虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ つづき 6

2016-01-31 09:27:31 | 日々思うこと 雑感

アーキタイプについて書き始めたものの、扱っている内容が膨大で複雑な上、

多くのブログを見ている方にとって未知の概念であることを思うと、自分の手に余る気もして

気持ちがひるみかけています。


内容を要約して伝えるだけの場面でも、誤解を生むような書き方になったのでは、誤ったわたしの解釈

が含まれているのではと悩んだりして..。(前回の記事は、読み直すとおかしなところが多かったので書きなおしました)

 

でも、書き始めた以上、間を開けると続きが書きにくくなるので、(これまで、これでたくさん失敗しています)

多少、下手な伝え方になっても書き切ってしまうことに決めました。


というのも、アーキタイプについて知ることで、

多くの方がそれまで悩みや障害や問題として捉えていたことに、

新しい肯定的な見方を与え、

罪悪感ではなく旅に出る時のような意気揚々とした気持ちで向き合う力を得られるだろう、

と思うからです。

 

たとえば、アーキタイプには、『孤児』というわたしたちの内なる子どもが、

裏切られたり、ひどい扱いや無視を受けたり、幻滅させられた

時に活性化するものがあります。

 

一見、悪いものにしか思えないこのアーキタイプも、

わたしたちの人生にかかせない大切な象徴のひとつです。

『孤児』の活性化は行き過ぎれば機能不全をもたらしますが、成長と発達に欠かせないものです。

わたしたちはこのアーキタイプから「自分の面倒は自分でみなさい」

「他人をあてにするのはやめなさい」と教わります。

アーキタイプを通して、現実に対処する知恵が育まれ、

責任感と自立心が身についていきます。

このアーキタイプを成熟させていくことで、権力者に依存する代わりに、

助け合いと団結の精神で権力者に対抗する人々と相互依存の関係を築き、

現実的な予想を展開させます。

 

また、『破壊者』というアーキタイプは、確立されバランスのとれた自我が、

身近な人の死に遭遇したり、無力感を味わったり、目標にしてきたものや築きあげてきたものが

水泡に帰した時などにあらわれるアーキタイプです。

これも、あってはならない悪いものでしかないように思えますが、

他のアーキタイプ同様、欠くことができない大切なもののひとつです。

破壊者のアーキタイプが活性化されることで、

自分という人間や世界の存在意義についての認識が否定され、幻想が打ち砕かれた結果、

わたしたちは自分のアイデンティティを魂のレベルで発見する機会を手に入れます。

『破壊者』は、古い自己を手放し、新しい自己を誕生させるプロセスをつかさどるアーキタイプなのです。

 

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少し話が脱線しますが、つい最近、『無痛文明論』(森岡正博著 )という本を読み、

その後、ネット上の『無痛文明論』に対する批判も読み、それから『無痛文明論』への批判に応えて__

という著者の文章にも目を通しました。

 

著者による「無痛文明」とは、「苦しみを遠ざける仕組みがはりめぐらされ、快に満ちあふれた」社会、

「あらゆる面で痛みや苦しみをできるかぎり排除しようとする人工的に管理された」社会のことです。

 

著者の主張は、人間の「身体の欲望」が、人間自身から「生命のよろこび」を奪っている、というもの。

ここで生命のよろこびとは、苦しみやつらいことにあった時、そこから逃げようとせずに、自分自身の方を解体し、

変容させ、再生させたときにおとずれるよろこびとされています。

 

無痛文明論に対する批判の多くは、「現代文明にある必要不可欠なものまで

あれもダメこれもダメと攻撃し、昔に戻れ、田舎に帰れというありがちな説教をされているようでイライラする」

という「批判の多さに対する批判」や、

文章のあり方として、「生命のよろこび」が鍵概念であるのに、十分に語られていないことに対する

批判や著者が出した答えである「無痛本流と戦う」というあり方の矛盾点を突くものでした。

 

わたしはこの本の書かれ方や著者のこの問題への向き合い方がどうのこうのということは

いったん脇に置いて、

快を過剰に保証しようとする社会が、苦しい体験を通して、自分自身を変容させ成長するという

人間のあり様を変えつつあることに危機感を感じました。

 『キャラ』という成長しないひとつのイメージに自分を閉じ込めて成長を拒む子たちや、

遊ぶことにすら、「めんどくささ」という苦痛を感じることが多くなった子たちのことを思いながら……。

 

教室をしていると、子どもたちの中でひとつのアーキタイプ(元型)が活性化されることで

子どもにそのアーキタイプから得られる才能が身につき、変容していく様を目にすることが

よくあります。

それはまさしく変容という言葉が表す通り、

子どもの内面の変化に伴って外に表す態度が変わることで、

諭されたりしつけられたりして態度を変えるのとは別物です。

 

たとえば、前回までに紹介した『援助者』のアーキタイプは、

『戦士』と並んで「責任感」を身につけることと関連があるので、

このアーキタイプが活性化される体験を経て、子どもが責任感を持って物事に取り組むように

なるのを何度も目にしています。

 『援助者』のアーキタイプは、他人の世話を必要とする責務(親になるなど)を負った時や、

他人が困っていることに気づいた時などに活性化されるアーキタイプです。

 

教室でこんなことがありました。

アスペッ子のAくんは就学準備グループで同年代の子と過ごしていた間、

「自分の好きなことを好きなようにしたい、いつも好きなことしかしたくない」という態度を固持していました。

 

興味があることは、他の子にやらせず独占してしまい、

片付けや少し苦手な勉強となると、屁理屈を攻撃的な口調で並べたてて、

意地でも取り組もうとしませんでした。

 

ある時、他の子とコミュニケーションを取るのが難しい

一学年下のBくんがAくんといっしょにいる時はよく笑っていることに気づき、

それから毎月、AくんとBくん、ふたりのレッスン時間を設けることにしました。

回を重ねるにつれて、ふたりの間には本当の兄弟のような親密さが生まれてきました。

この時間は、Bくんの会話力や人と関わる力を伸ばしてくれただけでなく、

Aくんの外の世界との関わり方を心の深い部分から変えることにつながりました。

 

最初の頃、Aくんは「Bくんがぼくが作った電車と駅を取ろうとする!」「ここはぼくの場所なのに、Bくんが入ってくる!」

と文句を言う一方で、

Bくんが先に手にしている物を、理由をつけては奪い取っていました。

Bくんの幼さを受容できない上、Bくんの幼さにつけこんでそれを利用する態度も目立っていたのです。

 

わたしはふたりの間に適度に入りながら、AくんとBくんのふたりだからこそ

楽しめるような遊び(Bくんはサスペンス調の劇遊びが好きです)や実験や工作が楽しめるように

環境を整えていました。

Aくんの意欲をかきたてる形で、Bくんの手助けをしたり、Bくんの状態に気遣ったり、配慮したり

する機会を作りました。

 

実際にBくんのお世話をしたり、Bくんにゆずってあげたりしながら、

お兄ちゃん気分を味わったり、達成感を得たり、自分がとてもしっかりしていて役立っているという実感を

持ったりする体験を重ねるうちに、

Aくんの片付けや学習に対する態度が変わり始めました。

 

Aくんは気持ちを切り替えるのが苦手なので、遊んでいた道具を片付けて学習の準備をする際に

必ず一悶着あったのですが、テキパキ動いて、Bくんが散らかしたものまで片付けてくれるように

なりました。

以前のAくんは、学習中、少しでも考えなくてはならない問題にぶつかると、

「こんなの嫌だ!こんな問題、悪い問題だよ」と言い張って勉強をやめてしまい、

こちらの話を聞いて理解する場面では、毎回かんしゃくを起こしてしばらく機嫌がなおりません

でした。

が、自分よりできないことがたくさんあるBくんに配慮しながら

遊んだり学んだりする時間を過ごすうちに、

不安で気持ちが高ぶっている時も、

「できなくても、何回かやっていたらできるようになるんだよ」とか、

「ちゃんと話を聞いたら大丈夫だよ」といった自分で自分を鎮める言葉をつぶやいて

最後までがんばり抜くようになりました。

それは、なかなか席に座ろうとしないBくんに対して、

Aくんがかけてあげていた言葉でした。

いつの間にか、自分で自分を律する時の言葉になっていたようです。

 

