虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

内向的直観タイプの子のわかりにくさについて

2019-05-14 21:52:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

教室でひとりひとりの子とじっくり関わっていると

この子は感覚、感情、直観、思考の

どれを主にしてものを考えていくのかよく見えてきます。

とはいえ、見えやすいタイプ、見えにくいタイプというのはあって、

子どもの姿の一部分だけ捉えて、「この子は○○タイプだろう」と決め付けても

あまり意味はないと感じています。

「こういう面があるから、この子は○○タイプじゃないかな」という印象は持っても、

「やっぱり、○○タイプなんだろうな」と実感するのは、何年もの期間、遊んだり、物を作ったり、考えたり、

おしゃべりしたりする姿を見守り続けた後となります。

「この子は、○○タイプじゃないかな」と思っても、関わる時間が増えるにつれて、

「最初の印象とは別の○○タイプの子にちがいない」という確信を持つようになる子もいます。

 

教室でスーパーボールすくいのような遊びをする時でも,

性格タイプによって、何に熱中するか、何をもっとも面白いと感じているか、どんなことに気づくか、

そこから何を学びとるかなどはずいぶん違います。

わたしが、「ちょうど100グラムぴったりになるようにスーパーボールをすくってね」とはかりをだすと、

直観タイプの子たちは、コップに入れたスーパーボールを何度か試しに量ってみてから、

戦略的に100グラムちょうどになるような方法を編み出そうとします。

「スーパーボールをひとつ取り除くと、はかりの針がこれくらい後ろにさがるから、

3個くらい取るといいだろう」とか、「ボールがコップにいっぱい入っている時は100グラムのところより

このくらい過ぎているから、コップの半分と残りの半分の半分くらいまで入れたら100グラム」といった具合に。

遊んでいるうちに、新たな「こうしたい」を見つけて

熱中しだすことはあるものの、本人なりのねらいがあるあたり感覚タイプの子たちとの違いを感じます。

 

感覚タイプの子たちの子の場合、ひとつのねらいというより「網羅したい」「できるまでやりたい」という

あたりにモチベーションがあるので、

最初に「100グラムにぴったりになるように……!」と告げていても、

スーパーボールを乗せてははかることを繰り返して、1回、1回、「あっ、○グラムだった」「今度は○グラムだった」と

確認することが遊びのメインになっていきますから。

 

思考タイプの子たちは、活動そのもにには熱心でない場合が多いけれど、

はかった重さをまとめた表を見ながらデーターを分析したり、

原因や理由について考えさせる場面でいきいきしています。

感情タイプの子たちは、お友だちと同じ目標で動いたり、

他の子らをびっくりさせたり感心させたりすることにモチベーションにしやすいです。

見えにくいタイプのひとつに内向的な直観タイプの子が入ります。

 

外向的な直観タイプの子たちは、次々と新しいことに興味を移して

「ひらめいた!」とばかりに自分のアイデアを口にするけれど、

内向的な直観タイプの子たちは、頭の中は忙しくてしていても行動はおっとりしていたり、

直観の使い方にしても、自分の内面での「あっ、そうだったのか」というひらめきが

主なので、外からわかりにくいのです。頭の中で自分の考えを追っている時は、

フリーズしたようにボーッとしているので、考えている時ほど、何も考えていないようにも見えます。

 

わたし自身は内向的直観タイプなので、

「自分の内面の動きや頭の働かせ方に似ているから内向直観の子じゃないかな」と

感じるのですが、他のタイプの子たちに比べて、

はっきり目に見える判断材料がほとんどないので、「うちの子の性格タイプは?」とたずねられると、

幼児期は、「たぶん、……でしょうけど」「おそらく……でしょう」とあいまいな返事を続けることになりがちです。

たいてい小学校中学年くらいになると、読書の好みやおしゃべりの内容に

内向的直観の子らしさがはっきりしてきます。

 

大学生の息子と話をしていると、「この子はやっぱり内向的直観タイプだな。

内向きの直観をよく働かせるんだな。」と実感することが多々あります。

物事が行き詰った時にしろ、普段のちょっとした問題解決にしろ、

自分の内面に光を当てることで答えを見いだす姿がありますから。

先日もこんなことがありました。

学校で自分の名前をテーマにした作品をプログラミングで作る課題があったそうです。

他の課題の提出時期と重なっていたため、一夜漬けで、

「自分以外の人(友人等)の名前の集合体が、クリックボタンを押す度に

まぜあわさって、だんだん自分の名前に確率的に近づいて行き、最終的に何クリックかで

自分の名前ができあがる」というアルゴリズムを組んでいました。

評価自体はよかったようですが、その出来に、

短い時間で慌てて作ったのと、何かが足りないという不全感を抱えていました。

そこで、他の作品提出の機会にそれをもう少しいい形で練り直して出すことにしたようです。

再度、作品に手を加えるにあたり、息子なりに、何が足りないのか、これから何に最も力を注ぎ、

どういう方向性で作っていったらいいのか、もんもんと考えていました。

というのも、親しい友人に、「○○くん(息子)が60%の力で作ったものは、周囲から絶賛されるけど、

100%の力を注いだものは、理解されないよな」と冗談交じりに指摘され、

「そういやいつもそうだなぁ」と苦笑しつつ、単純に、だったら肩の力を抜いて作ればいいんだなとも取れなかったようです。

 それについて、息子とこんな会話をしました。

 

息子 「大学にしろ、学会にしろ、評価の場ではあって、現時点に終始していて、

すでにどれだけ完成されたものかだけで考えるからさ。もちろん、社会に出ても、

それが重要なのはわかっているけど、作品発表での評価基準が、どうしてもパッと見の受けのよさや外から見た印象……

宣伝広告で扱われるような部分だけに

重きがおかれててさ、中身の質とか、アルゴリズムの新奇性とか、実際に使っていくなかで引き込まれていく部分なんかは

ほとんど注目されないのは残念だな。

ぼくが全力を出す時は、自分のなりのビジョンを追ってて、

未来に価値を置いているからなぁ……これから面白くしていきたいいろいろな可能性を見ながらさ」

 

わたし 「自分のビジョンの価値に気づいて、守って、温めていけるのは自分しかないんじゃない?」

 

息子 「そうだけど、これまで何か納得できなかった理由は、

そうした評価のあり方に不満や不信感を抱いていたというより、あまり考えずに全面的にそれをよしとしてしまって、

そうした評価と自分の関係のとり方についてよく考えてこなかったからじゃないかと思ってるよ。

 

