虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

『魚を与えるのではなく釣り方を教えよ』じゃダメ?

2019-05-28 13:20:41 | 日々思うこと 雑感
3,4歳の子たちと算数遊びをしているところです。
「赤い玉3個と青い玉1個」
 
 
 
 
「子どもに魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」という言葉をよく聞きますよね。
 
笑顔を創りたいWeb屋の日常というブログで、
゛魚を与えるのではなく釣り方を教えよ゛じゃダメだと思う
という面白い記事があって、そうそう……とうなずきながら読ませていただきました。
 
「子どもに魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」という格言、

「魚を与えればその場の飢えはしのげる。しかし明日も同じ状態になる。
つり方を教えれば、その後もずっと食べていける」という意味ですが、

「今このご時勢では「釣り方」を教えるんじゃダメだと思うんです。
いや、もっというと釣り方ばかりを教えてきたからダメなんだと思います。」という意見。

もう子どもも日本人も飢えていない。日本人は、「手法偏重主義」「公式偏重主義」など
「釣り方」にこだわっちゃう人が多いわけで、それもわるくないけど、
結局テクニックにすぎないから、それを使う”心”を育まないと意味ないじゃんっ
というお話でした。
 

「魚を与えるのではなく"釣り方"を教えよ」

ではなくて、

「魚を与えるのではなく"釣り"を教えよ」だそう……。

食べ物という意味でも、情報という意味でも、生きるという意味でも飽和状態にあるこの国において「釣り方のみを教える」というのは、とてつもなく危険!
 
とおっしゃるtoksatoさんの警告は、わたし自身もいつも抱いている危機感と重なりました。
 
どんなにテクニックやプロセスを学んでも、それが好きで「良いものを創りたい」という熱意や興味がなければ、
本当の意味での使い道がわからないし、
好きじゃなかったら分析法を知ってたって、分析する楽しさはわからない。
 
どうしても紹介したいので、ブログを書いている方にお許しをいただいて、
記事の最後にあった言葉を写させていただこうと思います。
 
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自分の生き方や興味なんて自分で見つけて当たり前って言われそうですが、
少なくとも、この国の教育はそれを否定していると思います。なぜそれを行い、
どうしてその公式を使い、どんな個性や魅力があるのかをきちんと考えさせてこなかった、
画一的な教育で「考えること」を否定する教育を受けた人間に「自分の行き方を自分で考えろ」
というのは甚だ矛盾しすぎではないかと思うのです。

だからこそ、人に何かを教えるには「釣り」を教えることが最も大事だと思います。
楽しさや意義という土台から、テクニックまで。
「釣りとはなんぞや」を教えることが、大切なんじゃないかと思います。

                    (笑顔を創りたい Web屋の日常 より)

 

 

 

↑ 無我夢中。

 

「釣り方じゃなくて

釣りを教える」

まさしくわたしが子どもの教育に最も大切だと感じているものを

的確に言い表した言葉だと思いました。

 

教室でレッスンをしていると、

レッスンの内容からそうした思いがきちんと子どもにも親御さんにも伝わっている場合もあるし、

そうでない場合もあります。

 

「そうでない場合」というのは、

とにかく親御さんは「テクニックを学びにこよう」「テクニックを子どもに学ばせよう」と考えていて、

子どもがレッスンでする課題を習得しているかどうかを

常に気にかけておられます。

その子が学んでいる内容に興味を抱いたり、活動に喜びを見出したり、うまく頭を使えて幸福そうにしている時に、

すかさず「それならもう1つこれがんばってみよう~」というプッシュをして、

子どもが常に最後には学習に対する少しイライラした感情と自分に対する自信のなさとを体感して

いるように見えます。

おそらくたくさんテクニックを教えれば教えるほど、テクニックを習得させればさせるほど

子どもは伸びるはずで、そのために多少、子どもが気分を壊したり、学習に対する愛着を失うくらい

どうってことなくて、

きっと良い成績さえ取れたら、そんなの全て忘れてやる気が出てくるはず……と思っている

みたいです。

子どもから学ぶことの楽しさや意義を奪ってしまう親御さんたちがいるのは

とても残念です。

 

とはいえ、それもこれも子どもへの愛情がなせるわざでもあるのです。悪気があるわけじゃありません。

 

幼い子らを育てている親御さんたちが、子どもから学ぶことの楽しさや意義を奪ってしまうこともあります。

ひとりの子が「風船欲しい!」と言って、わたしがその子に風船を選ばせて

膨らましてあげているとしますよね。

すると、すかさず、「先生が風船くれるよ。もらっといで」

と子どもをプッシュする2、3歳児のお母さんがいるのです。子どもが無関心だと

無理にでもらいにいかせようとします。

 

でも幼い子は、

「あっ風船だ、いいな、ぼくも欲しいな」と考える時間を与えてもらえなかったら、

ほんの少しの飢餓感を味わうことも、

「何かをほしい」「やってみたい」という気持ちが自分の内部から湧きあがってくるのを

経験することもできません。

そこで、「この風船は赤色よ」とか「ありがとうは?」などと

テクニックだけ教わっても、自分がない感じを味わうだけですよね。

もしそこで少し親御さんが待ってあげたら、子どもは

風船をもらいにいったとしても

もらいにいかなかったとしても経験からさまざまなことを学ぶはずなのです。

たとえば、ぼんやりしていて自分の分がなくなたとしても、

「ある」ということと「ない」ということ、

「自分から積極的に働きかけていく大切さ」「お友だちがしていることへの関心に

つながっていたかもしれないのです。

 

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種まき期間なしに学ばせる弊害について

2019-05-18 12:56:18 | 日々思うこと 雑感

過去記事なので、現在の状況(ソフトの監督の話や児童館の話は過去のことです)

と異なる記述もあります。

 

★手を出さず 口を出さず がまんするための施設? 
★手を出さず 口を出さず がまんするための施設? 2
の続きで、
またまた、うちのダンナさんの話ですが……
少し前まで、近所の小学生のソフトボールチームの監督をしていました。
(ソフトがうまいからではなく、世話する人が少ないので、借り出されてます~)
それが、毎度、同じパターンのぼやきで悪いのですが……
監督をし始めた頃から、年を重ねるごとに、
新しいタイプの子が増え出して、「ちょっとな~う~ん、これは困った」という
事態に遭遇していました。

どんな風に新しいかと言うと、
最初から、「1からきちんと学ぼうとする子」というか……
親が「1から正確に学ばせようとする子」が多くなってきて、

大きな子の真似っこをして、
バットを適当に振ったり、ボールをでたらめに投げたり、友達同士でスポーツにはならないけどそれの真似事のようなことをしていた

だらだら期間……あこがれたり、失敗したりする期間がないまま、

「最初から上達目指して習い事のようにスポーツを始める子」が増えてきたということなのです。

それのどこが困るのかというと、
本当は大人にあれこれ指図されず、適当にボールやバットを扱ううちに、
「自分はお兄ちゃんたちのように上手にできていないな」と気づき、
「上手になりたいな~」という憧れが生まれ、
「どうやったらできるようになるのか」と試行錯誤して、
しまいに、大人のアドバイスを聞いてきちんときいて、やってみようとする態度が生まれてくるものなのです。

が、この「適当」な、「子どもに自由にさせる」
種まき期間というのがないままに、

最初から大人の指導が入るものですから、

「こういう風にしてごらん」と言われると面白くなくて反抗するか、
一生懸命、教わろうとはするものの、
ちっとも楽しそうじゃないのです。
「ソフトボールは好き?」とたずねると、首を振るそうです。
そうやってイヤイヤやっているので、親が叱ります。
すると、余計に
スポーツ全般が大嫌いという態度になって、
結局、上達しないままやめてしまうのです。
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私は児童館などで、絵や工作を教えていたのですが、
子どもに自由にめちゃめちゃな作品を作る時期を通らせず、
「さあ、先生に教えてもらいなさい。先生のするのを見なさい」という
親御さんの子で、
最終的にすばらしい作品を製作するようになった子はいませんでした。
上手に作るようになる子は、
下手な期間が長いのです。それでも、自分ではとても満足していて、
ぐちゃぐちゃしたゴミのような作品を、
大切そうに抱えて帰るのです。
教室をしていたとき、いきなりすごい作品を作り出したのは、
上の子の教室に付き添ってきていた妹ちゃん、弟くんたちです。
この子たちは自由に好きな遊びをしていただけですが、その間にも、
大人の指導が入らない種まき期間を
たっぷり体験していたのでしょう。

時計の読みにしても、長い期間でたらめな読み方を続けつつ、
時計を読む振りをして遊んでいた子は、
時計を読むだけでなく、時間を扱う難しい計算もできるようになっています。

スポーツでも、絵画でも、学習でも、
子どもの中に、「できるようになりたい」「上手になりたい」「どうすれば上手になれるかな」という
あこがれが育ってくる前に、
上手にさせよう、教えようとするのは急ぎすぎではないでしょうか?