これまでの記事を読んでも、「アーキタイプ(元型)って何のことなのかさっぱりわからない」

という方がいらっしゃるかもしれませんね。誤解が生じないよう

もう一度、簡単に説明しておきますね。

 

アーキタイプ(元型)とは、集合的無意識(個々の心の深層にある人類が共有する無意識)にある

特定の心の形式や普遍的なイメージのパターンやモチーフを形づくる傾向のことです。

集団的な経験のパターンは、一方では人から人へ話をすことによって社会的に伝達され、

もう一方では、生物学的に伝達されて、

普遍的な無意識の中に保存されているのだといいます。

元型的なイメージはわたしたちが心の中で想像するからあらわれる心の産物ではありません。

ユングはアーキタイプを数学的基盤を伴うプロセス構造として定義していて、

人にとって元型的なイメージは、強い生命力があって、

自律的な内なる他人のような存在としてあらわれるといっています。

 アーキタイプの代表的なものには、影、アニマ、アニムス、グレートマザー、老賢者、自己などがありますが、

今回の記事は『英雄の旅』で取り上げている心を育む手助けをしてくれる

12のアーキタイプについて書いていきますね。

 

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☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 1

の中で、わたしの母はわたしが物心ついた頃から子育てに悩む人であったこと、

そんな母に育てられていたわたしは、子育ての悩みというものや人の心について

敏感になっていったことを書いています。

 

 ☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 2


☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 3

☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 4

☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 5

☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 6

☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 7

☆親のコンプレックスと子どもの困った行動 8

 

わたしの母は、楽天的で純粋で優しい性格で、

辛いことがあっても少しすると良いように解釈して気を取り直していましたし、

どんなにひどい目にあっても、人への信頼感が揺らぐことはありませんでした。

また、非常に子ども好きで、わたしと妹に対する愛情も格別でした。

 

ですから、そんな母が、始終、子育てで悩む人であったことは、子どもの頃、

ずっと抱いていた不可解な謎でした。

時折、母が、「世の中には子どもに辛くあたったり、放りっぱなしだったりする母親もいるのに、

どうして自分だけ、悪い方に悪い方に進んでいくのか」という疑問を口にしていたので、

余計に不思議に感じたのかもしれません。

 

もっともわたしが抱く疑問は、母のそれとはずいぶん異なるものでした。

「母の純粋さにも優しさにも妹への愛情にも嘘は感じられない。

それなのにどうして、

いつになっても妹とのこじれた関係を修復することができないのか?」

「母の妹に対する態度が特にひどいように見えないし、

妹が特別悪い子なわけでもない、

母が歩み寄る努力をしていないわけではないし、

妹の母への愛情が薄いわけでもない。

それなのに、問題はどんどんこじれて悪化していくのはなぜなのか?」

 

今、アーキタイプという概念を通して母と妹の姿を振り返ると、かつての

謎の答えは至極単純なものに感じられます。

おそらく、母はいくつになっても、どんな場面でも、『幼子』のアーキタイプで乗り切ろうとした人だったのでしょう。

また妹は、『孤児』のアーキタイプの影の面を生きざるえなかったのでしょう。

 

『幼子』のアーキタイプは、自我の発達に関わる4つのアーキタイプ(『幼子』『孤児』『戦士』『援助者』)の

ひとつです。

 

『幼子』とは、わたしたちの中の人生や自分自身や他人を信頼する気持ちを指しています。

愛情をかけられて育った子は、他人を信頼し、結果として自分自身を信じるようになるおかげで、

生きていくのに必要なスキルを身につけることができます。

わたしたちは『幼子』の力を借りて、ペルソナ(世の中で身につける仮面。個人の人格と社会的役割を示す)を

身につけます。幼子の望みは、社会から受け入れられ、うまく適応し、愛され、誇らしく思ってもらう

ことです。

 

 『幼子』の問題への対処法は、「存在を否定すること」です。

 

『英雄の旅』の中で「幼子の影」について書かれたこんな文章があります。

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幼子はすぐに物事を否定しようとするので、親や恩師や恋人が信頼に

値しない人間だという事実を直視したがらない。

そのせいで、他人から虐げられるという状況に自ら踏みこんでいって、傷つけられたり、

不当な扱いをうけたりする状況を何度も何度もくりかえすのだ。

(省略)

幼子は自分の行動を否定するという行為にも走りやすいため、問題が起こっても、

自分の責任から目を背けてしまうおそれがある。

幼子は、少なくとも初めのうちは、絶対主義的で二元的な存在なので、

「自分にも欠点がある」と認めた段階で

自分自身に恐れを抱いてしまうからだ。

だからこそ自分に至らない点があるという事実を

頑なに拒み続けるか、罪悪感や羞恥心に支配されてしまうかの、

二つに一つになってしまうのだ。

(省略)

傷ついた幼子が、自分の至らなさと向き合うのを恐れるようになると(大人のほうがその傾向が強い)

自分を相手に投影させて、相手に至らない点があるのだと責めるようになる。

こうした戦略を探っていると、

果たすべき責任を回避するようになっていく。

虐待を受けていることを否定していれば、自分を守るために立ち上がる必要はない。

自分の過失を他人のせいにしておけば、自分を変える必要もない。

他人の差別意識や敵対心といった悪意に満ちた態度を内面化させていれば、その状況から

のがれるすべを見つける必要も、自分の無力さをかみしめる必要もないまま、

自分を責め続けていればいいからだ。

幼子は、ペルソナ(仮面)や社会的役割のイメージどおりの姿にとどまることや、

世間に隠し事をしないことが重要なのだと信じている。

   (省略)

魂の成長に関わるアーキタイプは、あまりにも威圧的だという理由で、別の姿に投影されてしまうだろう。

探求者は異端者。破壊者は敵対者、求愛者はふしだらな誘惑者、創造者は危険思想にかぶれた在任、

といった具合だ。そういう時の幼子は、胸にぽっかりと穴があいたような気分で生きており、

自己破壊的な習慣や性的な欲求に取りつかれ、無意識のうちに、劇的な状況や困難な状況を

創り上げたいという欲望を抱えている。

                 『英雄の旅』キャロル・S・ピアソン 実務教育出版 P129、130

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自分の手が不思議な温度計になってしまった!

2016-01-30 18:25:45 | 理科 科学クラブ

子どもたちが、温度や自分の身体の働きについて関心を抱くきっかけとなる

実験をひとつ。

 

「氷水」「水」「熱めのお風呂くらいの温度のお湯」を用意します。

最初に片手を「氷水」、もう一方の手を「熱めのお風呂くらいの温度のお湯」につけます。

それから、同時に両方の手を水につけてみます。

同じ温度の水なのに、一方は熱く、一方は冷たく感じられるはず。

この実験、子どもの心を大きく揺さぶるようです。

自分の手なのに、信じられない様子。

「同じ水を触っているのに、こっちの手は熱く思う温度計で、こっちの手は冷たく思う温度計になってしまった!」

と手品感覚で遊びます。

どうして時間がくるとお腹がすくのか、どうして同じくらいの時間に目が覚めるのか……といった

自分の身体の中の時計のような働きにも興味を抱きだす子たちもいます。

 

(ボウルに入っている青いものは、いたずらで放りこんでいるビー玉なので

実験とは関係ありません)

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 『温度計もどき』の作り方をたずねられたので、

書かせていただきますね。

 

ペットボトルのふたに目打ちなどで穴をあけます。

食紅を溶かした水を入れます。

ストローをさしたらできあがり。

 

ふたにあける穴は、ストローがぴったりはまるくらいにします。

 

<遊び方>

氷水 や

熱いお風呂くらいの湯の中 に

しばらく『温度計もどき』をつけておくと、

ストローの中の赤い液体の高さが変化します。

 

 


