虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

途中休憩  子どもたちの積み木作品です。

2019-11-16 21:37:09 | 通常レッスン

やる気スイッチの記事、まだ最後まで書ききっていないのですが、

ちょっと休憩を。(近いうちに続きを書きますね。)

 

下の作品は小2のAくんとBくんの

バビロンの空中庭園(女の子の作品<右横 >とまた違う趣きです。)

このふたりとにかくパワフルに作りまくるので、建物を作りおえたかと思うと

庭や迷路を作り、それから、船を作り、まだまだ力が余っていて、橋も作りました。

子ども銀行のお金が隠されていました。

このところ、教室で積み木遊びをする子が多いので、

100円ショップで積み木遊びに役立ちそうなものをいくつか買ってきました。

↑の写真は年長のCくんと私の共同作品。

メンテナンス中の船です。

 

購入したのは↓のキッチンペーパーを立てる

道具です。写真ではそれに壊れたおもちゃのパーツをかぶせて

クレーンとして遊んでいます。

このキッチンペーパーを立てる道具は3つ

買いました。糸を結びあうと積み木作品の上に

モノレールや飛行機が飛ばすことができるかと思ったんです。

でもAくんのアイデアで、クレーンを立てるのに利用するといい感じでした。

小1のDちゃんのトロイの木馬の入場シーン。

本当はDちゃんは積み木でトロイの木馬が作りたかったんです。

でも馬の顔を積み木で作るのは難しそうだったので、建物や門を作って

トロイの木馬は紙工作の素材を使いました。

 

 

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子どもたちの積み木作品です♪

2019-11-13 20:29:46 | 工作 ワークショップ

小学2年生の女の子ふたりの作品。100円ショップで買った

観覧車を水車の代わりにしています。

バビロンの空中庭園です。この後でもっと美しい作品になっていたのですが、写真を

撮りそびれました。残念。

積み木の通路。

小二の男の子たちの作ったコロッセオ。(男の子たちがフィギュアで戦いごっこを

始めたので、この作品作りは階段のところなど私が少し手伝っています。)

 

 

年長さんたちの古代の出雲大社。

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やる気のスイッチを入れるアイデアいろいろ 6

2019-11-10 09:54:56 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

先の話と重複しますが、

虹色教室内では、最初はあまりやる気が見えなかった子も次第に深い集中状態に

入っていきます。

また工作やボードゲームなどに意欲的に取り組むと、その後の

学習態度も真剣なものになっています。

遊びや物作りへの意欲的な態度とと学習へのやる気のスイッチの入り方は

地続きで、強く結びついているものだと感じています。

 

前回までの記事で、

「簡単じゃないと、やりたくないと思うのに、簡単だとやる気がでない」


という複雑な心理と

 「その年代、その年代で、とても敏感になっている

数学的なテーマを工作に取り入れる」

ということについて書きました。

 

それについて、2年生のDちゃん、Eちゃん、Fちゃんの積み木遊びとその後の算数学習の様子から少し補足を

していこうと思います。

教室のレッスンはたいていの場合、かなり自由にやりたい活動を選べるようにしているのですが、

たまに「今日は〇〇で」とざっくりとした縛りを設ける日があります。

この日は後者の方で、「今日は積み木を使って何かを作りましょう」という決まりのも

とで活動しました。

 

どんなものを作りたいかアイデアを出し合う際は、

三人とも制作にあまり乗り気ではありませんでした。

世界の遺跡の写真を見せたり、他の子らが作った

ヨーロッパ風の城や日本の城の縄張り図などの写真を見せたり

しても、「どれも作りたくない~」と言っていました。

それが、らせんの階段を高く高く上がっていった先に建物があるという

ちょっと難易度が高そうな建築物の絵を見て、「作りたい!」

と言いました。

何がこの子たちを惹きつけたのかというと、

「完成するかどうかわからない(まだ誰も作ったことがない)ような未知の難しさ」

「とにかく階段を積んでいけばできそう

という作業に対する親しみ」だったようです。

 