私たちにしても、食べたくもないのに、勝手に口に食べ物をを運ばれて、
買いたくもないのに、無理やり買わされれば、
意欲自体が薄れていくことでしょう。

私は、0~3歳の子用の算数教室もしていますが、
それは乳幼児に「どうやって算数を教え込むか」というテクニックを教える教室ではありません。
子どもの中に自然に発達していく数学的な感性を、どうすればつぶさないでいられるのか、
育んでいけるのか、を伝えるものです。
子どもが本来持っている「学びたい」「成長したい」という気持ちに寄り添うには、どのように接すればよいか
を学んでいただくクラスです。

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学びの原動力は『謎』

2019-05-16 18:14:46 | 日々思うこと 雑感

『小さな友へ』という詩は、10年ほど前に、子どもたちに向けて書いた詩です。
もし何でも子どもたちにプレゼントできるとすれば、何を贈ればいいだろう?
私が子ども時代に手にしたもので、最高にすばらしかったものって何だろう?
今も宝物となっているものは何だろう?
そんな考えをめぐらせながら書いた詩です。

当時、私が、「子どもがもらって、心がときめくのはこれしかない」と考えたのは、『答えのない問い』でした。
つまり、『謎』であり、『不思議』であり、自分独自の『知りたい思い』『まだ答えが与えられていない未知の課題』です。
この思いは、10年経った今も、少しも変わっていません。

先日、『おせっかい教育論』 著者 鷲田清一 釈徹宗 内田樹 平松邦夫  
(株式会社140B)という著書のもくじ欄で、
『子供が育つには「謎」が必要』というタイトルを目にし、思わず、即、購入して帰りました。


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この著書の中で、内田樹氏は、
子どもにとって、成長の一番の契機になるのは「謎」だと断言しておられます。
子ども自身が自分の知的な枠組みを壊してブレイクスルーを
果たすためには、「なんでこの人はこんなことをやっているんだろう」というミステリアスな大人が絶対不可欠なのだそうです。
学校では、文部省は一貫して教員たちの規格化・標準化を進めてきているので、一定の価値観の枠内の人しか教壇に立てなくなってきている問題を指摘しています。


鷲田清一氏は、大人が言うことが一色なのも問題で、いろんな考えがありうるという、複数の可能性のフィールドを提示するのが大人の責任だとおっしゃっています。
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この著書で書かれているミステリアスな『謎』は、私が詩で表現した『謎』とは少し意味がちがっていたのですが、
とても共感できるすばらしい本でした。

勝手に拡大解釈させていただいて……
「子どもが育つには『謎』が必要」という言葉は、いろんな意味で、今子育ての場に最も足りないもので、最も重要なもののひとつでもあると感じました。

教室でもワークショップでも、
子どもの目が輝き出し、一生懸命課題に取り組み出すきっかけとなるのは、「どうしてだろう?」「おかしいな」「不思議!」と感じた瞬間です。

子どもはすでにわかっていることを「覚えなさい」「練習しなさい」と言われるときではなく、「どうして?不思議!」と大人でも首をかしげるような疑問にぶつかったときに、全力で問題を解決しようとします。
そうして考えることの面白さに気づいた子は、普段の勉強もまじめにこなすようになっていきます。

『謎』は、上で紹介したような好奇心をくすぐる不思議との出会いや、価値観の異なる人々との出会いとは別に、『未知』であるという意味で、
学ぶ意欲と深いところでつながっています。
↓は過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。
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『明後日(あさって)』の感覚って聞いたことがありますか?
アーティストの日比野克彦氏が、哲学者で大阪大学総長の鷲田精一氏との
対談中に使っておられた言葉なんですが、
目にしたとたん、
「良い言葉だな~」という感動を通り越して、
自分の生きてきた方法とか、やってきたこととか、考えてきたこととか、
そうしたもの全てに太い一本の芯が通って、
「あ~、私はこうした感覚を大事にしてきたんだ」
と納得したような気持ちになりました。


日比野氏が、

明日のことはある程度はっきりわかる。1ヶ月後のことは全然わからない。自分の絵の描き方やワークショップなどの共同作業は、
ちょうど、「明後日」のように、ぼんやりと大まかなところだけわかっている感じなんです。
……(中略)ある一つのアクションが次のアクションを生み、この人と出会ったから、このアクションにつながっていく。
いつもその連続です。
絵も同じで、大まかな方向性はありますが、「黒い線を描いた、この次はどうしよう」と、まず一手を描かないと次の一手を思いつかないものです。……(略)

と、アーティスト自身が先行きを正確に把握しないまま進んでいくプロジェクト
について、「明後日」の感覚という言葉で言い表したところ、

鷲田氏が、

そういうプロセスには、「新しい社会性」とでもいうものを模索していくヒントがあるような気がします……(続く)

といったこと答えておられるんです。

以前、教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 
という一連の記事を書いて、教育の場に、『ブラックボックス』という言葉が必要なのでは?……といったことを書いたことがあります。
子どもたちが、ブラックボックス化する世界に生きていることを無視したまま、、パソコンや携帯ゲームや、○○○計算や○○時間といったよさげ~な方法だけ取り入れても、子どもたちが主体的に勉強していく方向には、
機能しないんじゃないかな?
という疑問を言葉にしたものです。
(多くの方が、同じようなことを考えていたそうでした)


日比野氏の『明後日(あさって)』の感覚という言葉に出会ったとき、村上陽一郎氏の『ブラックボックス』という言葉を目にしたときと同じような強い衝撃を受けました。
そして、この『明後日(あさって)』の感覚という言葉もまた、
「教育現場に必要な言葉じゃないかな?」
「子どもが意欲ややる気を取り戻すキーワードじゃないかな?」という
思いにかられました。

虹色教室で子どもたちに学ばせているとき、私には、
どうすれば子どもたちのやる気や意欲が盛り上がってきて、知りたい!調べてみたい!もっとがんばりたい!という気持ちになるのか、
だいたいのところ勘でわかっているんです。

それは、「自分は既存のきまったコースをなぞってるだけじゃないんだ」という感覚……というか、
「ある方向性はあるけれど、進んでいく先はガチガチに固まったもんじゃないんだ」
「自分のアイデアや考えや発言が、未来を変えてく影響力を持っているんだ」
という感覚でレッスンを受けているということです。

教室で、時々、にんじゃブームとか、日本全国のゆるきゃらを覚えようブームとか、宇宙の実験ブームとかが巻き起こるのですが、
最初の火付け役の子たちの時期には、
黒い布切れにもぐって宇宙気分を味わうことから、宇宙への興味が膨らんでいくような、教材は整ってないし、やることは見えてないしで、
言わばレッスンとしたら、「レベル低い!」状態なんです。
でも、そんなカオスな時期こそ、子どもたちは、「こうしたら?」「これしたい!」「なんでだろ?」と主体的に自分で動いて、それは熱心に学びたがるんです。
そのブームが飛び火して、他の子たちの興味も加わるにつれ、
私は子どもたちがワクワクして熱中していた学習課題を扱いやすい教材にして、
「宇宙」といったタイトルのついた箱の中に溜めていきます。

すると、大人の目には、箱を開けるだけでワクワクするような
教材パックができあがるんです。
もたつかずに、「わ~」っという感動や、
「そういうことだったのか」という知識を得るのも手っ取りばやくて、
大人は満足。
でも、最初の子たちに比べたら、ものすごく良い教育環境……のはずが、
後の子たちほど、しら~っとやる気がない状態に陥ってしまいがちなのです。
そこから、発展させて自分で調べてみようという気持ちになりにくく、
「見て、不思議でしょ?」と、笛吹けど踊らずという状態です。

同じように見えるけど、
むしろ、後の方がよっぽど魅力的なのに、
何がどうやる気や意欲を半減させるのでしょう……?

大人が何日も前から事前に準備していた魅力的なプロジェクトよりも、
下の記事のような3歳の子のふとした発見の方が、どうして子どもたちの探求心に火をつける場合があるのでしょう?
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 1
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 2
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 3
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 4
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 5
子どもの意欲ややる気の盛り上がりって、ランダムでその日のお天気で決まっているように見えて、
やっぱり言葉にして整理できる一定のルールが存在する気がしています。

うちの息子が、小学3,4年生の頃、
ビデオカメラ片手に友だちと映画を撮ることに熱中していたことがありました。
上映会というのに、引っ張っていかれて見たら、
期待以上の面白さで、
「今度、もっと良いのができたら、公募に応募したらどう?
映像作品の募集がないか調べてあげるわ」と言ったことがあります。
すると、息子は呆れたように、
「お母さんは、遊びってものがわかっていないな~。
何かのためとか、結果とか気にせず、自由にやるから遊びで、
だから面白いんだよ」
と言い返されたことがあります。

子どもって、もともと功利的じゃないんですよね。
「遊び心」が汚されていない場や時間の中ではじめて、
いきいきと自分を発揮できるし、
思いきりがんばれるし、頭をしぼりきって考えられるのでしょう。
それと、遊んでいる途中で、映画作りが、探偵ごっこに変わるかもしれないし、
まったく別の興味へと流れていくかもしれない
という未来が固定されていない感じが、
今の集中や全力投球を支えているのでしょう。

そういえば、昔、私が通ってた小学校や高校(中学は荒れてました)は、きちんと学校としての秩序は保たれていたけれど、日比野氏の言った
『明後日(あさって)』の感覚というものが、いろんな場の底流に流れていて、
私たちの好奇心を持続するのに役立っていたな~と思いあたりました。

虹色教室では、子どもたちと小さなものから大きなものまで、
さまざまな創作活動をすることがよくあります。
子どもの興味に引っかかったものを、先行きについては『あいまい』なまま
気の向くままに、
その都度、学べそうな要素をいろいろ盛り込みながら作っていきます。
こうした制作活動は、たいていの場合、
いつも最初に期待していたよりも何倍も良い結果を得て終わります。

はじめ結果が読めないのは、その子その子の個性が混じるからです。
子どもによって、作ってるうちに、歴史や地理に強い興味を抱くようになったり、緻密に計算された作品を作るようになったり、根気が伸びたり、
自己肯定感が上って、何ごとにも積極的になったり、
算数や理科が得意になったりとさまざまです。

そんな風にそれぞれが得るものは異なるけれど、
手でする作業と、自分のなかの美を感じる気持ちと接触した後って、
必ずといっていいほど、
期待以上の結果を手にすることになるのです。

何かすごい作品を作ろうと力むのでなくて、
面白そうだ~というアンテナにかかった作業にモクモクと熱中してみることで、
子どもは素直になり、落ち着き、個性的な「自分」という感覚や、
自由な生命力を取り戻すように見えます。

積み木で、幼稚園や小学生の子たちと、
海上のピラミッド モン・サン・ミシェルやパルセノン神殿を作ったことがあります。
そうした製作はたった一日の出来事ですが、
その後、教室では、
古代のカレンダー ストーンヘンジや
ピサの斜塔、コロッセオなど遺跡を作る子たちが続出し、
学習への集中力や海外の文化に対する興味が高まりました。
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日比野克彦氏と鷲田清一氏は、アートの