子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ つづき5

2016-01-30 08:11:50 | 日々思うこと 雑感

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 12に、こんなコメントをいただきました。

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うまくいえないのですが、内面の葛藤や悩みや、ネガティブな感情を言語化できていない人って、大人でもたくさんいますよね。

言語化していないと、結局無意識にそれに振り回されたり、自分でも本意ではない行動をとってしまったりするとおもうのですが。

子育てでのつまづきをきっかけにその大切さに気づいて、意識して苦しんでる方はラッキーな方で、他の大半の人は、目に見える華やかさに意識はいっても、内面のネガティブ感情なんて面倒で、すぐ結果の出ないことには興味がない。

もっといえば、そういうことに目を向けるチャンスがあっても、かたくなに見ないようにするケースも。

なんていっていいか、難しいのですが、ひとことでいうと、二次元的な表面のことにばかり目がいってしまう生き方が、当たり前のようになってしまって、心の奥の空間を大事にする生き方がわすれられてしまってる気がします。


例えば、こちらでも、自分で考える力をつけるには、子供たちだけで、知恵を絞るような経験が必要かも、と先生が書かれてましたよね。

それにはすごく共感するのですが、一方で自然派子育てママの一部の人たちは、ケンカもさせる方がいいっていって、確かにそうなんですけど、1,2歳の小さい子同士で遊んでる場面でも、歳上の子が小さい子に対してたたいたりおもちゃ取り上げたりする場面でも、にこにこみてたり、放任みたいになってるのを見たことがあります。

なんかバランス悪いというか、表面的なことだけ取り入れてしまって、こうすべき!とすごく対応が硬直化してしまうというか、ママが必死になればなるほど先生が前におっしゃられていたような近視眼的な感じになって、ゆとりのある状態にならない。

ゆったりと時間、空間をとってリラックスして考えてみれば普通にわかることが、わからなくなってしまう、そういう傾向が、大人こども問わず蔓延している気がします。

じゃあ、どうしたらいいのか、ということは、考えてもなかなか答えは出ませんが、ひとつ、こちらのブログにたびたびお邪魔しているうちに感じたのは、子育て(またはそれ以外の問題でも)で壁にぶつかった時、というのが、大人もこどももチャンスなのかなと思います。

特にこどもは柔軟性があるから、大人より変化が起きやすいかもしれませんね。

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いただいたコメントにある通り、

「二次元的な表面のことにばかり目がいってしまう生き方が、当たり前のようになってしまって、

心の奥の空間を大事にする生き方がわすれられてしまってる」ことや、

「表面的なことだけ取り入れてしまって、こうすべき!とすごく対応が硬直化してしまう」こと、

「ゆったりと時間、空間をとってリラックスして考えてみれば普通にわかることが、わからなくなってしまう、そういう傾向が、大人こども問わず蔓延している」ことが、さまざまな問題を生みだし、複雑にし、解決しづらくしている現実があるのだと思います。

コメント主さんの

子育て(またはそれ以外の問題でも)で壁にぶつかった時、というのが、大人もこどももチャンスなのかなと思います。

という言葉は、

それこそ二次元的な表面的な理解でスルーしてしまってはいけない大切な気づきとして受けとめています。

 

前回までの話題の続きの解決の3つ目の糸口にあたるのは、

おそらくコメント主さんの答えが意図するような

「抱えている問題を、親と子の変容の体験にシフトさせていく」ことにあると感じています。

 

とはいえ、そうした言葉は、それだけだと、

世の中にありがちな「よさげな言葉」や「ステレオタイプな教訓」として、

共感を示すうなずきと共に忘れ去られるのがオチでしょう。

 「壁にぶつかった時がチャンス」といった知恵を

現実の問題解決に役立たせるには、

具体的で取り組みやすいイメージが必要で、それにはアーキタイプ(元型)について、

話をするのがいいと感じました。

 

そこで、この夏のユースホステルで、わたしが問題に直面した時は、

「自分の思考や行動が、今、どんなアーキタイプ(元型)に支配されているのか、

他のもっと今の問題に適したアーキタイプの思考や行動のあり方を取り入れるとどうなるだろう、という

思いをめぐらせて解決している」といった話をし、

「さまざまな問題解決の実例」を紹介すると、アーキタイプについて興味を抱く方が多く、

とても好評でした。

アーキタイプなんて聞き慣れない言葉かもしれませんが、どのようなもので、

それが親子の関係を良い形に変容させていくのにどんな風に働くのか、わたしが理解できている範囲で

言葉にしていこうと思います。

 

↑ ユースホステルのレッスンで。バッタを捕まえてきたAちゃんといっしょに

バッタのお家を作りました。ペットボトルに穴を開けてあげると、自分でテープを貼って

最後まで熱心に仕上げていました。壁面には大きな穴を開けて網を張っています。

好きなものをは何か質問されたAちゃんは、自信を持って、「虫!」と答えていました。

 

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アーキタイプ(元型)について書いた『英雄の旅』の著者のキャロル・S・ピアソンは、著書の中で、

アーキタイプの研究に

取り組む大きな原動力となったこんな出来事について書いています。

 

それは、キャロル・S・ピアソンが大学教授だった頃。

三人の女子学生にある重要なレポートを書き直すように指導したそうです。

三人のうち一人は、即座に犠牲者モードとなり、自分を憐れみながら、わたしはいつもこういう目に

あうのだと不満をこぼし、

もう一人は、すぐに戦士モードに切り替わり、障害を乗り越えるための作戦を練り始め、

三人目の(幼子モードの)学生は、自分の書き方に問題があったことは

まったく気づいていないようで、教授を喜ばせるためだけにレポートを書き直したのだとか。

三人とも自分の元型的な物語に彩られているように見えたそうです。

 

言葉の力で思考の方向性を決めるのは、人間の意識の基本的な方法のひとつです。

自分の体験を音や言葉やイメージを使ってどう整理するかによって、わたしたちの世界に

意味が与えられるのは、誰もが体験的に知るところだと思います。

 

心理学者たちは、

ずいぶん前から、人の成長が阻まれたり、遅くなったりする原因は、

自分が目にしたものによって元型的な見方が形成されることが原因だと捉えていました。

もちろん、流派によってアーキタイプに対する呼び名は異なるでしょうが。

 

たとえば、子どもの頃に虐待を受けていた人は、他人はいつ虐待者になるかわからない存在で、

自分は常に犠牲者だという見方をするものです。

そういう人の意識からは、

自分で設定した基本のパターンに合わないものは、こぼれおちていくのでしょう。

また、そういう人は、強迫的に自分が犠牲者になることを誘発するような行動を繰り返すことで、

何度も虐待の被害者の立場におかれてしまうことは、世間でよく見聞きすることだと思います。

 

アーキタイプ(元型)とは、太古の昔から、美術品や文学、神話や宗教の中に

繰り返し登場する象徴のことで、あらゆる国や時代を超えて確認されています。

心理学者のユングは、人類の心の深い部分に共通の物語を生みだす層が存在すると考え、

この層を「集合的無意識」と呼び、

その物語の型を「アーキタイプ(元型)」と呼びました。

わたしたちの目に映る世界は、今のわたしたちの思考や行動が

どのアーキタイプに支配されているかによって変わってきます。

キャロル・S・ピアソンは、『英雄の旅』の中で、十二種類の元型を取り上げ、

それらが生活の一場面でどのように働くのか、こんな例を挙げています。

 

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十二種類(幼子、孤児、戦士、援助者、探究者、破壊者、求愛者、

創造者、統治者、魔術師、賢者、道化のアーキタイプ。それぞれに影としての存在もある)

すべてのアーキタイプから何かを学びたいという気持ちになれば、

たった一日で、いやたった一時間ですべてのアーキタイプと

遭遇することが考えられる。

たとえば、あなたの身に何か悪いことが降りかかった場面を想像してみてほしい___病気に

なったとか、仕事や大切な人との関係が危機に瀕しているといったことだ。

 

