたちの成長ぶりを見て、どの受験に対しても、
「合格しようがしまいが、やってよかった!受験勉強は苦しい面や、頭をぶつけることも多かったけど、がんばったなりの成果は得た。」という感想を抱きました。

だったら受験賛成派では?

と思った方もいますよね。

それが、やっぱり今も、賛成か反対かどっちつかずなのです。
というのも、
「受験が良い体験になった!子どもが成長した!」と、心底思えるのも、
わが家が、変わり者家庭だから……

つまり受験生のいる家庭とすると、かなりの小数派の『適当で楽天的で自由な』受験生活をさせてきたからとも言えるからなのです。

青色発光ダイオードの発明発見で世界中にその名を知られるカルフォルニア大学サンタバーバラ校の教授の中村修二氏は、
日本再生の条件で一番ネックは「大学受験」で、これを廃止すべきであるとおっしゃっています。

日本の大学受験は、「超難関ウルトラクイズ」そのもので、完全丸暗記の詰め込み勉強が不可欠。そんな将来に役に立た
ないクイズに合格するために、最も夢が多く、頭が柔軟な貴重な中学、高校時代を、無駄に過ごしていると指摘し、
このままでは世界に負けてしまうと危惧しているのです。

中村修二氏のおっしゃっていること、とてもよくわかるのです。

うちの子たちは、中学でも高校でも、呆れるほど無駄に見える時間をいっぱい過していて、旅行に行ったり、友だちと集まってゲーム制作したり、音楽に没頭したり、姉弟で麻雀に熱中したり、読書に熱中したり、絵ばかり描いていたり、料理したり、討論したり、映画を見たり、バイトしたり……そんな態度で難関校を目指すなんて、ふざけているの? と思われるような学生生活を続けてきました。
(本人たちにすると、受験勉強は受験勉強で全力を注ぎ込んでたので、
周囲を驚かすほど偏差値を急上昇させることはできたのですが……。)

その時期その時期は、「明日試験でしょ?」とヒヤヒヤしているのですが、
後になって振り返ると、勉強じゃなくてそういう無駄の中でこそ、いろんなことに感動して、自分でやってみて、自分がどんな人間か、何がしたいのかを理解しているのです。
人と人の間で揉まれて、精神的に大きく成長しているのです。
そうして、自分が将来やりたい夢をつかみ、それをやりぬくための技術やパワーを溜めているのがわかったのです。

子どもたちと話していると、それぞれが自分の人生を真剣に生きようとしている独立したひとりの人へと、この時期の体験を通じて成長しているのが
わかるのです。

でも、だからこの時期は受験なんかなくして、自由に青春を謳歌させた方がいいとも思えないのは、
娘にしても、息子にしても、
自分の計画する力や知力や根気や、だめだったとき持ち直す力を総動員して使っていかなくてはならない『受験』という
厚い壁は、
「社会に出る前のこの時期、経験しておいて本当によかった」と思えるものでもあったからです。

何度も崖から突き落とされて、自力で這い上がっていくような経験が、
外の世界で多少のことにへこたれずに、
自分の夢を追っていくためのベースとなってくれるはず……と、
受験の失敗も、それなりにありがたがってもいるのです。
(合格は、なおありがたいですけど)

ここまで書いても、受験に対する思いは、スパッとひとことで表しにくいのですが、目の前の受験に親の方がのめりこみそうなときは、
「子育てって、より偏差値の高い学校に子どもを進ませるための競技なの?」
と自分に問いかけています。

↓過去記事から、息子の中学入試体験と、受験を通して身についたものについて
紹介させていただきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わが家の事情で何ですが……
子どもが幼い頃は、経済的に何の悩みもなくのほほんと生活していたのですが、バブル崩壊のあおりを受けて、ダンナがリストラにあい、
その後は、自営業で、食べていくのがやっとの暮らしをしていました。

そこに6年生に進級しようという息子の「私立中学に行きたい」があったもんですから、まさに晴天の霹靂で、
「お母さんは入学金を何とかしてあげるから、あなたは勉強を自分で何とかしなさい」と、本屋に連れて行って、受験したいという学校の赤本……選ばせると灘中の赤本だったのですが……を購入して、後は本人任せにするしかなかったのです。
それで、私は郵便局のパートで、晩の10時をまわって帰宅する生活がはじまり、
息子はというと、それまで学習習慣がないもんですから、
やったりやらなかったりではあるものの、灘中の赤本と格闘していました。

