虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子の夢 親の夢 子の人生 親の人生

2018-11-18 19:27:45 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

この記事は5年以上前のもので、この頃に比べると息子はすっかり大人になりました。

わたしも当時は夢だった物語を書くことを、3作目の物語を完成させることで、

自分の現実の暮らしの中に根付かせるようになりました。

最近の教室の様子をアップしようと思っているのですが、写真の整理が追い付かないので、

もう少しだけ過去記事でがまんしてくださいね。

 

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わが子が幼い頃や小学生時代、いっしょに交わす会話が面白くてよく記録に取ったものでした。
それが子どもが成長するにつれ、学校、通学、趣味、友だちとのつきあい、バイト……と親より慌ただしい生活をするようになって、
顔を合わせて話をする時間が激減していました。

それが、受験生になった息子が学校が休みの日も 遊びに行かずに家で勉強するようになって、勉強に疲れると気分転換に家族としゃべる機会が増えて……。

そうするうちに、自分の中にむくむくと「子どもとの会話を記録しておきたい」という思いが復活してきました。
「なぜ?」と問われたら困るのですが、カメラ好きの方が わが子の姿を写真に残しておこうとするのと近いものだと思います。



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先日、進路について悩む息子から相談を受けました。
進路といっても、大学や学部選びはもう自分の中で決まっているようで、
迷っているのは将来の仕事に向けて 
これから何を学んでいくべきか、
就職する会社はどのような職種から選んでいけばいいのか
といったことでした。

途中で現われたダンナが、
「先のこと考えて御託並べてないで、まずしっかり勉強しろ!」
と雷を落とし、
息子が「受験勉強はしてるさ。でも闇雲に勉強するだけでは、大学卒業時にそこから4,5年かかる勉強をスタートすることになって、出遅れるよ。ビル・ゲイツが成功したような まだネット社会が未完成だった時代じゃないんだからさ」と言い返すシーンもありました。

夕食後に3時間近く話しあって、
最後には、「話をしてみてよかったよ。おかげで行きたい方向がはっきり見えてきた」と言われて胸が熱くなりました。
息子の進路について相談に乗っているつもりが、
私自身の進路というか……これから自分が歩んでいく方向性のようなものを考えるきっかけにもなった会話でした。

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息子 「最近、ただIT関連の仕事がしたいと漠然と考えて、
大学で情報工学を学ぶだけじゃ、
本当にやりたい仕事からずれていくような気がしてさ。
ITといったって、今はひとつひとつの分野が専門的に進化しているから、
それぞれの先端じゃ互換性はないはずだよ。

だからといって念のためにと あれこれつまみ食いするように学ぶんじゃ
1しっかり学べるところを、2分の1、3分の1ずつしか学べなくなってしまう。
今、一番迷っているのは、ソフトを作る力を蓄えるか、ハード面で強くなっておくかということなんだ。
もしこれまでのネットのあり方を根源から変えるようなものを作りたいとすれば、大学を卒業しても、そこから研究生活に入ってく形になる。
それがぼくが本当にやりたいことなのか、自分にあっていることなのか迷っているんだ」

私 「今後、ネットの世界は飽和状態に向かうと考えているんでしょ。
ただプログラミングを学ぶだけでは、いずれ、どんなに質の良いものを作り出しても、競争の中で消えていくだけかもしれないわ。
だったら、時間や手間がかかってもハードそのものを扱う勉強をした方がいいんじゃないの?」

息子 「勉強や研究が嫌なわけじゃないんだ。」

私 「早く働きたいの?」

息子 「それもあるけど、それより自分が本当に創りだしたいものは何なのか、そう考えていくと、今 立ち止まってじっくり考えておかないと、
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失いそうな気がしているんだ。
それで、ぼくの、ぼくだけの特技ってなんだろう? 
将来の仕事の決め手になるような他のみんなより誇れるところって何だろうって煮詰めていくとね、
『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』
ってところだって思い当たってさ。
じゃあ、そんな自分が活かせる仕事、いきいきと働き続けることができる仕事は何だろう
……それとぼくが創りたいものの本質は何だろうって考えていたんだ」

 

「『みんながみんな左に向かっているときにも、右に向かうことができる』能力って、単にひねくれ者ってわけじゃなくて、
多くの人がいっせいに左に向かっているときって、
その時点で もう本来の左に進むべき目的が見失われているときがあって、
みんな薄々、それには気づいてるんだけど、
動きが取れなくなっていることがあるよね。

そんなときにぼくは
潜在的にそこにある大切そうなものを汲み取って、
ひとりだけでも右に方向転換することができるってことだよ。

そういう能力が将来、活かせるかもしれないって気づいたのは、
プログラミングを自分で学んでいたときなんだ。

学べば学ぶほど、より優れた技術、より精巧な動きっていうのを、
無意識に求める気持ちに呑まれていくんだけど、
一方で、より面白く、よりすごいものを作ってくって
技術面だけにこだわってていいのか? って考えたんだ。

もちろん、技術の向上が大切なのはわかっている。
でもね、もし技術ばかりがひとり歩きして、こんなものが欲しいという人の欲望みたいなものから離れてしまったら、
それは死んだ作品じゃないだろうかって。

ほら、3Dテレビって今どんどん進化しているじゃん。
100年前の時代だったら、
3Dテレビを作り出すために一生かけてもいい、
3Dテレビをどんな苦労してもひと目見たいって、願った人もいると思う。
で、今、3Dテレビがそれほど求められているのかっていうと、
100年前と比べると、それに対して人々が抱いているロマンのようなものが変質したと思うんだよ。
それでも技術革新は必要なんだろうけど、
同時にどうしたら生きた作品を生み出せるのかって考えるときが
来たんじゃないかな?