最初の数分は、問題を直視したくないという思いにとらわれるが(影の幼子)、

それから生来の楽観主義が頭をもたげて戻ってきて(幼子)、

状況を正確に把握しようと努めるようになる。

次に待ちかまえているのは無力感と痛みであり、あなたは他人に助けを求める(孤児)。

次は、それまで蓄えてきたものを総動員して、問題に対処するための計画を練っていく(戦士)。

計画を実行に移す段階では、精神的な支えという意味で、

自分や仲間が何を必要としているのかにも注意を払うようになる(援助者)。

あなたは情報収集に励み(探究者)、

幻想や偽りの希望を手放し(破壊者)、

自分を変えるために新たな絆を求め(求愛者)、

解決策を見つけようとする(創造者)。

つまり自分自身の成長を促すようなやり方で危機に対処していくわけだ。

なんとか危機を脱することができたら、すぐに自分の態度が問題を誘発したのかどうか

を検証し(統治者)、

自分に原因があるとわかったら、二度と同じ状況を招かないために

原因となった部分を癒すように努める(魔術師)、

自分には非がなかったという結論に至った場合は、ただ単に痛みを癒すこともあるだろう。

そうすることで現状から学ぶべきものが見えてくる(賢者)。

それを学ぶことで、再び人生を楽しむ余裕が生まれ(道化)、

人生のプロセスを信じる気持ちを取り戻すのだ(幼子)。

 

特定のアーキタイプを活性化させずにいると、それぞれの段階(ステージ)を生きることが

できない。戦士が活躍しなければ、計画を練って問題に対処する段階を

体験できない。

賢者が現れないと、難局から教訓を得る体験がおろそかにされるかもしれない。

あるいは、それぞれのアーキタイプの影(シャドウ)が表に表われてしまうことも

あるだろう。計画を練る代わりに他人を非難するのに夢中になるとか、

教訓を得る代わりに自分や他人に裁断を下すといった具合だ。

十二種類のアーキタイプの段階を体験するのは、日々を生き抜くための貴重な

スキルを育んで行く、元型的なプロセスだ。

 

    ( 『英雄の旅』 キャロル・S・ピアソン著   実務教育出版 P30 より引用 )

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この記事は、『英雄の旅』(ユングの考え方を実用的な形にして解説した本)の一部を

わたしなりに咀嚼して紹介しています。興味を持った方は、ぜひ、『英雄の旅』を読んでみてくださいね。

 

前回の記事で書いたようにアーキタイプ(元型)とは集合的な無意識の層にある物語の型のことです。

学者や何でも合理的に考える人は、アーキタイプのことを、

世の中をどのように認識するかを決める認知パターンのような見方をするかもしれません。

 

どのような捉え方をするにしろ、人の物の見方や感じ方や考え方や態度のあり様に、

援助者、探究者、賢者といったイメージしやすい名前を与え、

それぞれが何を恐れ、どんな風に問題と対決し、どのようなプロセスを経て成熟していくのか

理解すると、

自分が直面している問題や体験していることに、

深みと意味と明るい展望が与えられるにちがいありません。

 

これから、『英雄の旅』の本で、アーキタイプの中で特に重要だと紹介されている十ニのアーキタイプに

ついて解説していこうと思っています。

それでは、まず、最初に子育てと関連が深いと思われる『援助者』

のアーキタイプについて取りあげることにしますね。

 

援助者は、人々が安心してくつろげる雰囲気と環境を創りあげるアーキタイプです。

「自分には居場所がある」「自分には価値がある」「自分は大切にされている」と

感じられるよう努め、個人と地域の人々との橋渡しをします。

 

援助者の理想的な姿は、完璧な親です。

愛情深く、子どもの才能と好奇心を見抜いてそれを育てあげようと気を配り、

いざとなれば子どものために命までも捧げかねません。

 この理想像は、子どもの成長に応じて姿を変え、相手が赤ちゃんならあらゆる要求に答えようとし、

子どもが成長すると、物事への取り組み方を学び、世の中の仕組みが理解できるように導いていきます。

 その後の成長をささえる教師やセラピスト、看護師、教育係の上司なども、援助者としての役割を担う人々です。

学びや癒しの場で責任を負うことから『援助者』のアーキタイプとの関わりが始まり、相手が経験を積んでたくましくなるにつれて

両者の関係に変化が起こって、最終的に自力で活動できるよう支えていきます。

親になるとか人を支援する仕事に就くことで、援助者のアーキタイプを成熟させていく体験をすることもありますが、

人生のあらゆる場面で援助者のアーキタイプが活性化されることはあるし、

社会で生きていく基本的なスキルを授けてくれる4つのアーキタイプのひとつでもあります。

 

援助者の役割を割り当てられる人の中には、自分がまだ

成長しきっていない段階にあることも珍しくありません。

親や仲間たちとは異なる純粋なアイデンティティーを確立していない段階や

通過儀礼を伴うような自分自身を成熟させるためのプロセスを経ていない段階で

子どもの世話に追われるようになる人々も大勢います。

 

『英雄の旅』から影の援助者について書いてある部分を紹介しますね。

 

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親や友人たちの価値観や、社会の一時的な流行や熱狂から

生まれた感覚を自分のアイデンティティーだと思い込むような人間が

他人の面倒を見ようとすると、必ずその人自身が傷を負うことになってしまう。

若い母親は特にこのカテゴリーに当てはまりやすい。

気づいた時には子どもの世話に追われていて、自分自身の境界線を広げたり、アイデアンティティを

確立したりする時間がなかったからだ。(省略)

援助者よりも幼子の要素が強い母親は、無意識のうちに子どもに面倒を見てもらいたいと望んでいるはずで、

その期待は次の世代にも影響を及ぼしていく。

彼女たちの子どもが、母親と一心同体の生活を送りながら、母親の機嫌を取ったり

気を使ったりすることに神経を集中させたせいで、本当の自己を見つけるのに苦労することに

なるからだ。

さらに、こうした若い母親たちは、子どもの世話をするのに必要なスキルを備えていないことへの

いらだちから、子どもの心や肉体を虐待するおそれがある。

(省略)

援助者のアーキタイプは、他のすべてのアーキタイプがそうであるように

本質的にネガティブな一面を備えている。

溺愛者もその一つであり、母と子の共生状態をいつまでも維持していたいと望む

一面が表面化したものだ。

事実、慈しみの行為は、元型的な母親と父親が、生まれたばかりの若い自我を貪り食って

自分のもとにとどめるための手段や、自分の字がの一部にするための手段とされてしまう

場合がある。

(省略)

男女を問わず、人は全体性を実感するために他人を利用する生き物であり、本人には

相手を利用しているという自覚はないものだ。

自分の人生を犠牲にして、夫と子どものためだけに生きてきた母親は、家族の人生を

自分のもののように感じてしまうことがある。こういう家庭では、夫や子どもが、援助者が

やってみたいと思っていることを実践するように誘導されたり、圧力をかけられたりしていることも

珍しくない。

好きな道に進むことをあきらめて援助者となった父親にも子どもを

身代わりにして達成感を得ようとしたり、子どもに同様の要求をして、自分が果たせなかった

夢を実現させるか、自分の価値観や主義主張に黙って従うかのいずれかを選ばせようとする傾向がある。

(省略)

男性にせよ女性にせよ、人には良くないこととわかっていながら他者を

゛貪り食う゛傾向があり、それをやめるには、自分の中に他人だけでなく自分のことも

気遣ってくれるような援助者を見つけなくてはならない。

もっとも十分な関心を払ってもらった経験がなければ、

(あるいは過剰なまでの関心を払われてきた場合は)

人を気遣えと言われても途方に暮れるだけかもしれないが。

 

(『』はアーキタイプです) ( 『英雄の旅』 キャロル・S・ピアソン著   実務教育出版 より引用 )

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 


工夫して計算する力がつくゲーム

2016-01-29 18:26:56 | 算数

小2の算数クラブのレッスンの様子です。

ラミィキューブを4枚置いて、

+ - × ÷ () = を使って

数式を成り立たせる遊びをしています。

 

かなり難しいものもあったのですが、どの子も進んでやりたがりました。

おかげでしっかり計算ルールが身に着いたようです。

 

 

ラミィキューブで遊び中。これはラミィキューブの正式な遊び方ではなく、

もう少し気楽にできて、工夫して計算する力が身に着く遊び方です。

 