 まずざっくりと大きな土台を作り、それぞれに子が段差を作って

創作に励んでいました。土台作りはけっこう大変で、

かなりの高さを作るのにどうすればいいか

みんなで知恵を作って解決しました。

その「なんかいいものないかな?」「誰かいいアイデアない?」と

ちょっとした飢餓感やみんなで真剣に知恵を絞らなくてならない場面が

子どもたちのやる気を高めていきました。

またそれぞれの子が自分流のアイデアで

作りたいところを作っていたのも楽しさのもとになっていたようです。

子どもたちは、誰かの指示や指導のもとで、決められた作業を

まかせられるのではやる気がでないのです。

自分発の未知の発想を試してみる時、一番、いきいきしています。

教室で子どもたちの様子を見ていると、

幼児期の子たちは、2歳ごろの1対1対応の遊びから始まって、

個々の数えられるものをたくさん扱っていくことに熱心です。

 

それが年長頃から2年生の後半ごろまで

面を扱うことや形に興味がいきがちだと感じています。

 

3年生ごろの子はいったん何か形あるものを生み出すことへの興味が薄れ、

暗号やゲームのルールなどに惹きつけられる子が多いです。

暗号遊びに興じた後の子は、数字を記号に置き換えて

算数問題を解く力がついています。

 同じように色いたを並べている時も

Dちゃんは正三角形の敷き詰めていて、一番端の部分に30度の三角の隙間ができるのを

何とかしようとがんばっていました。

Eちゃんは段差と段差をよりなだらかな段にするのに励んでいました。

Fちゃんは色板を立てた状態で面白い形が作れないかいろいろ試していました。

この日子どもたちは植木算にチャレンジしました。

何本かの棒を等間隔に立てていった時、間がどれくらいの長さを

問う問題です。

子どもたちは積み木遊びの延長で考えていたようです。

「できそうだ」という明るい見通しを持って、真剣に解く姿がありました。

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やる気のスイッチを入れるアイデアいろいろ 5

2019-11-05 20:42:41 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

前回は休憩を挟んでしまって申し訳ありません。

 

「その年代、その年代で、とても敏感になっている

数学的なテーマを工作に取り入れる」

ということについて、どうしてうまく説明できないのか……と考えていて、

ひとつ思い当たることがありました。

 

いかにもこの書き方だと、何かをプラスする

というイメージがともなうのですが、

実際に私がしているのは、その反対なんですよ。

 

子どもは本来、その時期その時期で過度にこだわることがあるので、

私は子どもが関心を持っていることだけに

集中できるように余計な情報や手順を減らす

というサポートをしているんです。

これは算数の学習で関わる時も同じです。

何かを教え込もうとするよりも、その子が最も重要な部分に気づきやすいように

情報を減らして余計な負荷をかけないようにしています。

頭で考える作業だけに集中できるように

その子のレベルに応じて、めんどうな部分をはぶいてあげたりしているんです。

そうして、「算数の問題を解くのがすごく面白い」という気持ちになったところで

しっかり最後まで自分で解くよう勧めています。

 

それは簡単にしてあげているのとはちょっと違います。

ひとつひとつの課題を易しくして、スローステップで進めるようにしているのとは

大きく異なるんです。

 

その子が今一番、頭を集中させたいと思っているところに

照準を合わせやすいようにしているので、

実際している内容はその子の最近接領域で、

「できるようになりたい」けど、「自分ひとりではできない」レベルへの橋渡しです。

 