それで、ぼくは技術を身につけて、自分で制作に入りたくはあるけど、
その一方で、『プランナー』といった面を持っている仕事も
自分にあってるんじゃないかと思いだしたんだ」

私 「生きている作品ってどんな感じのものなの?」

息子 「感情を揺さぶるライブ的要素も持った作品かな?

今の世の中がこんなにも『うつ』っぽくなっちゃった理由は、
何でもかんでも、そうしてはならないものまで、
品物化していった結果だと思うんだ。

ほら、エンデの『モモ』って童話があるじゃん。
あれを子どもの頃に読んだとき、
みんな何日で読んだ~何ページも読んだ~
他の本と比べてどのレベルで面白かったかってことばかり話題にして、

どうして、自分自身の今の生活が、
時間泥棒に奪われているモモの世界の出来事と
同じことが起こっている事実について考えてみないんだろうって

不思議だったんだ。

みんなはどうして人間としての自分の感情を通して、
物と付き合わないんだろうっさ。

いろんなものを品物として見るって、
高級料理にしたって、勉強の授業のようなものにしたって、品物化されて、
数値化されてるよね。

友だちのようなものまで、
ネット内でボタンひとつで友だちかどうか選別したり、
グループ内で友だちを格付けしたり、友だちを数でコレクションしたりする
ようになってくる。
でも、本当は、そんな品物化した『友だち』を、誰も求めちゃいないはずだよ。
友だちを欲するのは、友だちという人を求めているというより、いっしょになって団結して何かしてみたり、
冒険したり、共感しあったり、
そこで動く感情を欲しているはずなんだから。

みんな感情を求めていて、それに気づいていないんだよ。
何でも品物化したあげく、これは品物にしようがないっていう感情でしか処理しようにない『死』を、偏愛する人も増えている。

もし、IT産業で何かを作っていくにしても、
そんな風に物を求める根底になる感情の流れを揺さぶる生きた作品を作ることを目指していきたいんだ」


息子 「ぼくはずっとゲームクリエイターになる夢を抱いてきたけど、
ゲーム好きの人たちと自分の間には、
かなり感性の違いがあるのはずっと感じてきて……
最近になって、本当にぼくはゲームが好きなんだろうか?
って思うことが増えてきたんだ。

ぼくがゲームに対して感じている面白さって何なんだろう
って突き詰めてみると、
さっきお母さんが京都の巨大鉄道ジオラマの話をしていたから
閃いたんだけど、

『仕事の遊び化』って部分に

惹かれているんじゃないかと思うよ。

ぼくがゲームを面白いって感じている基盤の部分に、
この『仕事の遊び化』を生み出したい気持ちがあると思ったんだ。

ジオラマ作りに参加した職人やアーティストは、
退屈で苦しいはずの作業の中に、わくわくする楽しい気持ちやフローの感覚を抱いていたはずだよ。

この『仕事の遊び化』って、昔から人が苦しいものを喜びに変えたり、
辛い作業から楽しみを抽出する知恵として
存在しているものだと思うんだ。
たとえば、プラモデルなんかも、設計の仕事から、
楽しい部分だけを抜き出したようなおもちゃだよね。

ぼくがゲーム作りをしたかった一番の理由は、
ゲームという媒体を使って、
人間の営みをいろんな視点から眺めたり、そのユニークな一面に光を当てる
のが楽しいからなんだって気づいたんだよ」

私 「『仕事の遊び化』……そうね。日本が豊かになって、
物ではうんざりするほど満たされた後に、
きっと人はそうしたものを求めだしているように感じるわ。

遊び化といっても、遊び半分という意味でなくて、プロフェッショナルとして、天職として仕事に関わるとき
そうしたものを感じることができるのよね。

人の営みの面白い面を再体験したいって思いから
ゲームは生まれたのかもしれないわね」

そう言いながら、私は息子が小学生のとき 
モノポリーが好きでたまらなかったことを思い出しました。
何度やっても、いつも息子の一人勝ち。

どんなに他のメンバーの情勢が良いように見えるときも、
なぜか最後には息子の戦略にまんまとはめられて、
お金をほとんど奪い取られてしまうのでした。
手作りモノポリーもたくさん作っていました。

モノポリーは投資のゲームですから、それもおそらく『仕事の遊び化』という一面で惹かれていたのでしょう。

息子 「現実に体を動かしてやった方が面白いものを、
ゲームにするのは好きじゃないんだ。
どんなにリアルさを追求しても、実体験には負けてしまうから。

でも、そこのゲームの世界も、より美しい画像で、より高い技術でってことを追いかけていくうちに、人間的な部分が置いてけぼりになっている気がしてさ。
人が何を面白く感じ、何に心が動かされるのか……って所を見失ったまま進化が進んでいるようだよ。

それで、そうした世界でぼくは本当にゲームが作りたいんだろうか?
面白いものが作れるんだろうか? って思いだしたんだ。

先々、ゲームを作るにしろ、作らないにしろ、
まずゲーム会社とは全く職種の違う世界で働いて、
そこでの仕事に熱中しながら、自分の作りたいものを捉えなおした方が
いいような気がしているんだ」

 

私 「どんな職種を考えているの?」

息子 「アプリケーションの制作会社とか、
それか、シンセサイザーなんかといっしょに新しい音響機材を作る会社なんかも考えている。

ゲームを作りたいから、
新しいエンターテイメントを生み出したいから、
ゲーム会社に入るというのは、ぼくにはあっていない気がするんだ。
そんなことを思いだしたのは、マンガを読んでいたときなんだけど。

今さ、たくさんマンガの勉強をしたんだろうな
という技術レベルの高いマンガ家がたくさんいるんだけど、
そりゃぁたくさんの人がマンガを描いているんだ……
でも、どれを読んでも面白くないんだよ。
生きている作品がないって感じ。