『絵でも工作でも何かをつくることで、気持ちを共有したり、
コミュニケーションの輪が広がったり、新しい発見ができたりする』

という機能に着目しています。

「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」の3つは、
虹色教室でも、製作活動中やその後で起こりやすいことです。

子どもが作品を作ったとき、時折、それを教室に飾っておいてあげると、
「私も飾って!」と言い出す子がいて、
描いたものを「誰か」が見てくれることがうれしくてたまらないという気持ちが、他の子の作品にも興味を持ち、
自分の中にその良さを取り込んでいこうする態度に変わるときがあります。

また、ひとりの子の作品が、たくさんの子の心を揺さぶって、電子工作や歴史的な建造物を作るといったことが流行することがあります。

だれかが発見した科学的な仕組みを、
別の子たちが別の作品で利用することが流行るときもあります。
「新しい発見を発表しなくちゃ!」というワクワクする気持ちと、小さなアイデアが広範囲に影響を及ぼす力に子どもひとりひとりが感動する気もちを持っています。

教室では、自然に遊びが共同制作へと流れていくことがよくあって、
ピタゴラスイッチのような装置ややどかりハウス(だんだん巨大化して屋根つきを作ります)などを、
「ぼくは、ここするから、そっちたのむよ」「これどう?いいでしょ?」「うん、すごいすごい!」といったやりとりをしながら、
熱中する姿がみられます。
完成の喜びが、「磁石について、くわしく調べたい」「恐竜の時代について研究したい」など、強い知的好奇心に結びつくこともよくあります。

製作の場で、
「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」が活性化されることと、
日比野氏の『明後日』の感覚といったものはつながりがあると感じています。

「こういうものを作りなさい」「それぞれ個人で」
など、ルールや先行きがかっちり決まりすぎていると、
ただ作った~で終わっちゃいがちなんですね。
子どもを見ていると、人って個人的に何か上達することよりも、人とコミュニケーションを取ることや、互いに響きあうとき、誰かの役に立ったとき、
認め合ったときに、
一番いきいきするんだなと感じています。良い作品ができたとき、高い点数をつけてあげるより、
「みんなに、どうやったら
こんな風にできるのか教えてあげてちょうだい。
みんなに、どこを工夫したか説明してあげてね!」
と言った方が誇らしげな顔をしているのです。


日比野氏の言葉に、次のようなものがあります。
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そう展覧会でも、「この絵いいよね」という人もいれば、無言で通りすぎていく人もいる。
絵は同じでも、判断は百人百様です。
絵はダンボールに絵の具がのっているだけのものですが、人によっては、見た瞬間に時空を超えることもできる。
それって、芸術の力としては、絵描きの力よりも見る力のほうがすごいんじゃないか。
それで、だんだん、見る力のほうに興味が移ってきました。
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子どもに創作させるとき、「わが子が何を作ったか?」「他の子より上手か?」という点だけ気にかける親御さんはいるのです。
でも、本当は何も作っていなくても、他の子の作品を「見る」だけでも、
見る力が高まっているんですよね。

「見る」力だけでなく
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ で取り上げた
さまざまな力が、製作をお友だちと共有しあう場では、向上するのだと思います。

脳への「入力」自体が変わる、と言っても過言ではないのでしょうね。

日比野氏は美術を日常のなかに機能させる機会を広げることを、
自分の役割と感じておられます。

美術を日常のなかに機能させる大切さって、すごく感じた出来事があります。
去年、母の死の後、
私は母への供養の意味もあって、曼荼羅風の絵を何枚も描きました。

どうして曼荼羅かというと、
母が末期癌におかされて入院中、「暇つぶしに」と、
色鉛筆のセットと分厚い曼荼羅塗り絵というのを持っていったことがあるのです。
母は、クリスチャンだったので、曼荼羅とかかわりがあるわけじゃないのです。ただパッチワークが好きだったので、
曼荼羅が母の縫うパッチワークのパターンのようにも見えて
買っていったのです。

数日後、入院先を訪れると、母のベッドに
向かいのベッドの人がやってきて、
「○さん、ありがとう。2枚も塗らせてもらっちゃったわ。心が落ち着くわ~ほんとに楽しいわね~」と言って、例の曼荼羅塗り絵を差し出しました。
母に塗り絵の進行状態を見せてもらうと、何十ページももう塗られていて、
メモの欄に、病室の人らしき名前や看護士さん、実習生の方などの
名前がつづられていました。

塗り絵の隙間には、○さん(母)に出会えて、私は感動しました。この塗り絵作業に(勝手にプロジェクト化していたのでしょうか?)
参加させていただけて、どんなにうれしかったか……といったメッセージが、
看護の実習生や看護士さん、病棟内の友人によって、いくつもいくつも書かれていました。

この曼荼羅塗り絵は母の形見としてもらおうかと思ったのですが、母が旅立つとき棺の母の顔の傍らに入れさせてもらうことにしました。

母のいた病棟は病が重い人が多くて、
暗い気が立ち込めているような感じがあったのに、
きゃっきゃっとはしゃぎあう高校生たちのような
雰囲気で、塗り絵をしてよろこんでいる病棟の人々の姿と、それぞれの個性が
あらわれる色遣い、タッチなどの面白さが
今も目に焼きついています。

私も、スケッチブック一冊分、曼荼羅の絵を描き続けて、
ようやく母の死を静かに受け入れられる心境へと移っていった
気がします。

アートの力すごいですね。

病棟の空気を一新したアートの力が、子どもたちの心に
変化を起してくれないかな?
とそんな夢を抱きました。

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幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ 2 <見た後で>

2019-03-07 22:10:37 | 日々思うこと 雑感
幼児はいろいろなものを「見る」のが好きですね。

「見る」にもいろんな技術があります。
理解力や思考力、発想力が高い子というのは、この見る技術に長けた子が多いです。
親子で楽しめる「見る」技術をいくつか紹介しますね。

見ているものを言葉で表現する

クワガタとか、恐竜とか、新しい靴とか、アニメのキャラクターとか、子どもの今のお気に入りをよく見て、それについて話をすると、子どもはいくらでも話したがりますよね。
「ここはとがっているね。のこぎりみたい。黒くてつるつるして、ランドセルみたいな色ね。手に乗せたらちくちくするのは、どうしてかな?」

子どもの好きなものを見ながら話をするとき、
色や感触、何に似ているか、どう感じたかなど、
大人も本気でよ~く観察して、言葉にしようとつとめると、
子どもの感性や表現力が変化してきます。
色にしても、「うすい茶色、空のような透き通った水色、濃い赤、光っている黄色」など、観察するほど、表現が工夫できますよね。
教えるよりも、いっしょに楽しむことが大事です。

文章の表現力がつくだけでなく、IQの問題や小学校受験問題などを解く力もアップします。

見たときのヒラメキを言葉にする

子どもは、何か見ているとき、
「そうだ!いいこと考えた!」と思いつくことがありますよね。
例えば、
「冷たいコップをほっぺたにあてたら、ほっぺが冷たくなるんだよ~すごいでしょ~」といった大発見を報告してくれます。
そんなとき、すごいね~と関心をしるしたり、
大人もちょくちょくこうした発見やアイデアを口にしていると、
発想やアイデアが言葉にしやすくなって、何か作るときや問題を解くとき
良いアイデアが浮かびやすくなります。

ある時間をおいて見る

「家の前の水たまり、~~くらい大きいね」と会話して、次の日どうなったか見る。
お月さまの位置を話題にして、何時間かしてから見る

水たまりに葉っぱ落として変化を見る など。

推理する力や理由について考える力などが刺激されます。

鏡 虫眼鏡

鏡を通して見る
虫眼鏡で見る

観察の仕方を工夫すると、考えることが楽しくなってきます。

見たものを遊びで再現する

美容室に行った後で、美容師さんになりきってお仕事する
宅配便のお兄さんのまね、
駅員さんのまねなど、経験したもの見たものを再現して遊ぶと、
記憶力や観察力が高まってきます。

見たものを工作やブロックで作る

働く車を見たあとで、働く車をブロックや工作で作ってみる
といったことをすると、
工夫したり、考えたりすることが楽しくなってきます。

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「見る」ことが上手になれば、画数の多い漢字を覚えるのも
易しくなりますね。
親子で楽しく「見る」技術を身につけると、
いつでもどこでも、しっかり考えることができるようになりますよ。


写真は10個の小豆入りボトルを数え中の男の子。
コメント

おひさまクラブのレオ先生が、『良心はどうやって育つの?』という記事を書いてくださっています

2019-03-07 09:39:38 | 日々思うこと 雑感

 

おひさまクラブのレオ先生の記事に共感しました。

良心はどうやって育つの?

