虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

現代を蝕む 自己コミュニケーション障害(ディスチミア) と 感情制御の障害(アレキシサイミア) 5

2012-04-30 20:36:45 | 初めてお越しの方

脱線ついでに、息子と現代の若者についての話題で交わした会話をもう少し紹介させてくださいね。

(ディスチミア症候群と少しは関係があると思いますので……)

お忙しい方は読み飛ばしてください~♪( 5月3日~5月5日ブログをお休みさせていただく予定です)

 

記事の途中で、東大パパさんの「東大生に就職先がない」という記事へのリンクが貼ってあります。

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昼食後にのんびりしていた息子に、

 「★(息子)が指摘していた利益で誘導によって勉強や働くことを動機づけようとしている

 という問題点について、とても深い視点から書いてあるわよ」と、

 ブログの「内田樹の研究室」の『格差と若者の非活動性について』という

 記事を読むように勧めました。

 一通り目を通した息子は、内田樹氏の意見に共感した後で、

 次のようなことを話ました。

 息子 「ぼくたち若者と呼ばれる世代の大半が、

 格差をなくすために過激な方法に頼らないのは、

 社会から冷めてるだの、元気がないだの言われて当たってる面もあるだろうけど、

 一方で、デモやストの無意味さや自虐的で破壊的な行為がそれほど良い結果をもたらさないことに

 気づいているからでもあるんだ。

 自虐的にではなく

 まっとうな方法で社会を変えていこうと考えている人が多いはずだよ。

 どうして若者はもっと行動しないのか、どうしてもっと怒らないのか、

 と若い世代の非活動性に、『弱さ』を感じる前の世代もいるのかもしれない。

 でも、そこで『強さ』と『弱さ』ってイメージの背後にあるものを冷静に

 考えてみることも必要だと思うんだ。

 団結して運動して、何かを攻撃したり破壊したりすることは、

 傍から見れば自虐的な自殺行為で、経済をさらに停滞させるよ。

 日本じゃ働かざるもの食うべからずって考えがあるし、

 攻撃する前に社会の構造を正確に把握しようともせずに

 自分の視点からだけで不満を

 わめきちらす行為には、躊躇して踏み出せない人も多いはずだよ。

 『弱さ』というのは、否定的な側面だけでなく、

 正しさというか、躊躇すること、

 熟考して動くこと、さまざまな物事への配慮といった肯定的な面もはらんでいるし、

 『強さ』というのは、そこから受ける良いイメージとは裏腹に、

 悪さやずるがしこさや弱者への鈍感さをはらんでもいるんじゃないかな。

 強さを前面に押し出して、目的のために手段を選ばずで社会に訴えていこうとすると、

 それぞれの行為に問題が絡んできて、その行為によって犠牲になったり

 迷惑を被ったりする人がいるよね。

 なかなか動かない現状にじれて、そうした他の立場からの視点を切り捨てて

 過激なだけで解決すれば、

 それはいつか、強引過ぎる最初とは異なる目的にすり替わっていくはずだよ。

 社会や経済についてもぼくたちは、

 騒げばいい騒げばいって構えている部外者じゃないはずでさ。

 ひとつの電力会社を責め立てて終わっている原発の騒ぎとおんなじように、

 自分を原発を利用したことからは無関係な安全な被害者か部外者の位置に置いて、

 問題が自分の外にあると錯覚して攻撃していても、

 進展はないと思うんだよ。

 外である社会の問題でもあるけど、個人の内面の意識やこれまでの選択の問題でもあるんだから」

 

 母 「そうよね。

 不満から生まれる負のエネルギーで、よく考える時間や話し合う時間も作らずに

 攻撃に向かうのはどうかと思うわ。

 メディアもよくやっているけどね」

 

 息子 「さっき言ってた『弱さ』の肯定的な面のことだけど、

 弱く見えるものは、直観的な強い人間本来の良心のようなものとつながっている

 と思うんだ。

 

内田樹氏は 他者への気づかい が 隣人への愛 が人間のパフォーマンスを最大化すると

 いうことに日本社会が気づいていないという話で結んでいるけど、

 

若者って呼ばれている世代は、誰の役にも立たない

 心を消耗するような行為はしたくない……

 っていう道徳的な自分の心を汚すことへの嫌悪や疲れは

 十二分に抱いていると思うよ。

 他者への気づかい というのとは、少しちがうかもしれないけど。

 それは働く意欲がなかったり、ニートになることとも関連があるんじゃないかな。

 

生産的でない他を攻撃することで成り立っているような仕事が増えすぎているからね。

 それに対する本能的な嫌悪感が

 働く意欲を削いでいるはずだよ。

 広告のネガティブキャンペーンなんかを見ると、仕事が

 ただ、いかに相手の会社を出し抜くか、相手を貶めて儲けるかで

 回っているように見えてさ。

 働くことに意味を感じないのって、自分の労働が、

 

単に他の企業との競争のなかに無意味に消えていくことに疑問を感じているのかもしれない。

 たとえば、何年もかけて新技術を開発して発表するとして、

 その仕事の価値は、翌年には他の会社に技術を真似されて終わりだし。

 

真剣な研究も、一年もたたない間に古い無価値なもののように扱われるよね。

 そんな仕事の現状を見て、自分の命は他人のために役だっているのか、

 

自分が働いたところで、誰が救われるわけでもない、自分は本当に人間に役立つことをしているのか……

 そんな風に、生きている意味や生きがいの消失にも

 根ざしているものだと思うよ。

 だからこそ、農業に憧れる若者たちもいるんだろうな。

 確かに農業は、自分たちで作って、収穫して、

 本当に人間に必要なことをしているって実感できる気がするから」

 

東大パパさんが、

東大生の就職先が無い

という記事のなかで書いていらっしゃる

「東大生の就職先がこの10年ほど迷走し続けている」

という現実は、

東大出の子たちといわず、

日本の豊かで平等な社会で

ひとりっ子ふたりっ子として大切に育てられている子たちが、

社会に出るときにみな一様に、

「方向喪失感」「仕事に対する夢のなさ」「流行の甘い言葉に乗せられて仕事を選ぶことへの懐疑心」

といったものにぶつかっているのかもしれません。

 

こうした若者の心が直面する現実を思うとき、

今、ゆとり教育批判から脱ゆとり教育に変換するために

「もっと子どもに競争力をつけなければ日本の将来が危ない」

「勉強して受験勉強を勝ち抜いていける子にしなくては……」と

勉強さえすれば日本経済を蘇らせていく戦力となれるのだという煽りは、

「その通り!」と心から納得してがんばる気持ちになれない

嘘っぽさを感じるのです。

 

「それならどうして必死で受験勉強を勝ち抜いてきた東大生たちのなかに

働いて経済を引っ張っていくというより、

就職することや

3年、仕事を続けることに

挫折している子たちがいるの……?」

という素朴な疑問。

 

「子どもに受験でがんばらせて競争力をつけたら、必ず日本の経済にプラスになる」という

考え方自体が、もともと間違っているんじゃないの?

それも一理あるとしても、

重要な何かが欠けているんじゃないの?