一方で、ある時期までマンガとは全く関係ない異分野の仕事をしていて、
途中でマンガ家になった人たちが描く職業マンガが、
けっこう面白くって、このごろ気に入ってるんだ。

単純に考えると、少しでも早い時期からマンガを描き始めて、
それだけに打ち込んだ方が、良いものができるに決まってるって思うじゃん。

でも、マンガの世界もある程度
成熟し終えた面があるから、
無意識のうちに すでにできあがった価値観の影響を受けながら、
その世界でよりすばらしくって技術を向上させるだけじゃ、
人の心が動くような作品は生まれにくいんだよ。
その点、異業種から遅れて参入してきた人の作品は、
多少いびつなところがあっても、
思いもかけない斜めからの視点があって
新鮮で読みたい気を起させるんだ。」

私 「そうね、ものづくりの現場でも
そうした異業種同士の連携が、
不況を超えるカギになっているようだものね。」

息子 「ぼくも、自分が抱いている面白さを追求する道を、
既存のイメージができあがっている世界ではなくて、
ストレートにそのまんまじゃない……
別の職種の枠の中で探求していく方がいい気がしてきててさ。

そう考えだしたのには、受験勉強の影響もあるんだ。

受験って、ランキングで格付けされて、合格の道筋がマニュアル化されて、
いかにも品物化が進んでいる分野でもあるけど、
でも勉強していると 意外なんだけど、どの勉強も人間的な性格的なものが
その底にあるんだなって気づかされることがよくあったんだ。

かしこさって、いかにもIQや頭の回転のよさだけで測られるように思うじゃん。
でも、国語を学ぶって、結局は、そこにあるのは人間の営みや生きていることへの理解を深めることに過ぎないんだって学ぶほどにわかってくる。
文章のすばらしさをただ公式を当てはめて、答えをはじきだす作業じゃなくて、
読む文章から生きていることの何かを受け取ることが国語なんだなって。

数学のように、人間的なものからかけ離れているように見えるものでも、
生きていることのすばらしさを放っておいて、存在しないんだよ。
数学がすばらしいのは、そこに
人間的な評価が潜んでいるからでもあるんだから。
それで勉強するうちに、自分が表現したいものは、この人間的なことや
生きる営み、人の感情を揺さぶることを抜きにして考えられないなって。
そうした本質的なものを含んだ作品は、小さな枠の中で近視眼的に
他人と技術を競うだけでは生まれてこないと思ったんだよ」

私 「さまざまな物や行為と『生きて存在していること』の関わりを考えていくのって、哲学の世界では大事にされていることよね。
哲学って難解なイメージがあるけど、実際には幼児が考える疑問のように……ごく基本の基本みたいなことを扱っているわよね」

息子 「うん、そうそう。哲学って、存在する全てのものを意味でつないでいるものだと思うよ。
それは勉強を極めていった選択肢の先っぽにあるんじゃなくて、
もっと身近な……人が手にするひとつひとつの物……えんぴつでも服でも何でもいいんだけど……や、
『生活の営み』全般の芯の部分にあたるんだろうな。

だから、特別にかしこまらずに、もっともっとみんな
普通に哲学に触れればいいのにって思っているよ。
自分の中に持っておくというか……。

哲学だとハードルが高いんなら、詩のようなものでもいいんだ。

哲学にしても詩にしても、
形容できないものを、文字の媒体で表そうとすることじゃん。

形容できないものを形容しようとする試みがなかったら、
『友だち』というのを数や格付けとイコールで結ぶようなもので、
人の行為は、
『名前を付けられた空のパッケージ』ばかりになってしまうよ。」

私は息子の口から詩という言葉が出たのでとても意外な気がしました。
詩を読んでいる姿を見たことがなかったので。成長すると、身近にいても親が知らない面がいろいろあるもんです。

息子 「詩なんていうと、デザートのように思っている人もいるだろうけど、
『生きる糧』のようなものじゃないかな?

そうした自分の内面の芯のようなものがないままに、
どんどん勉強して、どんどん知識や技術を吸収して何を得たとしても、
それは人としての『基盤の幸せ』を失うリスクを犯すことに
ならないのかな?

生きていくことの手段に過ぎないものを
全てであるように錯覚している人がたくさんいるから、
そこで暮らしている子どもたちにしても、
もう本来の『子ども』って存在じゃないように見えるよ。

他人の評価に依存するものに、
自分を全て明け渡して、
自分の中にある形容できない何かを、
まったく無いもののようにしているんだから。
じゃあ、もうそこには自分がないってことじゃないの?」

息子の言葉を聞いて、私は昔、自分が書いた詩のことを思い出しました。
それで詩画集を持ってきて、次のような詩のページを広げて
息子に差し出しました。「同じようなこと考えるもんでしょ。やっぱり親子よね」
そういえば、息子に自分の詩を見せるのは初めてでした。

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    ハーメルンの笛吹き

もしも君たちが   自分の言葉を裏切るなら
もしも君たちが   平気で夢を枯らすなら
もしも君たちが   太陽と風を忘れるなら
もしも君たちが   本当は誰も愛していないなら

ハーメルンの笛吹きがあらわれる   子どもを連れにあらわれる
遠ざかる笛の音をつかまえても    もうおそい

まちじゅうどこにも 子どもはいやしない
赤ん坊は赤ん坊じゃないんだ
子どもは子どもじゃないんだ
ちいさくたって同じ
のっぺりした顔の 大人ばかり

そののっぺりが 世界中を埋めつくしても
みんな平気の平左さ
だって ほら 世界中  もう大人しかいないからね

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息子はえっ? と驚いた様子で、
「あっそうだ。お母さん、詩を書いてたんだったよね」と笑いながら読んで、ちょっと真剣な口調で、
「あ~わかる。いいな~。」と言ってから、
次のように付け加えました。
「親子だからどうって言えない面があるんだけど、
もし、これがお母さんの詩じゃなくて、目にしたとしたら、すごく好きになってた可能性があるな。」
と本当に感動している様子で言ってくれました。