ぜひリンク先で読んでみてくださいね。

 

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「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 終わりです

2019-03-01 22:17:37 | 日々思うこと 雑感

話がずいぶん脱線していたのですが、

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 3 の

2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんの

レッスンの様子の続きです。

 

●くんが最近のマイブームを再現したり、

線路の切り替えスイッチに感激したのをきっかけに、

ブロックで作った「2方向にビー玉が分かれて転がっていく」仕組みで遊んでいる間に、

他の子たちは同じ場を共有しながらも、別のものに興味を持って、

別の遊び方をしていました。

 

★くんは、↓の写真の中央のプラスチックのビー玉スロープが気になるようで、

それを手に持ったまま、積み木で道路を作っていました。

わたしが近づくと、オレンジ色の迷路のようなスロープを指でなぞりながら、

「これ何?これ何?」とたずねます。

わたしは「それは、ビー玉を転がして遊ぶものよ。★くん。ビー玉、転がしてみる?」

とたずねてから、★くんのすぐ近くにいる赤ちゃんの妹ちゃんに目を移して、

「でも、妹ちゃんが口に入れたら危ないかもね……」と言い足しました。

横合いから★くんのお母さんが、「家でも★がビー玉で遊びたがるんですけど、

下の子が口にしたらいけないんで触らせていないんですよ」とおっしゃいました。

 

そこで、

「★くん、向こうでピタゴラスイッチみたいにビー玉がころころ転がっていくの

作って遊ぼうか?」と誘って、お母さんと妹ちゃんから離れた場所にビー玉通路や

穴がある積み木を出してあげました。

★くんは知力がしっかりした語彙の豊富な子です。

内向的な性質で、他の子が興味を持っているものにすぐに関心を示すタイプではなく

自分の心が動いたひとつの事柄を深く探求したいタイプの子です。

自由に遊びを広げていくよりも、

自分の中に生じた目的に向かって、ちょっとしつこいかな、というほど

試行錯誤を繰り返すような遊びをします。

 

大人が遊びの手本を見せてあげる際に、

子どものそうした個性的な性質を把握していると、こちらの提案するものが、

子どもの中で眠っていた潜在的な力が表現されるようになっていったり、

自分のやり方にこだわりがちな子が他の人の提案を受け入れたり、

お互いに気持ちを共有しあってする遊びを楽しめるようになってきます。

 

 ●くんが喜んでいた

「もうちょっとでうまくいきそうだけど、知恵を絞らないと

なかなか上手くいかない課題」です。

●くんが最初に興味を抱いたオレンジ色のスロープを中心に、

少しだけ他のおもちゃも取り入れています。

 

子どもによったら、気持ちが移りやすく、

次から次へと新しいものに目がいく子もいるし、

ひとつのことに興味を持ちだすと、なかなか次に移れない子もいます。

●くんは気持ちを切り替えるのが苦手という短所と同時に

それと表裏一体でもある「ひとつの物事への探究心を持続し続けること」が

得意という長所があります。

また、遊び方の幅が少し狭いという短所と同時にそれと表裏一体でもある

「目的や課題をはっきりさせて、何かをやりとげるまで努力し、

推測したり、理由を考えたりすること」を好むという長所も持っています。

 

●くんは、ビー玉通路のある積み木をオレンジのスロープの中央部分に

設置するのですが、

ビー玉を転がすたびに、通路の落ちずに、片方の端から転がり出てしまうことが

不思議でならないようでした。

大人にすると、スロープの下部の穴からビー玉が落ちるのですから、

その下に通路を置くのがあたり前のように感じられるでしょうか、

2歳後半の子にすると、

まるでビー玉が意志を持って、脱走していくかのように見えもするのです。

でも、何度も何度も、繰り返しビー玉を転がしてみることで、

物の性質に対する理解が高まり、どうやったら問題を解決できるのか

自分で気づきます。

●くんは、この遊びに長い時間関わって、上手くいった時は、

全身で喜びを表していました。

こうしたビー玉スロープのおもちゃで遊ぶにしても、

積み木やブロックで遊ぶにしても、

大人が子どもに新しい遊びを提案したり、新しい形で頭を使う活動に誘ったりする時は、

その子の性質や長所と短所を感受しながら、

子どもの自発的で能動的な態度を引き出すように接するのが大事だと感じています。

もしそうしたことが難しいなら、

働きかける前に、見守ったり、待ったり、子どもの声によく耳を傾けるように

気をつけるだけでいいのかもしれません。

 

それには、子どもと過ごす場や時間がひとつの価値観で固定された

柔軟性のないものにならないよう、

気をつける必要があるのかもしれしれません。

 

教室をしていると、

毎日のように「価値観を固定しない」大切さを実感する瞬間があります。

 

絵を描いたり物を作ったりする活動ひとつとっても、

絵具や素材と無心に触れ合うことを好む子もいれば、

排水管のように、その子が気になってしょうがないものを

作ることで、その仕組みを理解して満足する子もいるし、

絵本を作って、自分の中から生まれてくる物語を表現したい子もいれば、

図鑑を作って、自分の知識を披露したい子もいれば、

科学的な物の性質に興味を抱いて物を作りたい子もいます。

大きくダイナミックに製作するのが好きな子、

緻密にていねいに製作するのが好きな子、

大雑把に作るけれど仕掛けに凝る子、

自然の素材が好きな子、電子工作をしたがる子、

子どもの個性は千差万別です。

 

たくさんの子を相手にしている場では、そうしたひとりひとりの個性に

対応するのは限界があるはずです。

 

でも、子どもと接する大人が

ひとつの決まった価値観でだけ子どもを眺めるのをやめると、

全く同じ活動をしていても、それぞれの子がその活動を通して、

自分が何にわくわくするのか、もっともっとやってみたいこと、知りたいことは何なのか、

アイデアを出したり考えたりする面白さ、がんばってやり遂げた時の達成感、

自分ってどんな子なのか、自分はどんな風にすばらしいのか、ということに

気づくことができるのです。

 

物作りの例で言うと、

上手にできたかどうか、作品として質が高いかどうか、といった

価値観だけで見るのではなく、

「友だちと協力できているな」とか「触感を楽しんでいて、

創作するうちにリラックスできるようだな」とか、

「独創的なアイデアを思いつく子だな」とか

「予測するのがうまい」「工夫するのが上手」「几帳面」「色への感性が優れている」

「科学的な探究心が強い」「ストーリーを考えるのが上手」といった

子どもの数だけある価値観で眺めるだけで、

子どもは自分でそうした自分の美点を膨らませていく力を持ち始めると思います。

 

 

 

 

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 7

2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんのレッスンで、

積み木遊びをしていた時、こんなことがありました。

○ちゃんのお母さんが、めん棒で粉物を伸ばす動作をして、

○ちゃんとままごとをしていました。

他の子らにも、「お料理しよう。何を作りたい?」とたずねると、

「お魚」「おもち」と返ってきました。

ガスレンジの魚焼き機にお魚を入れて、焼く真似をしたり、

もちをつく真似をした後で、線路の上に積み木を並べて、

もちをひっくり返して焼いて「あちちあちち」と言いながら食べました。

 

こんな時、本当に熱くてたまらないように

振りをするのがとっても上手な子っているのです。

また、遊びに必要なものをブロック等で作るのが上手な子もいます。

上手くいかない時に、自分で工夫して直そうとする子もいます。

別の食材の名前を思いついて、遊び出す子もいます。

 

そんな風にそれぞれの子が自分の「強み」を発揮していきいきと遊びを発展させて

いくには、その場と時間を、決まった価値観が支配していないことがとても大事なのです。

 

アメリカの発達研究の成果をまとめた子どもの「遊び」は魔法の授業』という

著書の中にこんな一文があります。

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幼児の数学的思考の発達を専門に研究している

アリゾナ大学のロナルド・ジャレル教授は、

遊びが数学的概念を理解する上でなぜ重要なのかを明確に教えてくれる。

遊びは子どもの数学的思考の発達に不可欠である。

他の形態の知識と違い、数学的知識は物と物の関係を扱うものなので、

大人の説明を聞くことで学ぶことはできない。

遊びに関する実証的研究は、遊びと数学的な理解力と数学的な能力の向上との間に、

強いつながりがあることを示している。

遊びがなければ、子どもの数学的な推理力はまったくといっていいほど

発達しないだろう。


これはフラッシュカードやコンピューターゲームを使って得られる類の

知識なのだろうか?

いや、そうではない。子どもたちが物を使って遊ぶときにやっている、

探究する、操作する、分類する、分割する、組み立て直すといった日々の真剣な経験が

必要なのだ。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

数学的思考が必要なのは、算数とか数学という教科に限られたものではないですよね。

理科はもちろん、全ての学習に論理的に考えていく力は必要だと思います。

 

そうした学びの基盤となる「探究する、操作する、分類する、分割する、

組み立て直すといった日々の真剣な経験」は、

子どもの遊びの世界から失われつつあるように感じています。

 

子どもが五感と身体と自分の頭を使って、世界に能動的に働きかける機会は、

どんどん少なくなっていますから。

 

その一方で、情報だけで凝り固まった価値観が教育の名のもとに、

幼稚園でも学校でも習い事の場でも家庭でも

幅を利かせているのではないでしょうか。

大人にとって魅力的に感じる価値観ほど、成果や効果が期待できることほど、

相対的に、大人たちから、子どもの内面から遊びへの要求が生まれてくるのを待つ

余裕を奪ってしまうのかもしれません。

どんなにすばらしい教育システムも、それのせいで、

子どもの発達過程に組み込まれた身の回りの世界を論理的に解釈していくための

プログラムがきちんと作動しなったら、元も子もないですよね。

 

e-子育て・comのスタッフブログ~子育て、教育のヒントお届け~ という

ブログをしておられる羊先生が、遊びが失われていく子どもたち

という記事で、このブログの過去記事を取り上げてくださいました。

 

今回の記事では、価値観を固定するとかしないとか、

ちょっとわかりづらい書き方になってしまったのですが、

羊先生の

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「種まき期間」なしに、いきなり正式レッスンの入り口に立たされてしまい、

楽しんでやれない子ども。

遊びとして楽しむ期間がないので、面白いと感じられず、

うまくなりたいという意欲がわかないのが、問題なのですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

という言葉だと、子どもには「価値観が固定されていない時期」が

なぜ大切なのか納得しやすいかもしれません。

また本格的にひとつの価値観や枠組みの中に自分を投入してがんばる時期が来ても、

それぞれの子が自分としっかりつながって成長していけるように

「価値観が固定されていない余白部分」や「方向すら定まっていない未知のプロセス」や

「意欲や願望や夢が育まれるような遊びの部分」が必要なのではないでしょうか。

コメント

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 続きの続きです

2019-03-01 09:22:48 | 日々思うこと 雑感

先に紹介した「遊園地」ではなく「原っぱ」の記事の中で、習い事について、

次のように書いている部分があります。

 

「……そうした人工的な場は当然、未完成さとかカオスからほど遠いものです。

時間の枠がありますし、することは決められてますし、場合によっては、

どういう気持ちで、どういう態度で参加すべきかまで暗黙のうちに

子どもに適応を求めてきます。」

もちろん、習い事の全てがそうだと言いたいわけでも、悪いものと決め付けたいわけでも

ありません。問題は、順番なのかもしれません。

子どもが自分の頭と身体で環境に働きかけて、そこに意味を作りだしていくことと、

あるがままの自分を自由に表現することが、まず先決で、

それらを満足に体験しないまま、外から与えられる色に染められたり、

枠にはめられたりすることは、どうなのかと思うのです。

 