と思えてくるのです。

 

そんな疑問を抱きながら

先に紹介した内田樹氏の記事を読んで、

「現代の子どもを育てる親も子ども自身も

社会や学校教育が率先して子どもたちや子を育てている親に刷り込んできた思想に

嗜癖しているのかな?」

と感じました。

 

その思想というのは、内田樹氏の言葉を借りると、

「値的に示される外形的な格付け基準に基づいて、ひとに報償を与えたり、

処罰を加えたりすれば、すべての人間は報償を求め、

処罰を恐れてその潜在能力を最大化するであろうというきわめて一面的な人間観」

「能力がなく、努力もしていない人間は(老人であれ若者であれ)低い格付けをされるのは当たり前だ」

という考え方です。

 

つまり能力主義信仰。

 

学校が集団を自分たちの思うように方向づけるために

子どもたちに手を変え品を変え叩きこんできた思想で、

その使い勝手の良さから大多数の人がそれに対して疑問を差し挟まずにきた思想。

 

「成功した者には、社会下層にとどまっている仲間を救う義務は発生しない」

「能力のある人間が抜擢され、無能な人間が冷遇されるのは当たり前」という考え方です。

 

内田樹氏はブログに次のように書いておられます。

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それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた「イデオロギー」の帰結だからです。
彼らが教え込まれたのは「能力のあるもの、

努力をしたものはそれにふさわしい報酬を受け取る権利がある。能力のないもの、

努力を怠ったものはそれにふさわしい罰を受けるべきである」という「人参と鞭」の教育戦略です。

(略)

世代間の不平等については激しい発言をする若者たちも、

同世代間に発生している格差については押し黙っている。

それは能力主義的な思想が彼らに深く内面化しているからです。

若者たちは資源配分のアンフェアに怒っているのではなく、

「(それなりの能力をもつ)私に対する評価がフェアではない」という点について怒っているわけです。

だから「能力のある人間が抜擢され、無能な人間が冷遇されるのは当たり前」

という格差を生み出す発想そのものには異議を唱えていない。

                    『内田樹の研究室』

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あるとき、息子が、

「若者批判って大昔からあるんだろうけど、今の若者に対する批判を目にすると、

これって同族嫌悪なんじゃないかなって感じるよ。

だって、今の若者は……に続く言葉が、そのまんま今の大人と呼ばれる世代の問題とも重なるし、

人間全体の問題にも見えるからね。

若者って言葉のなかに、無理矢理、閉じ込めてしまっているけど、

結局は現在の社会構造そのものの欠点を若者の弱点の上に見ているんじゃないかな」

 

母 「確かに、モンスターペアレンツなんて言葉がはやっているけど、

モンスター扱いされている世代は、ゆとり教育を受けているわけじゃないのよね。

まるでゆとり教育で大量の欠陥品が社会に放出されているように

言いきってしまう教育関係者は口をつつしまなきゃ。

今の世代の子は、17歳の子らの殺人が社会をにぎあわせていた頃のような

目立った犯罪は減っているわよね。

そうしたことを無視して、テストの順位だけで

ひとつの教育法を受けていた世代を無能扱いするのは、バランスが悪いわ」

 

息子 「同族嫌悪で子どもを通して自分の嫌な部分を見ているとしても

それはそれでいい面もあるのかもしれないよ。

若者に対する見方のなかで、社会構造の負の部分、

変えていかなければならない部分が

浮き彫りになってくるからね。

ぼくはこれからの時代は、昔の数学者のガウスのような生き方や働き方の哲学が

必要になってきているように思っているよ。

働いていくために、かつての哲学的な知恵を見直すことが大切になってきているんじゃないかな」

 

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続きを読んでくださる方は、下のリンクを読んでくださいね。

 

「若者たちはなぜ、社会に対して何か訴えたり行動しないのか」という内田樹氏への質問 4

「若者たちはなぜ、社会に対して何か訴えたり行動しないのか」という内田樹氏への質問 5

「若者たちはなぜ、社会に対して何か訴えたり行動しないのか」という内田樹氏への質問 6

「若者たちはなぜ、社会に対して何か訴えたり行動しないのか」という内田樹氏への質問 7

 

「若者たちはなぜ、社会に対して何か訴えたり行動しないのか」という内田樹氏への質問 8

「若者たちはなぜ、社会に対して何か訴えたり行動しないのか」という内田樹氏への質問 9

 

コメント (1)

現代を蝕む 自己コミュニケーション障害(ディスチミア) と 感情制御の障害(アレキシサイミア) 4

2012-04-30 19:31:41 | 教育論 読者の方からのQ&A

現代を蝕む 自己コミュニケーション障害(ディスチミア) と 感情制御の障害(アレキシサイミア) 3

の記事に次のようなコメントをいただきました。

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先日、「新うつ病」と若者を特集した番組を視聴しました。思うようにいかないことに遭遇すると、

他人のせいにして自分を肯定する若者が増えているそうです。
社会に出て、いろんな年代の人や価値観に触れ、適応できなくなるほど揺らいでいるようでした。
しかし、その根本には幼いときから母親の教育的な対応があるようで人生のレールを引かれ、

そこから外れることを許されないで、親の言うがままに育ってきた背景があ
りました。
これからの日本を担う若者、こどもたちが
これでいいのか?
考えていた以上に深刻な状況が新入社員に
あるようです。
わたしは、まだ子育て世代ですが
「大多数」にのまれることなく、自信を持ってしっかり育てていきたいと思いました。

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このコメントをいただいて、半年ほど前に「内田樹の研究室」というブログの記事を読んだ後に

息子が言っていた言葉を思いだしました。

 

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息子  「最近の若者は内向的で外に目が向かないって声をよく聞くけど、

内向することは必ずしも悪いことばかりじゃないよ。

確かにぼくの周囲にも内面世界の安定を何より優先している人は

多いと思う。

内面世界が広がり過ぎたゆえに、いままで効果がなかったイメージ戦略が

重要視されてるとも言えるよね。

この水の何パーセントかが海外ボランティアへの募金につながります~なんて

言葉にぼくたちの世代が惹かれることを、

単なる世間知らずやゆとり教育が作りあげた弱々しい人間という枠でだけ捉えるのは

どうなのかな?

小さな損害に騒ぎ立てて、攻撃しているように見えるときにも、

裏を返せば、私利私欲をもさぼる人への嫌悪感と

ぼったくらずにまともに商売している人を守りたいという

潔癖な気持ちが動いていたりするもんだよ。

 

ネットの掲示板を見ていても、

心の奥へ奥へと内面世界に目を向ける人は確実に増えていて、

解決をそこに求める人々も多いのがわかる。

ただ、内面世界が広がるばかりで、

その世界が成長するすべを持っていないんだ。

純文学を読んでいると、ひと昔前の若者も、

内向することを選んだけれど、そこには成長するための確固とした

基盤や背景があったのを感じるよ。

 

今、ぼくたちが自分たちの内面世界を成長させる活動は

商業主義の社会とか日常の慢性的な忙しさに邪魔されているように思うな」

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繊細で傷つきやすく自分の内面に目が行きがちで、

困った事態にぶつかると他罰的に振舞う若者たちも、

かつての若者たちと同じように成長のためにもがいているのには変わりないのでしょう。

 

「ひと昔前の若者も、

内向することを選んだけれど、そこには成長するための確固とした

基盤や背景があったのを感じるよ」

 

という若者のひとりである息子の言葉に考えさせられました。

「若者については、若者に聞く」という方法で、若い世代が直面している問題や考えていることについて

わたしはうちの子たちや事務の女の子(20代)と延々とこうした問題について

話込むことがよくあります。

 

特に息子はわたしが言語化できずに、もやもやくすぶらせていた内容を

ズバリと言い当てるような返答をしてくることが多いので

会話をメモしておいて記事にすることがたびたびあります。

 

少し話が脱線しますが、現代の社会のあり様と

若い世代の目に映る自分たちの姿と自分たちが生きる世界について関心がある方は、

続きに目を通してくださいね。

 

 

 

