虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 続きです。

2019-02-28 16:10:31 | 日々思うこと 雑感

教室で乳幼児と過ごす時も、小学生と接する時も、

メインとなる価値観を大切にしながらも

価値観を固定しないようにすることが、遊びのフォーローにおいても

勉強の手助けにおいても大事だな、と感じています。

 

2歳9ヶ月~3歳1ヶ月までの★くん、☆ちゃん、●くん、○ちゃんのといった

とても幼い子たちのレッスンを例に挙げて、説明させてくださいね。

 

3歳1ヶ月の●くんは、大のお寺好き。図鑑を開いて、弥勒菩薩や鳳凰の説明を

熱心にしてくれます。

そこで、積み木でお寺を作って、紙に描いた弥勒菩薩を飾ってあげると、

とても喜んで、「鳳凰がいるよ」と催促。

それでちょっと適当なのですが、鳳凰も描いて、飾れるように棒をつけてあげると

すごくうれしそうでした。

 

子どもってとても個性的で、好みも違えば、長所も短所も、

考えるプロセスも技能の学び方もそれぞれ違います。

3歳の子の積み木遊びだから、この積み方、こういう遊び方と固定せずに、

それぞれの「好き」を取り入れると、

いっしょにいるお友だちにしても、「●くん、ああいうもの好きなんだな」と

自分とは違う好みに対して興味が湧きますし、その子の関心の範囲も広がります。

 

大人が事前に用意できるどんなに洗練されたアイデアも、

今現在のその子の内面を占めているものより心に響くことはないはずです。

 

●くん、お寺の他にも、「おすもう」が今のブームらしくて、

何度もしこを踏むのを披露してくれました。 

この日、●くんが教室で気にかけていたのは、写真の切り替えスイッチ。

 

「これなあに?これなあに?」と不思議がるので、

「こっちの線路~あっちの線路~と電車が行くよ」と切りかえの先に二つに分かれた

線路を取りつけてあげると、パァッと顔を輝かせて喜んでいました。

 

そこで、ブロックの板で、ビー玉を転がすとふたつの道に分かれて滑っていくように

してあげると興味しんしん。

そんな●くんを見て、『コんガらガっち どっちにすすむ?の本』を読んであげたら

喜ぶんじゃないかな、と感じました。

 

先に大人の側に既存の価値があって、

それに添って子どもを導いていこうというもくろみが幅をきかせていると、

「子どもがその時、興味を抱いたこと」を出発点にして、

遊びや学びを展開していくことはできません。

子どもは自分の興味に引っかかった時や自分の個性的な好みが外の世界と

響きあった時に、創造的に遊びを作りだすし、たくさんのことを学ぶのです。

 

それは幼い子だけに限ったことではないはずです。

内田樹氏が、ご自身のブログで、こんなことを書いておられました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本の教育をダメにした根本は

この「シラバス」的なものの瀰漫にあると私は思っている。

シラバスというのは平たく言えば「授業計画」のことである。(略)

今年度の私の採点基準は「そのような知的な構えをとることが、あなた自身の

知的パフォーマンスを向上させるか?」という問いのかたちで立てられている。

もちろん、ひとりひとり構えは違う。

恭順で謙抑的になることで知的に向上する学生もいるし、反抗的で懐疑的になることで

知的に向上する学生もいるし、知識を詰め込むことで向上する学生もいるし、

詰め込みすぎた知識を『抜く』ことで向上する学生もいる。

そんなの人それぞれであるし、同一人物であっても春先と冬の終わりでは

こちらの着眼点ががらりと変わることもある。(略)

教育研究というのは「なまもの」相手の商売である。どう展開するのか予断を許さない。

日本の教育がここまでダメになった最大の理由はこの「教育は『なまもの』である」

という常識を教育関係者がみんな忘れてしまったことに起因している。

彼らが「工場生産」のメタファーに毒されて、適切なマニュアルに従って、

適切な練度を備えた教師が行えば、教育的アウトカムとして標準的な質の子どもたちが

「量産」できるはずだと考えたせいで、

日本の子どもたちは「こんなふう」になってしまった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

教育は「なまもの」という言葉、1歳の子の相手をしていても、

中学受験を目指している子の算数を見ていても、

もう大人の域にいる娘や息子と議論を交わす時にもしみじみと実感するものです。

「なまもの」相手に価値観を固定できないのは、確かですよね。

-------------------------------------

先に取り上げた内田樹氏の元の文章を息子に見せて意見を求めました。

というのも、数日前、息子が、「学校で勉強する意欲が削がれていく一番の原因は、

たいていどの先生も疲労してきっていて常時イライラしていることだったから、

先生の雑務の量を少し減らすだけでも勉強しやすい雰囲気が生まれるんじゃないかな?」

といった話をしていたのですが、学校の問題にはあまりにも多くのことが

絡まり合っているようで、話題にするのに気乗りしないわたしが、

あいまいに口を濁してしてそのままになっていたのです。

 

それが心にくすぶっていたので、

「この文章、どう思う?★が言ってたこと、大学のような場なら少しずつ改善可能

なのかもね。それがとても叶わないような風潮があっての文でしょうけどね」

とたずねました。

 

『内田樹の研究室』の「書類書くのはイヤだよう」という記事にさっと目を通した

息子は、「あ~わかる、わかる」とうなずいてから、

「最近、リスクを意識化する世界って文章を読んだんだけど……

それはインフルエンザについての話題だったんだけどさ。

この文(内田氏の文)を読むと、教育もリスクの問題でもあるんだなって感じたよ。

リスクを意識化する世界って、

もともと人は生産する側で何かを生み出す存在だったんだけど、

成長した社会では、何か新しい物を作りだすことで生じるリスクを負うよりも、

すでに作られているものを失うかもしれないリスクを避けるのに力を注ぐことになる

といったことが書かれていたんだ。

 

学校教育にしても、どっちがよりよい教育になるか、

生徒の成長によいものをもたらすか、といったことより、どっちが危ない道を

進むことになるか、というリスク回避の考えが主になっているんだろうな」

 

それを聞いたわたしは、ずいぶん前にいただいでずっと気になっていた

コメントが心に浮かびました。

雑誌を読んで「えっ」と思うという記事にいただいた次のようなコメントです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

うなずきながら読みました。

うちの子は、算数の難問が大好きで、家では自分で最レベに嬉々として取り組んでいます。

学校では算数は退屈、計算テストはあっという間に終わるというので、

「終わった後は何してるの?」と聞くと、他の子がテストしている間の30分くらい、

学級文庫を読んでいいことになっているとのこと。

「でも同じ絵本ばかりで飽きた」というので、先生に連絡帳で「違う本を入れてもらえ

ませんか?少し難しい本や図鑑など」とお願いしましたが、

クラスの所有物だから一人のために変えることはできないとのお返事。

学級文庫の一番のヘビーユーザーのために1冊か2冊増やすだけでいいのに、

と納得いきません。できない子のためには工夫を色々されていますが、

できる子のための配慮はしない、というのが公立小学校の原則らしいです

(先生がそのようにおっしゃいました 涙)。

凹凸があっても、子供に合った方法で長所を伸ばす、という方針でやってくだされば

いいのにと思うのです。

もうすぐ、家庭訪問なので、先生に直接お話するチャンスです。

でも、どのように話を進めれば分かってもらえるか、悩んでいます。

なおみせんせい、先生との対話方法、アドバイスがあれば、教えてください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