ゆっくりじっくり幼児教育のあさがおさんが、

習い事の体験に行ってきました。 1

習い事の体験に行ってきました。 2

 習い事の体験に行ってきました。 3

という記事を書いておられます。

本来なら、絵具と触れ合う体験も、活動のための水くみといった準備をする体験も

年上の子が創作活動をする様子を眺める体験もとてもすばらしいものになった

はずなのに、その空間と時間の価値観が固定されていたために

子ども中で育ちつつあるものを壊してしまうような体験になっているのを

残念に感じました。

この記事のきっかけとなるコメントをくださった方から、

再度、コメントをいただきました。

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あやふやでしたね。未完成な親という単語は、コメントを書いた時に初めて出てきた言葉で、

僕の中でもまだぼんやりとしたものです。「未完成な親となる場」が正しいでしょうか。

人的環境としての未完成なのか、物的環境としての未完成なのか、

その両方なのかまだ不明確です。

ヒントとなったのは「楽園のつらい日々」と「千住家の教育白書」の2冊です。

両家は自力で自宅を作りましたが、その子供はみな各界で活躍してます。

僕は、NHK「正義のための授業をしよう」でハーバード大学生のほとんどが第一子と

聞いて、その理由をずっと考えてきましたが、「楽園のつらい日々」に

ヒントがあると感じました。

第一子は自分の意見が通ることが多い、親の教育システムが第一子では

未完成であるという2つの原因が考えられますが、ここでは後者を取り上げます。

この2冊の本からは「未完成」について2つの可能性が考えられます。

一つは住宅環境が未完成だったこと。もう1点は親が一から環境を作りあげる努力を

みせたことです。大工仕事という初めてのことを親がみせたことがポイントだった

可能性もありますが、僕は最後まで環境が未完成だったことが良い効果をもたらしたと

思います。しょせん素人が作った家だったから不備がでてきて、そのたびに親が

試行錯誤して「未完成な親」を子供にみせたのではないでしょうか。

つまり、目に見える環境が未完成であるゆえに、親も未完成であるという姿です。

「大人のための原っぱ」とも言えます。親が「原っぱ」をもってないのに、

子供に原っぱをみつけろ、というのは無理な話だと思います。子供は親を

真似しますから自力で原っぱをみつけれるようになるのでしょう。

家でなくてもよいですが、なにか目に見える、最後まで未完成な環境に親子で

暮らすのがよいのでしょうね。

以上を考えると、プレジデントファミリーには教育によい住宅が連載されてますが、

教育によい家とは物理的に未完成な家になります(笑)。

新築住宅でなく中古住宅を買い、それを10年単位で直しながら暮らしていくので

どうでしょう。中古住宅は、子供が汚してもそれほど気にしないので、

のびのびとした育児ができるという利点もあります。

未完成な教育システムについても一言。

これは歴史的に著名な数学者や音楽家の経歴を調べて気づきました。

スズキメソードは江藤俊哉(のだめカンタービレの江藤先生のモデル)を教えるために

できましたが、メソードとなってからは江藤俊哉を超えるヴァイオリン奏者は

出ていません。

小沢征爾は桐朋学園の第一期生であり斎藤秀雄に習いました。

斎藤指揮法は「たたき」を重視して確立されましたが、

その後、小沢征爾を超える指揮者は出ていません。

指揮者カラヤンはウィーン大学にて指揮を習いましたが、

ウィーンフィルの首席オーボエ奏者に指導を受けました。ゆえに彼独自の指揮法を

確立できました。

小さい頃に習い事という場に行くのは、未完成な親をみせれないという問題も

あるのでしょうかね。

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何度もすみません。

未完成な場に自分をおくことを許さない「大人の心の余裕の無さ」ですかね。

完成された場所・教材がより先進的と感じるのかもしれません。

DVDやIT活用教材はその最先端ですね。

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>「大人のための原っぱ」とも言えます。親が「原っぱ」をもってないのに、

>子供に原っぱをみつけろ、というのは無理な話だと思います。

>子供は親を真似しますから自力で原っぱをみつけれるようになるのでしょう。

 

その通りだなぁ、と思いました。

コメント主さんの言葉をお借りするとわが家も両親ともに、

「原っぱ」状態というか、未完成な親となる場の中で生活していた時期があります。

うちの子たちが小学生の頃です。

ダンナのリストラを機に、資金も知識もないまま自宅の一部で自営業を始めたのです。

その当時のことを記事にしています。

 

ファンシーショップの話

ファンシーショップの話 2

ファンシーショップの話 3

 

未完成な環境にあると、完成に向けて、いっぱい考えて、いっぱい努力して、

いっぱい失敗して、世間から評価されなかろうと、見っともなかろうと

どうにか生きていけるものだし、もともとたいしたことなければ失うものもないし、

それもまた遊びの連続のようで楽しいもの……という楽天的な心構えを

家族で共有できたな、と思います。

 

頼りになるのは自分の知恵や体力や精神力だけで、

未完成な環境とああでもない、こうでもない、と取っ組みあいながら過ごした日々は、

子どもたちの中に何でもゼロから創造してやろう、失敗なんか気にせず山があったら

登ってやろう、自分の力を人生でやりたいことに全力投球してやろうという

たくましさや創造的な問題解決能力やチャレンジ精神を養ってくれたように思います。

 

日常がこんな感じですから……↓ 

トラブル……トラブル……トラブル続き!知恵を絞ってかろうじて乗り越えました~!

トラブル……トラブル……トラブル続き!知恵を絞ってかろうじて乗り越えました~!2

 

いつも思うのですが、

子どもっていいことばかり、正しいことばかりでは育たないものです。

今、わたしがしているのも、未知の部分をたくさん残している

自分で考えて、自分で工夫して、問題が起こったら自分で解決して乗り越えて

いかなくちゃならない仕事なんですが、それを間近に見ることができるのは、

わが子たちにとって、いろんなことを考えたり、社会に関心を抱いたり、

自分の将来を思い描いたりする時の原動力となっているように思います。

コメント (1)

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 続きです。

2019-02-28 16:10:31 | 日々思うこと 雑感

教室で乳幼児と過ごす時も、小学生と接する時も、

メインとなる価値観を大切にしながらも

価値観を固定しないようにすることが、遊びのフォーローにおいても

勉強の手助けにおいても大事だな、と感じています。

 

2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんのといった

とても幼い子たちのレッスンを例に挙げて、説明させてくださいね。

 

3歳1ヶ月の●くんは、大のお寺好き。図鑑を開いて、弥勒菩薩や鳳凰の説明を

熱心にしてくれます。

そこで、積み木でお寺を作って、紙に描いた弥勒菩薩を飾ってあげると、

とても喜んで、「鳳凰がいるよ」と催促。

それでちょっと適当なのですが、鳳凰も描いて、飾れるように棒をつけてあげると

すごくうれしそうでした。

 

子どもってとても個性的で、好みも違えば、長所も短所も、

考えるプロセスも技能の学び方もそれぞれ違います。

3歳の子の積み木遊びだから、この積み方、こういう遊び方と固定せずに、

それぞれの「好き」を取り入れると、

いっしょにいるお友だちにしても、「●くん、ああいうもの好きなんだな」と

自分とは違う好みに対して興味が湧きますし、その子の関心の範囲も広がります。

 

大人が事前に用意できるどんなに洗練されたアイデアも、

今現在のその子の内面を占めているものより心に響くことはないはずです。

 

●くん、お寺の他にも、「おすもう」が今のブームらしくて、

何度もしこを踏むのを披露してくれました。 

この日、●くんが教室で気にかけていたのは、写真の切り替えスイッチ。

 

「これなあに?これなあに?」と不思議がるので、

「こっちの線路~あっちの線路~と電車が行くよ」と切りかえの先に二つに分かれた

線路を取りつけてあげると、パァッと顔を輝かせて喜んでいました。

 

そこで、ブロックの板で、ビー玉を転がすとふたつの道に分かれて滑っていくように

してあげると興味しんしん。

そんな●くんを見て、『コんガらガっち どっちにすすむ?の本』を読んであげたら

喜ぶんじゃないかな、と感じました。

 

先に大人の側に既存の価値があって、

それに添って子どもを導いていこうというもくろみが幅をきかせていると、

「子どもがその時、興味を抱いたこと」を出発点にして、

遊びや学びを展開していくことはできません。

子どもは自分の興味に引っかかった時や自分の個性的な好みが外の世界と

響きあった時に、創造的に遊びを作りだすし、たくさんのことを学ぶのです。

 

それは幼い子だけに限ったことではないはずです。

内田樹氏が、ご自身のブログで、こんなことを書いておられました。

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日本の教育をダメにした根本は

この「シラバス」的なものの瀰漫にあると私は思っている。

シラバスというのは平たく言えば「授業計画」のことである。(略)

今年度の私の採点基準は「そのような知的な構えをとることが、あなた自身の

知的パフォーマンスを向上させるか?」という問いのかたちで立てられている。

もちろん、ひとりひとり構えは違う。

恭順で謙抑的になることで知的に向上する学生もいるし、反抗的で懐疑的になることで

知的に向上する学生もいるし、知識を詰め込むことで向上する学生もいるし、

詰め込みすぎた知識を『抜く』ことで向上する学生もいる。

そんなの人それぞれであるし、同一人物であっても春先と冬の終わりでは

こちらの着眼点ががらりと変わることもある。(略)

教育研究というのは「なまもの」相手の商売である。どう展開するのか予断を許さない。

日本の教育がここまでダメになった最大の理由はこの「教育は『なまもの』である」

という常識を教育関係者がみんな忘れてしまったことに起因している。

彼らが「工場生産」のメタファーに毒されて、適切なマニュアルに従って、

適切な練度を備えた教師が行えば、教育的アウトカムとして標準的な質の子どもたちが

「量産」できるはずだと考えたせいで、

日本の子どもたちは「こんなふう」になってしまった。

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教育は「なまもの」という言葉、1歳の子の相手をしていても、