ぼくが中身のアルゴリズムや内容を一番重視するのは、

今後、どうあったって変わらない部分だけど、同時にデザインや周囲にどう印象づけるか、外から見て

魅力的なものに感じられるようにするのかだって、すごく大事だと思ってることなんだ。

そして、内部になんか少しも興味がないっていう

一般的な人が、パッと見で惹きつけられるようなものを作っていく上で、今、先生から得られる

アドバイスはすごく役立つし、ぼくに足りない部分だ。

ただ、自分のあり方について何も考えないまま学んでいると、周囲の価値観を取り込みすぎて、

自分が一番重要だと思うものが寝食されていくのも事実でさ。

そうすると、成功すればするほど、自分を苦しめる悪循環が生じるよ。

 

だから、自分の強みであって、長い時間をかけて自分のなかで育てていきたいものを持ちつつ、

外の意見に耳を傾けて、足りない部分を学びとっていこうと思って」

 

息子 「名前の作品をもう一度見直してみて、内容はそう悪くないんじゃないかと思って。

これまでもの作品もそうだけど、

言葉で説明したり、自分の表現したいことを正確な言葉におきかえる面で全然足りていないんだ。

デザインとか使いごごちの修正も

もちろんするつもりだけど……。

たとえば、タイトルを、『他人と自分の境界線』ってのにして、他人の名前だけから自分ができていく様子を、

アイデンティティーがあいまいになっていく状態とするとか。

まぁ、これはちょっと行き過ぎたタイトルだけどさ。

『情報から生成される自分』くらいがちょうどいいかな?」

 

息子の話を聞きながら、問題を解決する時に、

自分の内面を探索するのは、内向きの直観ならではだな……と妙に納得しました。

 

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メディアアートをめぐっての息子とおしゃべり 2

2019-02-02 13:41:01 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

前回のような話をした数日後、結局、息子は別の作品を発表した

そうです。

 

私  「どんな作品になったの?」

 

息子 「カメラとスクリーンを使った

インスタレーション作品だよ。

アートの鑑賞者がスクリーンの画面の前に座ると、鑑賞者を囲むようにたくさん

設置してあるカメラが、さまざまな方向から鑑賞者の動きをとらえるように

しておくんだ。

鑑賞者には、大型店舗などで監視カメラを管理している人と同じような

碁盤の目状に分割されたカメラの映し出す自分の姿をスクリーン上に見ることになる。

 

映像の中には、多方向からの自分の動きをとらえるカメラの映像にまじって、

自分の姿、服装とか持ち物とか、ポーズとか、動きとか、そうしたものから

AIが類似のイメージとして想起した映像をまぎれこませておくんだ。」

 

私 「フェイスブックが、この人は知り合いですか?と聞いてくるのも

似た感じ?」

 

息子 「そうだよ。今、コンピューターが、自分の購入履歴から判断して、

自分が購入しそうなものを勧めてくる

ということや、AIが履歴書を読み取って雇用を判断するといった

コンピューターによって自分がどのように見られているか、

どのようにカテゴライズされているかが気になるようになった

という社会的な背景があるよね。

自分自身をコンピューターが即座に、自分に似ている別の人を想起し、

自分をあるカテゴリーの中の一員として評価していくことへの違和感のようなものを

作品を体感する中で感じ取ってもらえるようにしたいんだ。」

 

私 「違和感を伝えるための工夫というのはあるの?」

 

息子 「何台かあるカメラは、それぞれ別のアルゴリズムで、鑑賞者を

カテゴライズするようにするんだ。

特徴の異なる古いアルゴリズムを使ったものや、

最近よく使われているものなど、別の分類の仕方で、鑑賞者からイメージされる

映像が本人の姿とともに映し出されていくことで、

自覚している自分との違いやコンピューター内の記号という

言葉によって操られてしまう自分の幻影を味わうという作品にしたいんだ。」

 

私 「言葉によって操られてしまうって、どういう意味?」

 

息子 「人工知能は、人間をどれだけ記号化できるか、ということを

突き詰めていくことで、進歩しているといえるんだ。

コンピューター内は、データーでできた世界だから、

昔の人々が使った言霊という言葉が、実際に機能するような世界でも

あるんだ。ひとつの言葉、ひとつの記号が、

魔法のような力を持つように見えることもある。

コンピューターが一昔前のように通信手段や単なる

コミュニケーションツールではなくなって、

ネット内で自分自身を表現するツール、

自分という像を作り上げた上で、コンピューター内の自分像で

他者とコミュニケーションする時代になったからこそ、

自覚している自分とコンピューターが作り上げていく幻影としての自分との

間にある違和感のようなものを鑑賞する面白さやざわざわした感触が

あるんじゃないかと思ってさ。」

 

 

 

 

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メディアアートをめぐっての息子とおしゃべり 1

2019-02-01 12:40:00 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

趣味としてですがメディアアートに興味がある息子。論文が一段落したら、

メディアアートの作品を作ってコンテストに応募しようと考えているそうです。

大学院でもメディアアートの授業も取っていました。

夕食時に、「メディアアートの授業の課題で、こういう作品が作りたいと思っていて~」と

息子が話していたのが面白かったものの、

「コンテストに応募しようと思っているアイデアを

ブログで先に公開するわけにいかないし、もう大人の世界に足を踏み込みつつある

息子との会話を記事にするのも難しくなってきたな」と感じました。

授業での発表が終わったと聞いた時、「発表では、最初に考えていたものより

もう少しパッと見てわかりやすいものにしたら、伝わりやすかったよ。

といっても、今回の課題は、作品を作るとこまで必要はなくて、

アイデアと構想だけなんだけどさ。」と言った後で、

「前にお母さんに話したのとは別のアイデアで発表したんだけど~」と付け足しました。

私は思わず、「その新しいアイデア、確かに、誰でも目で見るだけで、

伝えたいものを体感できるって点で

いいかもね。でも、お母さんは前のがすごく面白いって思ってたんだけど、

あれはボツにしたの?おしいな」と残念がりました。

そしてダメもとで、「お母さんのブログで、高校生の頃にSとした会話を載せた記事が

いくつかあるのよ。

この間、東京で会った人達が、そうした対話の記事が好きって言ってくれたんだけど、

このごろは、S(息子)との会話も、修士論文のことやら、本格的な研究の話やらが

ほとんどだから、メモは取っても記事にすることができなくなったのよ。

もし、前のアイデア、ボツにしちゃっていいなら、その話書いてもいい?」とたずねました。

息子の顔にクエッションマークが浮かんでいましたが、あれこれ細かいことを気にするタイプ

ではないので、(娘なら即ダメ出しされていた申し出でしょうが)

「えっ? 記事? 何? まぁ、いいよ。

発表した分も、もう終わってるからいいよ。」と言っていました。

アイデアはいくらでも思いつくとのこと。

 