<遊び方>

 

9枚ずつラミィキューブを配ります。

順番に、場に3枚以上のセットを出すか、なければ

新しいチップを2枚もらいます。

 

3,3,3など同じ数で色違いの3枚以上か、

2,3,4など連続する数で色が同じの3枚以上を

場に出すことができます。

 

他の人や自分が場に出した数で、もしそれをもらっても

場の条件を満たす場合、(2、3、4、5のうち、5をもらっても、2、3、4残るなど)

自分の番の時にそれをもらって、出すことができる。(5をもらって、5,5,5を出すなど)

 

この遊びは慣れてくると、数を記憶しておいて、組み合わせたり分解したりすることが

とても上手になってきます。

絶対、場に出すことができないような不利な数字を手にしていても、

工夫と創造力次第で、新しい組み合わせが作っていけることが魅力です。

 

小学2年の子らも詰将棋でもするように

必死で頭を絞っていました。

 

 

 

推理ゲームの『クルード』です。

時間短縮のためにサイコロ2個を振った際、

出た目2つを足すか掛けるか自分で選んで

コマを進められるルールで遊んでいます。

クルードは工夫する計算力がつくゲームというわけではありませんが、

このようにコマの進め方に改良を加えることで、

 

「サイコロ2個を振って出た目の数を足すか掛けるかする時に、

最小の数はいくつになり、

最大の数はいくつになるのか」

といった数への感性がしっかり身につきます。

 

答えは、最小は、1と1を掛けた時で、答えは 1。

最大は、6と6を掛けた時で、答えは 36 です。

 


チョキチョキ切るのが楽しい時期に。 紙皿パズル。

2016-01-29 18:18:00 | 工作 ワークショップ

チョキチョキとはさみを使うのが楽しくてたまらない時期の子たちと

紙皿でパズル作り。

 

紙皿に絵を描いて、好きなように切ります。

子どものリクエストに応えて絵を描いてあえて、

子どもが切る役をするのを楽しいです。


子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ つづき 4

2016-01-29 06:51:46 | 日々思うこと 雑感

前回の記事で書いた「常に意識の焦点を当てて言語化している悩み」が、

「ステレオタイプな外から与えられる情報か他者からの評価にかかわるもの」に

絞られている……って、

何のことやらわかりにくいですよね。それについて、もう言葉を添えることにしますね。

 

夏休みの宿題をめぐって繰り広げられたBくん宅の一大騒動。

 あまりの宿題のやらなさに、「習い事も減らそう、塾もやめていいし、

学校も変わったらいい」とまで考えたお母さんも、

宿題の手伝いに借り出されたお父さんもさぞかし大変だったことと思います。

 

ただ夏休みの宿題を終わらせることだけが目的なら、

強制的に机に座らせるなり、

本人の好きな遊びやおもちゃやテレビ視聴を取り上げて脅すなりの強硬手段に出れば

何とかなるのでしょう。

また、Bくんの苦手な時間配分に配慮して、時間を視覚化するツールを利用し、

目標を小分けにし、早いうちに自由研究を自分でさせるのは諦めて、

親がした下書きを写せばいい状態にして追い立てれば間に合ったのかもしれません。

 

でも、Bくんのお母さんがそれをしないのは、

Bくんの自己肯定感を高めたいという思い、

自発的に!意欲的に!能動的に!自分から動いてほしい、

自分の意見を持って、自分で感じ考えてほしい、という思いがあったからでしょう。

それと何より、どんなに子どもとぶつかったとしても、

「学校が嫌い、習いごとが面倒、人と関わりたくない、日々が面白くない」

という気持ちにはさせず、

「学校は大好き」「宿題をする時以外はずっと楽しいことばかり」とBくんに言わせる

ような関わり……つまり、どんな時も最低限の子どもの人権を守り、温かく辛抱強く

より良いものを与えようとする接し方を続けてきたからなのでしょう。

 

Bくんのお母さんから、宿題騒動のコメントをいただいた時、

同時に、「ユースレッスンで遊ばせていただいたゲームの名前を

教えていただけないでしょうか?外国製ということで、

同じものはないかもしれませんが・・・。相当気に入ったみたいで、

欲しい欲しいと言っていました。ひとまず、自分で盤と駒を作っていましたが・・・。

それでいいかな、とも思いますが、教えていただけるとありがたいです」

という質問もいただきました。


 わたしは、「ひとまず、自分で盤と駒を作っていましたが……」

のくだりがうれしくて、「そうそう、Bくんは、こんな子だな。こういう時、

自分で能動的に動いて創意工夫することができる。なければないで、

あの並べるだけでも面倒なほどたくさん駒があるゲームを手作りしようって

言うんだから。Bくんのお母さんも、Bくんのそうした才能や魅力は知っているし、

認めてもいるのに、それがBくんの自己肯定感を上げることに寄与してないのは

残念……」と考えていました。

何も、そこで、ゲームを買わずに、自分で作らせた方がいい、などという

表面的な話をしたいわけではないのです。

 

どうにも、学校の宿題のように外の評価が関わるものと

こんなふうに生活の一場面で本人が自発的に動いてすることの扱いの

差が大きすぎるようにも感じたのです。

 

Bくんのお母さんは子どもの遊びを軽く扱う方ではありません。

また勉強以外のものへのBくんの興味にも心を配って、きちんと対応しておられます。

 

ここで、「扱いの差」と書いたのは、あくまでも

「Bくんはこんな子!」というお母さんの評価にそれがいかほど影響を与えているか、

という点での差異のことです。

 

わたしが小学生だった頃を振り返ると、かつてと今では、

『宿題』に対する大人のスタンスが、様変わりした印象があります。

 

教室の親御さんの話を聞いたり、小学生の子を持つお母さん方のブログを読んだり

していると、低学年の子の宿題の話をしているのか、

納期までに完成品を納めなくてはならない仕事の話をしているのか

わからなくなることがあるのです。

 

宿題のみならず子ども自身についても、

ある時期、ある時期に、理想的な子どものあり様がある前提のもと、

それぞれの納期までに子どもの完成品を納めなくちゃならないのに……と、

(親が子どもの)宿題提出の度に焦っているようでもあります。

 

それもそのはず。

就学前から通信教材のDMは、毎日、机に座る習慣をつけることがいかに大切か、

時に親の不安を煽りながら畳みかけてくるし、

ママ友仲間の掲示板やラインやブログでは、

「隣のクラスはこれだけ宿題が出ている」とか

「別のクラスはここまで進んでいる」といったこれが理想形なんだという思いや

不安感を刺激する情報が絶え間なく流れているのです。

子どもがすることは何であれ、する前から親の頭の中は情報でパンパンになって

いることでしょう。

 

それこそ、「子どもの宿題」のようなものは、

ネットや携帯がない時代ならわざわざ本を買って調べるほどの情報でなし、

いちいち電話して確かめるほどの話題でなし、

子どもが学校に行けばもらってくるだろうし、

もらってきたらどんなものかわかるだろう……と適当に構えていたものにまで、

知らない間に頭でっかちになっていても誰も気づかないのかもしれません。

 

情報過多の何がまずいかというと、

レベル1段階の子を、

レベル10の視点でチェックしてしまう、ということがあります。

 

レベル1の課題に取り組んでいる子に、最終段階の完成形を求めていじくって、

チャレンジ精神を枯らせたり、自分はダメだと思い込ませたりすることも

よくあることです。

 

たとえば、自由研究でしたら、

その子が無の状態からイメージして何かを作り出す力が

あるかいなかによって、その子の今取り組めるレベルが決まってくるのでしょう。

言葉上で好き勝手なアイデアを出すのも難しく、

「何も思いつかない」とお手上げ状態なら、

わたしの子ども時代の子なら、友だちといっしょに宿題をして、

中身を少しだけ変えて真似をして、未完成なまま提出していました。

そうしたことが叶わない今の子なら、自由研究の本を見て、できそうなものを選んで、

その型にはめる形で、未完成ながら何とか空白を埋めるくらいで十分なのでしょう。

 