中学受験を目指している子の算数を見ていても、

もう大人の域にいる娘や息子と議論を交わす時にもしみじみと実感するものです。

「なまもの」相手に価値観を固定できないのは、確かですよね。

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先に取り上げた内田樹氏の元の文章を息子に見せて意見を求めました。

というのも、数日前、息子が、「学校で勉強する意欲が削がれていく一番の原因は、

たいていどの先生も疲労してきっていて常時イライラしていることだったから、

先生の雑務の量を少し減らすだけでも勉強しやすい雰囲気が生まれるんじゃないかな?」

といった話をしていたのですが、学校の問題にはあまりにも多くのことが

絡まり合っているようで、話題にするのに気乗りしないわたしが、

あいまいに口を濁してしてそのままになっていたのです。

 

それが心にくすぶっていたので、

「この文章、どう思う?★が言ってたこと、大学のような場なら少しずつ改善可能

なのかもね。それがとても叶わないような風潮があっての文でしょうけどね」

とたずねました。

 

『内田樹の研究室』の「書類書くのはイヤだよう」という記事にさっと目を通した

息子は、「あ~わかる、わかる」とうなずいてから、

「最近、リスクを意識化する世界って文章を読んだんだけど……

それはインフルエンザについての話題だったんだけどさ。

この文(内田氏の文)を読むと、教育もリスクの問題でもあるんだなって感じたよ。

リスクを意識化する世界って、

もともと人は生産する側で何かを生み出す存在だったんだけど、

成長した社会では、何か新しい物を作りだすことで生じるリスクを負うよりも、

すでに作られているものを失うかもしれないリスクを避けるのに力を注ぐことになる

といったことが書かれていたんだ。

 

学校教育にしても、どっちがよりよい教育になるか、

生徒の成長によいものをもたらすか、といったことより、どっちが危ない道を

進むことになるか、というリスク回避の考えが主になっているんだろうな」

 

それを聞いたわたしは、ずいぶん前にいただいでずっと気になっていた

コメントが心に浮かびました。

雑誌を読んで「えっ」と思うという記事にいただいた次のようなコメントです。

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うなずきながら読みました。

うちの子は、算数の難問が大好きで、家では自分で最レベに嬉々として取り組んでいます。

学校では算数は退屈、計算テストはあっという間に終わるというので、

「終わった後は何してるの?」と聞くと、他の子がテストしている間の30分くらい、

学級文庫を読んでいいことになっているとのこと。

「でも同じ絵本ばかりで飽きた」というので、先生に連絡帳で「違う本を入れてもらえ

ませんか?少し難しい本や図鑑など」とお願いしましたが、

クラスの所有物だから一人のために変えることはできないとのお返事。

学級文庫の一番のヘビーユーザーのために1冊か2冊増やすだけでいいのに、

と納得いきません。できない子のためには工夫を色々されていますが、

できる子のための配慮はしない、というのが公立小学校の原則らしいです

(先生がそのようにおっしゃいました 涙)。

凹凸があっても、子供に合った方法で長所を伸ばす、という方針でやってくだされば

いいのにと思うのです。

もうすぐ、家庭訪問なので、先生に直接お話するチャンスです。

でも、どのように話を進めれば分かってもらえるか、悩んでいます。

なおみせんせい、先生との対話方法、アドバイスがあれば、教えてください。

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わたしは息子に、コメントの内容を簡単に説明してから、

「今の学校の問題は、親たちの要望が、もっともっと……と学校の先生に何かを求める

ことによって起こっているようにも感じているから、

コメントを記事で取り上げることはできなかったんだけど……。でも、同時に

この方のおっしゃっていることはよくわかるのよね。

こうした普通の声が、わが子への特別な対応を求めるモンスターペアレント的な

親の声として響くほどに、学校が四方からの多くの声に辟易しているのかと、

ちょっと気持ちが塞いだわ。★が言っていたように、先生の雑務が多すぎるというのは

あるんでしょうね。

それと、もし、ひとりの子を特別扱いしたら、後々、面倒なことになるかも

しれないという不安が大きいのかも。

お母さんが小学生の頃の読書の普及に熱心だった先生方なら、

こうした要望を、子どもの読書の幅が広がっていくこととして喜んで受け入れた

でしょうし、お母さんが先生の立場なら、そうした声がなくても、

本を手にしている子たちにとって、教室にある本が満足感をもたらしてくれているか、

さらなる読書への意欲を育てているかということは毎日のように気にかけて

いるでしょうしね。

といっても、今、教師の職に就いている方々がこなしている仕事をする自信なんて

自分にはないけど。」

 

それを聞いた息子は、「読書の幅が広がって子どもの能力が伸びることは、

生産的で新しい価値が生み出されることにもつながるけれど、

そこでも、そうして教育によって何か作りだすより、リスク回避の考えが

強いんだろうな。先生の労働量が増えるとか、他の子や親から文句が出るとか、

もっと別の要望があるかもしれないとか、学校が想定している目標の枠から

はずれるとか……。

内田樹先生が教育はなまものって書いていたけど、

今は教育をプロジェクトとして捉えている人が多いよね。

やっぱり教育はなまもので、人の人生に組み込まれた一部で、友だちとか

人生観とかいったものと同じように、均一に与えて、均一の結果を得ようとすれば、

いろいろ問題が生じてくるんだと思うよ。

自然に友だちができるのはうれしくても、友だちプロジェクトで友だちを

作りたいとは思わないよね。

教育も人としての重要なものを担っているから、リスクを伴いながらも、

そこから創造される価値に目を向けていけるような余裕が、学校には必要なんだろうな」

 

コメント

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 1

2019-02-27 21:13:10 | 日々思うこと 雑感

算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか の記事に、

(記事でコメントを取り上げたお返事としてなのですが)

次のようなコメントをいただきました。

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草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、

価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。

以前のエントリーにおける「未完成な親」や、

大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が子供を伸ばす要因なのでしょうか。

逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、

長期に通うことは不適なのかもしれませんね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いただいたコメントにある

「価値観を固定しない教育」や「未完成な親」というのものが、

(言葉の解釈が重要ではあるけれど)

わたしも子どもの知力と精神力と個性的な才能の伸びと大きく関わってくる

んじゃないかと感じています。

コメントにある「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とは、

リンク先の記事のことです。

 

この「未完成」という言葉に、???とクエスチョンマークがいっぱい

頭の中に浮かんだ方もおられると思います。

 

そこで、最近、教室で子どもと接した出来事を取り上げて、

「価値観を固定しないこと」や「未完成」であることの大切さについて

言葉にしてみたいと考えているのですが……。

 

その前に親の接し方の未完成さや、子どもの可動領域に余白があることが、

子どもの心と人生にもたらす価値について綴った

『自己肯定感は褒めると上がる?』という記事を紹介させてください。

 (この記事の中で、未熟と未完成という言葉は異なる意味で使っています)

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ブログで自己肯定感の話を書くと、

「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」

という質問をいただくことが多々あります。

そのたびに、「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも

ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」とアドバイスできる

ものでもなく、もやもやした思いをくすぶらせることがあります。

 

そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、

「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、

言葉にして整理しておきたくなりました。

 

特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、

「褒める」行為自体が、子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて

言語化できるといいな、と思っています。

 

先日、『東大パパのGo!Go!業!』というブログで

息子さんのだいくんが工作する姿が記事になっていました。

 

前衛芸術の天才

 

3歳になりたての子らというのは、

「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と

自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、

「何をどんなふうにしたいのか」ということは後回しというか、

本人にするとどうでもいいことだったりします。

 

周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、

「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」

「新聞紙使って工作してごらん」なんてあれこれ口出ししたくなる時です。

 

大人からちょっとあれこれ言われても、

それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、

大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、

「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と

自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。

お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、

ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て

後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。

 

子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、

実際に動く場面でも、想像の世界においても、自分で動いて失敗してもOKという

可動領域がしっかり確保されているかどうかに大きく関わっているように思うのです。

 

大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、

逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、

子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、

子どもが確かな自分を感じられなくなる、

つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。

 

この記事中でだいくんの工作を見守る東大パパさんは

だいくんを赤ちゃんのように特別扱いせずに大人の世界のルールもきちんと教えているし、

(「だいくん、いくら何でも折り紙を無駄遣いし過ぎだよ。

ほら、こっちのチラシとか使いなよ。」と)

一方で自分の意志でひとつのことをやり遂げる過程に必要以上侵入せずに

自由に活動できて発言できる領域と時間を確保してあげていますよね。

 

大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、

即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようと

していたこと」も帳消しにしてしまう子も、

「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、ちょっとしたことをきっかけに

自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。

 

子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、

こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、

気にかける必要はないのでしょう。

でも、大人の関わり方の加減次第で、日常の行為のひとつひとつが、

子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも事実だと思っています。

 

それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。

幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、

大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、

心にないような嘘をつくことになるか、子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、

大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、

「すごい、すごい」と褒めることになりかねません。

 

つまり、

「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思って褒めているうちに、

褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための

見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。

 

「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、

子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、

実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、

「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が

その動機に取って変わらないか、自分の心を見はっておくことが大切です。

 

以前、「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを

管理したがるのでは?」という辛口の記事を書いたことがあります。

子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と密接に関わっているように

捉えています。

 

↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、

数値で子どもを管理したがるのでは?」

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子/紀伊国屋書店

(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)という著書の中で、

「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても

とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、

対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、「大人のやり方」に変化を

遂げることが病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と

考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくの

ではなく、いろいろな人生があることを知って、

自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。

「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……

大人になっていくということは、他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことを

こなせるようになることではないの?」と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。

「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という単純なルールで

成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、

「秩序」によって安定するタイプが多いので、

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルールで世の中が

動いていないと不安になります。

そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。

そのパニックへの対処のひとつの形が拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、

達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という重要な課題があります。

努力すれば何でもできるようになるわけではない。

がんばればみんなが褒めてくれるわけではない。

運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、

大人になるための思春期の課題です。

「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」

という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、

「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」という

大人としての役割で考えることができるようになることなのですね。

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『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、

拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、

ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、

まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、ひとりめの娘の子育てでは、

大人になれていない心のまま良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを

平気でしていました。

「子ども」の心のままで、心の病を引き起こすような世界観のもとで

子育てをしていると、目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすれば好かれる」というような

安心できる秩序が守られている世界をお金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた、人工的な架空の世界であったとしても、

それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」、

現実にはありえない考え方がはびこりやすい場です。

なぜなら「自分で努力はしたくないけれど、コントロールして数値の確認をする

作業だけをしていたい」という、本当は現実の世界で叶えられてはいけない、

病特有の執拗な願いを簡単に実現してしまうからです。

おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを正当化して、さらに煽りがちです。

教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、

ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題は、

ビジネスのそれと重ならない場合が多いことを自覚することが大切だと思います。

 

子どもの幸不幸は、どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、

ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている親に育てられているか

どうかで決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、

大きく変わってくるのではないでしょうか?