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 1

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 2

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 3

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 4

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 5

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 6

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 7

政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり) 8

という一連の記事の「6」で、

日頃、ゆとり教育を受けた世代について、感じていることを書かせていただいたところ、

e-子育てcomの羊先生から次のようなコメントをいただきました。

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奈緒美先生、いつもブログにコメントお寄せ下さりありがとうございます。虹色教室通信を読むと、色々頭の中に考えが渦巻くような種を投げ込まれる感があります。今回の記事もそうでした。

「自分で判断するなという圧力」にさらされた子どもたちとおっしゃっているのは、そのとおりだなと思います。小生の寺小屋に来て外遊びをしていても「先生トイレに行ってきていいですか?」と尋ねます。「トイレは好きな時に行ってもいいよ」と常々言っているのですが。許可を取ることに慣れてしまっています。

大人がそうさせているのですね。塀を乗り越えて空き地で遊んだ子どもが怪我をしたら、管理者の責任を追求する。放課後遊んでいて事故が起こると学校の責任になるので、授業が終ったら一斉下校させる。

大人だって何かあれば自分の落ち度を棚にあげて相手の責任を追求する風潮ができあがっています。

結局転ばぬ先の杖を突き過ぎて、子どもが自分で歩けないように仕立て上げておきながら「今の若者はなんにもできん!」と怒る。なんの解決にもなりませんね。

話は変わりますが、ハリー・ポッターの寮生活を見ていると、彼らも規則に縛られているのですが、常にそれを破ろうと機会を狙っている。規則破りは仲間からも賞賛される。そうして規則を破った動機が間違っていなかったら教師の方も寛大な処置をするというシーンが度々描かれています。

どんなに規則があっても運用次第で子どもの能力を伸ばすことができる道はあるのかも。

 

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コメントにあるハリーポッターの寮生活の話に思わず頬がほころびました。

「わたしの子どもの頃も、自分で判断するなという大人の圧力はあったし、

周囲の大人たちは、集団にすぐに同調したり、

 自分の責任を他人に転嫁しては責め立てるという頼りない面が大いにありました。

 とにかく、子どものわたしからも精神的な虚弱さが透けて見えるような

 その時代の大人たちに囲まれてはいたけれど、その監視下のもとで、

 

子どもだった私は今の子よりのびのびとした解放感を感じて暮らしていたな~

 今と何が違っていたのかな?」

 時折、浮上してくるそんな疑問への答えが、コメントで取り上げられている

 

ハリーポッターの話題に隠れているように

 感じました。

 わたしが小学生だった頃、

 規則を作るのは大人、ルール決めるのは大人、

 それを崩したり破ったりするために

 小さい者同士わさわさでたらめに横につながっていくのが子ども、

 既存のルールの隙をついて新たな問題を提示するのが子ども、

 という関係があって、大人の上からの圧力に対して、

 

人の頭数とでたらめさでそこそこ立ち向かうことができたんですよね。

 たとえば、「学校に不必要なもの持ってきてはいけない」というルールがあっても、

 必ず、その隙間を狙って、「これならおもちゃじゃないんじゃない?これくらいいいじゃん。

 

これは学校で友だちと遊ぶと面白そう!」ってことを思いつく子がいて、

 常に新しいものが流行っていました。

 女の子でしたらシャーリングとかお手玉とかおはじきとか

 なんですけど、家だと見向きもしないような地味なおもちゃも、

 

学校だとそれしかありませんから、みんなで夢中になって練習したり、新しい遊び方を考えだします。

 ワザで競えない子は、シャーリングの色のきれいな組み合わせを自慢したり、

 

すぐにお金でなんとかしようとする子は、その路線上でみんなをあっと言わせるようなものを買ってきたり…

そうこうするうちに、シャーリングだけでなく

 鉛筆や消しゴムの珍しいもの自慢みたいなものが加速してきて、

 そうした物が学校内選挙(当時の小学校では学校をあげて

 生徒会長を選ぶ選挙活動が行われていました)でわいろに使われだしたり、

 盗んだ盗まれたの騒ぎが起きたりして、

 最後にはそうしたグッズが学級会でやり玉にあげられて、

 

「そんなものを持ってくるのが悪いから、禁止にしよう」という

 流れになるのです。どうせその頃には、みんなそんなおもちゃに飽き飽きしているものです。

 でも、そうしたぐだぐだした現実を通して正義感やら、問題意識が揺さぶられて、

 

少しずつ大人になっていったな~と懐かしく思い出します。

 学校に持っていってもさほど問題を感じないもの……のひとつとして、交換日記も流行りました。

 わたしもいろんな友だちと交換日記を回すうちに

 いつのまにか5~6の交換日記グループに所属することになりました。

 「交換日記しよう!」「いいよ~やりたい!やりたい!」と受けるときは調子がいいものの、

 

毎日、紙面を文字で埋めていく作業のハードさ、友だちの催促のうるささ

 (誰もが自分のグループの交換日記を優先しろとうるさい……)

 「行きはよいよい帰りはこわい~こわいながらもとおりゃんせとおりゃんせ~」のメロディーが

 耳のなかで響き続けるような心地で、

 しまいに授業中まで交換日記を書いて回すようになっていました。

それも、終わりの会でやり玉に挙げられ、私を含む数名が立たされて

 クラス中の集中攻撃を浴びせられ、泣いて謝りながら、

 涙のどこかでこの流行が終息することにほっとしながら、同時に次なる新しい遊びの

 種が胸のなかで生まれつつあるのを感じていました。

 そんなとき、先生は……というと、

 子どもの世界などそんなドタバタが常にあるものという適当さと余裕があって、

 

「叱るけど、抹殺はしない」「問題が起これば圧力をかけるけど、予防線を張って禁止まではしない」

 「親の苦情に対して鈍感で、自分の仕事は子どもの教育と思っている」

 という態度でした。

 というのも、厳しい割に、

 

当時の大人は、直観や身体では人間というものが

 わかっているところがありましたから。

 つまり、森に入っても、食べれるものを一切合財、収穫していくんじゃなくて、

 そこで生きる動物や来年のために残しておく知恵のようなものです。

 言葉にするのが難しいんですけど、子どもが「自分」の知恵を使えるスペース、

 「自分」で新しいルールを作っていけるスペース、

 「自分」で失敗して、挫折から学べるスペースをちゃんと残しておく

 ゆるさがあったのです。

 今、子どもの世界で数値で見える成果を上げようとしている姿を見ていると、

 「森に大型重機を持ちこんで、食べられるものや利用できるものを

 一切合財取りつくして、その時期の数値だけ他所の森と競い合う」みたいな

 

イメージを受けるんですよね。

 「学校をフランチャイズ化して、子どもたちを全国で一斉に販売するハンバーガーみたいに

 扱っている」ようにも

 「清潔志向が行き過ぎて、善玉菌まで抹殺してしまっている」ようにも見えます。

 とにかく、わたしが子どもだった頃は、学校は「コンピューター」ではなく

 「生身の人間」が管理しているところで、

 ドロドロしたドラマがいっぱいあって

 将来、社会に出たら役に立つような勉強をするチャンスがたくさんあったのですよ~。

 

以前書いた『お仕事裏話』というバイト体験記で、わたしは

 若者の雇用の厳しい現実と、仕事現場で役に立つ能力やワザがどういう種類のものか

 まざまざと実感たことを言葉にしたことがあります。

 

職場では理不尽なことで怒鳴られたり、いいように利用されたり、

先輩がいじわるして教えてくれないなんて、

 あたり前にありますから、そういうときにどういう心で、どういう知恵で、どういう能力で

 切り抜けていくかというのが大事になってきます。わたしの場合、

 子ども時代のごたごたや揉め事やドラマや人間観察なんかが

 働くときにとても役に立っているのを感じます。

  お仕事裏話 9

  こんなわたしの思い出話を書いたのも

 