大切なのは、取り組むのがレベル1の課題であっても、

レベル1内でしっかり身についていくものがあって、意欲や達成感につながったり、

責任感が生じたりするということです。

先生や外からの評価に合わせて、本人の今のあり様とかけ離れたものを要求するよりも、

Bくんでしたら、自分が作ったラキューの作品やゲームの写真を撮って、

短い説明をつけて、ラキューやゲームについて調べたことを、書き添えておく……

くらいの自由研究が楽しくできたら、

Bくんの心の中に、「ぼくにもできるんじゃないか」「次もできそう」という

思いが芽生えるのでは? と思いました。

 

解決の糸口のひとつ目について、まだまだ書き足りないものの

いったん先に進みますね。

 

ふたつ目は、「大人が受け止めて言語化を助けるものが、

子どもの心の中にあるものを素直に表現したものになっているか、

本音を言っても罪悪感を抱かなくてもいいか」ということです。

 

子育ての迷いや悩みから抜け出すためのあれこれ 7の記事で、

「勉強、いやだ~!」「勉強したくな~い!」「いやだ~!」とおふざけモードで

主張しながら部屋に入ってきた男の子たちに、

わたしが「勉強のどんなところが嫌なのか」たずねる場面があります。

 

ここいう時に、大人が、

「勉強が好き!」と言う子になってほしいという理想形に持っていく流れで

子どもの意見を促すというのはよくあると思います。

また、「勉強、いやだ~したくない~」なんて言うのは間違っているから、

その意見のどこがどう間違っているのか正してあげましょうというノリで、

子どもの話を聞くということもありますよね。

 

どちらにしても、子どもの内面の言葉を引きだしているようで、

大人が自分の意見をごり押ししているだけになるのかもしれません。

「教育的場面」と「自分の思いを言葉にするのを助ける場面」に、

線引きが必要なんでしょうね。

 

もちろん大人が子どもの意見に同調する必要はなくて、

大人は大人で、「わたしはこう思うよ、こう考えるよ」と自分の意見を主張すれば

いいのだと思います。

一方で、子どもの意見や気持ちの表現が大人の意にそぐわないものでも

興味を持って耳を傾けていると、

子どもが自分の意見や価値観を練って、育んでいくプロセスにつきあうことができます。

 

まるで自分の考えがないかのように

ふわふわと周りに動かされて行動する子のお母さんが、

矛盾点を突っ込むことができないような理路整然とした意見を持っている

正しい方であることはよくあります。

その正しさの前で正しくない意見は持ちようがない雰囲気があるのですが、

子どもがする体験の中で抱く人間の弱い一面やネガティブな気持ちを

子どもが言葉にできるようになるには、

子どもと同じように完璧でない人間としての共感が必要なのかもしれません。


『子どもが勉強にハマる脳の作り方』 という本

2016-01-28 21:26:42 | 教育論 読者の方からのQ&A

諏訪東京理科大学教授の篠原菊紀先生の

『子供が勉強にハマる脳の作り方』という本を読みました。

タイトルや紹介文には、ちょっと違和感があったもののなかなか面白い本でした。

 

著者の篠原先生は、多チャンネルNIRSという機械を使って、

年中脳活動を調べておられるそうです。

パチンコ、ゲーム、ツイッターなどのハマりやすい行為の脳活動も調査中なのだとか。

そこで浮上してきた「ハマリの仕組み」を利用すれば、

子どもの脳を勉強に夢中にさせることが可能だということです。

 

篠原先生いわく

「子どもが勉強する」ことは、子どもの脳の問題ではないということです。

実は、子どもの脳と親の脳の「間」の出来事が問題で、

ふつうは親が子供の脳が勉強にハマるのを邪魔しているそうです。

 

ならどうすればいいと書いてあるのかというと、勉強にハマる脳にいたるまでの

子どものあり様を表現した言葉が独特で面白かったのです。

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親に必要なのは、その時々の親子関係に合わせた対応。

目の前にいる子に、「正しいことを言わなければ」と思いこんで、

「勉強しなさい」と言うのは、大きな間違いなのだとか。

子どもはたまたま目の前にいるだけの「ビジター(訪問者)」で、

自分が解決すべき課題を抱えている自覚がありません。

わたしたちが、道ですれちがった人に説教をされたのと同じように、

反発心を抱くだけなのだとか。

 

子どもがビジター(訪問者)のときは、

親のできる対応は次の3つだけなのだそうです。

 

何もしない。

当たり障りのない話をする。

何でもいいからほめる。

 

相手に問題を抱えている自覚がなければ、心をこめて諭しても

脳がスルーするのはあたり前だということです。

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何か問題は抱えているという自覚はある。

でも、子どもがその問題は自分以外にあると思っている場合、

親子の関係は、コンプレイナント関係と言うそうです。

 

問題の原因が自分とは思っていないので、

「こうしたら?」という提案をすれば、腹を立てます。

 

何でもいいからほめる。

観察力をほめ、問題を見つけてもらう。

 

「勉強の邪魔をしているのは何かな?」など。

親はそもそも大したことはできないので、「副作用がないようにほめる」のが

基本なのだそうです。

コツは、

「ちょっとでも机に座ったらほめる。30分でやめたら、よく30分も

勉強できたねとほめる。」

ほめて待つが全ての基本なのだそうです。

 

「勉強したらほめる」「勉強したらほめる」を繰り返すと、

「勉強しようかな」と思った時点でザワワと線条体が活動し、

勉強に心が向かっていくようになるそうです。

ドーパミン神経系が線条体で回路を作っていて、

ここで「快」と「無意識的な行動」が結びつきます。

「やる気」とは行動と快感の結びつき。

 

たとえほんの少ししか勉強しなかったとしても、

比べる対象は親の中の理想ではなく、それまでの子どもの姿なので、

ちょっとしたプラスの変化を探すのは難しくないのだとか。

 

子どもが学習っぽいことをしたらベタぼめ。そうやって、

子どもがカスタマー(顧客)に揺らぐ瞬間を、

目を凝らして待つそうです。カスタマーは買う気満々のお客様。

相手がお客なら、親は子のニーズを的確につかまえて、タイミングよく、適切な量、

方法で、目標を設定してサポートしていくそうです。

 

『子どもが勉強にハマる脳の作り方』篠原菊紀/フォレスト出版

※一部を短く要約しています。

 

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実を言うと、わたしは、

この本で目指しているように「親が子どもを作っていく」

「親が子供をプロデュースする」というイメージがあまり好きではありません。

でも、現実には、子どもを前にすると、かなり甘めの対応が多いわたしは、

教室の子らに対しても、大きなわが子を前にしても無意識に、

この本と変わらない対応をしているな~と感じました。

ちょっとでもがんばりを見せたら、それが1、2分でやめたとしても、

思わず感激して、ほめ言葉が口に浮かんでくるです。

子どもたちを勉強にはハマらせようとしているわけでも、

わたしの期待することをやらせようともくろんでいるわけでもないのですが、

単純におめでたい性格な上、アバウトで適当なところがあるので、

ちょっとでもプラスの一面が見えると、

「すごいねぇ~!」と口に出してしまうのです。

 

でも、確かにそれを続けていると、いつの間にか、

子どもたちは勉強好きにはなっていきます。これは実証済みですよ。

 


愛されて大切に育てられた男の子

2016-01-28 19:32:06 | 日々思うこと 雑感

先ほど、東京で開いた出張工作教室や大阪の教室に何度か来てくださっていた

ぼくてんのママさんから悲しいお知らせをいただきました。

子どもを持つ多くの方々へ、子どもと過ごす時間のかけがえのなさについて、

ぼくてんくんがメッセージとして伝えてくれているような

気持ちがして、迷ったけれどいただいたコメントを紹介させていただきます。

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なおみ先生
ぼくてんのママです。ご無沙汰しています。何度か東京の工作教室や大阪の教室に通わせてもらいました。