お許しをいただいたので、先日の会話を♪

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

息子 「メディアアートの授業で、アート作品のアイデアと構想を発表するんだけど、

こういうの考えるの面白いな」

私  「もう思いついたの?」

息子 「あぁ。こんなのどうかなって、考えているのはある」

私  「どんなの?メディアアートって、ビデオとかコンピューター技術を

使った芸術ってことでしょ?」

息子 「そうだよ。考えているのは……。

アイトラッキングっていうパソコン上の人の視線の方向を

推測する方法があるんだけどさ、それを使うと、

アート作品としてのパソコンの前にいる人が、

パソコン画面の時計に注目している間は、その時計が正しい時を刻むようにして、

時計ではない画面上の別の情報に注目している時は、時計が何倍速かで進むようプログラミング

しておくことができると思って。

 ネットに依存して生活しがちな現在、

今が昼なのか夜なのか、どんな天気なのか、ネット上の情報から仕入れることも大いにあるから、

そうした情報も、そのパソコンの特殊な時計の進みに連携させておくと、

自分自身の実生活や体内を通して感じる時間感覚と

コンピューターを通してインプットされる時間感覚のずれが生じるよね。

そうしたコンピューターを通した自分と

コンピューターを通さない自分の違和感のようなもの、

アイデンティティーのゆらぎのようなものを

体験型のアート作品として作れないかと思っているんだよ。」

 

次回に続きます。

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量子力学について 息子とおしゃべり

2019-02-01 09:41:36 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

2年前に息子とした雑談の記事がでてきたので、再アップします。

子どもたちというのは単純なもともとのもの、プリミティブなもの

原始的なもの、根源的なもの、初期の、太古の、未発達な、素朴な、粗野な、原形)に、

全身全霊で、直に触れていこうという存在だな、と感じていたところなので、

この記事を読み返し、息子の言葉が2年経った今、心に響きました。

 

春休み中で読書とプログラミングに明け暮れている息子。

昨日の夕食後、こんな会話をしました。

(娘とはあいかわらず人間関係についての会話ばかりで、プライバシー上、

記事にできず残念……。)

 

息子 「量子力学って、シュレーディンガーの猫とか二重スリット実験の話を聞くと、

これまでの考えがくつがえされるような発見を扱っているように見えるけど、

いろいろ本を読んでみると、新しいものさし、解釈を手に入れたという感じなんだな。

発見したのはあくまでも道具だから、何でも測ろうとしたらいけないっていうかさ。」

 

わたし「お母さんも量子力学について書かれた本……数式の部分は抜かしながら

読んだことがあるけど、理解するには能力的にしんどいものがあるみたい。

摩訶不思議な印象だけが残ってよくわからなかったわ」

 

息子 「わからないって状態でいいんじゃないかな、これについては。

大学で勉強するまで、どうして高校以降の勉強はもっと比喩を用いて噛み砕いて

説明しないのか、わざと小難しい用語を使ってわかりにくくしているんじゃないかと

思っていたんだけど、いざ学んでみると、そうするのが妥当って理由が見えてくるんだ。

大学で扱うような最先端の学習内容になるほど、学んだあるひとつの物事が、

何にでも通用するわけじゃなくなるから。

大学数学は、『真』と確信できる正しさがあって、それを理解しようとするんじゃなくて、

これこれこういう仮説を当てはめてみたらうまくいくから、

このことについてはこの計算式を使って考えていけばいいんじゃないかっていう

逆説的な考え方で成り立っている部分がずいぶんあるんだ」

 

わたし 「それじゃ、比喩を使って異質なもの同士を結び付けるのはまずいわよね。

それにしても、二重スリットの実験の話を考えると、わからないながらに、どうして

そんな結果が生じるのかとキツネにつままれたような気持ちになるのわ」

 

息子 「光は粒子なのか波なのかって考えていくと、

確かに摩訶不思議な気分を味わうわけだけど、そもそも粒子や波の概念に勘違いが

あったとしたら、話は別だよね。

量子力学の世界に伴う不思議さは、もともと自然に潜在していたプリミティブなものの

側にある。

この何年かの量子力学の話題で、スゴイ、新しい、って話題を目にすると、

どれも学者にとってスゴイのであって、一般人が感動するような新しい事実の発見とは

別もので、新しいものさしを作ったという種類のものだよ」

 

わたし 「知った結果が、手品の種を明かされたようなものでも、

誰にも想像がつかないとされていた未知のものが明かされていくのは

わくわくするわ。ここのところ、今の仕事に関連する本しか読んでなかったけど、

量子力学の本、わからないながらに、わかるところまで本を読んでおきたいわ」

 

息子 「それもいいけど……。

前まで、学んでるものの先端に向かうほど価値があるように思っていたんだけど、

いろいろ学ぶほど、難しそうに思える量子力学にしても、

プリミティブなもともとのものの組み合わせであることがわかってきて、

単純なもの……すごくプリミティブなもののすごさを再確認することになるんだ。

そうした『もとのもの』を軽んじていると、よくわからない方向に

考えていっちゃうんだろうなと思うようになったよ」 

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内向直観タイプのわかりにくさについて

2018-05-04 22:45:01 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

教室でひとりひとりの子とじっくり関わっていると

この子は感覚、感情、直観、思考の

どれを主にしてものを考えていくのかよく見えてきます。

とはいえ、見えやすいタイプ、見えにくいタイプというのはあって、

子どもの姿の一部分だけ捉えて、「この子は○○タイプだろう」と決め付けても

あまり意味はないと感じています。

「こういう面があるから、この子は○○タイプじゃないかな」という印象は持っても、

「やっぱり、○○タイプなんだろうな」と実感するのは、何年もの期間、遊んだり、物を作ったり、考えたり、

おしゃべりしたりする姿を見守り続けた後となります。

「この子は、○○タイプじゃないかな」と思っても、関わる時間が増えるにつれて、

「最初の印象とは別の○○タイプの子にちがいない」という確信を持つようになる子もいます。

 

教室でスーパーボールすくいのような遊びをする時でも,

性格タイプによって、何に熱中するか、何をもっとも面白いと感じているか、どんなことに気づくか、

そこから何を学びとるかなどは、性格タイプによってずいぶん違います。

わたしが、「ちょうど100グラムぴったりになるようにスーパーボールをすくってね」とはかりをだすと、

直観タイプの子たちは、コップに入れたスーパーボールを何度か試しに量ってみてから、

戦略的に100グラムちょうどになるような方法を編み出そうとします。

「スーパーボールをひとつ取り除くと、はかりの針がこれくらい後ろにさがるから、

3個くらい取るといいだろう」とか、「ボールがコップにいっぱい入っている時は100グラムのところより

このくらい過ぎているから、コップの半分と残りの半分の半分くらいまで入れたら100グラム」といった具合に。

遊んでいるうちに、新たな「こうしたい」を見つけて

熱中しだすことはあるものの、本人なりのねらいがあるあたり感覚タイプの子たちとの違いを感じます。

 