 写真は小学1年生のCちゃんの工作風景です。教室に着くなり、

「クローゼットが作りたい」と

言っていました。

「クローゼットってどんなもの?」とたずねると、

「引き出しとかがあって、こんな風になっていて……」と身振りで説明してくれました。

「どうやって作る予定?何を使って作る?」とたずねると、

「折り紙で箱が作れるから、それを引き出しにしたい」と言いました。

Cちゃんの折り紙の引き出しというのは、3、4歳の頃に何度か作ったことがある

「お風呂」や「プール」を作る時のシンプルな折り方でした。

引き出しにするのなら、最初に折り紙を長方形にしておくことと、

二枚の折り紙を外が表になるように合わせて

両面折り紙のようにして折るときれいな引き出しができるはず、といった話しあいをしました。

(↓の写真は3,4歳の子らのお風呂作りの様子です)

Cちゃんと、作った引き出しより数ミリ大きい幅で

方眼紙で背面の型紙を作りました。

それから、「あと、どんな面があるかな?」とたずねると、

「横のところと下と上」と言うので、側面の型紙を折り紙の箱にひっつけるようにして

サイズを把握して作り、底の型紙を折り紙の引き出しを上に乗せて

作りました。

こんな風に形の型紙を使って作ることにしたのですが、

Cちゃんに「後ろと右横左横の3つをひっつけて

折り筋をつけて折って作る方法と、

ひとつひとつの形をバラバラに切ってテープで合わせていく方法があるけど

どっちがいい?」とたずねると、「バラバラがいい」と言いました。

その後Cちゃんは、型紙を当ててみては、必要だと思う面を増やして

クローゼットを完成させていました。

 

こういう時、仕上がりがきれいかとか、効率的か、ということで選ばず、

子どもが自分の頭で判断しながら

興味を持続させて作れる方法を選ぶと、その後はどんどん集中して

自分で作っていきます。

 

 

 

下の写真は小学2年生のDちゃんが宝箱を作っている様子です。

はじめに材料箱から下のようなひし形の板を見つけて

それにきれいな折り紙を貼ることに熱中していました。

その後、何かひらめいた様子で、

「宝箱が作りたい」と言っていました。

宝箱のサイズやイメージをきいて

作り方の相談に乗りました。

Dちゃんは、ひし形のふたを型紙代わりにして

なぞり、底の面としました。

そしてそこから立ち上がる側面の型紙を作って、それを底の

辺にあてて側面を作って、ふたのない箱の展開図を

実際に紙を折ってイメージの助けにしながら描いていました。

 

こうした工作の後で1年生の子らは

長さの単位の変換を学んでから周りの長さを学び、

2年生の子らは面積の計算方法や方陣算などを学ぶと

やる気いっぱいの姿勢で学んでいました。

 

(↓ 1年生の周りの長さの問題です。自由に自分たちで作った形の周りの

長さを計算しています。)

最初の記事の説明が終わらないまま脱線しているのですが、次回に続きます。

 

 

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追記   集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間

2019-11-05 13:19:21 | 日々思うこと 雑感

前回の時期の続きは今日明日中に書くつもりです。

 

『集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間』という過去記事にコメント

をいただいたついでに読み返してみたら、この頃は

お友だちとの関わりやひとつのことに集中して取り組むことが本当に難しかったAくんが

今年のユースホステルでのレッスンではお友だちを大切にしながら仲良く遊ぶ姿や

落ち着いて創作活動に励む姿があったことを思い出し、

(「ゆったり子どもとの時間を過ごすので大丈夫ですよ、というコメントへのお返事もかねて)