『内田樹の研究室』で内田樹氏が、『格差と若者の非活動性について』

 http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php

 という記事を書いているのを見て、強い衝撃を受けたからでもあるし、

 この記事がリンクしてあった

 東大パパさんの

 コミュニケーション能力と連帯

 という記事に共感したからでもあります。

 『格差と若者の非活動性について』のなかで、内田樹氏は、

「これだけ若者たちにしわ寄せが行く社会になっているのに、

 そして政策的にも若年層に不利な方向で進んでいるのに、

 若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのでしょうか? 」

 という質問にひとつの答えを示しているのですが、

 若者のひとりであるうちの息子が、そうした問いにどのような考えを抱いているのか

 話あってみると、経済が明るくなっていく一方だと信じていたバブル前に社会に出たわたしなどと

 比べると、この世代を生きている息子が、これまでも真剣にこの問いと向き合ってきた

 ことに気づきました。

 

(『政治と社会システムについて考えること (息子とおしゃべり)』のなかから、

 「若者たちはなぜ、社会に対して訴えたり行動したりしないのでしょうか?」という問いへの

 答えとなるような息子の言葉を拾ってみました。↓

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「社会の仕組みが複雑すぎて、

 いったい何をどう変えたら個人個人にとってよくなるのか、わかりにくい。

 それで、問題を糾弾して騒いだり、本質的な問題からずれた敵を

 攻撃するだけで終わりがちなんだと思う」

 

「どの分野も最先端に向けて進歩し続けているって捉えられている一本の道筋があって、

 その道上の進退にばかり目が奪われているけれど、

 同時にもっと全体的な見方で、医療の世界でいう東洋医学的な捉え方で、

 それを見直す必要があるんだと思う。そういう意識の転換が、これからは求められているんじゃないかな?」

 

「 労働者自身が何が辛くて、何が欲しいのか、

 政治的に利用されないで考えていけるようなツールが必要だと思うよ。

 お金がある人がお金のない人を利用して、さらにお金を得て、

 お金のない人はお金のある人に利用されるだけで、されるがまま、なすがまま。

 そうして我慢したり、病気になったり、関係ない相手にイライラをぶつけたりするのではなくて、

 ここまでは自分で守れるという一線を見極めておく必要があると思うんだ」

 「働くってことは、多くの人に共有されていることなのに、

 それに関わる重要な知識は、知っている人と知らない人で大きな差があるよね。

 特別な教育を受けた人じゃなくても、社会に関わる物事を、総合的に分析することが

 できるような道具が必要だと思うんだよ。

 そういう意味で、パソコンは今でこそ使い方が悪いけれど、

 みんなを幸福に導いてくれるツールのひとつになりえるものだと思う。

 数学の世界でも、関数電卓ができただけで、それまで複雑すぎて一部の人しか

 できなかったような数学的な思考実験が簡単にできるようになっているんだ。

 同じように、経済や社会の仕組みにしても、全体像を目で見てわかりやすい媒体で、

 誰でも総合的に分析できる道具ができたら、大衆全体の考える力が向上するはずだよ。

 

複雑になりすぎた世界が、完全にブラックボックス化する前に、

 もっと誰からも中身が透けて見ることができるようなツールが必要なんだと思う。

 昔、家族でよくシムシティーで遊んだよね。

 ああいうものも、社会がどんな原因と結果でつながっているのか理解するのに

 面白いツールだった。

 

ぼくも大学に入ったら、そうした社会のあり様をシュミレーションできるようなツールを

 

作ってみたいと思っているよ」

 「こうしたストが創造的な解決法に結びついていくのは難しいよね。

こんな時代だからこそ、働く意欲のようなお金とは別の次元の価値を見直していく

 必要があるんだろうな。

 今はさ、お客にはどんなにサービスしてもし足りないくらいサービスするのは当たり前で、

 働く側はどんなに苦しくてもいいと思われている半面、多少、詐欺的な面があっても、客を騙すような儲け方

 をしても構わないって風潮があると思う。

 

でも、多くの人が、自分は99パーセントの被害者だって感じるような経済なら、

 そろそろ、仕事観を改める時期が来ているんじゃないかな。

 働くことから得る精神的なものの価値について、それぞれが考えていく時期が来てるっていうかさ。

 

経済とか社会の仕組みを、個人個人の感情の面からも捉えなおすのも大事だよ。

 

人の幸せはお金と等価交換できないからさ。

 働くからには辛くなくちゃいけない、命をけずっていかなくちゃならない、

 時には自分の道徳心を裏切って詐欺的なこともしなくちゃならない……それが社会で、

 それが仕事ってものだって考えを、社会全体で見直して、

 みんなが幸せを感受できる社会システムを作っていかなくちゃ

 お金を持っている人と貧しい人の衝突は、これから激しくなる一方だと思うよ。

 それぞれの人にしても、仕事は単にお金を得る手段と割り切るのではなくて、

 仕事そのものに魅力を感じる能力がいるんじゃないかな」

 

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ふたごちゃんのひとりひとりとじっくり関わる大切さ

2012-04-30 17:59:00 | 子どもの個性と学習タイプ

小学2年生のふたごちゃんのレッスンで、レッスン時間を半分に分けて、

ひとりひとりの子を個別で見ることになりました。

ふたごでいっしょに過ごしている時は、相手に面白いおもちゃを取られないかと

気になって、ままごと道具や人形でばかり遊んでいた☆ちゃん。

ひとりのレッスンの時は、そうしたソワソワした態度が減って、

それまでは興味を持とうとしなかった「科学の箱」の中身でじっくり遊んでいました。

 

星の砂に興味を持っていたので、虫眼鏡で覗きながら、

星の砂を使った指輪作りをすることにしました。

↑上手に作れて大満足。

他にもさまざまなものを虫眼鏡で見たり、

惑星の模型や断層の模型に関心をしめしていました。

ふたごちゃんは、ふたりいっしょでいる時とひとりひとりと接している時で

別人のように興味を向ける対象や集中力が変わることがあります。

家庭でも週に1回くらいでもいいので、ひとりの子とだけじっくり関わって

あげる時間が大切だな、と感じています。

☆ちゃんのひと工夫。

アイスを逆さまにセットし、

注文を受けたものを少し浮かせてから

ハンドルを回します。

この通り、アイスが自動的にコーンに乗ります。

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小学2年生の算数学習につまずいたら……

2012-04-30 17:43:47 | 算数

2ケタ~3ケタの数にあやふやなところがあると、

小学2年生の算数の学習でつまずいてしまう子がいます。

たとえば上の写真のように

10円玉五枚と50円玉一枚を見て、100円だとわからないような時は、

手で扱える教具(たとえばお金など)を使って

さまざまなパターンの言い方を練習してみるといいです。

 

「50円玉1枚と10円玉五枚で55円!」と間違えてしまう子と

作った手作り教具です。

60円なども6の指で表現してみることも

理解を助けてくれます。

 

「70円と90円を足すといくら?」

 

指を使って、「50円と50円が合体して

100円になる」ということを確認しながら

学ぶと理解しやすいです。

お金について学ぶと、2ケタ~3ケタの数を学ぶのにとても役立ちます。

写真のように、お金の上に薄い紙を乗せて

クレヨンうやクーピーペンシルでこすって、手作りのお金を作るのも楽しいですよ。

 

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「鳥の翼のあるスカラベ」  物作りで育む知的な好奇心

2012-04-30 12:45:17 | 工作 ワークショップ

小3の◎くんのレッスンで。

羽根のあるスカラベを作りました。

 