「いつ書いたの?
詩集を作ってたのは見たことがあるから、その時?」

「絵はね。でも、詩はもっと前よ。★(息子)とそれほど変わらない年齢の時のものもあるわ。
ほら、これ。」
私はすっかり舞い上がって、別のページも
息子に見せました。

環状線 
という詩です。

「ほら、さっき★(息子)が言ってた……
何となくそっちの方が良さそうだという気分に流されるうちに、自分自身を見失うってあるじゃない。
褒められたり、期待されたりして、
ちょっといい気になってそれを続けるうちに、環状線に乗ってぐるぐる回り続けているってことがね。そのうち、本当はどこに行きたかったのか忘れちゃうってことが……。」

息子 「そうだよ。ほとんどの人が、人からえらいとか、目立ちたいとか思ってがんばっているうちに、気づかない間にその詩の環状線に乗っていると思うな。」

私はすっかりうれしくなって、
出逢い 
小さな友へ の詩も見せました。

すると、息子は笑いながらこう言いました。

「お母さんの詩、いい詩だよ。ぼくは好きだな。
お姉ちゃんが、いい詩が読みたいって探してたけど、意外に
お母さんの詩を読んでもいいんじゃないかな?」

私 「気に入ってもらってうれしいわ。
お母さんの詩が良い詩かどうかなんてわからないけど、
でも、今そうした詩を書こうと思っても、もう書けないから、お母さんにとっては貴重な詩なの。

だって、それはその時のお母さんの心の軌跡でもあるから。

環状線を書いたときは、
自分がいつのまにかそうした不安な状況に呑みこまれてて、降りたくてもどうやって降りたらよいのか見当がつかなかったのね。

それがきれいな詩を書くために、
過去を振り返りながら、上手に言葉を組み合わせるように書くんだったら、
お母さんにとってはあまり意味がないのよ。

その時、その時の心が抱く思いは、普遍的なところがあると思うの。
お母さんの心が感じる体験は、世界中のさまざまな人が同じように感じているだろうってこと。

出逢いの詩で書いたような心の体験が、人と真剣に出逢うときには
必然と言っていいほどあって、
たとえそれが苦しいものだったとしても、
そうした普遍的なものに触れて、
自分の目にどう映り、どう感じたのか……
『その時』を言葉にできたことが うれしいのよ。

評価されるかとか、認められるかなんてこととは別の問題でね。
どんな出来だって、作るのは楽しいものよ。

そしてこうやって、ちゃんとひとりでも読んでくれる人がいると
すごく感激するものだしね。
そうだ、★が11歳の時の姿をスケッチしたものと詩があったわ。
ほら、これよ」

11歳の孤独
息子は面白そうにそれを読んでから、懐かしそうに笑い出しました。
「ああ、この時のぼくは、ぼくで、今とはまったく違う心で、いろんなことを考えていたんだよな……今思い出すと面白いな」

私 「お母さんは子どもの頃からずっと児童文学の作家になりたいって夢みてきて、いまだに夢はずっと持ち続けているのに、遠回りばかりしているわ。

今の仕事が大好きだしね。
その時、その時、★が言ってたような『生きている』って実感を味わいながらきているから、
思い通りにいかないときも、それなりに満足しているの。
それに、自分を生きているとね、どの道を歩いていたとしても、やっぱり夢に近づいているように感じるわ」

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思い出話に 癒される

2018-11-17 20:31:42 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

わたしはADD(不注意優勢型のADHD)傾向があるので、小心者で生真面目な性格の割に、

何かにつけてすることは大雑把で大胆で、しょっちゅう全身が凍りつくようなそそっかしいミスをしています。

ひどいミスをして落ち込んでいる時、ふと、心に過去のヘンテコな思い出話が浮かんできて、

妙に心が癒されます。

過去記事ですが、どうぞ。

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昨日、ツタヤでCDを選んでいたら、いきなりトントンと背後から肩を

たたかれて……振り向いたら、
背の高い20歳くらいの男の子(人?)がニコニコしながら
立っていました。

誰……???

と一瞬、面食らって、誰だかわからずに
ポケッとして、相手の目を見ていたら、「あ~!!!これは……!!」
と思いあたりました。
数年前に、私が大工仕事を教えてもらった小学生……!

<小学生の子に大工仕事を教えてもらった話>の記事に書いた男の子。

この記事の下に出来事をコピペしておきますね。

 

ということはまだ、中学生か高校生……?


すごく大人びていて、背丈も見上げる感じで対面しているんですが、


笑顔は当時のまんま~(いまだに友だちと思ってくれていたのか……?)