記事を再アップしておきたくなりました。

それとこの記事を書いたころからすると、私の文章修行も新しい方向性が見えてきました。

前年までにいくつか長編を最後まで書き上げるてはしていたのですが、

三人称で書く際の文章のルールなどをよく知らないまま書いていたのです。

それで、これまで書いてきたものを自分で扱いやすい一人称の型に書きなおす作業を始めると、

これまでよりずっと楽に自分の強みを生かして書いていけることがわかりました。

子どもたちといっしょに私も日々精進しています。

お時間のある方は読んでくださいね。

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『集団生活になじめない子と過ごすかけがえのない時間』

いきなり個人的な話から入って悪いのですが、わたしは子どもの頃からの夢だった

こともあり、虹色教室の合間に物語を書いているんです。

これまで3作書いたのですが、そのうち2作は原稿用紙300枚を超える

長編になってしまい、字数制限の厳しい新人向けの公募先が見つからず、

いつかチャンスがめぐってくるまで家で寝かしておくことになりました。

そうやって物語を書きながら、子育てについて感じたことがあるんですよ。

物語書いていると、書いているうちに、「生む」行為に夢中になって、

だんだん何が何やらわからなくなって、

どこか客観的に自分の書いているものを見ていない

親バカ状態になるんです。すごくいいとか思っているわけじゃないんです。

わが子だから、どんなだってかわいい!という心境です。

そんなことを考えるうち、実際の子育てでも、そして物語の創作でも、

夢中で生んで育てている間、

子どもが自立しはじめて、世の中に出ていく準備を自分で始めるくらいまで、

それでいいのかな、という感じがしたんです。

物語の場合も、書きあがるまでの自分と自分の創作物との蜜月は、

一度、誰かに読んでもらう段になると、ぎくしゃくし始め、ゆっくりと終わりを迎えるんです。

それからは自分もそうした外にある客観的なまなざしで、自分の作品を眺め始めるので、

「ここもだめ」「あそこもだめ」とダメな部分も大いに出てきて、欠点を底上げしていく

作業に四苦八苦するわけなんです。

でも、そうやって四苦八苦できるのも、長い親バカな期間がしっかりあったからなんですよ。

とにかく自分の作り出したものが愛しいという気持ちがベースにあるからこそ

そうした厳しさを自分に課せるし、創作物自体がそれ固有の命を持っているかのように

私の予測を超えた成長を遂げてもくれるんです。

 

虹色教室の「私も親バカ万歳の1人です」とおっしゃるやんちゃくんのお母さんが、

「ダメなところというかきっと外の世界では?でしょうけど、

その時までゆっくり温かく育んでいくことが、

外に出た時の力になるのだろうなと思います。

かといって甘やかせば良いのではなくて、その子の力を見くびらないで、

接するようにしたいです。

うちの子の中心は輝いています。大切に育つよう見守りたいと思います。」

とおっしゃっていました。

 

その時、うかがった「中心の輝き」という言葉が、

その通りだな、と強く心に響きました。

教室にはいろんな子が来ていて、まるで台風の目のように、

周囲のいっさいがっさいを投げ飛ばしていくような

荒っぽいエネルギーを持った子もいるんですが、

その中心にはその子固有の命が輝いています。その子だからこそ、その子にしかない

輝きがあるのです。

密にずっとつきあっていると、困らされることも含めて

全てが愛おしくなってくるから不思議です。

 

 教室にはいろいろな理由で、(単に時間の調節の難しさなどからの子もいます)

グループから離れて、個別で見ている子がいるんですけど、

たとえ、最初の理由が「困りごと」を発端にしていても、

ひとりの子とじっくり関われるということは、ありがたいことだな、

と感じているんです。

先に書いた物語を生み出す過程にも似ていて、

その子の存在を自分の世界にいったん取り込み、

外の世界から離れた狭い暖かな世界で、育み守っていく期間を持つようなところがあって、

子どもと自分の間にまるで親子のようなきずなが生まれることも多いのです。

 そうした閉鎖空間の中で、ただただ親バカならぬ教師バカの期間を経ると、その後で、

その子は自分の置かれている外の環境を生きていこうとする力が

ついているのがわかるんです。

子育て期間で、子どもが他の子や環境と合わなくて、

外の世界から引きこもってしまう時期があるとしたら、

それはそれで、そうした秘密の庭のような自分たちだけの世界で、

子どもと過ごすことが許されている特別な時間でもあると思ってもいいのかな、

と教室で個別レッスンの子どもと私だけの至福の時間を味わうたびに、そう感じもしたんです。

「許されている」という言葉を使ったのは、

たとえ親が望んでも、子どもが新しいチャレンジや同年代の子との関わりを

求めて動き出す時には、自分たちだけの世界で遊ばせておくわけにはいかないでしょうから。

 