わたしは息子に、コメントの内容を簡単に説明してから、

「今の学校の問題は、親たちの要望が、もっともっと……と学校の先生に何かを求める

ことによって起こっているようにも感じているから、

コメントを記事で取り上げることはできなかったんだけど……。でも、同時に

この方のおっしゃっていることはよくわかるのよね。

こうした普通の声が、わが子への特別な対応を求めるモンスターペアレント的な

親の声として響くほどに、学校が四方からの多くの声に辟易しているのかと、

ちょっと気持ちが塞いだわ。★が言っていたように、先生の雑務が多すぎるというのは

あるんでしょうね。

それと、もし、ひとりの子を特別扱いしたら、後々、面倒なことになるかも

しれないという不安が大きいのかも。

お母さんが小学生の頃の読書の普及に熱心だった先生方なら、

こうした要望を、子どもの読書の幅が広がっていくこととして喜んで受け入れた

でしょうし、お母さんが先生の立場なら、そうした声がなくても、

本を手にしている子たちにとって、教室にある本が満足感をもたらしてくれているか、

さらなる読書への意欲を育てているかということは毎日のように気にかけて

いるでしょうしね。

といっても、今、教師の職に就いている方々がこなしている仕事をする自信なんて

自分にはないけど。」

 

それを聞いた息子は、「読書の幅が広がって子どもの能力が伸びることは、

生産的で新しい価値が生み出されることにもつながるけれど、

そこでも、そうして教育によって何か作りだすより、リスク回避の考えが

強いんだろうな。先生の労働量が増えるとか、他の子や親から文句が出るとか、

もっと別の要望があるかもしれないとか、学校が想定している目標の枠から

はずれるとか……。

内田樹先生が教育はなまものって書いていたけど、

今は教育をプロジェクトとして捉えている人が多いよね。

やっぱり教育はなまもので、人の人生に組み込まれた一部で、友だちとか

人生観とかいったものと同じように、均一に与えて、均一の結果を得ようとすれば、

いろいろ問題が生じてくるんだと思うよ。

自然に友だちができるのはうれしくても、友だちプロジェクトで友だちを

作りたいとは思わないよね。

教育も人としての重要なものを担っているから、リスクを伴いながらも、

そこから創造される価値に目を向けていけるような余裕が、学校には必要なんだろうな」

 

コメント

「価値観を固定しない教育」と「未完成な親」の価値 1

2019-02-27 21:13:10 | 日々思うこと 雑感

算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか の記事に、

(記事でコメントを取り上げたお返事としてなのですが)

次のようなコメントをいただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、

価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。

以前のエントリーにおける「未完成な親」や、

大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が子供を伸ばす要因なのでしょうか。

逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、

長期に通うことは不適なのかもしれませんね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いただいたコメントにある

「価値観を固定しない教育」や「未完成な親」というのものが、

(言葉の解釈が重要ではあるけれど)

わたしも子どもの知力と精神力と個性的な才能の伸びと大きく関わってくる

んじゃないかと感じています。

コメントにある「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とは、

リンク先の記事のことです。

 

この「未完成」という言葉に、???とクエスチョンマークがいっぱい

頭の中に浮かんだ方もおられると思います。

 

そこで、最近、教室で子どもと接した出来事を取り上げて、

「価値観を固定しないこと」や「未完成」であることの大切さについて

言葉にしてみたいと考えているのですが……。

 

その前に親の接し方の未完成さや、子どもの可動領域に余白があることが、

子どもの心と人生にもたらす価値について綴った

『自己肯定感は褒めると上がる?』という記事を紹介させてください。

 (この記事の中で、未熟と未完成という言葉は異なる意味で使っています)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ブログで自己肯定感の話を書くと、

「(自己肯定感を上げるには)もっと褒めるといいんでしょうか?」

という質問をいただくことが多々あります。

そのたびに、「褒める」というのとはちょっとちがうなぁ……と思いつつも

ひとことで、「これこれこういうことしたら上がるものですよ」とアドバイスできる

ものでもなく、もやもやした思いをくすぶらせることがあります。

 

そこで、わたしが考える「自己肯定感」が上がると思われる接し方と、

「自己肯定感」が下がると思われる接し方について、

言葉にして整理しておきたくなりました。

 

特に、子どもの自己肯定感を上げようと思って褒めているのに、

「褒める」行為自体が、子どもの自己肯定感を下げているように見えるケースについて

言語化できるといいな、と思っています。

 

先日、『東大パパのGo!Go!業!』というブログで

息子さんのだいくんが工作する姿が記事になっていました。

 

前衛芸術の天才

 

3歳になりたての子らというのは、

「こういうことがしたいんだ。自分でやってやるんだ!」と

自分の動きを自分でコントロールしたい気持ちが持続しはじめるものの、

「何をどんなふうにしたいのか」ということは後回しというか、

本人にするとどうでもいいことだったりします。

 

周囲にすると、一生懸命しているところ、口出しするのも何だけど、

「ちょっと紙の使い方もったいないんじゃない?」

「新聞紙使って工作してごらん」なんてあれこれ口出ししたくなる時です。

 

大人からちょっとあれこれ言われても、

それまで自分や自分のすることに自信が育ってきている子は、

大人のアドバイスもそこそこ聞きいれつつ、

「大丈夫だよ。もうこれで、こうちゃく出来上がりだよ。」と

自分のしてきたことを否定しないでいいような切り返しで決着するものです。

お姉ちゃんから手厳しい追及を受けてもへっちゃらで、

ぼくが作っていたのは「○○!」と、おそらく、できあがってものを見て

後付けでひらめいた名前を自信満々に言います。

 

子どもの自己肯定感というのは、自分で自由にできる余白というか、

実際に動く場面でも、想像の世界においても、自分で動いて失敗してもOKという

可動領域がしっかり確保されているかどうかに大きく関わっているように思うのです。

 

大人が子どもの領域へしょっちゅう侵入していたり、

逆に「子ども」という存在を特別視したりお客様扱いしたりして祭り上げて、

子どもの周りに地に足をつけている大人が存在しなくなったりすることも、

子どもが確かな自分を感じられなくなる、

つまり自分に自信を持てなくなる原因のひとつとなるのではないでしょうか。

 

この記事中でだいくんの工作を見守る東大パパさんは

だいくんを赤ちゃんのように特別扱いせずに大人の世界のルールもきちんと教えているし、

(「だいくん、いくら何でも折り紙を無駄遣いし過ぎだよ。

ほら、こっちのチラシとか使いなよ。」と)