それまで私立の勉強をしたことがない子にいきなり灘中の赤本は無茶なようですが、
当時はあまりに中学入試の知識がなかったので、
「まずどういう受験問題が出ているか研究して、
それから必要な参考書なり問題集なりを探しに行こう」という順序で
入試と関わるしか、
何から手をつけたらよいのか想像もできなかったのです。

それと私にとって一番興味があったのは、受験に合格するかどうかではなく、
初めて自分からこういうことがしてみたい!と言い出した息子が、

途中で投げ出さずに、どこまでがんばれるのかな? ということと、

どんな順序で、どんな風に勉強していくのかな? ということだったんです。

自分なりに方法を模索するのか、何か私に頼んでくるのか、息子の出方を見る前に、私が先まわりしてレールを敷くのはおかしな気もしたので、
少し様子を見ることにしたのです。


灘中の赤本は、最初、あまりに難しくて親の私にもちんぷんかんぷんでした。
どれを見ても公立の高校入試の問題よりもはるかに難解でした。
ただ最初に赤本を買ったおかげで、
市販の中学入試用の問題集を何冊仕上げたところで、それだけでは
これらの問題を解けそうにないことだけはわかりました。

うちの息子というのは、「難しさ」に魅了される子です。
勉強自体は、6年生になるそのときまで、きちんとしたことがなかったものの、
物を作るときは、それを作ることは不可能でしょう……というものに惹かれて、紙1枚で何がなんでも作りたいものを作ってしまおうとするし、
パソコンでもテレビゲームでも友だちとの遊びでも、どこから手をつけたらよいのかわからないような
難しさを感じさせる場面でこそ、燃えるタイプなのです。

それで、受験がしたいというので本屋に連れて行ったときも、
何冊か過去問に目を通させると、
これはどれもどうやったら解けるのか見当もつかないないな……のオンパレード
だった灘中の赤本にすっかりのぼせてしまって、
息子の頭の中は、
受験するのはここ以外考えられない~というモードになってしまったのです。

そんな適当な理由でスタートした受験勉強ですが、
小学校に受験校に送るための資料をお願いしに行くと、
そんな無茶な……それはやめた方がいい……と、強く反対され、
しまいには算数専門の教師が怒り出す始末でした。
また、息子が軽い気持ちで友だちに受験することを話したため、
子どもを有名な受験塾に通わしている親が、そんな受験がどれほど
とんでもないことか……
まず自分の子の通っている塾で何位くらいにいるのか確認しなさいよ……
と外部の子用のテストの案内を持ってきました。

息子はといえば、「不可能」とか「難しい」とか「無理」とかいう言葉が無性に好きで、それに強烈にそそられるタイプですから、
そうして外から圧力がかかるほど、
火に油を注ぐのと同じで、
「絶対、灘中に行くんだ。この本全部できるようになるよ」と言って、
ひとりで過去問に目を通していました。

その頃は、中学入試というのがどういうものか、何が出るのか、何から手をつけていいものかさっぱりわからなかったため、
息子は公式も何も知らない状態で、灘の過去問を
問題の文面の情報から導けそうなものを自己流に膨らませて、
何とか答えまで持ち込もうと四苦八苦していました。
そうするうちに、シンプルに考えていけば解けるタイプの問題は
自力で答えが出せるし、
難しいものも答えを見れば、納得できるという状態にはなってきました。

そのあたりで、再度、本屋に行くと、
日能研やサピックスの出している問題集や、
『中学への算数』という雑誌
などを選んでいました。

私も、そうした問題に目を通すうち、すっかり中学入試問題の面白さに
心を奪われて……今の虹色教室も
その時期火がついた「私の中学入試問題オタク」な趣味の延長線上にある
のですが、
その年はとにかく掛け持ちでいくつもバイトやパートをしているので、
時間に追われていました。
ですから、外で遊びほうけてたり、テレビゲーム三昧したりしながらも、
何とか飽きることなく続けている息子の受験勉強の進行を
傍らからチラチラ覗き見るだけでした。
灘中の赤本と格闘していた息子が、
過去問を解くだけでは、らちが明かないので、
参考書や問題集を何冊か買ってこなくちゃ……と言い出したときには、