感覚タイプの子たちの子の場合、ひとつのねらいというより「網羅したい」「できるまでやりたい」という

あたりにモチベーションがあるので、

最初に「100グラムにぴったりになるように……!」と告げていても、

スーパーボールを乗せてははかることを繰り返して、1回、1回、「あっ、○グラムだった」「今度は○グラムだった」と

確認することが遊びのメインになっていきますから。

 

思考タイプの子たちは、活動そのもにには熱心でない場合が多いけれど、

はかった重さをまとめた表を見ながらデーターを分析したり、

原因や理由について考えさせる場面でいきいきしています。

感情タイプの子たちは、お友だちと同じ目標で動いたり、

他の子らをびっくりさせたり感心させたりすることにモチベーションを持ちやすいです。

 

見えにくいタイプのひとつに内向的な直観タイプの子が入ります。

 

外向的な直観タイプの子たちは、次々と新しいことに興味を移して

「ひらめいた!」とばかりに自分のアイデアを口にするけれど、

内向的な直観タイプの子たちは、頭の中は忙しくてしていても行動はおっとりしていたり、

直観の使い方にしても、自分の内面での「あっ、そうだったのか」というひらめきが

主なので、外からわかりにくいのです。頭の中で自分の考えを追っている時は、

フリーズしたようにボーッとしているので、考えている時ほど、何も考えていないようにも見えます。

 

わたし自身は内向的直観タイプなので、

「自分の内面の動きや頭の働かせ方に似ているから内向直観の子じゃないかな」と

感じるのですが、他のタイプの子たちに比べて、

はっきり目に見える判断材料がほとんどないので、「うちの子の性格タイプは?」とたずねられると、

幼児期は、「たぶん、……でしょうけど」「おそらく……でしょう」とあいまいな返事を続けることになりがちです。

たいてい小学校中学年くらいになると、読書の好みやおしゃべりの内容に

内向的直観の子らしさがはっきりしてきます。

 

大学生の息子と話をしていると、「この子はやっぱり内向的直観タイプだな。

内向きの直観をよく働かせるんだな。」と実感することが多々あります。

物事が行き詰った時にしろ、普段のちょっとした問題解決にしろ、

自分の内面に光を当てることで答えを見いだす姿がありますから。

先日もこんなことがありました。

学校で自分の名前をテーマにした作品をプログラミングで作る課題があったそうです。

他の課題の提出時期と重なっていたため、一夜漬けで、

「自分以外の人(友人等)の名前の集合体が、クリックボタンを押す度に

まぜあわさって、だんだん自分の名前に確率的に近づいて行き、最終的に何クリックかで

自分の名前ができあがる」というアルゴリズムを組んでいました。

評価自体はよかったようですが、その出来に、

短い時間で慌てて作ったのと、何かが足りないという不全感を抱えていました。

そこで、他の作品提出の機会にそれをもう少しいい形で練り直して出すことにしたようです。

 

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教育と自由  息子とおしゃべり 続き

2018-05-01 22:38:03 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

適度な「しばり」が生む学ぶ意欲と喜び と 数学について  息子とおしゃべり 

の続きです。「しばり」の話が途中でどこかへ行ってしまったので、タイトルからどけました。

 

息子 「教育は自由にあるべきだって話でいえば。

小学生の頃、学校の先生に立方体の体積の説明を受けていた時、先生の説明だと納得がいかなくて、

自分なりの考えを言うと、間違っていると決めつけられて、書いた説明にバツまでつけられたことがあってさ。

大学に入って、今考えると、やはり自分の持っていたイメージは間違いではなかったし、

今ならそれが正しい理由を説明することもできるよ」

 

わたし 「立方体の体積の求め方の説明って、どういうこと?」

 

息子  「立方体の求め方について、当時の先生はブロックを積み上げるイメージで説明していたんだ。

ぼくは、高さについて、引き伸ばしたり、縮めたりするイメージで考えていた。

点が0次元なら、線は1次元、平面は2次元だよね。上下、前後と左右のある立体となると3次元。

そうして2次元から3次元に高さのイメージを加えるとしたら、それは縦方向に

引き伸ばされたり、縮められたりするイメージで表現できるんじゃないかと思ったんだ。

といっても、ブロックを積み上げてイメージすることが間違っているわけじゃないし、

実際にそうしたものが教科書や参考書なんかの説明として載っている場合もある。

問題なのは、小学生用の算数では、たとえ教科書の定義であっても、多少はしょって

説明してあるのは仕方がないことで、その説明には穴があること、語弊があることを

教える側は理解していなくちゃならないってことさ。

それを念頭に置かずに、教科書に載っていることだけが正しくて、それ以外の意見を

全て間違いとしてしまうのは、おかしいよ」

 

わたし 「そうよね。でも、お母さんもブロックで説明したりするけど、いいのかな?

まず、子どもに具体的なイメージをつかんでもらいたくて」

 

息子 「お母さんの説明はいいと思うよ。それに、子どもに

わかりやすく説明するという教育の部分をほっぽりだして、

数学の定義として正しいかどうかばかり議論するのはどうかとは思ってるんだ。

ただ、子どもが先生の説明とは異なるイメージを持った時に、

安易にバツをつけるのではなく、それが物事を考えるきっかけになるよう

教えるのが大事だと思ったんだよ」

 

わたし 「そうよね。お母さんは、たいした教える力はないけど、

教室の子らが、数の世界と自分の頭で考えることに愛情を持てるように、

そうした場作りを心掛けているわ」

 

息子 「確かに、工作をすることで、抽象化された世界を扱う空想イメージが広がるよね。

数学って、数を抽象化したものだってことを理解すると、急に易しくなるものでもあるんだ。

子どもの頃に、ねんどとか水とか砂とかブロックとか、さまざまな素材と触れ合って、

抽象化に必要なイメージの豊かさを養うことは、すごく重要だと思うよ」

 

 

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適度な「しばり」が生む学ぶ意欲と喜び と 数学について  息子とおしゃべり

2018-04-30 18:06:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

(写真は、どんなおもちゃよりハサミとセロテープが好きな3歳4か月のAくん。

ビー玉コースターを作っています)

 

ゴールデンウィーク中で家にいる大学院生の息子と、教育についてのこんな話題で盛り上がりました。

最近の息子は、ゼミでの研究以外に競技プログラミングと数学を趣味とする仲間で作っている研究会

での活動に明け暮れています。

 

わたしが、「子どものやることを決めてしまったり、必要以上に干渉するのはよくないけど、

何から何まで子どもの望み通り自由にさせるのも、やる気や楽しみを奪うのよね。

適度なしばりは、あった方がいい場合も多いわ」と言うと、

 