あまりに突然でボケていたので……「仕事は何をして……」と問いかけて、
「いや、まだよね……学生よね」とひとりごとを言っている間に、
ニコニコしながらさわやか~に去っていきました。

「よその子はすぐ大きくなる」っていう話……よく聞くけど
ホントだわ~と思った出来事でした。

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<小学生の子に大工仕事を教えてもらった話>

以前、近所の小学校でする子ども会主催の「凧作り教室」のお手伝いに
行っていたことがあります。
そこで、おとなしすぎる小学生と活発過ぎる小学生

(つまり両極に寄り過ぎて一周回って似たタイプの子ら……)
が、小競り合いを始めました。

私は、けんかを妨害するように、
二人の間に自分の「凧」を広げて、「凧」にイラストを描き始めました。


その前の年は「火の鳥」を描いたんですが、
その年は「だんじり」

すると、それまでけんかをしていた活発な方の子が、
さらに私の近くに席を移して、
だんじりの絵をなめるように見ていました。
そして、自分も「凧」にだんじりの絵を描き始め、
だんじりについて熱心に語りだしました。
私が、一番興味を惹かれたのは、
その子が、自分で、大工道具を使って、だんじりを作った…という話でした。

実は、私は、何年来、大工仕事にあこがれていて、
今は廃材や紙で工作しているけれど、いつかは木材で
子供用のままごとセットなど作ってみたいと考えていました。
それで、その子に、材料の入手先や道具について、
あれこれ質問しました。
すると、その子は、それは熱心に、

自分の作っただんじりを見に来るように……
それは、子どもが乗ったって大丈夫な作りなんだ…
今日にでも、ホームセンターと木材屋に連れて行ってあげるから、
「凧作り教室」の後の予定は空いているか?

とたずねます。

うーん、それは魅力的な誘いではあるけれど、
お母さんに聞いてみなくてはならないよ。
勝手によその子をホームセンターに連れて行くわけには…(連れて行ってもらうわけには……。)

といったんは、ていねいにお断りしたんですが、
帰りはしっかり我が家まで付いて来て熱心にすすめてくれます。
そこで、親御さんに連絡して、
(「うちの子でお役に立てるんでしたら、どーぞどーぞ」とのこと)
さっそく二人で買い物に出かけました。

「ちょっとお金がかかるかもしれないよ~
ドリルはまず必要だからね。
それと、サイズのちがう釘もいるし~。
それとさ~いらなくなったとき、リサイクル料金400円かかるかもしれないけど、大丈夫~?」としゃべり続けて、
男の子は、私の財布の中身をすごく気にしてくれてました。
そして、
ただで木材を分けてくれる材木やさんに寄ったり、
途中で家を建築中の大工さんに声をかけて、
木の廃材を分けてもらったり、
ホームセンターの特価品コーナでお買い得の板を集めて
くれたんですよ。

私の場合、買い物だけで、疲れちゃったんですが、
「だめだめ、思い立ったときに、ある程度仕事を進めとかなきゃ。」
と注意され、
さっそく「だんじり作り開始!!」

それが、のこぎりやドリルの音が思った以上に大きくて、

騒音だ~!


ご近所迷惑だ~!

と気が気じゃなかった私は、
なんとかそれらしい形までこぎつけたときは、
涙が出そうでした。

その子は、小学生とは思えない仕事っぷりなんですが、
勉強はすごく苦手なんだそうです。
そこで、大工仕事を教えてもらったお礼に、
製図に役立ちそうな算数を教えてあげるよ~と言ったんですが、
断られました。

それで、帰りに本人が持っていないというサンダーを
あげることにしました。
というのも、大工仕事を教わってみて、
「こんな都会の真ん中で、そんな作業できるわけない!」
という現実をしっかり勉強させてもらったからなんです。
それと、大工仕事の、大体の流れと、購入場所も
しっかり学習できました。(かかった費用のもとは取れました。)

「サンダーはかなり音が出るけど、大丈夫?」
「いつも使っている電動のこぎりも、電動ドリルも
同じくらいの音だから大丈夫だよ。
でも、ほんとのほんとに、サンダーもらって良いの???」
とその子は喜び勇んで帰って行きました。

その後、小学校の柵のそばで、数人の子と群れて遊んでいるその子を
見かけました。手を振ったら、「おっ!」と挨拶。
「だれ~?」と友達に聞かれると、
「ともだち~」と答えていました。

ともだち…ですか?

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歴史が大好きになる活動いろいろ 2

2018-11-15 23:04:25 | 通常レッスン

忍者好きの子たちとした活動の様子(過去記事です)

をいくつかアップすることにしました。

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『ブロックで忍者屋敷』

年中のAくんと年長のBくんといっしょに忍者屋敷を作りました。

(AくんとBくんのお母さんたちにも手伝っていただきました。)

 

武家屋敷のからくりの一つです。

途中までしか階段がないので落ちてしまう危険な廊下。

下にはとがった竹が……!

 

手前の黄色い部分は『刀かくし』です。

 

『刀かくし』の床をめくると、刀が隠してあります。

 

『どんでん返し』です。

 

Bくんはブロック制作や工作がとても得意な子です。

天井から降りてくる梯子を作っています。

 

一休さんやきっちょむさんのとんち話が大好きなAくん。

忍者の逃げ方や隠れ方の知恵にとても興味を持っていました。

↑は、『水とんの術』水中に隠れて、そのまま逃げます。

 

他に『木とんの術』や

『火とんの術』なども再現して遊びました。

 

手裏剣を折っているBくん。

 

何を作ろうかと『忍術・手品のひみつ』を熱心に見ていたBくんは、

忍者の剣に目をとめました。

ブロック人形に剣を持たせるのでは物足りなかった様子です。

割り箸をつないで、自分用の剣を作っていました。

 

バッチリ決まっていますね。

 

『おしいれ』という板を押すと地下道への

入口が開くからくりです。

 

字を書くのがブームのBくん。

 

算数タイムに推理ゲームをしました。

 

 トランプや手を使った計算遊びも面白かったです。

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『忍者屋敷のどんでん返し』

 

 NHKの大河ドラマの『真田丸』。

子どもたちにも人気があるみたいですね。

教室で大阪城に出かけて以来、歴史に興味を持つようになった子がたくさんいます。

新年中~新年長の子らのレッスンで、(新小3のお姉ちゃんも参加)