一方で自分の意志でひとつのことをやり遂げる過程に必要以上侵入せずに

自由に活動できて発言できる領域と時間を確保してあげていますよね。

 

大人のアドバイスに過剰反応し過ぎて激しいかんしゃくに発展してしまう子も、

即座に大人の指示に従って、「自分のそれまでしていたこともこれからしようと

していたこと」も帳消しにしてしまう子も、

「ママして~」とすること自体放棄してしまう子も、ちょっとしたことをきっかけに

自信や自分への信頼感が揺らぎやすい子なのかもしれません。

 

子どもはそうした揺らぎのなかで成長していきますから、

こういう反応をするから、自己肯定感が低いとか高いとか、

気にかける必要はないのでしょう。

でも、大人の関わり方の加減次第で、日常の行為のひとつひとつが、

子どもを勇気づけ、自己肯定感を高めていくきっかけになることも事実だと思っています。

 

それは子どものすることなすことを「褒める」というのとは、異なります。

幼い子たちのすることは、たいていでたらめでめちゃくちゃですから、

大人が「褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思っていると、

心にないような嘘をつくことになるか、子どもが一番自信満々でやった部分は無視して、

大人が言葉でコントロールしてそれなりの形にした部分だけ、

「すごい、すごい」と褒めることになりかねません。

 

つまり、

「自己肯定感を上げるために褒めなきゃ、褒めなきゃ」と思って褒めているうちに、

褒め言葉が、大人の期待通りに子どもを動かすための

見えないニンジンになってしまうことが非常に多いのです。

 

「子どもの自己肯定感を高めるため」という名目で、

子どもに何かできるようにさせようとあせっている時、

実は、周囲の人の評価を大人である自分が欲していて、

「もっと褒めてもらいたい」「もっと認めてもらいたい」という飢餓感が

その動機に取って変わらないか、自分の心を見はっておくことが大切です。

 

以前、「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、数値で子どもを

管理したがるのでは?」という辛口の記事を書いたことがあります。

子どもの自己肯定感の高低は、その記事で取りあげた内容と密接に関わっているように

捉えています。

 

↓「親自身が『子ども』から『大人』に変化できていないと、

数値で子どもを管理したがるのでは?」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』水島広子/紀伊国屋書店

(この著書でクロニンジャーの「七因子モデル」を知りました。)という著書の中で、

「あれっ?」と感じる興味深い話を目にしました。

思春期の子を持つ親御さん向けの本ですが、幼児を育てている方にとっても

とても大切な話だと感じたので、簡単に要約して紹介しますね。

思春期の心の病である拒食症の治療の中心は、

対人関係療法で言うところの「役割の変化」になるそうです。

思春期の課題を消化して、「子どものやり方」から、「大人のやり方」に変化を

遂げることが病の治癒につながるそうです。

「子どものやり方」というのは、「何でも自分の努力で解決する」というものです。

一方、「大人のやり方」は、「必要であれば他人の力を借りよう」と

考えられることです。

成績が上位になれない、という場合も、一人でさらに努力して自分を追い込んでいくの

ではなく、いろいろな人生があることを知って、

自分の存在を社会の中で相対化できるようになることです。

「何でも自分の努力で解決する、のが『子どものやり方』だなんておかしい……

大人になっていくということは、他人に頼らず、自分で責任を持っていろんなことを

こなせるようになることではないの?」と感じた方がいらっしゃるかもしれません。

世の中は、矛盾だらけで無秩序なところです。

「がんばったから、幸せになる」とか「努力に比例して成功する」という単純なルールで

成り立っているわけではないですよね。

すべての課題を自分の責任でこなそうとする人は、

「秩序」によって安定するタイプが多いので、

「努力すれば成績が得られる」「親切にすればすかれる」というようなルールで世の中が

動いていないと不安になります。

そうしたタイプの人が、自分の秩序を乱す出来事に直面すると、パニックを起します。

そのパニックへの対処のひとつの形が拒食症という病なのだそうです。

「体重」は、食べなければやせるという体重計の数字にきちんと表れるので、

達成感と安心感が得られます。

思春期には、「自分の限界を知るということ」という重要な課題があります。

努力すれば何でもできるようになるわけではない。

がんばればみんなが褒めてくれるわけではない。

運命や環境をすべて自分の力でコントロールできるわけではないと認めること。

その上で、自分にできる範囲で全力をつくせるようになることが、

大人になるための思春期の課題です。

「人間は努力すれば何でもできるし、そもそも人間は学力だけで評価される」

という狭い考え方は「子ども」としての役割から生じるものです。

大人になるということは、

「人間にはいろいろな限界があり、その中で支えあっていくことが人生」という

大人としての役割で考えることができるようになることなのですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『10代の子をもつ親が知っておきたいこと』で、

拒食症をはじめとする思春期の心の病についての話を目にするうち、

ちょっと怖くなったことがありました。

子育て中の親の中には、思春期の課題を超えそびれて、

まだ「長い思春期」の最中にいる方も多いです。

機能不全の家庭に育った私も、ひとりめの娘の子育てでは、

大人になれていない心のまま良かれと思って子どもの自尊心を蝕むようなことを

平気でしていました。

「子ども」の心のままで、心の病を引き起こすような世界観のもとで

子育てをしていると、目に見える安心感や数値上の上昇を確認することを求めます。

「努力すれば成績が得られる」「親切にすれば好かれる」というような

安心できる秩序が守られている世界をお金を払ってでも得ようとします。

それが教育産業が作り上げた、人工的な架空の世界であったとしても、

それを全世界のように錯覚した状態で子育てをしたいと願います。

子育ては、「すべてを自分の力でコントロールしたいという」、

現実にはありえない考え方がはびこりやすい場です。

なぜなら「自分で努力はしたくないけれど、コントロールして数値の確認をする

作業だけをしていたい」という、本当は現実の世界で叶えられてはいけない、

病特有の執拗な願いを簡単に実現してしまうからです。

おまけに、教育産業の多くが、そうした親の考えを正当化して、さらに煽りがちです。

教育産業が、儲かることを最優先に考えるのは、

ビジネスだからしょうがない部分もあります。

利用する側が、親にとっての最優先課題は、

ビジネスのそれと重ならない場合が多いことを自覚することが大切だと思います。

 

子どもの幸不幸は、どんな能力の親のもとに生まれたかよりも、

ちゃんと思春期の自分の課題を済ませて、「大人」になっている親に育てられているか

どうかで決まるように感じています。

子どもの未来も、「大人」に育てられているかどうかで、

大きく変わってくるのではないでしょうか?