息子が、「ああ、わかるわかる。ぼくも小学生の頃、お母さんが時々、

今の時間はボードゲームはしてもいいけど、テレビゲームはだめ、とかちょっとした

しばりを作ってたこと、今、振り返るとよかったと思うよ」と答えた。

 

わたし 「そうよね。でも、大人の考えで、テレビゲーム禁止とまでしたらだめだと

思ったのよ。

誕生日には、自分がほしいって言ったものを、言葉通りにもらってたでしょ。

テレビゲームのソフトを買って

よく遊んでたよ。そんな風に、放任して自由にさせる部分と、

ちょっとしばりがある部分の両方が必要だと

思ったのよ。お母さんは小学生の頃、すごくマンガ好きだったけど、

自由に読ませてもらってた面と、

思う存分とまではいかないしばりの面があったわ。

それで、物語を欲する子どものエネルギーで、手あたり次第に本を読んでいて、

読むうちにマンガより本の方に

面白さを感じるようになっていったわ。

しばりといっても、あくまでも、スポーツやゲームにルールがあるように、

今、始まりと終わりがある枠内で

のちょっとしたしばりのことで、完全に管理してしまったら、その良さが失われるとも思う」

 

息子 「小学生の頃は、テレビゲームとボードゲームの違いがわからなかったけど、

考える部分がちがうから、そうしたしばりがあったからこそ得た考えるプロセスの面白さや

思考を発展させられた面があると思う。

遊びが、完全なお客さん状態で、娯楽として楽しむだけのものになったらつまらないからさ」

 

わたし 「そうよね」

 

息子 「ただただ受け取る側じゃなくて、作ってみる、ないならないで創造してみるって

ことが可能なくらいのしばりはいると思うよ」

 

わたし 「がんばって学んだら、ごほうびに何かをあげる、テレビゲームのような好きな

遊びをやらせてあげるというかかわりは、子どもによったら必要な場合もあるし、

全面的に反対というわけじゃないけど、

学びからも、遊びからも、そこに潜んでいるより興味深いものに気づく

機会を奪ってしまうと思うわ」

 

息子 「どういう部分に価値を感じて消費物中の奥深い世界までの価値観に気づくかは、

それぞれの子どもの個性にもよりけりだろうけど」

 

わたし「虹色教室は、あくまでも算数を中心にした教室ってしているのは、

算数そのものの中に子どもを

わくわくさせる要素がたっぷりあるからなのよ。

子どもがパン屋さんごっこをするために、10個パンを並べて遊んでいる時に、そのまんま

パンの個数を数えたら、1,2,3,4……10と数えるわけだけど、同じものを前にして、

ひとつが10円だとしたら?と考えると、たちまちそれが100円になるし、

100円だったら?と考えると、1000円になる。

3個買うごとに1個おまけすると考えて遊ぶと、6個注文すると、いくつパンがもらえるのか

と考えるのかしらと

ドキドキするし、パンごとに値段がちがうとしたら、ちょうど500円になるように買い物するには

どうすればいいのか

と考えて買い物もできるの。同じパンを前にして、

こんなにも複雑に奥深くいろいろなことを考える

楽しみが味わえるのは算数ならではだから」

 

息子 「ああ、それはわかるよ。日曜数学会(「日曜数学」というのは、

趣味でやる数学研究のこと。

研究成果を5分で発表する会が開催されている。息子は毎週、この放送を楽しみに見ています)で、

別に数学にこだわるわけじゃないけど、

なんで化学や物理なんかじゃなくて、

数学なのか、っていうと、基本的にどんな分野に行っても、数学っていうのは必ず入ってて、

話が科学や物理の話になったり、古典の話になることもあったりする。

あらゆるもののなかに潜んでいる数学なら、

数学を通して、いろんな話ができるってことを話してたよ」

 

わたし 「そうそう、ボードゲームしてても、絵本読んでても、カレンダー見てても、

そこに算数があって、算数を通してそれを眺めると、手品を見るような、あっという驚きとか、

好奇心をそそられる部分とかがあるから、

子どもたちとそれを共有していきたいのよ」

 

息子 「数学は、答えがある爽快さがいいものだけど、あくまでも論理立てて

考えていった末たどり着いた仮定のもとに成り立っていることを忘れてはだめでさ。

平行な線をふたつ引いた時、永遠に交わらないか、宇宙の果てまで行くと交わるのか、

どちらとも言えない。

でも数学を使って、どちらが正しいのかを競いあうのではなくて、こうだって言えるよね、と

自分の主張を整理することはできる。

数学を出来不出来で測られるものとして、テストの点数と直結すうものとしてとらえるの

はいやだな。自分を賢く見せるための道具にしようとする人は、数学が常にひとつの答え

と直結していると

考えるのだろうけど、数学にできるのは、やはり、自分の思考を整理していくことと、

自分の中の何かを呼び覚ますことなのかも。

答えがない数学の世界を鑑賞して楽しむようになると、以前、耳にした時はよく理解することが

できなかった『数学は自由だ』という言葉の意味が腑に落ちたよ」

 

わたし 「数学は自由だって、どういう意味?」

 

息子 「よく話されている言葉だよ。数学は何らか答えがあって、

それを覚えていく学問じゃない、という

ことかな。もちろん、1たす1はいつも2じゃないか、と思うかもしれないけど、1たす1が2なのは、

そういう系統立てた論理上の正解であって、1たす1は本当に2なのか、と疑問を持つ自由はあるんだ。

たとえば、法律のように、はっきり定まった答えがあるものだと、

そこにある事実に疑問を持つことは、何も生まないからね。

もっとも、数学が自由だと言っている人は、本当は数学は

自由であるべきだといいたいのかもしれないけど。

自由でないのかもしれない、でも自由であるべきだと」

 

わたし「そうね。それを言うなら、教育も自由であるべきだと思うわ」

 

息子 「そうだな、確かにそうだ」

 

 

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お金について思うこと  息子とおしゃべり 1

2017-03-06 23:11:37 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

家族で雑談していた時のこと、息子が、

「最近、思ったんだけど、ひたすらお金を儲けることに必死になると、食に向かいやすいな~って」と、

妙なことを言いました。

「どういう意味?」とたずねると、

「お金に執着する人は、お金を使ったら、金額に見合う価値が得られたか、

コスパがいいか気になるだろうけど、実際には、お金だけで相応の幸福感が

感じられるものって、そうないんだよね。

 

物やゲームも十分な時間とかそれを使いこなす力なんかがないと、好きなだけ買えるお金があったって、

使ったお金につりあう満足は得られないし。

結果が出るまで時間がかかったものは、本当に支払った費用とその結果が直結していたのかわからないしね。

その点、食べ物は、わかりやすい満足を得やすいから」

という答え。


 ……もしかして、お金を儲けることに必死になっている息子ら世代の話題?