ぼくてんが去年亡くなりました。ぼくてんは通常級でいじめられて小3の2月から通えなくなり、小4の春から支援級に転校し、そこで息を吹き返しました。明るくて楽しいことが大好き、まじめで一生懸命取り組む姿勢は変わらず、来年の春からの中学進学を楽しみにしていました。
それが突然先月逝ってしまいました。悲しみや悔いは彼が残した楽しい時間を今覆いつくさんばかりにぼくてんのママやパパにのしかかりますが、ぼくてんとのきらきら輝いた時間を大事にしていくしかありません。
ボーダーで手帳がもらえないのではと真剣に悩んでいた母にはなおみ先生のブログ、温かいまなざしは大変支えになりました。ぼくてんは本当にボードゲームやルールを作って遊ぶのが大好きな、手先が不器用だけど工作好きな子に育ちました。友達とかかわってアイディアを色々だして楽しんでました。先生の考えやかかわり方を教えていただいたおかげだと思っています。
どうもありがとうございました。
お礼がいいたくでコメント欄にて失礼します。

ぼくてんのママより

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整った美しい顔立ちをしていたぼくてんくん。お父さんとお母さんからたくさん愛情を注がれて

大切に育てられていたぼくてんくん。

どんな時も笑顔を絶やさない明るい子でした。

優しい澄んだ心の持った子でした。

ぼくてんくんの日々が、できないことをできるようにする訓練ばかりに埋められることなく、

好きなことや得意なこと、自分を存分に表現できることに彩られていたことを知り、

ショックで茫然としていた気持ちが、

少しだけやわらぎました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。 

 


子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ つづき 3

2016-01-28 07:23:56 | 連絡事項

ちょっと脱線するかもしれませんが、前回までの話題と

同じ根っこを持つと思われる問題について、もう少し書かせてください。

 

小学校の先生をしている方から、

「最近の子には、もし自分がそれをやられたらどうするの? 

自分が同じ目にあったら嫌じゃないの?が

通用しなくなったので、ケンカを叱るのも大変」という話をうかがいました。

「別にやられてもいい。ぼくは気にならないもん」「同じ目にあってもいい。

わたしは、嫌じゃない」と返ってくるので、二の句が継げないのだとか。

 

親御さんのひとりから聞いたこんな話。

中学生の男の子の間で流行っているラインを使ったこんな遊び。

最初からいじめるターゲットを決めた上で、ラインのグループを作り、

ターゲットの子だけ無視するなどしていた子(どこにでもいるような温和な性格の

良い子です)に「どうしてそんなことをするの!?自分がされたらどう思う?」と叱ると、

「あいつは陰キャラだから(いじめに合う)。

おれは陽キャラだからそんな目に合わない」と言ったそうです。

 

この夏に教室に来てくれた海外在住の子や帰国子女の子とその親御さんから

聞いたこんな話でも、心の中がもやもやとくすぶりました。

 

日本に滞在中、子ども向けのサマーキャンプに参加した小学校中学年のJくん。

すぐに誰とでも打ち解けて親しくなれる明るく頭の回転が速い男の子です。

キャンプの初日、スタッフの方々から、

「それぞれがやりたい遊びを提案して、自由に遊ぶように言うと、

Jくんが積極的にアイデアを出して、上手に遊んでいましたよ」というコメントを

いただいたそうです。

ところが、Jくんのお母さんがJくんにその日の様子をたずねると、

暗い表情で意外な答えが返ってきたそうです。

スタッフに言われた通り、「こんなことをしようよ」とアイデアを出したJくんの案に

その場にいた子らはすぐに乗ってきたのだけれど、少し遊んで飽きてくると、

その子らがJくんの人格を否定するようなひどい言葉を浴びせて、去って行ったそうです。

 

この話を息子にすると、「途中で遊びがつまらなくなってくると、

遊びの言いだしっぺの子を責め立てたり、たいした理由はないんだけど、

嫌な気分の責任を取らせるように、キモイとかうざいとか

消えろとか言う子はけっこういたな。

エンターテイメント性を売りにしたアミューズメント施設で、

めまぐるしく新しい面白い刺激で満たしてもらうのを遊びだと思うのが主流になって、

遊びを楽しむには、自分でもそれなりの努力がいるのを忘れているのかもな」

という返事が返ってきました。

 

前置きがずいぶん長くなってしまいました。

そろそろ「何度注意しても、学校の持ち物の管理がいい加減な小学生のBくん」への

対応についてわたしの考えを言葉にしておかなくてはなりませんね。

 

Bくんのお母さんから、こんなコメント(ブログへの文面引用はOKという

非公開コメント)をいただきました。

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色んな状態・状況の子たちも、根源的な問題は共通しているのですね・・・。

ネガティブ感情・・・そんなに否定してきたつもりもなかったのですが・・・。
とくに、就学前までのややこしい時期には、それこそややこしくて

ネガティブ感情をもろに私にぶつけてきて、私もいつも途方にくれながらもひとまず受け止め、

受け入れ、「この時期を乗り越えたら、また成長する!」と

信じてきたし、実際そうやって成長してきたと痛感しています。


でも、就学してから、ネガティブ感情を私にぶつけなくなりました。

今までなら、ぶつける前は、自分でかかえていっぱいいっぱいになっていて

感情が不安定だったり、何かしら前兆というか、

ストレスを抱えているんだなということを察することができましたが、

就学してからはそういう姿も見られなくなりました・・・。

実際とっても困っていることもないようですし、先生から特に注意を受けることもなく・・・学校のことは大好きだし・・・。
だから、安心していたのですが、その反面、手ごたえの無さにいつも歯がゆい気持ちや不満・漠然とした不安を抱いていました。


この手ごたえのなさ、なんなのでしょう??
わたしはいつも、もっとぶつかってきて欲しい、と思っているのですが・・・。
結局わたしの一方的な思いをぶつけるだけで終わってしまいます。

支配的なわたしの接し方のせい??
(勿論、いつでも言うことを聞かせたいとは全く思っていませんが・・・)
学校のせい??
(学校は、ガチガチに厳しいということはありません。
個人の才能を伸ばそうとして下さっている、と思っています。)

どうしてこうなっちゃったのでしょう?!


夏休みの宿題、特に自由研究は、Bからの発想や意見などを待ちたくて、声掛けはするものの、あまりうるさく言い過ぎないように、と気を付けてきました。

今日、宿題提出のための登校日でしたが・・・。
おとといの夕方から取り組み出したため、勿論間に合いません。結局ほとんどの下書きを主人と私が書きあげ、
Bは写すだけ・・・ちょっと聞いても、「わからないー」と。

そして、勿論、写すのでもめんどくさそうで全くやる気なく・・・。
休憩してはちょっとやり・・・文句言っては休憩して・・・。
当然間に合うハズもありません。

結局昨夜も10時過ぎには「もうねむい・・・・」「間に合うし・・・!」とか言って寝て、それでも今朝は早く起きようという意志はなく・・・。

普通に起きてきて、机に広がった宿題を見て、ベソをかき始める始末。
学校行くまでに30分も無いのに、朝ごはんも食べずに宿題写しだし・・・。


なんなのでしょう???
今までタラタラ書き写して、半分もできてないのに、この10分20分で、なんで「できる」とか思えるんでしょう??
今更泣く??今頃泣くの???
昨夜まで出来る気でいたのよね??
今まで間に合わないとは思わなかったの???
全て不思議です。

まだ3年生だからそういうものでしょうか??

それとも焦る気持ちから、心を切り離してきていたのでしょうか??
(宿題の合間合間にらキューに集中して、というか、らキューの合間合間にタラタラ宿題をして、色々作っていました・・・)


結局電車の時間もあり、「遅刻は絶対したらいけない!」という強い約束を夏前にしていたので、直前に
ベッドでゴロゴロ現実逃避していましたが、なんとか間に合うようには学校に行きました。

行ったら行ったで、宿題できずに忘れている子が何人かいるので安心したのでしょうか。
学校から帰宅後「明日までにはやる!」と張り切って言っているのに、昼前に帰宅してから先程スイミングに行くまでの間も、わたしが「ちょっとやれば?」と声をかけるものの、やっぱり一切せず・・・。



この夏休み、あまりの宿題のやらなさに、習い事も減らそう、塾もやめていいし、学校も変わったらいい、
と言っても、「やめない!どれもやめない!!」と言います。

わたしも、習い事をやめたり、時間をたくさん与えることが解決に繋がるなら全てやめさせるのですが、

時間がないとかが本質的な問題でもないな、と感じています。

この夏休み、かなり時間がありましたが、結局自分自身の心やらと向き合うことはなかったのではないかと思います。


感情と思考・・・どうやったら自分自身と結びついてくれるのでしょうか???