 

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↑ 先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。

わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、数値で確認しながら育てていくことが、

自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。

けれども、そうした育て方に代表される大人が、

自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、

子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという

理由で)無視するような育て方が、

自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。

 

ですから、毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、

親が子どものなかに見たいものを褒め、認めたくないものを無視して褒めているとすれば、

そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、

どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすいと感じています。

 

次回は具体的なレッスンの話を例に挙げて書きますね。

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子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ (もう少し2)

2019-02-20 13:13:09 | 日々思うこと 雑感

親御さんらから聞いた「現在、非常に困っている解決しにくい問題」には、

こんなものもあります。

 

明るく素直で優しい性格で、誰からも好かれているAちゃん。

学校での先生からの評判は絶大で、懇談に行くと

褒め言葉のオンパレードだとか。

Aちゃんは、数年前から、Bちゃんという女の子と仲良くなったそうです。

Bちゃんは、Aちゃんのことが好きでたまらず、常にべったりとひっついて

遊びたがるので、AちゃんとBちゃんはどこへ行くのも一緒です。

それはAちゃんにとって楽しいけれど窮屈な関係でもあるようです。

Bちゃんが興味がなければ、自分がやりたいと思う遊びができないし、

ほかのお友だちと自由に仲良くすることもままならないですから。

 

ある時、我慢の限界を迎えたAちゃんが、しじゅう自分を束縛するBちゃんに対して

はっきりと「いや!」という気持ちを伝えました。

でも、いつでも誰にでも親切で優しい態度しかとったことがないAちゃんは、

嫌の気持ちを表現するのが不慣れな上、

あまりに長い間、言語化していない不満や理不尽な思いや怒りを蓄積していたために、

相手を強く拒絶するような態度になってしまったようです。

 

揉めている知らせを受けた先生が、Aちゃんの態度のどこがいけなかったのか説明し、

友だちと仲良くするように指導して、一件落着となりました。

先生に言うことをよく聞くAちゃんは、それからはBちゃんとぶつかることはなく、

以前にも増してAちゃんを意のままに束縛しようとするBちゃんに

従順に合わせて行動するようになったそうです。

その後、学校の先生から、外見からは仲睦まじく遊ぶふたりについて、

「ケンカをせずに上手に遊べていますよ。よかったですね」という報告があったものの、

親御さんの心にはもやもやした不安が渦巻いているということでした。

 

ユースホステルでのレッスンに来ていたAちゃんは、

初めて会った子ともすぐに打ち解けて、楽しそうに遊んでいました。

寂しそうにしている子がいると率先して仲間に入れてあげながら

持ち前の想像力と創造性を使って上手に遊びを作りだしていました。

揉めている子らがいると、積極的に解決に乗り出し、

プチ先生になって、「~しないとダメだよ。こうしなよ」と優しく諭していました。

ユースホステルには、「Aちゃんと二人だけで仲良くしたい」と切望する子は

いませんから、自由にのびのびと過ごしている姿しか目に入ってこないので

Aちゃんについて気になる点を見つけ出す方が難しいのですが……。

 

でも、Aちゃんの弟くんのわがままが目立つ時など、

天使のような優しさで対応するAちゃんの様子を目にすると、

本来ならあってよさそうな「ゴネ得する弟くんへの不満やら嫉妬心」や「怒り」や

「ちょっといじわるをしたくなる気持ち」がまったくないように見えるのも、

ちょっと心配かな、と感じました。

 

自分の中にネガティブな気持ちが芽生えても、それに気づくのも難しいくらい

自分の心のネガティブな一面との関わりを絶っているようでしたから。

 

話は変わって、Sちゃんという別の小学生の女の子の話も考えさせられるものでした。

Sちゃんは明朗活発な頭のいい女の子です。

思考力を必要とするゲームや物作り、楽器の演奏、理科実験、スポーツ……と、

何でも喜んで取り組み、いつも楽しそうに笑い転げています。

 

ある時、Sちゃんのお母さんは、Sちゃんが同じクラスの女の子から

信じられないほどひどい意地悪をされている事実を

Sちゃんの友だちのお母さんから聞いて、驚愕しました。

それがお母さんにとって青天の霹靂とでも言うべき出来事だったのは、

家でのSちゃんは、落ち込むどころか明るすぎるほど明るく元気に振舞って

いたからです。

Sちゃんは、お母さんを心配させまいとして、

気丈に辛いのを我慢していたのでしょうか?

どうも、そうではないようです。

「マンガが好き」というSちゃんに、「マンガのどんなところが好きなの?」と

たずねると、「嫌だな~って気持ちの時も、マンガを読むと気持ちが変わるから」

という返事が返ってきました。

「他人から嫌なことをされたり、嫌なことがあった時にどうしますか?」という

アンケートでは、「先生や親に相談する」とか「友だちに相談する」といった選択肢

ではなく、「考えないようにする、忘れる」の欄に丸をつけていたそうです。

 

子どもたちと話していて、マンガにしてもテレビゲームにしてもDVDや

テレビの視聴にしても、

惹かれる理由が、「面白い内容にワクワクするから」とか「○○が、好きだから」

ではなく、Sちゃんのように、「気持ちが変わるから好き」という答えを聞くことが

増えていることを気にかけています。

また、嫌な目にあった時、四六時中一緒に手をつないで行動しているほどのお友だちにも

自分の胸の内を打ち明けず、「感じないようにする」「考えないようにする」

「新しい刺激で気持ちを変える」といった方法でまぎらわしている子が珍しくない

事実にも、胸を痛めています。

 

ちょっと脱線するかもしれませんが、前回までの話題と

同じ根っこを持つと思われる問題について、もう少し書かせてください。

 

小学校の先生をしている方から、

「最近の子には、もし自分がそれをやられたらどうするの? 

自分が同じ目にあったら嫌じゃないの?が通用しなくなったので、

ケンカを叱るのも大変」という話を伺いました。

「別にやられてもいい。ぼくは気にならないもん」

「同じ目にあってもいい。わたしは、嫌じゃない」と返ってくるので、

二の句が継げないのだとか。

 

親御さんのひとりから聞いたこんな話。

中学生の男の子の間で流行っているラインを使ったこんな遊び。

最初からいじめるターゲットを決めた上で、ラインのグループを作り、

ターゲットの子だけ無視するなどしていた子(どこにでもいるような温和な性格の

良い子です)に、「どうしてそんなことをするの!?自分がされたらどう思う?」と

叱ると、「あいつは陰キャラだから(いじめに合う)。おれは陽キャラだから

そんな目に合わない」と言ったそうです。

 

この夏に教室に来てくれた海外在住の子や帰国子女の子とその親御さんから

聞いたこんな話でも、心の中がもやもやとくすぶりました。

 

日本に滞在中、子ども向けのサマーキャンプに参加した小学校中学年のJくん。

すぐに誰とでも打ち解けて親しくなれる明るく頭の回転が速い男の子です。

キャンプの初日、スタッフの方々から、

「それぞれがやりたい遊びを提案して、自由に遊ぶように言うと、

Jくんが積極的にアイデアを出して、上手に遊んでいましたよ」というコメントを

いただいたそうです。

ところが、Jくんのお母さんがJくんにその日の様子をたずねると、

暗い表情で意外な答えが返ってきたそうです。

スタッフに言われた通り、「こんなことをしようよ」とアイデアを出したJくんの案に

その場にいた子らはすぐに乗ってきたのだけれど、少し遊んで飽きてくると、

その子らがJくんの人格を否定するようなひどい言葉を浴びせて、

去って行ったそうです。

 

この話を息子にすると、「途中で遊びがつまらなくなってくると、

遊びの言いだしっぺの子を責め立てたり、たいした理由はないんだけど、

嫌な気分の責任を取らせるように、キモイとかうざいとか消えろとか言う子は

けっこういたな。

エンターテイメント性を売りにしたアミューズメント施設で、

めまぐるしく新しい面白い刺激で満たしてもらうのを遊びだと思うのが主流になって、

遊びを楽しむには、自分でもそれなりの努力がいるのを忘れているのかもな」

という返事が返ってきました。

前置きがずいぶん長くなってしまいました。

そろそろ「何度注意しても、学校の持ち物の管理がいい加減な小学生のBくん」への

対応について、わたしの考えを言葉にしておかなくてはなりませんね。

 

Bくんのお母さんから、こんなコメント(ブログへの文面引用はOKという

非公開コメント)をいただきました。

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いろんな状態・状況の子たちも、根源的な問題は共通しているのですね・・・。

ネガティブ感情・・・そんなに否定してきたつもりもなかったのですが・・・。

特に、就学前までのややこしい時期には、それこそややこしくて、

ネガティブ感情をもろに私にぶつけてきて、私もいつも途方にくれながらもひとまず

受け止め、受け入れ、「この時期を乗り越えたら、また成長する!」と信じてきたし、

実際そうやって成長してきたと痛感しています。

でも、就学してから、ネガティブ感情を私にぶつけなくなりました。

今までなら、ぶつける前は、自分で抱えていっぱいいっぱいになっていて、

感情が不安定だったり、何かしら前兆というか、

ストレスを抱えているんだなということを察することができましたが、

就学してからはそういう姿も見られなくなりました・・・。

実際とっても困っていることもないようですし、

先生から特に注意を受けることもなく・・・学校のことは大好きだし・・・。

だから、安心していたのですが、その反面、手ごたえの無さにいつも歯がゆい気持ちや

不満・漠然とした不安を抱いていました。

この手ごたえのなさ、なんなのでしょう??