と思いながら聞いているうちに、

ふと、数日前に息子と交わした仮想通貨についての話が思い浮かびました。

「ネット上の小さいコミュニティー内でやり取りできる仮想通貨がほしいんだけど、

これこれこんな感じに作ることって可能かな?」とたずねたところ、

目的や使い方について細かい質問がかえってきたので、

「あくまでもお店屋さんごっこの延長線上で使いたいのよ。

子どもたちの学校外の学びを支えようという思いを共有する場で、

子どもが起業したり、お店屋さんごっこをしたり、アルバイトをしたりして

やり取りする仮想のお金が作りたいの。★(息子)も小学生の頃、会社や映画を作って

遊んでいたし、

お母さんがしている教室でもおもちゃのお札を出してきて売り買いを体験させると

算数の勉強でもすごく盛り上がるから。」と答えると、

「ネット上で使える仮想通貨を作ることはできると思うよ。

でも、仮想通貨で盛り上がるのは、お母さんの子どもたちにそういうことをさせて

楽しい気持ちにさせる能力に依っているところがあって、

子どもにしたら、仮想通貨だけで面白いってもんじゃないんじゃない?」と返ってきました。

 

息子の「お金だけで相応の幸福感が感じられるものって、そうない」という言葉と

「子どもにしたら、仮想通貨だけで面白いってもんじゃない」という言葉が、

心に引っかかったまま、教室の子らと過ごすうち、「お金だけ」じゃない部分が浮き彫りになってきました。

 

教室内でおもちゃのお金を使ったごっこ遊びに興じる時、子どもの顔が輝くのは、

お金というポイントがたまるからでも使えるからでもなくて、

自分の売り物にものすごい高い値段をつけて、大胆なことをやった感じに浸れるからだったり、

お得なサービスをつけて品物を完売させて、知恵を使って、成功を成し遂げた気分に浸れるからだったり

するのです。

要は子どもを喜ばせているのは、自分の想像力を使う楽しさであって、知恵を絞る爽快さなのです。

他の子らに「すごいな」と思われることだったり、注目を引き付けることだったり、

言葉で交渉して、相手を乗り気にさせることだったり、

団結して何か成し遂げることだったり、現実世界を自分がどう観察しているのか披露できることだったり

するのです。

 

結局、心がわくわくする面白さは、子ども自身が、

自分の頭と感情と身体をフルで使わないと生まれてこないのです。

大人がいくら大人の知恵を総動員して子どもが喜びそうな世界を作っても、

受動的な楽しさは、真のワクワク感にはつながりません。

 

そして、子どもが、自分の頭と感情と身体をフルで使えるようにするには、

いろいろな物事がかっちり決まっておらず、子どものアイデアを即座に現実化することが可能で、

子どもの想像力がどこにでも入り込めるような緩さや柔軟さが必要なのです。

 

だから、仮想通貨はどうするのか、どうしたいのか、というと、

「それがコミュニティー内で使えるようにすること」を超える知恵がいるな~と

難題を前にちょっとワクワクしています。

 

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調べ学習にチャレンジ♪ と 「会話」の話

2016-04-09 22:56:16 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

わが子が小学生だった頃、もっとも大切にしていたのは、

ワークをさせることより、何かを教えるよりも、まずよく「会話をする」ことでした。

 

マンガを読んだり、テレビゲームをしたり……

子供たちは自由に過すことが多かったので、していることの質はどうか…?

というと実に怪しい時もありました。

 

しかし、子どもが、「どうかなぁ…」と思う遊びに傾倒しているときも、

その内容について親子で深い部分まで掘り下げて討論するようにすると、

それはそれで、子どもにとって、いい成長をもたらしてくれたように思います。

 

小学校中学年頃、娘の場合、きちんと机に向かうことも多かったのですが、

息子はとにかくゲームをすることが好きで、

今日のところは勉強には目をつむっておこう……という日も よくありました。

そこで、ワークをさせるかわりに、息子の大好きなゲームについて語り合ったり、

調べたりしました。

当時、私は、娘や息子の言葉をできるだけそのまま記録して残しておきたいという

思いがありました。そこで、日々の出来事や家族会議の様子を会話を中心に

書き残していました。(原稿用紙にして何百枚……。)

その頃は、あまり深く考えずしていたのですが、

今になると,その時期その時期の 心や知能の成長の記録として大切な宝物に

なっています。(乳幼児を育てている方も、写真だけでなく、おしゃべりも

記録しておいてあげてくださいね。)

 

それで、この調べ学習というのも、息子と私が、ひとつの疑問について会話を

膨らませていった過程の記録が中心になっています。

 

息子が小4の時の家族の会話です。家族でゲームをしているとき、

息子が、どうして将棋ばんは、9×9マスなのか?ということに疑問を持ちました。

 

息子 「チェスもオセロも8×8マスなのに、どうして…

将棋はなんで…9なんて2つに割れない中途半端なマス目をしているんだろう?

戦うとしたら、領土がきちんと半分ずつ分かれた方がいいんじゃないかな?

不思議だ。」

 

母「もしかして他の国の領土に侵入していくような戦い方をする人々と、

決闘場をもうけて戦ったとか?将棋がどうやって生まれたか知りたいわ。」

 

父「奇数っていうのは、覚えやすいからだよ。きっと。」

 

息子「覚えやすいって?」

 

父「将棋のこまの位置を暗記して、頭で動かすとき、偶数より奇数の方が

ごちゃごちゃになりにくいと思うよ。」

 

数日後 なにやらひらめいた息子。

 

息子「9は3で割り切れる数でしょ。自分の陣地、相手の陣地、中心の戦いの場が、

まったく同じになるんだよ。それから、オセロが64マスなのは、

こうじゃないかと思うんだ。

オセロは黒と白の多さで決着するから、マスは偶数でなくちゃいけない。

でも100マスでは多すぎる。

次に小さいマス(でちょうど良いのは…)は8×8の64なんだ。」

 

父「それは、おもしろいアイデアだ。」

 

母「本当によく思いついたね。うちの家族は、推測したり仮説を立てたりするのは

好きだけど……。そう、実験するのもすきだよね。

でも、きちんと理由をたしかめて、くわしく調べることはめったになかったでしょ。

今度、図書館を使った「調べる」学習賞コンクールっていうのがあるらしいから、

納得がいくまで調べてみない?」

 

息子「ぼくは、ずっと前からさいころがなぜ6までなのか、

トランプがどうして52枚なのかと不思議に思ってきたし、ゲームと数の秘密について、

もっと知りたくなった。チャレンジしてみるよ。」

 