ざっと自分で数年分の受験問題に目を通していたため、

どのような問題が、どのような配分で出題されているのか、
確実に点に結びつきそうな分野は何か、
何をどれくらいの量、訓練したら良さそうか、
自分の強みがいかせそうな部分はどこかといったことを、

全体を俯瞰した位置から見渡せていたようです。

そのおかげで、最も得点に結びつきそうで、自分の強みをいかせそうなものの
ランキングが
自分のイメージの世界にできていたようです。

パートから帰宅後、息子の勉強を見てあげようとは思うものの、
灘中の問題は、当時の私には「何を手がかりとしたらよいのかさっぱり~」なものも多くて、
結局、息子からの勉強についての分析や経過の報告に
耳を傾けるだけでした。

息子は、最初に過去問で全体像をつかんでいたので、
最重要課題から順番に手をつけていってました。
こうした全体像を先につかんだり、自分にとって重要なことから、手をつけていく習慣は、
ボードゲームや工作など、好きな遊びに熱中するなかで、
息子が身体で覚えた勘です。
おかげで、短時間ながら、
着実に力をついてはいました。

ネックは時間。
計算が遅いし、ミスが多いところは一朝一夕には
なおらず、時間内に解ききることが入試の際まで、一番の課題となっていました。
実際、灘中の受験準備に一年ではあまりに厳しく、
「最低ラインギリギリだろうけど……
けっこう良い線までいってるんじゃないかな?
当日調子が良ければいけるかも?」
と期待したのもむなしく、結果は不合格。

ついでに受けた中高一貫校は、風邪による腹痛で、試験を途中までしか受けられなかったものの、合格していました。
この私学も関西ではとても人気が高くて、近辺の子たちも、ここの学校を目指して早くから受験塾に通い出すのです。
ですから、ラッキーと言えば、ラッキーで、
息子の受験計画の進め方は、まずまずだったんじゃないかな?とも
思われました。

最初から、合格できそうな学校を狙わず、自分の力を超えたチャレンジをした
ことで、不合格の痛手は負ったものの良いこともありました。
中学に入学してから、姉が数検を受ける際、
息子も同じ準2級(高1レベル)受けたがって、
2週間ほど姉の教科書を借りて勉強しただけで、
1次の計算技能、2次の数理技能のどちらも合格していたのです。
1年間、自分なりに、もがきながらがんばった受験勉強は、
息子の中に何かを残してくれていたようなのです。

数学への感性はもちろんなのですが、
「こういう結果を得たい」と思ったときに、

「結論から」「全体から」「単純に」考えて取り掛かって、
短期間にどうやって自分の思うような結果を導き出すか、
うまく段取りして、やり遂げる力が
受験を通して身についたようなのです。



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小学生のつまずきと教え方 5

2011-01-26 12:43:07 | はじめに

知的障害を持っている子たちに勉強を教えるときの3つ目の視点は、
『その子の個性をしっかり感じ取る』ということです。
子どもに何かを教えようとするとき、どうしても教えている内容や教え方にだけフォーカスしてしまいがちです。
そうなると、子どもが発信しているものを受信する大人のの感性が鈍るときがあるのです。
知的障害の子といっても、個性も能力もそれぞれ異なりますし
発達の段階も違います。
ですから、その子がどのような子かということを知ろうとする努力は、
何をどのように教えるかと同じくらい大事なことだと感じています。

たとえば、ある子どもに数についてのプリントをさせても
いっこうに進まないとします。

その子と話をするうち、お笑い芸人の物まねをするのが好きで、アニメの歌はよく知っていることを知ったとします。
すると『聴覚を利用した学習から入ると学びやすいかも‥‥‥』という可能性が生まれますよね。
そういう子には、先に、足し算や九九を歌にしたり唱えたりする練習から始めて、
耳で暗記した記憶を土台にして、書いて解く形に移行させていくと、
急速にできなかったことができはじめたりするのです。

その子について知ろうと努力すると、一方的に何かを教え込もうとするより
何倍も伸びる場合があります。

知的ゆっくりさんたちの遊びは、敏感期の幼児の遊びに似ていることがよくあります。
はさみでひたすら線を切っていたり、
ままごとの果物を容器から容器へと移しかえる遊びを繰り返したり、
ブロックをただはめることを繰り返したりするのです。
ひとつのことを覚えてしはじめると、長い期間それに熱中し、
あまり進歩が見られないため心配になる親御さんもいるようです。
「またやっている!」とそれをやめさせて、別の遊びを強制する方もいます。
教室の子たちを観察していると、
見たところくだらない繰り返しに見えることも、
その子にとって今必要な発達の課題を超えるための訓練である場合が
よくありました。本能的に子どもは自分が何をすべきか知っているのです。