忍者屋敷のどんでん返しを作ることになりました。

「大きくて自分たちが通れるのがいい」と言うので、ちょうど

サイズの大きいダンボールをいただいたところなので、子どもたちと

どんでん返し作りにチャレンジすることにしました。

自分たちの身体のサイズに合わせて、とびらの四角を切り抜いて、

とびらを半分に分けた位置に伸びるポールを貼ります。

回転とびらの横の長さの半分の位置にしるしをつけているところです。

ものさしを使わず、ポリひもを使って半分の位置を測ったのが印象的だったようです。

「( ポリきもを)半分に折ればいいのか!」と感動の声。

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前回の記事で紹介した『マイコー雑記』というブログの

「STEM分野での活躍に繋がる空間認識力は工作など『組み立て体験』を通して高められる」を示す研究まとめ

という記事で、こんな話題が紹介されていました。

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ある調査では、科学、テクノロジー、エンジニアリング、数学 の分野で高い成果を収めた人々は、

平均的なアメリカ人よりも、実践的なクラフトや趣味についての広範囲な体験を持っているとのこと。

例えば、木工、メカニックス、電子機器を用いた活動など。

一生を通してこうした活動に従事する人は、

特許を認可されるような発明品を生み出す傾向にある、とのこと。

 

「子どもたちのモノづくりの体験を、これからも応援していきたい」と強く思いました。

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前回の続きは、近いうちに書きますね。

どんどん溜まってくる写真を、とりあえずアップしていきます。

 

年長さんの★くんが作っていた『忍者屋敷』です。

板をスライドすると……床が抜けて……

 

この通りまっさかさま。

何の変哲もない松の木は、くるっと回転させると……。

忍者が潜んでいました。

くるっと回転させる仕組みは、線路の切り替え用の回転部分を利用しています。

 

製作時間が終わる頃に空中を滑り降りる忍者が作りたくなった★くん。

試行錯誤の末、空中移動が成功しました。

忍者屋敷にはさまざまな隙間や穴に忍者が隠れています。

★くんとお父さんのふたりで

断面図を推理する問題にチャレンジしてもらいました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『女の子の忍者屋敷作り』

物作りが好きでたまらない小1のAちゃん。今回、何がしたいのかたずねると、

「忍者屋敷が作りたい」とのことでした。

Aちゃんには、屋敷の家部分にあたる基本の形の作り方を学んでもらいました。

100円ショップのスパンコールで簡単工作

の舞台に似た作り方ですが、今回は同じ高さの形を量産するため、

紙の折り方を工夫しました。

Aちゃんは工作慣れした子なので、基本の作り方をどんどん発展させて

自分なりの世界を広げていました。

 

形を作り出す折り方に強い関心を寄せて、

「同じサイズの長方形2枚を重ねて、3対1くらいの比率で折ってから

一方をひっくり返して貼りあわせると長方形の筒の形になること」や、

同じサイズの左右対称な台形4枚を貼り合わせるとお城の石垣の形になること」などに

心から感動していました。

(↑写真の右上に小さく映っているのが、長方形2枚をひっくり返したときの様子です)

 

感動したときのAちゃんの口癖は、

「すごい!すごい!家に帰ってから、もう一回全部自分でやってみたい。もう一回、最初から全部自分で作りなおしてみたい」です。

 

 

Aちゃんの畳はタイル風でした。

スパンコールのカギと星で忍者の武器ができました。

 

算数が得意なAちゃんは、最レベ1年生の問題は、最後の算術特訓の問題以外は、

最高レベルのものもすべて簡単だったという話でした。

でも、算術特訓にあった集合の問題では混乱しているようでした。

そこで、「16人子どもがいる」という前提を頭に入れたうえで、

えんぴつをもらった14人の子を白丸でかきだし、

えんぴつもけしごむも両方もらった10人の子を黒丸でかきだしでから、

「14+10=24 子どもは全部で24人であっているかな?」とたずねました。

「それはおかしい!だって、子どもは全部で16人。」

「そうよね。ねこが好きな人?ってたずねて、Aちゃんが手をあげて、犬が好きな人?ってたずねてもAちゃんが手をあげたら、

1,2、2人だなってカウントすると変よね」

そんな話をしながら

どんな風にこの問題を整理したら正しい答えが出るのか、

いろいろ試してみながら話しあいました。

Aちゃんは集合の問題に興味がわいたようです。しっかり理解して解いていました。

「三角形の3つの角を切り取ってあわせると180度になる」ことを利用した手品を披露して遊んでいたら、

Aちゃんが四角形で試したがりました。

Aちゃんの予測は、「丸になる(360度のことのようです)」そうです。

正解。

わたしが「、四角形の4つの角をたすと、360度になるのよ。」と話すと、

Aちゃんは傍らにあった電卓に何かを打ち込んでから、「やっぱり、360度になった!」とうれしそうな声をあげました。

「360度というのは、三角形の3つの角の合計の180度を2回たしたものじゃないか」と

思ったそうなのです。

 

確かに折り紙で見ると、半分までの円にあたる形が180度なら

丸いかたちが360度だというなら、それをふたつたすと360度になるんじゃないか」と予測するのもわかります。

Aちゃんは物作りを通して、実際目にしているものを使って

さまざまな視点から物を考える習慣が身についている子です。

 

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歴史が大好きになる活動いろいろ 1

2018-11-15 23:01:18 | 通常レッスン

教室には、「テレビの時代劇から歴史が好きになった」

「大阪城に出かけて以来、大のお城好きになった」

「幼稚園や学校で武士の話題が流行っている」

「忍者好きから歴史も好きになっていった」といったきっかけから、

歴史に関する話題が大好きになったという子らがたくさんいます。

 