…という会話からスタートした、調べ学習でした。

で、調べる段になって

息子「ぼくの考えは仮説だから、本当のことをしらべてみなくちゃってお母さんは

言うけど、本にのってることも仮説の場合があるんでしょ。

いろんな人が、いろんな別の仮説を立てている場合とか…。

大昔のことなんて実際見た人いないんだもん。」

 

母「でも、思いつきの仮説とたくさんの事実にもとづく仮説は、別物よ。」

 

息子「ぼくさ、さいころってだれがつくったか不明だと思うよ。

昔の人が、石ころころがして表とか裏とかしていて、自然にさいころになったのかも。

だから、本当に作った人とかいるのかな?」

つづく。

こんな風に、小学校時代は、勉強させるより、

いっしょに会話を楽しむことが多かったです♪今になると、

かなりプラスになっている気がします。

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調べ学習のヒントになるかと思うので、少し続きを書きますね。

息子といっしょに調べ学習をする時、私たちは、本を見て表にまとめるのではなくて、

最初に「表の枠」を作って、あとから本を調べながら整理していきました。

そうすると、表に空白ができて、きれいに仕上げることは、できません。

いくら調べても、資料がないことも多いからです。

しかし、その空白が好奇心を刺激し、たくさんの本に接する機会を作ってくれました。

もしこれが、すぐれた資料をただ整理し、要約する形でまとめていたら、

調べが、わくわくする体験にならなかったのではないでしょうか?

はじめに、インドの象棋(しょう棋は、インドで生まれたそう。

ただ、日本では象に乗って戦う習慣がないので当て字の将がつかわれたのだとか。)

チェス

中国象棋

日本の将棋

のマスの数、図、ルール、ルーツ、特徴について、表にまとめました。

そこで、息子が驚いたのは、9×9マスは、

日本人が考えたとばかり思っていたのに、

子ども用の中国象棋で7×9マスの写真を見つけたことでした。

息子との会話の中で、

東洋的な考え方から、マスに奇数のアイデアがもたらされたのではないか?

という新しい仮説が生まれました。東洋の過去の「家」制度からいっても、

チェスのように女王が戦場に出てくるゲームは受け入れられなかったのでしょうか?

つまり、チェスのようなゲームから、女王が除かれて 奇数になったのか……??

そう考えるうち、何時代に将棋や囲碁が日本に入ってきて、

どのように遊ばれていたかを調べないと、こんがらがってきました。

そこで、息子は、はじめて「歴史年表作り」にチャレンジしました。

そうして進んだ調べ学習は、さいころのなぞに取りかかり始めたとき

最高にわくわくするものになりました。


当時の息子の作文です。
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「さいころのすごいなぞ」 4年○組○○○○
図書館でとりよせてもらった本は大人向けの専門の本だった。
けれどびっくりするような写真がいっぱい載っていて、ぼくは夢中になった。
一番驚いたのは、紀元前8世紀のアッシリアのさいころ。
他の資料では、ずっと、後になっても、
ぼうの形や動物の骨のさいころを使っているのに、
なぜかこんな昔に立方体のさいころが。
おまけに絵のさいころじゃなくて、今とおなじ玉の数を
あらわしている。写真をじっと見ていたら、横の面に大きな穴のようなものが見える。
なんだろう。
「この数なんだろう。」とお母さんが言ったので、
ぼくは急いで自分のさいころを持ってきて、
面と面をくらべてみた。
4のはずだ。
でも、穴はひとつみたいだけど。
「昔のサイコロは、今とおなじ玉の位置とは限らないよ。」と
お姉ちゃんが言った。
ぼくは、さいころのなぞを考えるのが、おもしろくておもしろくて、
こういうことを調べる学者さんになりたい、
と思ったくらいだった。
でも前からなりたかったゲームをつくる人になる夢も捨てがたい
ので、「将来はゲームをつくる人になって、参考のために、
そのなぞを調べたりする人になりたい。」と言った。
*****************************************
 
うちの息子は、何をするにも、たらたらぐずぐすする性格で、
宿題に取りかかるのも、明日の準備をするのも、とにかくあとまわし…。
ねころがってゲームの攻略本を何時間も眺めていたり、
休みになると食事に帰るのも忘れて遊びほうけていたりしました。
1つくらいは習い事をさせたいと思っていたのですが、小学校の6年間、
頑固に拒絶して、何もせず……。
それでも、こうした作業をいっしょにしてみると、
そうした子の中に広がるイマジネーション溢れる世界に触れたような
心地がしました。
それぞれの子に、それぞれの個性……わが子もその通りです。
 

 
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遊びが育むやる気 と 問題を乗り越える力

2015-02-21 13:09:55 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)
この記事を探しているという方がいらっしゃったのでアップします。
 
 
『お母さん、火って何から出来ているの?』という
 6歳のタロウくん、2歳のハナちゃんの日々をつづったブログを
 いつも楽しく見させていただいています。
 このタロウくんとハナちゃんの思いつきや工作の仕方……言動もですが、
 うちの子たちの小さいころにすごく似ていて、
 読ませていただいているうちに思わずうちの子たちが小さいころに
 タイムスリップしています。
 失礼ですが、お母さんのふるまりさんのゆるい対応(ごめんなさい~)も、
 私の子育ての手抜きワザとそっくりで……世の中、似たような方法で
 子どもと付き合ってく方もいるもんだな~と
 ちょっとびっくりしたりもしています。
 そんなふるまりさんの
 ★タロウのプレゼン失敗と、本当の「問題解決能力」という記事に、
 次のような思いがつづってありました。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
タロウには(ゆくゆくはハナにも)、自分のやりたいことをやるために、
 
どんな状況であっても諦めずに努力する力、をつけていってもらいたいと
 
思っています。
 
そのためには、少々の困難(この場合はダンナのダメ出し)にもくじけず
 
「では、どうすれば良いのか」を考える力をつけていくのが大事なのかなと。

でも、そうやって、「問題を乗り越えていく力」というのは
 
なかなかエネルギーがいるもので、そのためには、その原動力となる、
 
「~したい」という強い思いがなくてはダメです。
 
子供であれば、遊びがその原動力となると思いますが、その遊びを通じて、
 
「~するためにはどうすれば良いのか」という対応能力を、
 
つけて行ってもらいたいなーと。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
読ませていただいて、
 
そうそう~うちの子たちのやる気と自発性と
 
何があってもめげずに問題を乗り越える力や、くじけなさは、
 
小学生時代に毎日、毎日、遊んで遊んで遊びつくしたあげく
 
作られていったものだな~と思い当たりました。
 
どちらかというと、うちの子たちは、飽きっぽかったり、人間関係で、
 
打たれ弱かったりする所があったのですが、
 
子ども同士わいわい群れてする遊びは自然に子どもをたくましくして
 
くれるな~と思います。

前にも書いたことがあるのですが、

娘が5、6年生、息子が2、3年生のとき、近所の子どもたちと一緒に、

息子を社長にして、「そそそ会社」という架空の会社を立ち上げていました。

娘と娘の友だちは、いつも息子をからかったり、

キツイ言葉をかけたりしているのですが、社長に祭り上げているあたり……

遊びを生み出す発想力に関しては息子のことを一目置いてたんでしょうね。

「この子の思いつくアイデアに乗ってたら、はずれがなく面白いはず」と。


娘と娘の友だちは、いつも社長より一段上の会長職か何か……のような

立ち位置にいて、陰の支配者のようにも見えました。


この会社、子どもたちの思いつくままにどんどん事業を広げて、

(よく思いつくもの……と呆れるうちに……)