物作りが好きな◎くんは造形教室に通っています。

最初に通っていた造形教室は作るものが決まっていて

「みんなと同じ」ものを作ることからはみだすことが許されなかったそうで、

だんだん通うのが嫌になっていったのだとか。

そこで別の造形教室に変わったところ、自分の好きなものを作らせてもらえるのが

うれしくて喜んで通っているようです。

そこでは、毎回、自分の好きなように恐竜を作り続けているそうです。

 

自分の作りたいものを満足するまで作ることは大事です。

 

ただ◎くんは少し想像力が弱い一面があって、

一度、何かひとつできるようになると、そのまま考えたり工夫したりすることもなく

飽きてきても繰り返してしまうところがあるのです。

一方で、興味を持ったことは、深く掘り下げて知りたいと思うタイプでもあります。

 

そうした◎くんの個性を思うと、

自分の好きな物作りをたっぷりさせてあげながらも、

時には興味の範囲を広げてあげたり、好きなことを探求する方法を教えてあげたり

することが必要かな、と感じています。

 

◎くん、ツタンカーメン展で購入した図録を見ながら、宝飾品作りをするうちに、

細かい違いに気づいて、疑問を口にするようになってきました。

こうした図録を見ながら作っていると、

それが作られた時代についての興味が湧いてきます。

その時代の人々の信仰や考え方にも触れることになります。

大人が教えるのでなくて、

自分で気づいたことは子どもの心に強く響きます。

スカラベのおもちゃの裏に彫られている文字。

ヒエログリフへの興味へとつながりました。

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現代を蝕む 自己コミュニケーション障害(ディスチミア) と 感情制御の障害(アレキシサイミア) 3

2012-04-30 07:21:01 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事で、

 

社会全体がこのディスチミア症候群を生み出すような構造になりつつあって、

子どもの「生身の感覚」や

「生身の感情」や

「生身の衝動」や

「要求」や

「願望」を無視して

 まるでないもののように扱いながら子育てすることが

 みんなに……多数派に……主流に……子育ての王道……になりつつあることを危惧している

 

ということについて書きました。

 

「オーバーな……」「何のことを指摘しているのかよくわからない」と感じた方もいらっしゃるかもしれません。

子どもに関わる大人のあり方に、その人自身の感情との乖離があること。役割に依存して

自分がない状態で子どもと関わる人が増えつつあること。

そうした大人のあり方に染まる

「感情を切り捨てる子どもたち」

の気になる姿に

ついて過去記事から実例を紹介します。

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小学校に併設の幼稚園に勤めている方のお話です。
障害のある幼稚園児を小学校の高学年たちが威圧していじめるという出来事があり、園の先生が注意してもやめなかったそうです。
驚いた園長が、小学校に出向き子どもたちに話しに行ったところ、
小学校側の子どもたちへの指導は、「用事がないときは幼稚園に行かないこと」という新いルールを伝えたことだったそうです。


表面だけ決まり事で解決しようとする学校。

幼稚園の子が怪我をしたときに保健室の先生に頼るのは立場が違うからダメだと言うルールもあるそうです。
(近くで困っている人を助けなくていいと子どもたちに教えることにならないのでしょうか……?)
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知人からこんな話をお聞きしたことがあります。
その方の自閉症の子どもさんが迷子になり、町中を探していたところ、
「子ども安全パトロール」の車が通りかかったそうです。
呼び止めて事情を説明すると、
「私たちの管轄する仕事ではないから」とあっさり言われ、
地域の警察の電話番号すら教えてもらえなかったそうです。

私も、同じような?な気持ちを味わったことがあります。
小児病棟で、幼い孫にタバコの火を押し付ける真似をしては
遊んでいる老人がいて、以前、他の場でもその家族がその子の兄に虐待
(灯油缶で頭を繰り返し殴るなど)をしているのを見かけ、児童相談所に通報したところ、「住所がわからないと何もできない」と、とりあってもらえなかったため、
保健証などから住所がわかっている病院に少しでも協力してもらえないかと、
看護士さん方に小声で相談したところ、
顔を見合わせて、そのままになってしまいました。
業務以外は返事なし……何もしない……という方は多いのです。

もちろん、そうした方が冷酷非道で、悪い人だと思っているわけでは
ありません。小児病棟の看護士さん方ですから、笑顔を絶やさず、
優しい口調でお話されています。
ただ、
自分の自由な判断で、何かを決め、
さっと動くことができない方が多いな~
与えられたルールから一歩も踏み出せない方が多いな~と感じるのです。

その場合、相手の痛みとか、問題の深刻さとかを
きちんと把握できなていないな~と思うケースがよくあるのです。
あっという間に、「もっともらしいルール」(病院は個人的な家庭の事情には立ち入ることはできませんとか)にすりかわっちゃうので、状況について
よく考えられないのです。上司の方針以外で何かするなんて思いもつかないというか……
(そうして、子どもが虐待死するなりして、本当の犠牲が出て初めて、
ルールを少し変えるのって遅くないのかな?と思うのですが)

小学校でしたら、「早寝早起き朝ごはんの徹底」と、「虐待を受けているように見える状況下で子どもが数日学校を休んでいる状況」が
同じ扱いを受けるというか、

むしろ、朝ごはん食べたかチェックする方が
大事なんじゃないかと捉えているように見える先生もいたりして……

表面的には大多数の人にとって、
気持ちよく明るく優しい社会だけど、(そのためにルールが作られますから)
ルール厳守で、みんなを大事にして、
ものすごく困っているひとりは、少数派という「数」を理由に切り捨てていくのって、
何かなぁ……と思えるのです。

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先日、小学生の子たちのレッスン中、
ひとりの子が後ろを見ずに椅子を下げたため、通りかかった他の子の足を
椅子の足で思い切り踏んでしまうという出来事がありました。
踏まれた子は痛がってうずくまっていましたが、踏んだ方の子は
「ごめん」と軽く言っただけで、うずくまっている子を振り返りもせずに、
別の子と笑って遊びはじめました。
「★くんの様子を見て。あんなに痛そうよ」と言うと、
「もう謝ったよ」と言います。

それで、「もし、あなたが★くんのように足を椅子で踏まれて、痛くてうずくまっているときに、ごめんと言ったきり、踏んだ子が向こうで他の子たちと遊びだしたら、どんな気持ちになるの?」
と聞くと、「いやだ」と言って、「大丈夫?」と介抱しはじめました。

その場にいた他の子は、自分は事件に無関係だからという様子で、
そちらに目もくれずに勉強をしはじめました。
そこで、その子も呼んで、自分がその立場になったとき、周囲の態度で
どのように感じるかたずねました。すると、わかったようにうなずきました。

学校のような場では、
こうしたとき、他の子に関わりあっていると、「
あっちいって自分のことしなさ~い」と叱られるんでしょうから、
この子たちの態度は、
けっして冷淡さから出たものではないのです。
集団の場では、すぐさま、心や感情のスイッチを切って、
集団行動に戻ることをしつけられますから。

この子たちは、どの子も、気持ちはとても優しい子です。
特に、友だちを椅子の足で踏んでしまった側の子は、
幼稚園の頃から他人を思いやる気持ちが強く
誰にもとても親切で人気者なのです。

でも、小学校にあがってから、とにかくパッパと気持ちを切り替えるのが速くなったな~と感じています。(どの子もですが)
何が起こっても、教えられたルール通り、
素早く処理することを
優先するようになってきたんです。