以前から先生には指摘して頂いていましたが、
今頃になってようやくわたしもふに落ちました。
真剣に思い悩んでいます。


ああしたら治る、こうしたら良い、という簡単なものでは
ないことは重々承知しています。
でも、ヒントになるような糸口をみつけることができれば・・・と思っています。

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この悩ましい状況への解決の糸口として、3つの視点から

よく考えてみるといいように思いました。

 

ひとつめは、「常に意識の焦点を当てて言語化している悩み」が、

「ステレオタイプな外から与えられる情報か他者からの評価にかかわるもの」

絞られているため、日常に散らばっている根っこ部分の問題を解決するためのチャンス

逃しているのではないか、という見方です。

 

ユースホステルのレッスンでは、

寝食を共にして、普段のレッスンの外にある子どもの姿、親御さんと子どもの関わりを

目にすることになります。

 

その時、驚くのは、しょっちゅう悩んでおられる問題を解決するようなチャンスが

目の前にあって、

それがとてもわかりやすいものでも、

たいていの親御さんが気づかないか、躊躇している間にチャンスを逃すか、

わかっていてもスルーしてしまわれることです。

 

「何でも興味を持って手を出したがるけれど、表面をかするような関わり方ばかりで

どれも深まっていく気配がない。困り事があると、ママーと頼っては、

頭も心も100パーセントお母さんに預けてしまう。

自立心と責任感の育ちが気になる」という小2のMくんのお母さんが、

「(事あるごとに頭も心もお母さんにバトンタッチという態度が気になるので)

親の目のないところで子ども同士で遊ぶ体験をさせたいけれど、そうできる相手も

場も時間もない」ということを何度も口にして悩んでおられました。

 

この日のユースホステルのレッスンには、

子どもだけで参加しているMくんより年上の男の子たちが参加していました。

どの子も親しみやすい気さくな子たちで、

初対面のMくんを快く遊び仲間に迎え入れてくれました。

Mくんは、Mくんの生意気やおふざけが過ぎても、

大らかに接してくれるお兄ちゃん連中に解け込んでいましたが、

遊びに飽きるとお母さんのところに戻ってきてベタベタしていました。

 

そのベタベタは、お母さんに甘えたいから甘えているというより、

子ども同士の世界にどっぷりつかって遊びたいものの、そうすると、

「こうしようよ」とか「それは嫌だよ」とお母さん抜きで直に相手に自分の思いを

伝えていかなければならない場面にぶつかるので、それを避けたい様子。

子どもの世界に片足をかけた状態で、

もう一方の足は常に退陣場所(お母さんのところ)をキープして遊んでいました。

 

お母さんがわたしに、「子どもだけで遊ばせたいけれど、そうできる相手や場所がない」

という悩みを口にしておられたまさに時、

同じ部屋で、男の子たちが着替えとバスタオルをまとめて、

上の階の銭湯に行く準備をしていました。

 

ここのユースホステルには、

小学生になると男の子は男風呂、女の子は女風呂に入る決まりがあります。

ですから、女の子たちはお母さんといっしょに風呂に入りますが、

男の子たちは、「銭湯内では、暴れない、泳がない、走らない。

何かあったらすぐに大人に知らせる。身体を洗ってから風呂に入る。

年長の子は責任を持って年下の子らの面倒を見、年下の子は年長の子の言いつけに従う」と

厳しく言い渡されてから、男同士、何人かでいっしょに風呂に行くことになっています。

 

「Mくん、男の子たちみんなでお風呂に行っておいで」と言うと、

Mくんは、「ぼくは……うーん……お母さんと入ろうかな……」と迷っていました。

口ではそう言いながらも、男風呂はとても魅力があるようで、

心が揺れているのがよくわかります。

すると、先ほどまで「子どもだけで遊ばせる場がない」と悩んでいたお母さんが、

男同士で風呂に行かせるのは心配な様子で、

無言ではあるけれど、「行きたくないなら行かなくていい」とでも言うような

はっきりしない態度になりました。

すると、お母さんの迷いがMくんに感染して、

Mくんもぐずぐずと態度を決めかねていました。

 

「ちょうどここでは小学生は性別にお風呂に入るきまりがあることですし、

滑って転ぶ心配もあるでしょうけど、そこは厳しく注意しておいて、

思いきって男風呂に行かせた方がいいんじゃないでしょうか」とわたしが言うと、

お母さんの返答は、「ええ、まぁ……」と

ちょっと歯切れが悪いものではあったものの、

Mくんをお兄ちゃん仲間に同行させることになりました。

 

気になったのは、Mくんのお母さんが何について心配しているのか

いっさい言語化しないまま、Mくんの揺れる思いを自分の方に

引きもどそうとしていたことでした。

迷いの原因が、環境の不備や事故につながるような本人の認識の甘さにあるのなら、

そこにあるリスクをはっきり言葉にしておかなくてはならないし、

生死にかかわることは真剣に言い聞かせ、他人の迷惑になることは

具体的に相手がどんな気持ちになるのかまで教える必要もあるでしょう。

 

でも、Mくんのお母さんの迷いは

そうした具体的な未知のリスクにあるのではなさそうです。

 

「子どもだけで遊ばせて、自分で問題にぶつかって、大人に頼らず問題を解決する

機会を与えたい……でも、子ども同士遊ぶ場や相手がいない」という悩みがレベル5なら、

そのレベル1にあたる

「子どもだけで活動するといっても短い時間だし、安心できる相手だし、

事前に注意事項を伝えることができるし、何かあれば知らせてくれるよう頼んだし、

もしもの時は壁ひとつ隔てた場所に大人がいるし、

揺れているとはいえ本人がいっしょに行きたい気持ちを持っている、

おまけに、それを体験させれば

自立心や男の子としての自信につながるにちがいないという利点がある」

という状況下での活動も、

チャレンジさせるのは何となく不安。

本人が揺れているなら、やらない方向に流れた方がいい……という

お母さん自身の心の中に迷いの原因があるようなのです。

 

 だとすると、「子ども同士で遊ぶ場がない」と何度も口にしている悩みは、

叶わぬ願いだからこそ口にできるもので、

実際に、子どもだけで遊ぶことが可能になると、

悩みはもっと大きくなるかもしれません。


うれしいコメント♪

2016-01-27 20:22:58 | 日々思うこと 雑感

なつかしい記事 と 子どもからもらったうれしい言葉

の記事に年中のAちゃんのお母さんから

こんなうれしいコメント(名前が入っていたので非公開にしています)をいただきました。

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今日の記事を見まして、我が家のAもそんなことを言っていたなと思いまして。

昨年の秋ごろでしたか、4時に虹色教室が終わったあと、電車の遅延で我が家に帰り着いたのが夜中の11時だったことがありました。
Aは愚痴一つこぼさずに、混んだ電車に乗っていました。
私の方が憔悴しきっていて、「こんな時間がかかって大変だったね、これからも虹色教室通えるかな」と言いますと、「でも教えてほしいねん、なおみ先生にまだまだ教えてほしいことがいっぱいある」と強い口調で言ったのです。
虹色教室を楽しんでいるとは思っていましたが、そんなこと思っていたのか、と驚きました。

ピッケの絵本作りのときにAちゃんに声をかけていただき、本当にAちゃんの世界が豊かになり、私にとっても、新しい彼女の魅力を知ることになり感謝しています。

彼女にとっては毎日が工作、実験、見立て、想像、創造、チャレンジの連続です。
次の虹色教室では家を作ろうか、かるたを作りたいなど言って次回の教室を楽しみにいます。
これからもよろしくお願いします。

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