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

↑ 先の記事は自己肯定感について説明するために書いたものではありません。

わたしは子どもを外の評価の体系で測っては、数値で確認しながら育てていくことが、

自己肯定感が下がる原因と直にイコールで結ばれると考えているわけでもありません。

けれども、そうした育て方に代表される大人が、

自分の狭い世界観で自分が見たいものを子どもに投げかけて、

子どものある一面には関心をしめし、別の一面は(自分の価値観と合わないからという

理由で)無視するような育て方が、

自己肯定感を育む土壌の貧しさにつながるんじゃないかな、とは思っています。

 

ですから、毎日、子どもをシャワーをあびせるごとく褒めて育てたところで、

親が子どものなかに見たいものを褒め、認めたくないものを無視して褒めているとすれば、

そうした褒め言葉は親の価値観の押しつけでしかなく、

どこかで子どもを否定し阻害している行為ともつながりやすいと感じています。

 

次回は具体的なレッスンの話を例に挙げて書きますね。

コメント

3歳児さんのもりもり工作

2019-02-26 22:00:53 | 3、4歳児

3歳のAちゃんが、「〇〇が作りたい!」と言ってはもりもり工作するように

なってきました。おしゃべり好きのAちゃんは作った作品について

長々と説明してくれます。

↑の作品は、『宝の地図』なのだそうです。

そこで、さっそくお友だちといっしょに地図を片手に

宝物を探しに行きました。

レッスン中、お友だちとおもちゃの取り合いになった時、「大事なおもちゃを隠して、

いっしょに探しに行こう」というと、けんかはすっかり忘れておもちゃを隠しに行って上機嫌でした。

筒をのぞきながら、悪ものをやっつける道具らしいです。

監視カメラのような???すごい道具。

 

アイスクリーム屋さん。お友達と遊ぼうと思って作ったそうです。

 

カメラの被写体を確認する部分です。

Aちゃんはカメラが好きでよく作っています。

今回の作品はこれまでよりレベルがアップしたような……。

 

同じ3歳のお友達といっしょにピザゲームを楽しんでいた時のこと。

ルーレットの矢印は自分で好きな場所にセットして

ほしいピザのピースを選ぶようにしています。

 

自分で自由にセットできるとはいえ、場にあるピースとないピースがあるため

場にあるピースにあうように、「星の形と赤い色」というように

形も色も選ぶのは難しいんです。うまく選べてもいざ自分のピザに乗せようとすると、

すでにその色と形は埋まっていて置けないということがあります。

「こうしてごらん」と指示して間違えさせないようにするのは簡単ですが、

それだと間違えた時に、どこが間違っていて、どうしたら正解するのか

自分で気づく機会を奪ってしまいます。

自分でどんどんやりたがって、ミスしたことに傷つかないで、何度もリベンジしたがる

この年齢の子たちに、たくさん気持ちよく間違えさせてあげるようにしています。

「そうか!」と自分で間違いから正しい答えに気づけるように

気をつけています。それと同時に自分の限界を超えて疲れてしまわないように

本人たちが楽しいと感じる難易度と時間の調整するよう工夫しています。

コメント

考える方法 と 行き詰った時の解決法 

2019-02-25 09:08:51 | 子どもたちの発見

年長のAくん、Bくん、年中のCくんの算数の時間にこんなことがありました。

サピックスのぴぐまりおん(1・2年生)の『のりものけん』という問題を

解いていた時のことです。

この問題は、園児にはいきなり解くのは難しいので、問題を解く前に、

12枚綴りの切りとることができるチケットを作り、

おもちゃを並べて作った遊園地の乗り物を選んで遊びました。

 

コロコロカー    のりものけん 2まい

コーヒーカップ   のりものけん3まい

メリーゴーランド  のりものけん 4まい

グライダー      のりものけん6まい

ジェットコースター  のりものけん8まい

という決まりです。

 

「グライダーに乗りたい」と言って6枚の乗り物券を切りとって渡し、

残りの6枚で何に乗ろうかと考える……

という遊びをしてから、ワークの問題を読みます。

 

ワークの問題を読む時、一区切りごとに、「どういう意味かわかる?」とたずねて、

理解度を確認しています。

 

「みんなは ゆうえんちに きています。どういう意味かわかる人?」

「はい、みんながゆうえんちにきたってことでしょう?」とAくん。

「そうよ。みんなっていうのは、すすむくん、だいちくん、かおりちゃん、

がんちゃん、めぐちゃん、けいこちゃんね。」

 

「のりものけんを 12まいずつ かいました。どういう意味でしょう?」

「のりものけんの、この点々って切ってある券が12あるから、

それを買ったってことでしょう?」とBくん。

 

「次は難しいよ。ちょうどなくなるように みんなはのりものに のりました。

ちょうどなくなるってどういうことかな?ちょうどじゃない場合ってどんなことかな?」

この質問には、Bくんが必死になって答えてくれました。

「あの、ジェットコースターに乗って8枚出して、それからコロコロカーに乗って、

もういっかいコロコロカーに乗って全部なくなるのは、

『ちょうどなくなる』ってことで、もし、ジェットコースターの後で、

コーヒーカップに乗ったら、ちょうどじゃない」

「そうね。Bくん。よくわかったね。コーヒーカップに乗ったら、

券が1枚だけあまるから、1枚だけで乗れる乗り物はないものね」

「のりものに 1かい のるのに ひつような のりものけんの まいすうは 

右のとおりです。意味がわかる人?右のとおりってどういうこと?」

「この右の絵のところの、コロコロカー2まいとかいうところでしょ」とAくん。

 

こんなふうに一区切りごとにわからない部分がないかていねいにたずねた後で、

『れい』をしっかり見るようにうながします。(『れい』を見て気づいたことを

言葉にしておくのもいいです)

 

「グライダーに 1かい、 コロコロカーに□かい のったよ。」と

すすむくんの言葉から、12枚のチケットの色を塗り分ける問題で、

3人とも考え込んでいました。

 

すると、Aくんが、「先生、ブロックを使ってもいい?」とたずねました。

許可すると、グライダーの6枚を除いた6枚分のブロックを持ってきて、

コロコロカーに何回乗れるのか考えて、きちんと解けました。

BくんもAくんからブロックを譲り受けて、解くことができました。

 

 

Aくんがブロックを使うことを思いついたように、考える方法のレパートリーを

いろいろ持っているといいですよね。

子どもたちが、考えるためにいいアイデアを思いついた時は

みんなでその良さを確認して、アイデアを共有できるようにしています。

 

 小2のDくんがレゴでコマを飛ばすマシーンを作っている時、

こんなことがありました。

初めて、ギアや滑車を使ったレゴに挑戦したDくん。

解説書の絵を見ながら、意気揚々と作っていました。

中盤あたりに差し掛かった時、

「ずいぶんできたね。どう?面白い?」とたずねたところ、ため息をつきながら、

「途中でわかんなくなってきた。やっぱ、難しいな。」とつぶやきました。

どうするのかとしばらく様子を見ていると、「はぁ~」と深くため息をついてから、

何やら決意した様子で、「いいや!戻ろっ!」というと、

それまで作っていたパーツをバラバラにしだしました。

それから、説明書の3の図を指して、「先生、ここからやりなおすことにした」

と言いました。

「それなら、今度は、1手順終わるごとにあっているかチェックしようか?」

ときくと、「そうする」とのこと。

そうやって、1手順ずつチェックする間、わたしはチェックしている内容を

「穴の位置は、左から3番目、うん、あっているね」

「ギアとギアがきちんとかみあっているかがポイントよ。ちゃんとかみあって

いたらクルクル回るからわかるわ」などと、口に出して確認しました。

 