ルールを速く実行していくには、心で味わったり、自分の頭で考えたりする
時間はありませんし、

学校では、自分の気持ちで行動すれば、「自分勝手」と決め付けられることも
多いので、

小学生になると、多くのしっかりした子たちが、
行動と心が噛み合わないまま、さまざまなことをするようになってきます。

虹色教室の場合、そうした出来事にじっくり関わったところで、
「授業に支障をきたした~勉強の進みは?」といってクレームを言ってくる方々はいませんから、
子どもたちがゆっくり自分の心や感情と触れる時間も取れるのですが、
学校ではそんなわけにいかないのでしょう。

それにしても図書室で1時間ほどいるだけで、
数名訪れた大人の方々は、
子どもが話す間も与えず、
反論しても聞かず、
一方的に普段の「きまり」をまくしたて、それを守っていないことを責め立てて、
子どもの傷ついて混乱した心をフォローすることもなく、
追い立てていきました。

こうしているからこそ、学校という集団生活を保たれているとも
言えるのでしょうが……。

子どもの心の成長と、
考える習慣を身につけるためには、
よくないな~と感じるのは私だけなのか……。

こうしてうだうだとひとつのことを深く考えていくのは、
馬鹿馬鹿しいこと、うっとうしいことで、
集団の運営からすると、「悪」でもあるのでしょうね。

ひと昔前の子どもたちの姿と、今の子の姿について、比べると、
今の子にダメ出ししているようですよね。
昔の子というより、本来の子どもらしい子、
友だちとたっぷり遊んで、たくさん失敗して、自由に自分の頭で考えていた子
たちといっていいのかもしれません。
子どもから子ども時代を、奪い取っている事実から
目を背けてはいけないと感じています。

コメント欄で次のような声をいただいています。

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女子でもクラスにはグループがいくつかあって、違うグループの子が「かわいそうやん、やめたげて!」と言ってきて、いじめられてた子がしばらくそのグループに入れてもらったり、誰かが先生にそっと告げたりとなんらか逃げ道がありました。

けっこうお互いに口出ししあってたなあと。
残酷な笑いが起こったり、誰かがそれをたしなめたり…色んなことで、たしなめたりたしなめられたり、またそんな出来事を終わりの会という場で、熱く話し合ったりしてました。

なんか子供なりに、中身は何にせよ、いちいち真剣でした。しょうもないことにいちいち熱かった。
幼友達と語り合うと、そんな自分たちが、可笑しくて、可愛くて 嬉し恥ずかし懐かしくてお腹を抱えて笑いあいます。
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……普段はみんないい子です。が、ときどき度を過ぎたいたずらや悪意にもとれる無関心。普段から仲間はずれにしている人に対してだけでなく、自分たちの都合がうまくいっているときはびっくりするぐらい、他者が困っていようと無関心でいるところに、心冷える思いをしたことがあります。
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幼稚園選びでも『ここの幼稚園は、母さん同士が仲良くならないと、子どもはお友達と遊んでもらえなくなるよ』と聞きました。人は集団になると怖いな~と感じます。
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私が知るある一年生の女の子、
保育園へ通っていた時は絵を描くのが好きで
物を作るのが好きなとても表現力のある子でした。

ただ、小学校へ通うようになり、少しずつ
「あれっ?!」と思うような変化が既に見受けられるのです。

元気に挨拶ができたていたのに、
相手の存在がまるでないかのように
ご挨拶しても上の空でお返事がなかったり、
「きもい、きもちわるい」と言ったような
不快な表現が必要以上にあるので、
こうした言葉を頻繁に学校で聞いているのか
(もしくは言われているか)と思ってしまわざるを得ない感じです。。。

幼少から言葉の習得も早く、小学校からはじめた
○○教室では、算数が今はもう2年生のやってる!
と調子よく話してくれるのですが、
実際学校のことを聞くと、全てに面倒くさい
と言うような言葉がついて回っていて
お勉強ができても心よりすごいねぇ~と思えず、
何だかとても心配になります。
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子どもって、本来、とても愛情深くて、正義感がつよくて、自分たちの場を浄化していくような自浄力といった力も持っているものだと思います。
2歳の子でも、病気で休んでいるお母さんに毛布を持っていったり、
誰かが泣いていると、「大丈夫?」と心配そうに覗き込んだりするのです。

せわしなさと、たくさんの情報と、ルールや指示で
子どもの心をがんじがらめにして、

感じること、考えること、自分で判断して動くことを
ストップさせた状態に子どもを追い込んでいないか
振り返る必要がありそうですね。

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年長さんたちの算数の学習 と ボードゲーム

2012-04-29 15:54:05 | 算数

年長さんグループの4名は、工作とお話つくりが大好きな

女の子たちです。お家では自由にたっぷり遊ぶだけでお勉強っぽいことは

ほとんどしていないようですが、

遊びの体験が豊かなためか、どの子も考えることがとても得意です。

 

ぴぐまりおんの1、2年生用のワークで見落としがないように質問を見ておいて

探し物をする問題をした後で、最レベ問題集で「じゅんばん」についての問題を

解くことにしました。

 

「のりこさんはまえから5ばんめ。のりこさんのうしろはよしこさん。

ひろこさんはのりこさんより2だんたかいところにいます。

ひろこさんは まえからかぞえてなんばんめですか。

 

「子どもが 1れつに ならんでいます。

たかしくんは まえから 4ばんめで、うしろから 3ばんめです。

子どもはみんなで なん人いますか。」

 

「子どもが 10人 1れつに ならんでいます。

こうじくんは まえから3ばんめ。

ゆみこさんはうしろから 2ばんめです。

2人のあいだには 子どもは なん人 いますか。」

 

といった問題です。

先にも書いた通り遊びが豊かな子らなので、

こうした話を聞いて、「どういう意味かよくわからない」ということは

まず起こらないようで、

イメージするだけで答えを出すのが難しい場合も、「お人形でやってみたらわかるんじゃない?」と

言いながら、ちゃっちゃと解いていました。

 

「まえから 4ばんめで、うしろから 3ばんめで、

子どもはみんなで なん人いますかってたずねているんなら、3+4じゃないの?」

とわたしがいじわるな質問をすると、実際ハムスターが7ひきになった場合をためしてみながら、

真剣な表情で、「ちがう、6人!」と答えていました。

 

 

 

 

昭和のレトロな雰囲気が子どもにとても人気がある『うちのタマしりませんか?ゲーム』

 

ダンボールに入れて捨てられたタマをさがしに行きます。

相手の表情を見て、うそをついているかどうか

推理するシーンもあります。

年長さんたちともなると、うまくできない子や間違える子がいると、

すぐに誰かが助け舟を出して、自分たちでうまく解決しているので

感心します。

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100かいだての いえ

2012-04-29 13:19:15 | 工作 ワークショップ

年長さんのグループレッスンで、『100かいだてのいえ』の絵本をみながら、

折り紙でお家を作って遊びました。

他のグループの子らにも協力をあおいで100階だての家にする予定です。

製作中。折り紙のお家を作った後はそれぞれの子が自分の作りたいものを作っていました。

 

お家、カバン。指人形などを作りました。

↑お友だちに自分が考えた指人形の作り方を教えているところです。

 

↑透明の糸を使っておばけをつらすアイデアを思いついた子が、

糸の先のストローを服のなかに入れて、

両手を自由にしてまるでおばけの人形が空中に浮かんでいるように見える工夫をしました。

 

それを見た別の子は、

 ←の家の透明部分の屋根をくりぬいて

自分の作った透明の色の糸でつらした人形が

屋根をつきぬけてお家に入るように見える不思議な作品を作っていました。

 