たとえば、ブロックの基礎板にみっちりブロックをはめていく作業に
しばらく熱中していた知的ゆっくりの子がいたのですが、
ひたすらその作業をした後で、それまで知能テストで悪い点だった
空間上の位置を理解したり、記憶したりすることができるようになったのです。
また、アニメのキャラクターのポスターを見るのに凝っていた知的ゆっくりの子は、それに熱中したあとで、ひらがなや漢字を覚える力が
急速に伸びました。

子どもがしつこく繰り返すことに注目し、
それをやめさせるのではなくて、
その作業が含んでいる深い意味を読み取って、その作業からより多くのことを学べるように環境を整えてあげることが大切だと思っています。


小学生のつまずきと教え方 4

2011-01-26 06:55:01 | はじめに

前回の続きの前に、少し遠回りな話からさせてくださいね。

学習していくとき、人が頭の中でする作業には、
次の4種類があげられます。

★わかる……認知する・分類する・意味を理解する
★覚える……保持する・記憶する・想起する

★考える……類推する、推測する、一般化する、抽象化する
★決める……企画する、評価する、判断する、選択する

学習というと、上であげた『わかる』と『覚える』を子どもに繰り返させることというイメージがあります。

認知させ、分類させ、意味を理解させ、その記憶を保持させて、思い出させてテストすることを繰り返すことこそ、学力につながると信じられています。
教材では、
類推する、一般化するといった『考える』作業は、
そのパターンをわからせ、覚えさせて、テストしていくことでマスターさせるようにできている教材は多いです。
またそういう学習の場では、『決める』は大人がしてあげる仕事という前提があります。

「読み書き計算は学習の基礎だから、まず読み書き計算の徹底を!」というスローガンはもっともだし、その大切さはよくわかるのですが、
子どもの能力を急いで上げようとするあまり、
『考える』体験と、『決める』を体験をする場や機会がなくなっているのはどうかなぁ?と感じているのです。

ひと昔前の子であれば、外で子どもだけで群れて遊ぶ時間が長かったので、
自分で選択したり、評価したり、判断したり、企画したりすることは、
しょっちゅうありました。
大人が飛んできて何でも解決してくれるわけではないので、
推測したり類推したりする力を発達させないと危険でしたし、
家のお手伝いは、考え、決める力を使う絶好のチャンスでした。

それが、最近では、学習法がどんどん合理的になり、系統化されているので、
テストの点としては、短期間に急速に進歩するようになっているものの、
そのせいで、子どもが自分で考える体験も、決める体験もできないということが起こりがちなのです。

★考える……類推する、推測する、一般化する、抽象化する
★決める……企画する、評価する、判断する、選択する

は、授業内容や教材の中に取り込もうとすると、複雑になって難しいですが、
遊びやお手伝いやものづくりや会話の中では、
大人の関わり方次第で、
自然に伸ばしていけることでもあります。

私が子どもの頃は、学校の規則がそれほど細かくなかったので、
学校でたびたびトラブルが発生していました。
そのたびに、学級会や終わりの会で、子供同士、活発に意見が交わして、問題を解決しようとしていました。
当時は、『考える』と『決める』が活性化されるような場面がたくさんあったのです。
授業中に交換日記を回している子がいるとか、シャーリングなどのおもちゃをどこまで学校に持ってきてもいいかとか、男の子の口が悪いとか、女の子がえらそうだとか、揉め事にしても、けんかや話し合いにしてもつきることはありせんでした。
本当にうだうだと言い合いばかりしていましたが、そうした真剣な言葉や感情のぶつけ合いを通して、
自分の責任を自覚したり、考えを練ったり、判断力をつけたりしていたのです。
「子どものことは、大人が何でも決めて、大人が勝手に解決する」という風潮は、最近のものだと思います。