 

そうして前にため息をついていた中盤あたりに差し掛かった時、

Dくんは、「もう自分でできるよ。チェックしなくても大丈夫」と

自信ありげに言うと、最後まで自分の力で仕上げました。

Dくんはうれしくてたまらない様子で、

「もっともっと作りたい」と言っていました。

 

このコマ飛ばしマシーンを他の子らにも見せる時、

わたしはみんなに

Dくんが自分で考えた行き詰まった時の解決法について話しました。

「Dくんはね、最初、自分でどんどん、どんどん作っていったの。

でも、途中でだんだんやり方がわからなくなって、どうしたらいいか

わからなくなったのよ。

そうして、行き詰ってしまった時、Dくんはどうしたと思う?」

他の子らは首をかしげて聞いていました。

「Dくんは、こんな風にしたの。

まず、せっかく作ったブロックをバラバラにしていって、最初の方の3番目の図に

戻ってやりなおすことにしたの。

それから、ひとつの図を完成させる度に、先生のチェックを受けて、

ちゃんとあっているかどうか正確に確かめるようにしていたの。

簡単でわかりきっていることも、そういう意味があったんだなって

理解しながら進んでいったら、先に進めば進ほど簡単になっていって、

途中からは自分ひとりで全部仕上げることができたのよ」

 

------------------------------------------------------------------------------------------

ピッケのつくるえほんのワークショップで小2のAくんが

『くりんの木さがし』というすてきな絵本を作りました。

下の写真は、作品の一部です。

 

りすのくりんの家であった木が倒れてしまったため、

新しい家にする木を見つけにいくストーリーです。

 

 

この作品を作る過程で、Aくんは最後のシーンを作った後で、

先に作ったシーンに戻って手を加えました。

「倒れて枯れた木と周辺の環境」と

「新しく探し出した木と周辺の環境」の変化を際立出せるためです。

 

Aくんは、下の「新しい家にすることにした木」のシーンと

上の「倒れた木」のシーンについて、他の子らに説明しました。

 

「(下の)この絵の木は、いろんな実がなっていて、花も咲いていて、

木のまわりもいろいろな草や花があって、どんぐりも落ちている。

初めは、(上の)前の絵にも、どんぐりとか草とかもっと置いていたんだけど、

最後の絵と比べた時に、どんなふうにちがうかわかるように、

きのこのついている切り株と草だけにしたんだよ。

青い倒れている木は枯れているから青いんだ」

 

最後の作業を終えてから、

それまでしたことを振り返って、おかしな部分はないか、もっとよくなる方法はないか、

と考えてみるのはすばらしい知恵ですね。

 

工作をする時も、算数や他の学習をする時も、とても役立つ頭の使い方だと思います。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

年中のBちゃんの頭の使い方は、まるで見ているものに吸い込まれてしまうほど

真剣に物を眺めて、相手の言葉に全身全霊で耳を傾けることから始まります。

 

Bちゃんは、誕生日のプレゼントにシルバニアファミリーのお家を

買ってもらう予定だったそうです。

でも買い物に行った先で、上の写真のような

広げるとお城の中とお庭があらわれるポップアップ絵本を見つけて、

「どうしてもこれがほしい、シルバニアのお家よりもこっちがいい」と

言い張ったのだとか。

Bちゃんは工作が大好きなので、プレゼントにこの絵本をもらうやいなや、

「これと同じものが作りたい」と言いました。 

といってもBちゃんの手に余る大掛かりなポップアップの仕掛けです。

そこで、「虹色教室で作る」という流れになりました

 

Bちゃんといっしょに長い間、うっとりとこのポップアップ絵本を眺めた後で、

「Bちゃん、どの部分が作りたいの?どこがすてきだと思う?」とたずねました。

Bちゃんは庭にある六角形の噴水と植物で作った迷路を指さしました。

 

Bちゃんの指さすそれは、とても魅力的なポップアップの仕掛けでした。

 

「六角形の秘密」とでも名付けたいような

六角形という形を生かした仕掛けなのです。

 

作り方は単純です。

紙を帯状に切って折って、六角形のわっかを作ります。

 

六角形はふたつの向かいあう辺が平行ですよね。

Bちゃんとは、「平行」のことを、手のひらと手のひらの間に少し隙間を開けて

向かいあわせて表現しています。

向かいあわせの平行な辺の上も下も山の形に辺がつながっていますから、

それがぺったんこになったり広がったりするのです。

 

この平行な辺と辺をセロテープでとめて、他はとめません。

すると、とめていない部分の辺が開いたり閉じたりして、

ぺったんこに折りたたまれたり、六角形に広がったりするのです。

 

できた部分はプレゼントとしてもらった絵本に比べると、ほんの一部です。

でも、Bちゃんは、心から満足した様子でした。

真剣に、ポップアップ絵本を覗きこみながら、

「次はこことここを作る」と夢を膨らませていました。

 考える方法 と 行き詰った時の解決法 3

 

考える方法 と 行き詰った時の解決法 4

 考える方法 と 行き詰った時の解決法 5

 

考える方法 と 行き詰った時の解決法  6

コメント

100円ショップの樹脂ねんど

2019-02-24 21:50:36 | 工作 ワークショップ

樹脂粘土は練っていてもぽろぽろくずれたり割れたりしないので

ミニチュア作りに適しています。

年中と年長の子が樹脂粘土でチョコバナナの屋台を作っていました。

ミニチュアを作る時、アルミ箔を使って鍋やトレイなどを作る方法を教えると

子どもたちがとても喜んでいました。

 

下は小3の女の子のシルバニアのパン屋さん用の小道具です。

イチゴと抹茶のマフィンがおいしそうです。バターロールやクロワッサンもあります。

コメント

虹色文庫の新作ぞくぞく

2019-02-23 20:05:17 | 虹色文庫出版局

虹色文庫(虹色教室のごっこ遊び出版社から出している本です)

ではぞくぞくと新刊が出ています。

小学3年生のAちゃんは、「新刊用のちらしを作ったらどうかな?」と

広報活動にも力を入れるようでした。

料理本、怪奇現象の本、絵本、ゲームの解説書、物語、マンガ、エッセイなど

さまざまな分野の本が生まれています。

 

卒業の記念に自閉っ子のBくんが作ってくれたカレンダーブックです。

カレンダーをめくると、環状線を1周できるようになっています。

 

Bくんは、JRクイズブックも作ってくれました。

かなりの力作です。

コメント

世界一知能が高い IQ230の女性の知能上達法と創造力

2019-02-23 09:03:09 | 教育論 読者の方からのQ&A
『「頭がよい」って何だろう(植島啓司/集英社新書)』に、
1985年のギネスブックでIQ230でもっとも知能指数の
高い人物として登録されているマリリンという女性の話題が
載っていました。