このグループのメンバーはかなりのアイデアマンぞろいです。

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鍋いっぱいのプリン と ひっくりかえったがんもどき

2012-04-29 09:41:03 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)
田舎のだだっ広い家に対して、都会のわが家は、
2Kの団地住まいでした。
2DKだって、4人家族にすれば、狭苦しいわけだけど、
2Kとなると、ダイニングと寝る部屋が昼夜で忙しく入れかわらなきゃならないわけで、まるで芝居の舞台みたいに、ひとつの部屋がこたつや布団といった舞台道具で、
キッチンになったり寝室になったりと、忙しい家でした。

そんな狭っ苦しい家に暮らしながらも、
人って幼年期や子ども時代に染み付いた身体感覚が抜けないもんなんでしょうね……
母は、電子ピアノじゃなくて、どでかい本物のピアノを購入してみたり、
食べきれないような料理を作ってみたりと、
母の実家の9人きょうだい仕様の暮らしを引きずっていました。

私も妹も夏生まれで、誕生会には母のお手製のフルーツポンチが
登場しました。
特大サイズのすいかを、ギザギザした切り口でふたつに分けて、
中身をくりぬきます。その時、アイスクリームをすくう道具の小型版みたいな、すいかをクリッとした丸い形に抜く道具を使ってました。
そうして、大きなすいかの容器を作って、中に、サイダーや果物のかんずめを注ぎ込み、丸いぶどうの粒のようなすいかを浮かべてできあがりです。

よく言えば豪華、正しくは大ざっぱで豪快な料理が母の得意で、
グレープフルーツを半分に切って、
中身をくりぬき、ゼリーの粉や砂糖を混ぜて、もういちど注ぎ込みます。
そんなグレープフルーツゼリーが冷蔵庫によく入っていました。

クッキーの種も、おそらく料理本の材料の3倍は作って、
私も妹もねんどで遊ぶように、クッキー人形を良く作りました。
服にフリルをつけてみたり、帽子をかぶしてみたり、
靴や日傘やペットの犬猫、小鳥まで作って、大きなオーブンで
たくさん焼きました。
食べるときには、あまりの量にたいていうんざりして、ビニール袋に入れてうろうろするうちに粉々になって、何だかわからない形のクッキーを、
近所の友だちが「おいしい、おいしい」と食べていた記憶があります。

母は母なりに、都会風のこじゃれたものが作りたい気持ちは
満々だった気がします。
シュークリームやアイスクリームやカルピスやクロワッサンなど、母のこしらえたおやつは、名前だけ連ねれば、
デパートの屋上のレストランで注文するようなものばかりでしたから。

それがどう間違うのか、
あるとき、プリンを作ったときは、大鍋いっぱいのプリン液を
弱火で煮立てて、それをグラタン皿に注いで冷やしてました。
グラタン皿なんて、そういくつもありませんから、
どんぶり茶碗や、タッパーウェアーや小型のボウルまで総動員させて、プリンを冷やしてましたから、冷蔵庫の棚という棚が、黄色で埋まってました。
プリンが大好物の私と妹は、最初こそ、飛び跳ねて喜んでいましたが、
途中から、「一生、プリンなんて名前も聞きたくない!」
ってほど、うんざりきてました。

今もプリンを見ると、大鍋でタプタプ煮つめられていた
黄色い液体が思い出されて、
懐かしいです。母はそんな田舎ものの一面を持ちつつも、
その天然キャラで他人から慕われて、のんびりまったり自分の生をまっとうしました。
もうじき、母の一周忌です。


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思い出ついでに、過去記事の
<ひっくりかえったがんもどき>もよかったら読んでくださいね。

私の父は、以前の記事にも書いた通り、
粗暴で困った人ではありましたが、
気持ちが優しく、ユーモアがあって、話し上手な一面もありました。
私の父のことを、周囲の人はよく、「芸能人」に似ていますね……と
評することがありました。
若い頃は石原裕次郎にそっくりだと言われ、
年を取ってからは、北野たけしと梅宮アンナの父を足して2で割った
ような感じに見えるそうです。
機嫌が良いときの父は、
子どもの頃の話を、面白おかしく、
時にはしんみりとしてくれるときが
ありました。
そんな話のひとつで、心に印象深く残っているのが、
「ひっくり返ったがんもどき」の話です。

父は兄や姉のたくさんいる子沢山の家に生まれたようです。
でも実際に父が何人きょうだいであるのか、私は詳しく知りません。
一方的に自分の話したいことを話す父の話は、
どれもバラバラのパズルのピースのように断片的で、
何年たっても肝心の部分がわからないところもあるのです。

父の家は豆腐屋を営んでおり、
ペットなのか食用なのかわからないたくさんの動物…
やぎやら、にわとりやら、たぬきやらを飼っていたようです。
そんなごちゃごちゃした家には、
変わり者で乱暴な父親や
頭の良い美人の姉や、
知恵の遅れた兄など、さまざまな人が暮らしていたようです。
くわしいことはわかりませんが、今で言う知的障害であったろう兄は
ゆりちゃんという女の子のような名前でした。
近所の幼い子からもからかわれ、ばかにされ、
当時の父にはふがいない兄であったようです。

そのゆりちゃんは、いつも乱暴者の父親のもとで、
豆腐屋の手伝いをさせられていたようです。
そのころは、子どもが家業を手伝うのは当たり前で、
父も学校から帰ったら、
揚げ終わった厚揚げやがんもどきをならべさせられたり、
使いっ走りをさせられたりしていたようです。
そんなときにも、覚えが悪く手先が不器用なゆりちゃんは、
始終父親のげんこつをくらったり、
どなられたりしていて、
父は要領よく立ち回りながら、びくびくしていたようです。
父は何も言っていませんでしたが、もしゆりちゃんが、
この厳しい父のもとから逃げ出したいと思った日には、
乞食しか、今で言うホームレスになるしか、
生き方が残っていないように感じていたふしがあります。

あるとき、ゆりちゃんと二人で、店番をさせられていた父は、
慌てていて、がんもどきの入っていたケースを、床にぶちまけてしまったそうです。それは、うっかり1個落としてしまっても、殴られる、
大事な商品でした。
が、箱ごとひっくりかえした……となれば、
検討もつかないような損害です。
父親がどれほど怒るものが、想像すらできなかったでしょう。
殺されてしまうかもしれない…と感じたかもしれません。
すると、いつもはぼんやりで、
頭の働きが悪そうなゆりちゃんが、
「おれがひっくり返したことにするから、何も言わんでいい。」
と言ったそうなのです。
その後、ゆりちゃんは、殺されるほど、父親に叱られたそうです。
でも、決して、本当のことを言おうとはしなかったそうです。

父はあったことを話すだけで、自分がどう感じたのか……。
といったことは、いっさい話しませんでした。
が、時々、思い出したようにこの話をしていました。

父は非常に毒舌で、いやみや皮肉を言わない日はないくらいでしたが、
知的障害かと思われる人と、ホームレスの人の悪口だけは、
決して言いませんでした。
母と結婚して間もない頃、
橋の下で、凍えているホームレスの人を見たとき、
まだ買ったばかりの布団の一式を
橋の下まで持っていってしまい、
母が大変な思いをしたことがあります。
父を突然、そういった行動に駆り立てたもの……は
ゆりちゃんという兄との思い出だったのかもしれません。
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「才能は自分の中になく、社会の中にある   他者の中にある」

2012-04-28 21:06:50 | 教育論 読者の方からのQ&A

山田ズーニーの言葉に、

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「才能は自分の中になく、社会の中にある」

「才能は自分の中になく、他者の中にある」

いったんこう極論してしまったらどうか?