わたしはいつも、もっとぶつかってきて欲しい、と思っているのですが・・・。

結局わたしの一方的な思いをぶつけるだけで終わってしまいます。

支配的なわたしの接し方のせい??

(勿論、いつでも言うことを聞かせたいとは全く思っていませんが・・・)

学校のせい??

(学校は、ガチガチに厳しいということはありません。個人の才能を伸ばそうとして

下さっている、と思っています。)

どうしてこうなっちゃったのでしょう?!

夏休みの宿題、特に自由研究は、Bからの発想や意見などを待ちたくて、

声掛けはするものの、あまりうるさく言い過ぎないように、と気を付けてきました。

今日、宿題提出のための登校日でしたが・・・。

おとといの夕方から取り組み出したため、勿論間に合いません。

結局ほとんどの下書きを主人と私が書きあげ、

Bは写すだけ・・・ちょっと聞いても、「わからないー」と。

そして、勿論、写すのでもめんどくさそうで全くやる気なく・・

休憩してはちょっとやり・・・文句言っては休憩して・・・。

当然間に合うハズもありません。

結局昨夜も10時過ぎには「もうねむい・・・・」「間に合うし・・・!」

とか言って寝て、それでも今朝は早く起きようという意志はなく・・・。

普通に起きてきて、机に広がった宿題を見て、ベソをかき始める始末。

学校行くまでに30分もないのに、朝ごはんも食べずに宿題を写しだし・・・。

なんなのでしょう???

今までタラタラ書き写して、半分もできてないのに、この10分20分で、

なんで「できる」とか思えるんでしょう?? 

今更泣く??今頃泣くの???

昨夜まで出来る気でいたのよね??

今まで間に合わないとは思わなかったの???

全て不思議です。

まだ3年生だからそういうものでしょうか??

それとも焦る気持ちから、心を切り離してきていたのでしょうか??

(宿題の合間合間にラキューに集中して、というか、ラキューの合間合間に

タラタラ宿題をして、いろいろ作っていました・・・)

結局電車の時間もあり、「遅刻は絶対したらいけない!」という強い約束を夏前に

していたので、直前にベッドでゴロゴロ現実逃避していましたが、

なんとか間に合うようには学校に行きました。

行ったら行ったで、宿題できずに忘れている子が何人かいるので安心したのでしょうか。

学校から帰宅後「明日までにはやる!」と張り切って言っているのに、

昼前に帰宅してから先程スイミングに行くまでの間も、

わたしが「ちょっとやれば?」と声をかけるものの、やっぱり一切せず・・・。

この夏休み、あまりの宿題のやらなさに、習い事も減らそう、塾もやめていいし、

学校も変わったらいい、と言っても、「やめない!どれもやめない!!」と言います。

わたしも、習い事をやめたり、時間をたくさん与えることが解決に繋がるなら

全てやめさせるのですが、時間がないとかが本質的な問題でもないな、と感じています。

この夏休み、かなり時間がありましたが、結局自分自身の心やらと向き合うことは

なかったのではないかと思います。

感情と思考・・・どうやったら自分自身と結びついてくれるのでしょうか???

以前から先生には指摘して頂いていましたが、

今頃になってようやくわたしも腑に落ちました。真剣に思い悩んでいます。

ああしたら治る、こうしたら良い、という簡単なものではないことは、

重々承知しています。

でも、ヒントになるような糸口をみつけることができれば・・・と思っています。

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この悩ましい状況への解決の糸口として、3つの視点から

よく考えてみるといいように思いました。

 

ひとつめは、「常に意識の焦点を当てて言語化している悩み」が、

「ステレオタイプな外から与えられる情報か、他者からの評価にかかわるもの」

絞られているため、日常に散らばっている根っこ部分の問題を解決するためのチャンス

逃しているのではないか、という見方です。

 

ユースホステルのレッスンでは、

寝食を共にして、普段のレッスンの外にある子どもの姿、親御さんと子どもの関わりを

目にすることになります。

 

その時、驚くのは、しょっちゅう悩んでおられる問題を解決するようなチャンスが

目の前にあって、それがとてもわかりやすいものでも、

たいていの親御さんが気づかないか、躊躇している間にチャンスを逃すか、

わかっていてもスルーしてしまわれることです。

 

「何でも興味を持って手を出したがるけれど、表面をかするような関わり方ばかりで

どれも深まっていく気配がない。困り事があると、ママーと頼っては、

頭も心も100パーセントお母さんに預けてしまう。

自立心と責任感の育ちが気になる」という小2のMくんのお母さんが、

「(事あるごとに頭も心もお母さんにバトンタッチという態度が気になるので)

親の目のないところで子ども同士で遊ぶ体験をさせたいけれど、そうできる相手も

場も時間もない」ということを何度も口にして悩んでおられました。

 

この日のユースホステルのレッスンには、子どもだけで参加しているMくんより

年上の男の子たちが参加していました。どの子も親しみやすい気さくな子たちで、

初対面のMくんを快く遊び仲間に迎え入れてくれました。

Mくんは、Mくんの生意気やおふざけが過ぎても、

大らかに接してくれるお兄ちゃん連中に解け込んでいましたが、

遊びに飽きるとお母さんのところに戻ってきてベタベタしていました。

 

そのベタベタは、お母さんに甘えたいから甘えているというより、

子ども同士の世界にどっぷりつかって遊びたいものの、そうすると、

「こうしようよ」とか「それは嫌だよ」とお母さん抜きで直に相手に自分の思いを

伝えていかなければならない場面にぶつかるので、それを避けたい様子。

子どもの世界に片足をかけた状態で、もう一方の足は常に退陣場所(お母さんのところ)

をキープして遊んでいました。

 

お母さんがわたしに、「子どもだけで遊ばせたいけれど、そうできる相手や場所がない」

という悩みを口にしておられた、まさにそのとき、

同じ部屋で、男の子たちが着替えとバスタオルをまとめて、上の階の銭湯に行く準備を

していました。

 

ここのユースホステルには、

小学生になると男の子は男風呂、女の子は女風呂に入る決まりがあります。

ですから、女の子たちはお母さんといっしょに風呂に入りますが、

男の子たちは、「銭湯内では、暴れない、泳がない、走らない。

何かあったらすぐに大人に知らせる。身体を洗ってから風呂に入る。

年長の子は責任を持って年下の子らの面倒を見、

年下の子は年長の子の言いつけに従う」と厳しく言い渡されてから、

男同士、何人かでいっしょに風呂に行くことになっています。

 

「Mくん、男の子たちみんなでお風呂に行っておいで」と言うと、

Mくんは、「ぼくは……うーん……お母さんと入ろうかな……」と

迷っていました。口ではそう言いながらも、男風呂はとても魅力があるようで、

心が揺れているのがよくわかります。

すると、先ほどまで「子どもだけで遊ばせる場がない」と悩んでいたお母さんが、

男同士で風呂に行かせるのは心配な様子で、無言ではあるけれど、

「行きたくないなら行かなくていい」とでも言うような、

はっきりしない態度になりました。

すると、お母さんの迷いがMくんに感染して、

Mくんもぐずぐずと態度を決めかねていました。

 

「ちょうどここでは小学生は性別にお風呂に入る決まりがあることですし、

滑って転ぶ心配もあるでしょうけど、そこは厳しく注意しておいて、

思いきって男風呂に行かせた方がいいんじゃないでしょうか」とわたしが言うと、

お母さんの返答は、「ええ、まぁ……」とちょっと歯切れが悪いものではあったものの、

Mくんをお兄ちゃん仲間に同行させることになりました。

 

気になったのは、Mくんのお母さんが何について心配しているのか

いっさい言語化しないまま、Mくんの揺れる思いを自分のほうに

引き戻そうとしていたことでした。

迷いの原因が、環境の不備や事故につながるような本人の認識の甘さにあるのなら、

そこにあるリスクをはっきり言葉にしておかなくてはならないし、

生死にかかわることは真剣に言い聞かせ、他人の迷惑になることは

具体的に相手がどんな気持ちになるのかまで教える必要もあるでしょう。

 

でも、Mくんのお母さんの迷いは

そうした具体的な未知のリスクにあるのではなさそうです。

 

「子どもだけで遊ばせて、自分で問題にぶつかって、

大人に頼らず問題を解決する機会を与えたい……でも、

子ども同士遊ぶ場や相手がいない」という悩みがレベル5なら、

そのレベル1にあたる

「子どもだけで活動するといっても短い時間だし、安心できる相手だし、

事前に注意事項を伝えることができるし、何かあれば知らせてくれるよう頼んだし、

もしもの時は壁ひとつ隔てた場所に大人がいるし、

揺れているとはいえ本人がいっしょに行きたい気持ちを持っている、

おまけに、それを体験させれば

自立心や男の子としての自信につながるにちがいないという利点がある」

という状況下での活動も、チャレンジさせるのは何となく不安。

本人が揺れているなら、やらない方向に流れた方がいい……という

お母さん自身の心の中に迷いの原因があるようなのです。

 

 だとすると、「子ども同士で遊ぶ場がない」と何度も口にしている悩みは、

叶わぬ願いだからこそ口にできるもので、

実際に子どもだけで遊ぶことが可能になると、悩みはもっと大きくなるかもしれません。

 

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