マリリン自身が語る彼女の知的上達法は、次のとおり。

物事を書き留めたり、計算機を使ったりせず、
頭の中で処理せよ。

なんでも断定せず、柔軟な心を保とう。
断定することは、学ぶことをやめることを意味する。
成就したいことがあれば、すべて自分で行動せよ。

というものでした。

子ども時代の柔軟な思考のあり方が、知的上達にいかに
大切かわかりますね。著者の植島氏は、子どもには、
身近なものに対する考え方を教えるべきだと書いて
おられます。

★ 必ずしも解答はひとつでないこと。
★ 違った道順で同じ結論に至ること。
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。

などを、子ども時代にしっかり身に付けることこそ、
できるだけ最短距離を通って問題の核心に切り込めるように
なる元となると。

幼児期から問いとひとつの答えを結びつける訓練をして、
学ばせることが、
子どもの頭を、大人のようにガチガチの固い状態にして、
先ほど紹介した3つの知的活動に不可欠な感性を
鈍らせないように気をつけなくてはなりませんね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それにしても、
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。

とは具体的にどういう事をさして言うのでしょうか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アラン・チューリングという数学者が、

デジタル・コンピュータという機械が原理的に思考しうること
(思考する存在として振舞えること)を探求していくときに、
「簡単な問題をしばらく考えてから間違った答えを出す」という
コンピューターについて考えていました。

天才的な数学者アラン・チューリングは、
「間違える」ということを、とてもプラスイメージで
捉えているのです。
 
えっ?と疑問に感じるかもしれませんが、

A=Bといつでも、
問いから正しい答えに直結するような考え方は、
テストでは良い点に結びつくでしょうが、

柔軟性や、応用力は乏しいものです。
あまり創造的ともいえない。

大学のテストは、あっという間に全て満点の解答を
はじきだせるコンピューターを作ることができるでしょうし、
今も存在するのでしょうが、
それが何万台あっても、経済の問題も、環境問題も
解決しないものですよね。
そうした未知の問題を解決するには、不完全だけど、柔軟で、
応用力があって、創造的な
人間の頭脳が必要となってくるのでしょう。

『「頭がよい」って何だろう』には、次のような一文が
あります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一般的にコンピューターは、高速で計算処理ができるように
つくられており、
論理的な問題処理能力にはすぐれているが、柔軟性がなく、
応用力に乏しい。

それに対して、人間はあれこれ気をとられたりして、
なかなかひとつのことに集中できないし、
また、多くの過ちを犯すだろうが、
それによって、また新たな発見につながるようなプロセスを
見出すことができるのである。

そう人間にとっては、間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるともいえる。

『「頭がよい」って何だろう』植島啓司/集英社新書より引用
--------------------------------------------------------------

間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるって、何だか不思議な表現ですね。

さまざまな創造力について書いてある本を読んでいると、
創造力にとって、「間違える」だけでなく、「忘れる」ということも、
大事なようです。

お茶の水女子大学で教鞭をとっておられる外山滋比古氏が、
『知的創造のヒント』という著書の中で、
次のように書いておられました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これまで学校教育が記憶だけ教えて、忘却を教えなかったのは、
たいへんな手落ちである。
上水道をつくって、下水道をつくらず、たれ流しにまかせて
おくようなものである。
知識の異常な詰め込みが行われている現代である。
正常な自然の忘却機能だけに頼っているのが危険なことは
わかりきっている。
それに気づかないでいるとはいったいどうしたことであろうか。

……ものを考えるのは、ものを覚えるのとはちがうけれども、
頭の中にいろいろごちゃごちゃ詰まっている状態が望ましく
ないのは共通している。
たとえ有用な知識であっても、頭がいっぱい詰まっていれば、
そのあとおもしろいことを考える余地もない。
ちょうど一面に書き込まれている黒板のようなものである。
新たに何か書こうと思えば、まず、書き込める場所をこしらえ
なくてはならない。黒板をふくのである。
それが忘却である。

……心は白紙状態、文字を消してある黒板のようになる。
思考が始まるのはそれからである。自由な考えが生まれる
のは、じゃまがあってはいけない。
 
『知的創造のヒント』外山滋比古著 ちくま学芸文庫より引用
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こうした話を読むと、子どもたちを、いつでもどこでも
「何となく忙しい」「あれもこれもしなきゃ」「わすれない
ようにしなきゃ」「失敗しないようにしなくちゃ」という
強迫観念から解放してあげなくてはならないと感じます。

「やるときは、自発的に集中してやる。
遊ぶときは、全てを忘れてのびのび遊ぶ。」

そうしたサイクルが可能になるよう、生活を整えてあげたいですね。
コメント (1)

何をやりたいのか、どうやってすればいいのか、自分で考える

2019-02-22 15:36:03 | 子どもたちの発見

年少のAくんとBくんのレッスンの様子です。

Aくんが教室に着くなり、「先生、段ボールとペンとはさみとテープをちょうだい!

マルバツゲームを作りたいから!」と言いました。

そして意気揚々と段ボールを切って作り出しました。

何を作るのか、どうやって作るのか、自分の頭の中にあるのが

うれしくてしょうがない様子です。

バツが+になっていますが、Aくんは大満足で、作り方を説明してくれました。

お母さんの話ではお姉ちゃんが紙と粘土でマルバツゲームを作っていたそうです。

Aくんはお姉ちゃんや友達のすることを見て、

こういう材料で、こういう方法で作ればいいんだな、と気づいたようです。

 

Bくんはクーゲルバーンとマリオゲームというふたつのビー玉を転がすおもちゃを

つないで、一気にビー玉が転がるようにしたいようでした。

「紙でつながるようにしてみたらどう?」とたずねると、

「そうだ!紙を丸めたらいいんだよ!それをテープでとめたらいいんだよ!」

と自分のアイデアに

満面の笑みを浮かべていました。

丸めた折り紙のつつをつなげようとすると筒が長すぎたのではさみで切って調整しました。

うまくビー玉が転がっていきました。

Bくんの物つくりは、「こういう風にしたいな」とい思いを

実現するための問題を解決することにあります。

AくんとBくんにナミナミの形になっている段ボールを

使い終わったセロテープやガムテープの芯に貼ることを教えると目を輝かせていました。

Bくんは大きなビー玉を取ってきて、「これを中に入れて、ころころ動くようにしたいよ。

そうして動くところを見るんだよ」と言いました。

そこで、見やすいようにクリアファイルを側面に貼りました。

斜面を転がすとビー玉の動きが見れて面白かったです。

 

ブロックで枠を作り、ギアとして動かしてみました。

セロテープの芯を指でなでると、ギアがかみあって人形がくるくる回ります。

 

AくんとBくんといっしょにポーションエクスプロージョンという

ゲームをしました。AくんとBくんに大ヒットで、

本格的な遊び方で楽しめました。

 

 

写真は算数レッスンの様子です。

手を使って『てんびん』の問題を考え中。

 

青い玉2個と黄色い玉2個がつりあっています。

黄色い玉が2個になると、青い玉はいくついるでしょう?