上の写真は、3D立体パズル の大阪城と姫路城です。

この3Dパズルのシリーズは比較的安価ですがとてもしっかりした作りです。

作るのも楽しいし、作った後で、縄張り図を見ながら

ブロックや積み木でお城の周辺を再現すると遊びが広がります。

 

縄張り図を見ながら……といっても正確なものではなく、迷路作りの延長ですが……。

 

 

今は販売されていないと思いますが、『風林火山』ゲームです。

ルールを易しくして、幼い子や発達に凹凸のある子たちも楽しめるようにしています。

 

<ルール>

サイコロをふたつ振って、出た目の組み合わせが書いてある陣地に

自分の色の武士を置いていきます。

同じ陣地を取りあうことになったら、トントン相撲で勝負します。

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過去記事から歴史やお城やお寺に関する遊びの様子を

紹介しますね。

↑はブロックで作ったお城とお城の周辺。

敵が攻めてきた時に橋が落ちようにしています。

 

寺院好きの小2の女の子たちが作った三重の塔。

 

小1の城好きの男の子が発泡スチロールカッターを使って

作ったお城。お城の守りの方法を研究するのが好き。

 

小学3、4年の子たちの彦根城。

 

『狭間(さま)』 ↑  戦闘の際、ここから鉄砲などで攻撃した

壁や塀に作られた三角形や四角形の隙間。

 

9~11歳の子らが協力して作った清水の舞台。

 

 

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「がんばり屋だけど考えるのが苦手な子」 「飽き性だけど頭の回転が速い子」

2018-11-09 16:40:02 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

子どもの個性も長所も十人十色です。

たとえば「がんばり屋だけど考えるのが苦手な子」

「飽き性だけど頭の回転が速い子」っていますよね。

「がんばり屋だけど考えるのが苦手」という子の長所は

「もっともっとたくさんしよう」「がんばろう」とするエネルギッシュさです。

といっても、勉強の場合、いくらがんばり屋でも 考えるのが苦手だと、

「考えなくてはならない問題」で先に進めないことが続くと、

勉強を避けるようになるかもしれません。

勉強以外のスポーツやお手伝いや携帯ゲームの攻略などでは

長所の根気のよさを生かすけれど、

勉強は苦手というタイプに成長するかもしれません。

かといって、「易しい計算問題ばかり」をスローステップでやらせていると、

ある時点で、考えなくてはならない文章問題の学習に入ると、

満点ばかり取っていて良くできると思っていたのに、

小学3年生くらいから、いきなり成績が急降下しはじめるということも起こります。

「がんばり屋でも 考えるのが苦手という子」の答案を見ると、

はりきってたくさん問題にチャレンジしているものの、

どれもこれも間違いばかりということがあります。

そんなときに、相手ががんばり屋さんですから、多少手厳しいことを言っても、

まじめで素直な対応が返ってくるものですから、

親もつい本人の心への配慮を怠ってしまいがちです。

せっかく自発的にたくさんがんばったという場面でも、

「何でこんなにミスばかりなの?」と本人が自分には能力がないと錯覚するような

ことを言ったり、たくさん×をつけて、「たくさんがんばれば、×が増えるから、

自分から努力すると損だ」と思い込むようなことをてしまいがちなのです。

学校の授業やテストでは、間違えた問題にすぐに×がついて、

間違いを修正するのは大事です。

でも家庭で自発的に学習する場合にも、身近な大人が

自分の「勉強とはこういうもの」というイメージを子どもに無理に押し付けていると、

子どもの長所が学習で生かせなくなってしまう場合があります。

 

カナダ人の心理学者アルバート・バンデューラが提唱した感覚に、

自己効力感というものがあります。

自己効力感とは、「外界の事柄に対し、自分が何らかの働きかけをすることが

可能であるという感覚」

「ある具体的な状況において適切な行動を成し遂げられるという予期、および確信」

いったものです。

 

勉強の場面で、過去に「自分の強みを発揮して成功できた」という体験がなければ、

次に「きっと自分にはうまくできるから、がんばろう」と自発的に取り組む動機は

生まれてきませんよね。

 

私は、学習の場面で、子どもに「自己効力感」が身につくまでの間は、

「最初が肝心だから、ミスはその都度きちんと直しておかないと」とか、

「たくさん失敗しても、それを乗り越えられる強い子になってほしいから」

といった大人の持っている学習へのイメージを、

子どもが「自己効力感」を得るか否かよりも優先しない方がいいと思っています。

私たち大人でも、外国の方を相手に、勇気を持って習いはじめの外国語で

声をかけたとき、間違いを馬鹿にされたり、注意されたり、

何度やっても通じなかったという体験が続けば、

それでもがんばって話しかけ続けるか……というと難しいのではないでしょうか?

でも、相手が外国の子どもだった場合、こちらのミスをいちいち気にしていないとしたら、

たくさん話しかけるうちに、自分は外国語で会話ができるという自信がつくし、

回数を踏むうちに、上手に正しい使い方ができるようになってくるかもしれません。

「自己効力感」がないまま、何年、英語を学んでも、

外国の人と会話のキャッチボールをするのは難しいのかもしれません。

 

多くの勉強が苦手な中高生は、

知的なハンディーキャップを持っている子ばかりではありません

また、発達障害があって、努力や計画的に物事を進めることに

ハンディーキャップがある子ばかりでもありません。

ごく普通の小学生の頃はがんばり屋で成績も良かった子の多くが

「勉強ができない子」に成長しているのです。

その原因には、日本の教育では、個人個人の「自己効力感」より、

集団に通用する「教育ってこういうもの」という大人が信じやすいものを

優先しすぎているからのように思います。

 