テレビゲーム製作部門、おもちゃ製作部門、販売部門、映画制作部門、

販売部門、プレイパークの運営……あげくの果てには、学校経営にまで

手を出していました。

それで、近所の低学年を勧誘して、面接試験をし、社員研修まで

おこなっていました。

この試験とか、社員研修といったアイデアや内容は、ほとんど娘の友だちが

考えていました。

「将来はシナリオライター?」と思うほど、おもしろおかしい文章や

アイデアがつらつら出てくる子なんです。

二階で好き勝手に遊んでいるのですが、時々、聞いていると、

この「そそそ会社」の面接試験も、経営している学校の入学試験も、

世間の価値観の逆さまなのです。

「トイレに行ったあとで手を洗いますか?」といった質問には

「いいえ」と答えないと減点されて、試験に落とされたりするのです。

本気で試験に挑んでいた子が、泣きながら試験に落ちた~と

私のところに訴えてきたこともありました。

時折、バーッと外に出て行っていなくなったな~と思うと、

バタバタ駆け戻ってきて、

また遊びが再開するという繰り返し……でした。


子どもって、親が選ぶ「良いこと」だけでは育たないな~

子どもが大きくなるにつれて感じます。

子どもの気持ちを前向きでチャレンジャーにしてくれるのは、

失敗したってどうってことない、飽きたら次を考えれば済む~という

環境のゆるさだったりします。

「新しくこんなことしてみたい、自分の全力をこれに傾けてみたい」

ひらめいたとき、一瞬の迷いも、大人への遠慮も、罪悪感もなく、

自分をその中にどっぷり投入できる……。

それが子供だけでする自由な遊びのよさですよね。

思い通りにいかないことが多いこと、頭をしっかり使わないと

すぐ退屈すること、きょうだいも、友だちも、自分から働きかけて、

一生懸命、説得するなり、ぶつかりあうなりしないと、親や大人たちのように、

簡単に折れてくれないこと……。

とにかくジレンマを感じる場面に何度もぶつかるし、

考えてもみなかった事態に遭遇することもよくあります。

でも、それが、「どうしてもこれがやりたい!」という気持ちに駆り立てて

くれるし、退屈ついでの言い争いが、多少のことにくじけず、あきらめず、

どうすればいいのか考え続ける挑戦し続ける姿勢を作ってくれるのです。


私は毎日の子どもの生活に、退屈や無駄やけんかや、

大人から見ると「無意味で非効率的」なことがたくさんあるといいな~

と感じています。また、親の私が正しいと思う考えとは対極にあるものも

チラホラあるのがいいな~とも。

実際、子どもたちがかなり大きくなってみると、

私が価値をおいていなかったものが、

子どもたちを鍛え成長させてくれていたことがよくわかります。


ふるまりさんの記事にもうひとつリンクさせていただいて↓

★「輪ゴムをひっかけてあそぼう」オモチャ


タロウくんが地団駄を踏んで、「これがしたいんだ~」

「これじゃなきゃダメなんだ~」と訴えて、その熱意におされて、

しぶしぶ工作準備に手を貸す様子が描かれています。

これを読んで、そうそう~、もし最初から、

「お母さんはいつでもあなたの工作に手を貸しますよ、

スタンバイしてますよ」だったり、

「子どもに工作をしてほしいのは、

本人よりお母さんかもしれない」って状況だったり、

「工作教室で、きちっと材料が整っていて、今工作の時間ですよ」

だったりしたら、それほど工作に熱が入るのか……。

工作以外のことまで、貪欲にやりたいがんばりたいという気持ちが

起こるのか、疑問だな……と感じました。こうしたところに、

子どもをやる気にさせる、主体的にさせる原動力が生まれる

瞬間が潜んでいて、それは大人が「がんばって」作ろうとすると

すごく難しいことだなと感じるのです。

まず、本気で交渉すれば相手が動くという経験なり信頼感が

ベースにあって、それでいて、まあまあ手ごわかったり、

思い通りいかなかったりして、軽いジレンマや、必死に、あの手この手で

ぶつかる時間があって……

つまり、時間に追われていないことが大事で、

その後、人と人との間で自分の思いが達成できたという満足感が

残るという経験。

そうした繰り返しのなかでこそ、

自分の知力や、技術力や、体力や、精神力の限界が把握できるし、

自分が何がやりたいのか、内面から湧き上がってくるものを

実感できるのですよね。


2歳くらいの子でも、

新しいおもちゃを渡しても見向きもしなかったりするのに、

お友だちが持っていると欲しくなる、取り合うとさらに欲しくなって、

ものすごくやってみたくなる、

いつもならすぐに飽きてポイなのに、渡したくないからおもちゃに

熱中するという瞬間がありますよね。

そうやって人と人との間でジレンマを抱きながら、

自分の気持ちがワーっと湧いてくるから、

いろんなことに夢中になれるようになるのですよね。

もちろん勉強だって、大人の期待に応える形ではなく、

また級とか賞とか、プレゼントとか関係ないところで

「自分自身の心が強く強く何かを欲した経験」がベースになって、

がんばれるようになるのだと感じます。


うちの子たちの小学生時代のことを思い返すと、何が良かったのかって、

大人の価値観に真っ向から反抗して、好きなように無駄をやりつくして、

ひとつも「大人のため」が入っていない世界で、自分のしたいことをした、

やりたいことのエネルギーがいくらでも湧いてきたという

経験なのでしょうね。

そこで、すっきりとゼロの自分になって、

自分の人生にどんな計画を思い描こう、この人生に自分の知力、技術、体力、

精神力の全てを投入して何をやってやろう!

って力が湧いてきたのでしょう。

そして、今度は、一歩、現実の世界にも足を踏み入れて、

その力を勉強なり、人との関係の構築なり、使い出すのだと思います。

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