『100円のたんけん』という本を読んでいます。

牛肉100円分と豚肉100円分の量がちがうことに、「え~!!」と

驚いていました。

コメント

虹色教室の卒業生

2019-02-21 19:41:43 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

このところ、大きくなった卒業生たちに会ったり、卒業生の現在の活躍を聞く機会が何度か

ありました。

どの子も魅力的でしっかりした子に成長していてうれしい限り。

今日は7年前に東京に引っ越ししたAくんのお母さんと弟くんが教室に来てくれていました。

写真は小4の弟くんが折った折り紙作品です。

 

Aくんとは3歳からの付き合いで、7歳になるまで、いっしょに工作したり実験したり

算数の学習をしたりした思い出がたくさんあります。

今現在は中学2年生で、哲学から史学からありとあらゆる本をむさぼるように読んでいて、

地理オリンピックに出場したり、独学でラテン語を学んだり

しているそうです。

「Aくんの個性や才能をつぶしたくないし、

ゆっくり自分の時間をすごさせてあげたい」という親御さんの考えで、

習い事や塾にはほとんど通っていないそうですが、

学校の成績も優秀で、自分から意欲的に学習に取り組んでいるそうです。

(東京に引っ越してからは、値段の安い科学館や博物館、美術館などのフリーパスを

購入して、毎日のように通い詰めていたそうです。)

 

今日は、弟君と電子工作をしたり、ゲームをしたりして

たっぷり遊びました。

弟くんも素直で純粋で、学ぶことが大好きな子に成長していました。

Aくんが大好きだった『ニューマスターマインド』のゲームを弟くんとしました。

弟君もとても楽しんでいましたが、ビー玉を転がすパズルや

レーザー光線の通路を考えるパズルのように手を使って試行錯誤する問題の

方が好きなようでした。

 自分の中からあふれ出してくるような意欲や知的な好奇心というものは

自分の中にあるものがゆっくりゆっくり育っていくプロセスを大事にしてもらった経験の

上に築かれるということを、成長した子どもたちに会うたびに感じます。

 

コメント

子育ての迷いや悩みから抜け出すため の あれこれ (もう少し3)

2019-02-21 18:55:22 | 私の昔話 と 物語

前置きがずいぶん長くなってしまいました。

そろそろ「何度注意しても、学校の持ち物の管理がいい加減な小学生のBくん」への

対応について、わたしの考えを言葉にしておかなくてはなりませんね。

 

Bくんのお母さんから、こんなコメント(ブログへの文面引用はOKという

非公開コメント)をいただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いろんな状態・状況の子たちも、根源的な問題は共通しているのですね・・・。

ネガティブ感情・・・そんなに否定してきたつもりもなかったのですが・・・。

特に、就学前までのややこしい時期には、それこそややこしくて、

ネガティブ感情をもろに私にぶつけてきて、私もいつも途方にくれながらもひとまず

受け止め、受け入れ、「この時期を乗り越えたら、また成長する!」と信じてきたし、

実際そうやって成長してきたと痛感しています。

でも、就学してから、ネガティブ感情を私にぶつけなくなりました。

今までなら、ぶつける前は、自分で抱えていっぱいいっぱいになっていて、

感情が不安定だったり、何かしら前兆というか、

ストレスを抱えているんだなということを察することができましたが、

就学してからはそういう姿も見られなくなりました・・・。

実際とっても困っていることもないようですし、

先生から特に注意を受けることもなく・・・学校のことは大好きだし・・・。

だから、安心していたのですが、その反面、手ごたえの無さにいつも歯がゆい気持ちや

不満・漠然とした不安を抱いていました。

この手ごたえのなさ、なんなのでしょう??

わたしはいつも、もっとぶつかってきて欲しい、と思っているのですが・・・。

結局わたしの一方的な思いをぶつけるだけで終わってしまいます。

支配的なわたしの接し方のせい??

(勿論、いつでも言うことを聞かせたいとは全く思っていませんが・・・)

学校のせい??

(学校は、ガチガチに厳しいということはありません。個人の才能を伸ばそうとして

下さっている、と思っています。)

どうしてこうなっちゃったのでしょう?!

夏休みの宿題、特に自由研究は、Bからの発想や意見などを待ちたくて、

声掛けはするものの、あまりうるさく言い過ぎないように、と気を付けてきました。

今日、宿題提出のための登校日でしたが・・・。

おとといの夕方から取り組み出したため、勿論間に合いません。

結局ほとんどの下書きを主人と私が書きあげ、

Bは写すだけ・・・ちょっと聞いても、「わからないー」と。

そして、勿論、写すのでもめんどくさそうで全くやる気なく・・

休憩してはちょっとやり・・・文句言っては休憩して・・・。

当然間に合うハズもありません。

結局昨夜も10時過ぎには「もうねむい・・・・」「間に合うし・・・!」

とか言って寝て、それでも今朝は早く起きようという意志はなく・・・。

普通に起きてきて、机に広がった宿題を見て、ベソをかき始める始末。

学校行くまでに30分もないのに、朝ごはんも食べずに宿題を写しだし・・・。

なんなのでしょう???

今までタラタラ書き写して、半分もできてないのに、この10分20分で、

なんで「できる」とか思えるんでしょう?? 

今更泣く??今頃泣くの???

昨夜まで出来る気でいたのよね??

今まで間に合わないとは思わなかったの???

全て不思議です。

まだ3年生だからそういうものでしょうか??

それとも焦る気持ちから、心を切り離してきていたのでしょうか??

(宿題の合間合間にラキューに集中して、というか、ラキューの合間合間に

タラタラ宿題をして、いろいろ作っていました・・・)

結局電車の時間もあり、「遅刻は絶対したらいけない!」という強い約束を夏前に

していたので、直前にベッドでゴロゴロ現実逃避していましたが、

なんとか間に合うようには学校に行きました。

行ったら行ったで、宿題できずに忘れている子が何人かいるので安心したのでしょうか。

学校から帰宅後「明日までにはやる!」と張り切って言っているのに、

昼前に帰宅してから先程スイミングに行くまでの間も、

わたしが「ちょっとやれば?」と声をかけるものの、やっぱり一切せず・・・。

この夏休み、あまりの宿題のやらなさに、習い事も減らそう、塾もやめていいし、

学校も変わったらいい、と言っても、「やめない!どれもやめない!!」と言います。

わたしも、習い事をやめたり、時間をたくさん与えることが解決に繋がるなら

全てやめさせるのですが、時間がないとかが本質的な問題でもないな、と感じています。

この夏休み、かなり時間がありましたが、結局自分自身の心やらと向き合うことは

なかったのではないかと思います。

感情と思考・・・どうやったら自分自身と結びついてくれるのでしょうか???