子どもが、環境にあわない時期は、

同時に個性的な才能なり

その子が愛情を注ぐものとの関係なりが、育つ時期でもあります。

 

ですから、子どもが幼稚園や学校で集団活動がうまくいかないような時に、

まるで戦地にわが子を送り出すような気持ちで集団に適応することだけを目標にして、

親も子も追い詰められる必要はなく、

その期間が許してくれる特別な時間を満喫してみるのもいいんじゃないかと思ったんです。

園や学校に通えなくなっている場合はもちろんですが、園や学校でうまくいっていない

わが子を見て、やきもきする場合もそうです。

 

そういえば、先日も、「うまくいかない状況」が作ってくれたこんな時間に

子どもも私もふたりで元気をもらいました。

 

その子は昨年まで、他の子の物を奪ったり、

他の子に手をあげたりすることが多かったので、

ひとりでレッスンに通ってもらうようになった子です。

それで、この1年ほど、親御さんにも席をはずしていただいて、

わたしとふたりきりで、ひとつひとつの物事にじっくりていねいに関わることや

想像力や思考力を使って遊んだり学んだりする時間を過ごすようにしてきました。

 

その日も、教室に着くなり、次々と目移りし、おもちゃを出して遊ぼうとするので、

「まず、気に入ったおもちゃをいくつか出してきていいけど、それを見て、

こんなものがほしいな、あんなものがあればいいな、

と思ったら工作して作ろう」と言うと、おもちゃを

あれもこれもと両手に抱えるように取ってきて、

「セブンイレブンを作ろうよ」

「それからマクドナルドと駐車場のところとダンプカーを作ろう」

と言いました。「それなら町を作ろうか」といって紙工作の道具や材料を用意したところまでは

よかったのですが、「そうだ、ケーキ屋さんもいるね」「それから公園も作らないと」

「それからコンクリートミキサー車も」と次々と作りたいものが膨らむ中で、

本人は、ちまちまと緑の紙を切って、「草」を作り、

その後、灰色の紙もちまちま切って「レンガ」を作って、

それまで作ろう作ろうと言っていた

セブンイレブンやらマクドナルドなどは、

「先生、作っとき」と私に丸投げしようとするんです。

「さぁ、マクドナルド、作らないと」と私を催促します。

思いや言葉と実際にすることとできることの落差のようなものが大きくて、

困り感を抱えているのです。

それで、「Aくんの工作はAくんが作るんだよ。先生じゃないよ。

どうしても難しいところはお手伝いしてあげる。さぁ、

お店の形を作る方法を教えるから、ちゃんと見ていてよ」

というと、「うん、わかった」と返事はいいものの、目はそわそわと空を動いていて、

「次は、駅を作ろう」

「次は、工事現場作ろう」と作りたいものばかり増えていきます。

私が簡単な工作の手本を見せている間も、新しくひらめくアイデアに夢中で、

こちらの手元に注意をとどめておくことはできませんでした。

Aくんは、この頃、園であまり問題を起こさなくなったようですが、

まだ互いに思いを通わせて遊びを共有する

にはもう少し時間が必要なようです。

(虹色教室で、こうした困り感を抱えていた子らは、小学校の2,3年

ごろには、友達を大事にするようになり、

仲良く楽しく遊ぶようになっています)

 