基礎が大事だからと、『わかる』と『覚える』を訓練していく際の問題は、大人が子どもの能力を伸ばそうとあせるあまり、
視野が狭くなって、

★わかる……認知する、分類する、意味を理解する
★覚える……保持する。記憶する、想起する

の部分で、少しでも先に進ませようと、目に見える成果を求めるあまり、
『考える』と『決める』を体験する場や機会を奪ってしまうことにあるように思っています。
忙しくって、子どもたちに話し合いなどさせていられない……という大人のせかせかした態度をゆるめて、少しリラックスして子どもたちに接しないと、
勉強はたくさんしたけれど、考えたり、決めたりしたことがないという子が増えてくるかもしれません。


話を知的ゆっくりさんへの教え方に戻しますね。

九九を教えると、真似して2の段と3の段が言えるようになったとします。
教えている側が、「はやく4の段を!5の段を!」をあせっても、
知的ゆっくりさんたちは、ゆっくりゆっくりしか覚えていかないでしょうし、
九九を覚えたからといって、九九を使った文章題の理解に移行するのは難しいでしょう。

私は、2の段と3の段が言えるようになったなら、
それをさまざまな場面で活用できるように工夫しています。
写真のように、「2個ずつ人形におやつ(積み木)を配ってね」と言って、
「2いちが2~」と言いながら、配ってもらうこともそうですし、
友だちとの遊びや、お手伝いの場面で、かけ算が役立つようにするのです。
それと同時に、少しずつ次の段をマスターするための練習を進めていきます。

また、10の合成が言えるようになったとすれば、
最初に10個の物を見せてから、いくつか隠して、
「いくつ隠れているでしょう」と推理する遊びをしたり、
その問題を他の人に出題する役をさせたりします。

学ぶときに子どもが、教える役や説明する役、人形劇を演じる役など、
さまざまな役割を体験できるように工夫すると、
学習がなかなか進まず停滞しているように見える時期にも、
企画する、評価する、判断する、選択する、
類推する、推測する、一般化する、抽象化するといった経験を深めていくことができます。


小学生のつまずきと教え方 3 (知的ゆっくりさん)

2011-01-25 21:24:43 | 教育論 読者の方からのQ&A

知的障害を持っている子たちに勉強を教えるときには、
大きく分けて3つの視点が必要だと感じています。

ひとつには、障害児専門の家庭教師の方々や特別支援教室の先生方がしてくれるようなハンディーに合わせた
『教えたい内容の一部分だけに特化して、スローステップで教える』
方法です。
それには学習内容をよりシンプルにして、噛み砕いて提示する工夫が必要です。
また『目で見えて、手で操作できる』教具を使って教えることも大切です。
文字を大きくしたり、漢字にふりがなを打ったりして
学習しやすくすることも必要です。

私が会ったことがある知的障害の子に関する印象は、人が好きで温和で素直ということです。ですから、できないことは恐がってしないけれど、できることは何度もやりたがり、褒められるといきいきとしてがんばります。
ルールが易しいトランプやボードゲームなどで遊べるようになると、
お友だちといっしょに遊びを共有できていることをとても喜びます。

私が知的ゆっくりさんに学習を教えるとき大切にしているのは、
『できることは何度もやりたがる』という性質を最大限に利用することです。

たいていの親御さんは、できることというのを、
学習課題の狭い範囲の中で捉えているので、
ひとつのことができるようになっても、いつまでもそこで足踏みしていて、
次の課題に進めない知的障害の子の様子にじりじりとしびれを切らしているように見えます。
でも、実際には、何かひとつできるようになって、何度も何度も同じことを繰り返している期間というのは、
親の接し方ひとつで、さまざまなことを訓練し、新しいことを学び取ることができるチャンスでもあるのです。

たとえば、知的ゆっくりさんが、折り紙を長方形に半分に折る作業をはじめたとします。何枚も何枚も、長方形に半分に折る姿を見た親御さんは、
三角に半分に折る方法や、折り紙で猫や犬を折る方法を教えて、進歩や新しい展開を求めることでしょう。
それでも、本人は、長方形を折り出したらそればかり……。
いろいろな見本を見せても、声をかけても、知らんふり。
いつまでたってもあまりに進歩がないので、イライラしてくるかもしれません。
そんなときは、「上手に長方形が折れているね。ちゃんと、角と角を合わせているわね。」と、本人の作業を認めながら図形の名前や、作業にともなう言葉の表現が覚えられるような声かけや会話をするようにします。
また、「どうやって作るのか教えてちょうだい」と作業の手順を説明させる役をさせるのもいいですね。