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というものがあって、はっとしました。

自分とは他者との関係性によって成り立っているものだから、

才能といったって社会との関わりを断ち切ったところでは存在できないし、育たないのかもしれません。

そんな盲点があるものだから、

母子が密着した形で、どんなにわが子の才能開発に力を注いだところで、

かえって子どもの足を引っ張るだけに終わるのかもしれません。

山田ズーニーの言葉は、『働く理由』という本の中にありました。その著書でもうひとつ、こんな言葉に出会いました。

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新しいことを始めて (さまざまなことを試み)、

いままでと違う人たちと交流し (人間関係を変え)、

生まれたばかりの可能性というレンズを通して

人生の物語を解釈しなおせば (深く理解し納得すれば)、

実際にアイデンティティーは変わっていく。

              ハーミニア・イバーラ

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「確かにそうだなぁ」と思いました。

私の子どもの頃を思い出しても、母に連れまわされて、

あっちこっちの習い事に行った経験は

「時間を無駄にしたな」くらいの印象しか残っていないのだけど、

人との出会いや人の生き方を見ることから得たものは

何十年も経った今も自分の生き方に影響を与え続けているのです。

 

そういえば、こんな出会いからも……。

中学生のとき、友だちの家のそばに 犬を飼っている家があったのです。

犬は ほっそりした雑種のメスでキャンディーという名前でした。

その家は千里山駅から関大前駅に続く道路沿いにあって、

当時はどちらの駅前もそこそこ開発が進んでいたわけだけど、

それ以外の場所といったら完全に田舎でした。

ちょっと道に迷って、数分歩いていると、

田んぼや竹林や墓場に行き着くような具合です。

キャンディーが飼われている家の周辺も、古い家並みが続いていました。

 

私と友だちとキャンディーの飼い主の女性との間には

最初 面識はなかったのですが、

遊んでいるときに挨拶をかわすうちに、だんだん親しくなって、

終いにはキャンディーの散歩を頼まれるようになりました。

犬が飼えない私と友だちは喜んで 散歩係をやらせてもらっていました。

 

するとあるとき、かなり唐突に、

そのキャンディーの飼い主が木造だった家の改築して、

コンクリート打ちっ放しの喫茶と画廊が一体化した家を建てたのですよ。

田舎の何もないところに

いきなりヨーロッパの建築雑誌に出てきそうなもの作るんですから、

うちの親や近所の主婦層からは絶対出てこない発想で、

かなりのカルチャーショックを受けた記憶があります。

それで私も大人になったら、周囲の思惑なんか気にせずに、

自分のやりたいことをやってやろうと決心しました。

生き方の指針は、そんな風に 

自分の世界から一歩外に出たところで出会う人から得る場合がよくあるのですね。

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私が子どもの頃とちがって、うちの子たちともなると、

ネットで世界中の情報とつながっているのが当たり前のような暮らしをしていますから、

社会から受け取るものもずいぶんちがいます。

 

今日も息子がiPod touchを見ながら大騒ぎしているので、何かと思ってたずねたら、

「マクスウェルの悪魔が 実験で実現したらしいんだ。すっごいな~すごい~!!」

と言葉をつまらせて感動していました。

何でも中央大学と東京大学の研究チームが

情報エネルギーの変換に成功したという話題を目にしたらしいのです。

情報を媒介して駆動する新規ナノデバイスの実現の可能性を示したそうです。

 

マクスウェルの悪魔といえば、私の本棚に『ユーザーイリュージョン』

(トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之訳 紀伊国屋書店)という著書があって、それを息子も読んだことがあるので、興味を持っていたようです。

私の本ですから、私も読んだのですが、物理に関する部分は私には少し難しかったから、

息子のようにそれが情報エネルギーの変換の成功に心底感動するという方向には向かっていかないところが、興味の方向や出会いの質がちょっとちがうのでしょうね。

 

ここでもジェネレーション・ギャップを感じます……。

私が子どもの頃は、母親たちの立ち話が唯一の情報源みたいな

社会から切り離された世界で生活していました。

それはそれでのんびりした良いところもあったし、人との関わりが今よりもっとシンプルだった気もします。

「よそのお母さん」というのに憧れて、未来の自分の行き方に想像をめぐらすこともありました。

過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。↓

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私が育ったのは 大阪の吹田市です。

教育熱心な土地柄もあって 
3歳から ヤマハの音楽教室に通っていました。
幼稚園にあがってからは
本格的なピアノの個人レッスンにかわりました。

当時のレッスンは ほとんどスパルタ式。
けんばんに指をたたきつけられるのは
ざらでした。

家での練習に役立てようと 
母がお教室に小型のテープレコーダー持参していたのですが
帰って再生してみると 
先生の怒声と 私の鼻をすする音ばかりが……。

その頃 私の一番の仲良しは
みっちゃんという同い年の女の子でした。
みっちゃんは 確か 小1の時 引っ越してしまったので…
それから推測すると
幼稚園の年長か 小1の春の出来事で
とても鮮明に覚えていることが あります。

みっちゃんのお家に遊びに行くと
いつもお家の中から たどたどしいピアノの音色が
聞こえました。
チェルニー練習曲1番~♪
ちょうど 私も練習し始めていた曲でした。

少しすると つっかえて
また初めから~また 弾き間違えて 初めから~♪

みっちゃんが 練習しているのではなくて
みっちゃんのお母さんが練習しているのです。
私は みっちゃんのお母さんが
どうしてみっちゃんにピアノを練習するように言わないで
こんなに間違えてばかりの曲を
自分で弾いているのか
不思議でなりませんでした。

私は そのへたっぴ~な音色が好きでたまらなくて
長い時間 ノックもしないで
ドアの外に立っていることが よくありました。

私の母は 自分は我慢してもまず子どもたちに…
と考える愛情深い性格でした。
けれどそれは しばしば母の夢や期待の押し付けともなって
ちょっと重たい部分もあったのです。

が みっちゃんのお母さんは
音楽でも工作でも読書でも
まず自分自身が 心底楽しんでいるようでした
そして
みっちゃんが それをするかどうかなんて 気にもかけていないようでした。

もちろん 私もみっちゃんも


やりたがりました!!
いつでも小躍りしながら
「やるー!やるー!」の大合唱。

みっちゃんのお家には 
何か創造的なこと 知的なことをしたくなるような
雰囲気がみなぎっていました。

「お父さんのつくえ」と呼んでいた机の引き出しには
色鉛筆 折り紙 はさみやのり などが
開けるたびに 息を呑むほど美しく
しまわれていました。
私とみっちゃんは いつでもそれらで
工作することを許されていました。
パラシュートを作ったり
色紙パズルを作ったりして遊んだ記憶があります。

本棚には リンドグレーンの全集やヨーロッパの絵本が並んでいて
遊びに飽きたら
「やかまし村の子どもたち」や
「ちいさいちいさいおばあさん」などに
読みふけりました。

あまり干渉しない みっちゃんのお母さんでしたが
時々 紙袋から珍しいものを取りだして
遊びに誘ってくれました。

ある時は ヨーロッパの知育玩具の「色板」でした。
今でこそ それとわかるのですが
当時はもちろん 何なのかわかりませんでした。
あまりにきれいで 万華鏡の中身が
自分の目の前に広がったように感じました。

私が今 虹色教室でしようとしているのは
その時の感動の再現かなぁ?
と思うときがあります。

毎月必死で家計をやり繰りし
習い事に通わせてくれた母には感謝しているのですが…
習い事で何をしたのか ひとっつも記憶に残っていないんですよ。

そのかわり みっちゃんのお家で
見たもの 触れたもの 感じたもの 考えたこと
作ったものとなると…
昨日のことのように 鮮明に心に浮かんでくるのです

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