『学校って何だろう』に寄せられたどの意見も、確かにそうだとうなずけるものでした。
中でも、臨床心理士の村中直人さんのこんな言葉が心に響きました。
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私は実は「絶対に学校に行かなくてはいけない」とは思っていません。
だから学校に“行かない・行けない“こと自体は、何も悪いことじゃないと考えています。
そして私は、学校に行くことよりも自分で学べる人になることのほうが、これからの時代を生きる子どもたちにとってとても大切だと思っています。
(中略)私は、これからの学校は、「一人ひとりの学び方を尊重できる」ようにならなくてはいけないと思っています。
(『学校ってなんだろう』ソクラテスのたまご編集部 編 P35 P36)
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村中直人さんによると、学校というのは、必要な学習カリキュラムを提供してくれる世の中にとって大切なシステムではあるけれど、100年前からあまり変わっていないため、さすがに古くなって時代に合わなくなっているそうです。
だから子どもたちに向けて、
いまの“学校”に違和感や問題点を感じたら、ぜひ「もっとこうして欲しい」と声をあげてください。
あなたが学校に合わせるのではなく、学校があなたの学びに合わせてくれる未来がきっとやってきます。
と声をかけておられました。
村中直人さんの「学校に行くことよりも自分で学べる人になることのほうが、これからの時代を生きる子どもたちにとってとても大切」という言葉を目にして、
★くんは自分で学べる子であり、今、★くんが学校に行くのが辛くなっている理由が、学校というシステムが、決まったやり方で決まった役割を子どもに押し付けるばかりで、子どもの中には、受動的に教わるよりも自分で考えながら学ぶ方が頭に入りやすい子がいたり、自分で学習計画を立てて進めたいと思う子がいたり、どの子にとっても自学する力を鍛える機会が必要だろうという想像力とか余白とかいうものがないからだとしたら‥‥‥それってどうなんだろう?と感じました。
ふと、かつて大学生だった息子と、学校のあり方についてこんな話をしたことを思い出しました。
(会話の記録を過去記事の中でアップしていました)
長くなりますが、よかったら読んでくださいね。
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息子 「学校が無作為に40人前後の人を集めて、人と関わる力を育てようという設定自体が、あまりに雑な対応で、無理があるよな。
もし、人に自分の思っていることを伝えたり、他人と協調して何か成し遂げていく力を育てるなら、同じ趣味を持ってる者同士とか、好きなものややってみたいことが重なる者同士とか、議論や会話や思いがそこそこ成り立つ前提と人数で、もう少していねいにそういった力を育てようとするべきでさ。
小学校の頃は、せめて、3年生までと4年生以降で、クラスの組み方を変えてほしいと思っていたな。
授業中は教科書を先に進んでもだめだし、わからないからと戻ってもだめって決まりが絶対だから、結局、クラスで最も理解が遅れている子のペースに合わせることになる。
そうしたことを6年間続けていて、学力にしても人間関係能力にしても、それだけの犠牲を払うほど何か得られるのかっていうと、疑問だな」
わたし 「確かに、海外在住の方が日本の学校を見学してまわった後で、今の小学校のあり方は、だれにとっても幸せではない、子どもにとっても先生にとっても。だれにとっても、実りの少ないものになっているって感想を言ってたわ。でも、改善するのは難しいわよね。A(息子)は、どんな方法を取ればいいと思うの?」
息子 「子どもの個性を大事にする教育と銘打って、どんなに公教育を改善しても、4,50人の生徒を無作為にひとところに押し込めて、急激に成長する時期にいつまでも同じスタイルで教育しようとしている限り、難しいよ。