「たくさん折ったわね。いくつ折れたか数えよう!」と数の学習に誘うこともできます。
また、できた長方形を図形パズルにして遊んだり、
長方形の両脇をセロテープで貼って財布にするという
作ったものを生かした工作に誘うこともできます。

折り紙を例にあげましたが、文字の練習でも計算でも、ひとつ何かできることがあって、それを繰り返している期間は、
さまざまな新しい課題を習得させるチャンスでもあるのです。

次回は、九九が少し言える場合、どう働きかけたらよいかと、
もうひとつの教えるコツを、紹介しますね。


わが子とおしゃべり 2

2011-01-25 09:46:09 | 教育論 読者の方からのQ&A
前回の続きです。
息子は、前の言葉を補足するように次のように付け加えました。
「常に客観的な視点に立っているのに、より広くて高い地点から自分を眺められるようにならない理由は、個人的には完璧だと感じている客観的な見え方が、
主観的な自分の内面の体験を通らないままだと、
周りや本質的なものからずれているからだよ。

さっきのRPGの話にもどすとさ、
RPGゲームは客観的であれることが楽しいとはいえ、
製作者側に立てば、
より主観的に楽しめる世界を目指しているともいえるんだ。
どんなにそれに近づこうとしてもそれが叶わない一面があるんだけど……。

そうしたRPG上の世界のように、
子どもたちが現実を外から体験しているとさ、
客観視しか知らないから、主観と客観の区別がつかないし、
そのせいで、結局、それしかない客観的な視点も狭い枠内にとどまっていて
発達しないってことが起こるんじゃないかな?」

「私は、RPGだけでなく、テレビゲームをほとんどしたことがないから、そういう視点から考えたことがなかったけれど、その話は面白いわ。
確かに、
あまりに管理された時間や場が続くと、意識だけが現実の身体から乖離して
時間や仕事量を数値上で捉えながら自分を動かすような
特殊な心のあり方になるかもしれないわね」と納得しました。

すると、息子は、考えながら言葉を続けました。

「管理された時間や空間では、外から自分を観察する目ばかりが鍛えられて、
合理的であることがいつも優先されるよね。
すると、感情やイメージが欠落してくるんだ。

なぜそんなにも子どもを管理して、より能力の高い人間を作り上げたいのかといえば、そうしたものが欠落して、
世の中の価値観が狭まっているからだよね。

実際には、多くの人が、心の底では、一番大事なものはお金でも地位でもなく
『生きる』ことにあることは、わかっているはずなんだ。

でも、感情やイメージが希薄になると、
生きる実感が不確かで信用できないものになってくるから、どうしても、生きていることの一つの部分……例えば、人間関係とか、仕事に過度に固執してしまう気がするよ。

子育てをする際には、何でも比較して、何々より何々の方がいい~何々より何々の方が上という考え方から少し離れて、哲学的な……というか、『幸せの定義』といったものを、ちょっと上の視点から定めてみようとする試みが必要なのかも知れない。」

この後、ネット上の人間関係についてや、チャレンジすることの意味についてなど、延々とおしゃべりが続きました。

先日、センター試験を受けてきた息子は、得意な数学と物理でミスを連発してしまい、苦手教科より悪い点だったのです。(これまで理数でこんな失敗をしたことがなかったし、帰宅して解いてみると、どれも簡単な問題ばかりだったようで、残念なのですが……)マーク式のテストより記述式のテストの方が得意で、模試の成績もマーク式か記述式かで、でかなり差があるので、センターは(私が)ビクビクしていたのです。
それで、担任からは、今年はAランクで通る地方の国立大と、関西圏の私大を受けておいて、来年、希望している京大を目指すように指導を受けました。
思い通りにいかないものですが、本人は凹まない性格なので、これからは学校に気を使わずにじっくり勉強に取り組めるのでそれなりに受験勉強を楽しんでいます。受験勉強をスタートさせるのが遅かったので、今頃、波に乗ってきているようで、どの教科もかなり面白くなってきたようです。


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わが子とおしゃべり 1

2011-01-24 21:38:02 | 教育論 読者の方からのQ&A
財団法人ちゅうでん教育振興財団が発行している『えるふ』
という冊子があるのですが、それが毎号とても面白いのです。
この冊子を広げていると、うちの子たちも覗き込んで、あれこれ感じたことを口にしていって、そのまま長い討論になることがあります。