私は 子どもの個性はさまざまですから、集団の場でない限り、その子が

「自分の有能さ」を感じ取れるような勉強が必要だと思っています。

本来なら、集団の場でも、「みんなから認められている」「自分は有能だ」という

フィードバックを得る体験がたくさん必要だとも思っています。

勉強の場で、「自分の有能さ」を発揮できるという確信が、

いくつになっても自発的に学び続ける姿勢を育てるからです。

一方で、いつも先に解き方を暗記させておいてから良い点を付けていく

スローステップの学習で、「考えない」癖をつけてしまうことも問題だと思います。

このさじ加減は難しいので、何度かに分けて詳しく説明させていただきます。

 

「飽き性だけど頭の回転が速い子」っていますよね。

さまざまな新しいことをやりたがってチャレンジ精神旺盛なのはいいのだけど、

やる前は、大騒ぎして、「どんな苦労もいとわない!」という様子だし、

やってみると人一倍、呑み込みもいいのに、すぐに飽きて放り出してしまう子。

目ざとくて、知恵もよく働くけど、気が散りやすくて怠けがちな子。

こういうタイプの子って、お友だちが習い事をしているのを目にすると、

すぐに自分もやりたがって、泣いて騒ぐことがよくあります。

「それならと……」習わせると、少しすると、今度は練習や宿題が嫌で、

毎日、親とバトルになるという結末をたどりがちです。

通信教材もしかり。「ぜったいがんばるからやらせて!」と

地団駄を踏んでいたのもつかの間、教材を取り出したとたんに、

ほとんど手付かずのまま溜め込んでいくものです。

 

注意が必要なのは、「自分がやると言いだしたんでしょ!がんばりなさい!」

「ちゃんとがんばればできるのに、努力が足りない!」と叱り続けるうちに、

幼い頃は自分から知的なことに何でもチャレンジしたがっていたのに、

大きくなるにつれ、勉強に関わることは自発的にチャレンジするのを避けるように

なってくることです。

その代わり、後々、「やる、やらない」で揉めたり、

「やめたい、しんどい」と悩んだりしなくてもいいテレビゲームや買い物などでは、

相変らず、ごね続けるようになりがちです。

 

飽き性の子に、我慢することや努力することを、しつけていくことは大事です。

けれども、現代は大人と子どもの境界線が薄れていますし、

幼い子も消費のターゲットになっている時代ですから、

「あなたが自分でやるって言い出したんだから、すぐに投げ出さずにがんばりなさい」

と叱ると、年齢不相応な自己責任の押しつけになってしまうことも多々あるのです。

 

3歳、4歳、5歳といった子が

「お友だちといっしょにリトミックを習いたい」とごねたところで、

その子の年齢だと、

「お友だちが公園に行ってるから私も行きたい」とごねているレベルの先の見通ししか

持っていないものです。

まだまだ、自分に何が合っているのか、どんなことなら長続きするのか、

何をすると一番がんばれるのかといったことを、

いろいろ試してはやめて、夢中になっては卒業して、より自分を成長させることが

できる何かを、外にも、自分の内側にも探索していく時期なのです。

 

それなのに、大人の世界が幼い子の暮らしにまで浸透して、

子どもの習い事に、ママ友同士のおつきあいが絡んでいたり

子ども向けの商売のシステムのせいで、

幼児が数年計画の責任感を問われることになっていたりするのです。

 

「飽き性だけど頭の回転が速い子」の長所は、

新しい興味の対象に向けるエネルギーの強さです。

「やりたい!」と言っているときのエネルギーと、

やりはじめた当初のエネルギーが維持されたら、

この子はどれだけ賢くなることか……?と感じている親御さんは

たくさんおられることでしょう。

私は、あまりお金などの負担がかからないことでいろいろチャレンジさせてみて、

やってみたり飽きたりを繰り返しながら、

「こういうことならがんばれそう」「自分が生かせそう」という

自己効力感を得られるものに気づかせていくことが大事だと感じています。

 

勉強で、基礎を繰り返し学習するのを極端に嫌がる場合、

「あなたは勉強嫌いの悪い子だ」

「あなたは怠けもので、こんなことをしていたら将来勉強が苦手になってしまう」

というイメージを植え付けないように気をつける必要があります。

このタイプの子は、易しい問題と難しい問題が混在したワークで、

「好きなものを1問選んで解いてね」と言うと、

ちょっとひねったものを選んで解いて、

それを機会に「もっと解きたい」と言い出す場合がよくあります。

 

子どもの学習に構いすぎるのもよくないのですが、

義務を無理強いして大の学習嫌いにさせるよりも、

長所の頭の回転が良さを使って、知的な課題の面白さに気づかせることが

大事だと思っているのです。

飽き性って悪いことばかりじゃなくて、

執着心のなさや、自分によってより必要なものを見極めていく力や、

好奇心の強さとも関わっているものです。

今、自分にとって一番重要な目的に全力投球できる能力でもあります。

短所に見えるところも、罪悪感を植えつけず、大らかに関わっていると、

そのように良い資質として使っていけるようになっていきます。

 

うちの子たちにしても、飽き性とはちょっと異なるのですが、

コツコツがんばることが苦手です。

ですから、決まりごとや義務が多い場では、

欠点ばかりが目立っていた時期もありました。

でも、ゆっくりと長所も欠点もどちらも大切に育てていくようにすると、

長所だったものはもちろんですが、短所と思われていたものが、

自分で目的を定めたり、深く考えたり、創造的に解決したり、学び続けたりする

原動力となっているのがわかるのです。

 

わが子が、子どもとは呼べないような年齢になると、

子どもに対して親ができることは本当にしれていて、

役に立つのは信じてあげることくらいだと気づきます。

子どもは本当に自分がなりたいものに向かって、自分の力で成長し続けていくのです。

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