そんな風に足し算しようと無茶するんじゃなくて、引き算の発想で、同学年の子全員に必要だと思う教育部分を減らして、午前中に基本の授業を終えたら、午後は、公民館、図書館、小さな学び舎などさまざまな学習の場を国が支援して、子どもの好みや学びの段階や学び方に合った教育をするとか、そうした選択をする人も認めるとか、週の半分くらいは自由選択の部分を作るとか。
子どもってだけでひとくくりにして、能力のちがいや好みのちがいや身体的なものや思考のちがいまで、ざっくりと大雑把にしか子どもの教育をとらえていないんなら、1から10まで自前でコントロールしようとするのをやめた方がいいんじゃないかな?」
わたし 「お母さんもそう思うわ。それに、教室に来る親御さんたちも、学校に対して、そうした考え方をする人が多くなったのを感じる。
というのも、勉強は2学年ほど先までできるし、友達も多い、社会性も育っている、でも、学校が苦痛で、学校に通えない、というこれまでと異なる不登校の子を教室でも何人か見るようになった。
不登校まで至らなくても、予備軍と言えるような同じ訴えをする子らが増えている。
支援級があるからかもしれないけど、勉強がわからないから学校に行きたくないという子は聞かなくなったけど、勉強が簡単すぎて、授業が苦痛でたまらないから学校に行きたくない、という話はよく聞くようになったわ。
学校がなくなればいいとまで思わないけど、共通に学ぶのが半日なら喜んで学校に通えるような子を不登校に追い込んでまで、今のあり方にしがみつく必要はないと思うわ」
息子 「学校はどうあるべきか、どんなに話しあったって、それはある子たちにとっていいあり方で、別のある子たちにとっては最悪のあり方かもしれないじゃん」
わたし 「そうよね」
息子 「周りが就活をするようになって、会社側は、何をやりたいのかという目的意識をしっかり持っているかどうかを求めてくるのを感じてさ。
学校で詰め込むような知識にしても、まず、先にその目的意識ありきで、そのために必要な知識を持っているかという順で見られるよ。
それで、ふと、小学校の読書感想文のコンクールなんかで、そこでなぜ賞を与えるのかってことについて考えたよ」
わたし 「どうしてだと思うの?」
息子 「小学生なのに、文才があるとか、こんなことができてすごいってことじゃないなって。それだけが目的の審査員はダメだと思う。
なぜ、それがすごいのかといえば、小学生の時点で何かしらに興味を持って、それがパクリでもいいから、自分なりの解決策を探ってみる、という一連の流れを学ばされるための賞じゃないかと考えてさ。
小手先のテクニックを教えて、賞を取りまくっても、あんまり意味がないよね。
やっているうちに、自分の中にやりたいことが明確化されていくことが大事でさ。」
わたし 「わかる、わかる。お母さんも、教室の活動の中で、一番大事にしている点だから。お母さんがこういう風に子どもに能力をつけさせよう、作り上げよう、何かを目指させよう、とするんじゃなくて、いっしょに、手や頭を使って、いろんなことをやってみるうちに、心の底から自分がやりたいと思うものは何かが見えてくるし、それに一歩近づけるのよ」
息子 「そうだよね。お母さんの教室は、自分の興味から、自分のこれからの方向性をつかんでいけるようにって工夫してるしね。そういうの、どの子にとっても大切だと思うよ」
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「子どもってだけでひとくくりにして、能力のちがいや好みのちがいや身体的なものや思考のちがいまで、ざっくりと大雑把にしか子どもの教育をとらえていないんなら、1から10まで自前でコントロールしようとするのをやめた方がいいんじゃないかな?」という息子が大人たちに向けて投げかけた疑問は、大学受験を前にして、自分にとって必要な学習をする時間が取れずに焦り、疲弊していく★くんの「10のうち1でも2でもいいから、僕に自分で学ばせてよ!」という切実な気持ちと重なるのじゃないかな、と思いました。
不登校の子の声に耳を澄ます 3 に続きます。
(上のイラストは、周囲の期待に応えようとがんばるうちに、自分を見失い苦しんだ若い頃の私の詩につけるため描いたものです。★くんが環状線から降りること、それは脱落ではなく、再び自分の意志で乗りなおすか、別の線に乗り換えるのかの撰択に繋がっていると思っています。詩はこちら↓)