(抽象的な言葉を使って考えていこうとする息子に対して、娘の場合は感覚や感情を通して内容を理解して行動で感じたことを表現していくタイプなので、文字となって残るのは息子とのおしゃべりばかりになりがちなのですが……。)

どっちにしろ、わが子たちと同じテーマを味わって、感じたことをぶつけ合うのは楽しいです。(会話内容があやふやになるので、話し合うときはメモを取るようにしています)

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『えるふ』のvol.15 の 河合隼雄氏と平尾誠二氏の『遊びのすすめ』という対談を読んでいると、
河合氏の言葉に


「……本当は、仕事にも遊びがあるね。遊び半分って強いんですよ。
仕事が来ても負けないし、遊びがきても負けない。
真剣勝負のときもどこかで遊び心を持ってないと
勝てないんじゃないかと思いますよ」

「日本人の言う、いわゆる真面目というのは客観視がなくなるんです。
確かに真面目なことは認めるけど、あまり発展がなかったり、次の進歩がなかったりするんですよ。
真剣になったほうが強いとも限らないんです。そこが面白い。要するに、自分の持っているプラスエックスが出たときが強いんですね。ところが日本的真剣は、持っているものだけで懸命になっているから、エックスが出ない。遊びがあるほうが、思いがけないことが起こるんです。」


というものがあって、心に響いたので、
ちょうど通りかかった息子にその言葉を読んで聞かせました。

それから、
「今、お母さんが仕事で関わっている幼児や小学生の教育や子育ての場では、
大人たちが生真面目すぎるほどに真面目に子どもたちの相手をしているように見えるの。
そのせいで、幼い子や小学生たちがあまりに大人に時間も場所も管理されていて、
こんな体験をさせて、
こんな技術をマスターさせて、
こんな訓練をさせて、
こんなことができるこんな人間になるよう教育しようと働きかけられているのよね。
そのせいで、大人は育成ゲームのプレイヤーのように人の人生を操作しようとするし、
子どもの側はコントロールされるばかりで、
自分を客観視する経験ができないように感じているのよ」と、日頃感じていることをぼやきました。

すると、息子から意外な返事が返ってきました。

「そうした過剰な管理のもとでは、自分を客観視できないのではなくて、むしろ客観的に自分を眺める体験ばかりが続いて、主観的に生きる体験の方がゼロに等しくなっているのかもしれないよ。」

ちょっと驚いて、
「過剰な管理のもとで……客観的に自分を眺めるって、どういうこと?」
と問い直すと次のような答えが返ってきました。

「勉強でもスポーツでも、外から強制されてしている状態だと、それをしている最中は、離人というか、自分自身から乖離したような冷めた気持ちで作業を捉えているもんだよ。
漢字を100字書きなさいという課題をしているとすれば、頭の中は、~これくらいの時間で終わらそうとか、しんどいなと感じる自分の気持ちを遮断しようとか、外からの自分を観察する視点で自分という客体を操作しているような心地になるからね。
子どもを操作することに躍起になっている大人の方が、子どもがらみで自分の欲望や期待に熱中している分、主観的なのかもしれない。

RPGゲームって、あるじゃん。
あれって、自分で操作している主人公、つまり自分を客観的に眺めることができるゲームとも言えて、動いているのがゲーム内だから何が起こってもある程度冷静にHP見たり、アイテム手に入れておいたり、
ちょっと弱ってきているから、ここらで茶屋に寄っておこうと計画したり……まるで神の視点で自分が生きているような錯覚が味わえる面があるんだ。

主観的な自分の中でもがいて生きていくどろどろした人間くさい醜さがないんだ。
今の子どもたちの生活が大人が作った人工的な世界観の中で管理されすぎているって言うのなら、このRPGの世界のように、子どもは自分を客観視する時間ばかりが続いて、自分という中身を作る主観的に生きる時間がないのかもしれないよ。
そうやって客観的にしか自分を眺めたことがないと、たとえちゃんとできていない自分でも、視点のもとである自分の位置は神だからさ、それが今ネットで流行っている『自分以外はみんなバカ』思想の元凶だと思うよ。」

息子の意外な言葉に、「う~ん」と考え込んでしまいました。


次回に続きます。


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