それで、私は2,3度紙を折って、切りこみを入れたら、

建物の形になる作り方の見本を見せました。

すると、「そうだね、そうだね!」と機嫌よく見ていたAくんは、

「じゃあ、火山と川と公園を作らないと」と作るものを3つも増やしていました。

これでは、いっこうらちがあかないので、タイミングを見て、

「次から次へと作りたいものが増えているけど、

先生に全部作っときっていうのはバツです。

ダメダメダメダメ。Aくんが自分でちゃんと作ってください!」とはっきり言うと、

はじめて、気づいたように、ちょっと考え直して、ぼちぼち作りだし、

しまいにすごくうれしそうに創作に関わっていました。

というのも、最近、文字の練習をしているので、「まくどなるど」とか

「せぶんいれぶん」などの

看板を作って、紙に貼り付けると、自分の作りたいものになると

発見したようなのです。また、トラックの作り方を習った後で、

荷台に自分がちまちま切り刻んだ

紙のレンガを乗せるうちに、だんだんやっていることに

興味が出てきたようなのです。

 

私が弟くんがお母さんと公園に行くための地図を

描いてあげたことを思い出した様子で、「そうだ、地図を描こう」と言いながら、

町にする画用紙の土台に、道や「公園の裏の壁になっている家」

(お母さんと私の話を聞いていたんです)や

駐車場の車を乗せるスペースを描いて、満足そうな笑みを浮かべていました。

 そうして、工作をしあげた後で算数のプリントをする時、

本人にすると120%くらいの集中力を注いで、一生懸命取り組んでいました。

こうした子どもとふたりだけで過ごす時間というのは、こちらが子どもに教えるだけでなく、

子どもの発想や知恵、今超えようとしているものなどが、ごくごくささやかなものでも

見えてくるような余裕があるし、そのひとつひとつに感動や喜びという

フィードバックをしっかり返してあげることもできるんです。

ちょっと話が脱線するのですが、先の「中心の輝き」という

言葉を使っておられた親御さんが、

「子供のやっている遊びが一見生産性のない遊びだったりしても、

その中に広がりを感じることがあります。

子供の行為の裏に、面白いという感情を感じたり誰かのために一生懸命だったり。

そういうものを感じると、ムダだとか、それをしてくれなくて良いとか、

とてもいえなくなります。歓迎されないものであっても」とおっしゃっていたことがあるんです。

子どもの行為の中に「広がりを感じる」という子どもとの繊細な関わりは、

集団の場ではなかなか叶わないもので、ちょっとそこから引きこもった

のんびりおっとりした無駄のあふれる時間の中でこそ、見出せるものかもしれません。

 

たとえば、「看板作り」は、次々思いつくけれど、ひとつひとつに

関わるのが難しいAくんが、今、自分ができる力で、

自分の思いついたものに一通り関わったという自信を

与えてくれる飛び切りの秘策だと思いました。そこにも広がりがありますよね。

Aくんは、絶え間なくおしゃべりしていて、作業の方は亀の歩みで進んでいるわけですが、

そうしておしゃべりしながら、いっしょに行動を調整するうちに、

次第に自分の言葉で自分を励まして、やらなくてはいけないことに

方向を見出す力を蓄えているんです。それは、

算数のプリントをしている最中に

わからないところにぶつかるたびに、言葉で自分を導きながら、乗り越えていく姿に

垣間見ることができました。

環境への不適応は、ある意味「負け」のようで、

一度は撤退を余儀なくされることもあるけど、

そこに適応している方が優れていて、適応できていないから劣っているとか、

適応していることが正しくて、適応していない状況が間違っている

わけではないな、と感じています。

そこにある豊かさのようなものを味わう余裕があってもいいな、と。

 

子どもが元気で「そうしたい」という意志を持てば、

親がどんなに子どもとふたりきりの時間を過ごしたくても、

手を放していかなくてはなりません。

子どもに必要なのは安全な膜で、安全な壁ではないんです。

でも、不適応という機会が、特別な不思議な時間を作ってもくれるのだと感じたんです。

私はそうして教室の子らとふたりっきりで遊ぶ時、

お互いを癒してくれ、成長させてくれる

魔法のようなプロセスが展開していくのを実感する時があります。

 

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