以前から先生には指摘して頂いていましたが、

今頃になってようやくわたしも腑に落ちました。真剣に思い悩んでいます。

ああしたら治る、こうしたら良い、という簡単なものではないことは、

重々承知しています。

でも、ヒントになるような糸口をみつけることができれば・・・と思っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この悩ましい状況への解決の糸口として、3つの視点から

よく考えてみるといいように思いました。

 

ひとつめは、「常に意識の焦点を当てて言語化している悩み」が、

「ステレオタイプな外から与えられる情報か、他者からの評価にかかわるもの」

絞られているため、日常に散らばっている根っこ部分の問題を解決するためのチャンス

逃しているのではないか、という見方です。

 

ユースホステルのレッスンでは、

寝食を共にして、普段のレッスンの外にある子どもの姿、親御さんと子どもの関わりを

目にすることになります。

 

その時、驚くのは、しょっちゅう悩んでおられる問題を解決するようなチャンスが

目の前にあって、それがとてもわかりやすいものでも、

たいていの親御さんが気づかないか、躊躇している間にチャンスを逃すか、

わかっていてもスルーしてしまわれることです。

 

「何でも興味を持って手を出したがるけれど、表面をかするような関わり方ばかりで

どれも深まっていく気配がない。困り事があると、ママーと頼っては、

頭も心も100パーセントお母さんに預けてしまう。

自立心と責任感の育ちが気になる」という小2のMくんのお母さんが、

「(事あるごとに頭も心もお母さんにバトンタッチという態度が気になるので)

親の目のないところで子ども同士で遊ぶ体験をさせたいけれど、そうできる相手も

場も時間もない」ということを何度も口にして悩んでおられました。

 

この日のユースホステルのレッスンには、子どもだけで参加しているMくんより

年上の男の子たちが参加していました。どの子も親しみやすい気さくな子たちで、

初対面のMくんを快く遊び仲間に迎え入れてくれました。

Mくんは、Mくんの生意気やおふざけが過ぎても、

大らかに接してくれるお兄ちゃん連中に解け込んでいましたが、

遊びに飽きるとお母さんのところに戻ってきてベタベタしていました。

 

そのベタベタは、お母さんに甘えたいから甘えているというより、

子ども同士の世界にどっぷりつかって遊びたいものの、そうすると、

「こうしようよ」とか「それは嫌だよ」とお母さん抜きで直に相手に自分の思いを

伝えていかなければならない場面にぶつかるので、それを避けたい様子。

子どもの世界に片足をかけた状態で、もう一方の足は常に退陣場所(お母さんのところ)

をキープして遊んでいました。

 

お母さんがわたしに、「子どもだけで遊ばせたいけれど、そうできる相手や場所がない」

という悩みを口にしておられた、まさにそのとき、

同じ部屋で、男の子たちが着替えとバスタオルをまとめて、上の階の銭湯に行く準備を

していました。

 

ここのユースホステルには、

小学生になると男の子は男風呂、女の子は女風呂に入る決まりがあります。

ですから、女の子たちはお母さんといっしょに風呂に入りますが、

男の子たちは、「銭湯内では、暴れない、泳がない、走らない。

何かあったらすぐに大人に知らせる。身体を洗ってから風呂に入る。

年長の子は責任を持って年下の子らの面倒を見、

年下の子は年長の子の言いつけに従う」と厳しく言い渡されてから、

男同士、何人かでいっしょに風呂に行くことになっています。

 

「Mくん、男の子たちみんなでお風呂に行っておいで」と言うと、

Mくんは、「ぼくは……うーん……お母さんと入ろうかな……」と

迷っていました。口ではそう言いながらも、男風呂はとても魅力があるようで、

心が揺れているのがよくわかります。

すると、先ほどまで「子どもだけで遊ばせる場がない」と悩んでいたお母さんが、

男同士で風呂に行かせるのは心配な様子で、無言ではあるけれど、

「行きたくないなら行かなくていい」とでも言うような、

はっきりしない態度になりました。

すると、お母さんの迷いがMくんに感染して、

Mくんもぐずぐずと態度を決めかねていました。

 

「ちょうどここでは小学生は性別にお風呂に入る決まりがあることですし、

滑って転ぶ心配もあるでしょうけど、そこは厳しく注意しておいて、

思いきって男風呂に行かせた方がいいんじゃないでしょうか」とわたしが言うと、

お母さんの返答は、「ええ、まぁ……」とちょっと歯切れが悪いものではあったものの、

Mくんをお兄ちゃん仲間に同行させることになりました。

 

気になったのは、Mくんのお母さんが何について心配しているのか

いっさい言語化しないまま、Mくんの揺れる思いを自分のほうに

引き戻そうとしていたことでした。

迷いの原因が、環境の不備や事故につながるような本人の認識の甘さにあるのなら、

そこにあるリスクをはっきり言葉にしておかなくてはならないし、

生死にかかわることは真剣に言い聞かせ、他人の迷惑になることは

具体的に相手がどんな気持ちになるのかまで教える必要もあるでしょう。

 

でも、Mくんのお母さんの迷いは

そうした具体的な未知のリスクにあるのではなさそうです。

 

「子どもだけで遊ばせて、自分で問題にぶつかって、

大人に頼らず問題を解決する機会を与えたい……でも、

子ども同士遊ぶ場や相手がいない」という悩みがレベル5なら、

そのレベル1にあたる

「子どもだけで活動するといっても短い時間だし、安心できる相手だし、

事前に注意事項を伝えることができるし、何かあれば知らせてくれるよう頼んだし、

もしもの時は壁ひとつ隔てた場所に大人がいるし、

揺れているとはいえ本人がいっしょに行きたい気持ちを持っている、

おまけに、それを体験させれば

自立心や男の子としての自信につながるにちがいないという利点がある」

という状況下での活動も、チャレンジさせるのは何となく不安。

本人が揺れているなら、やらない方向に流れた方がいい……という

お母さん自身の心の中に迷いの原因があるようなのです。

 

 だとすると、「子ども同士で遊ぶ場がない」と何度も口にしている悩みは、

叶わぬ願いだからこそ口にできるもので、

実際に子どもだけで遊ぶことが可能になると、悩みはもっと大きくなるかもしれません。

 

前回の記事で書いた「常に意識の焦点を当てて言語化している悩み」が、

「ステレオタイプな外から与えられる情報か、他者からの評価にかかわるもの」に

絞られている……って、

何のことやらわかりにくいですよね。それについて、もう言葉を添えることにしますね。

 

夏休みの宿題をめぐって繰り広げられたBくん宅の一大騒動。

 あまりの宿題のやらなさに、「習い事も減らそう、塾もやめていいし、

学校も変わったらいい」とまで考えたお母さんも、宿題の手伝いに借り出された

お父さんもさぞかし大変だったことと思います。

 

ただ夏休みの宿題を終わらせることだけが目的なら、

強制的に机に座らせるなり、本人の好きな遊びやおもちゃやテレビ視聴を取り上げて

脅すなりの強硬手段に出れば何とかなるのでしょう。

また、Bくんの苦手な時間配分に配慮して、時間を視覚化するツールを利用し、

目標を小分けにし、早いうちに自由研究を自分でさせるのは諦めて、

親がした下書きを写せばいい状態にして追い立てれば間に合ったのかもしれません。

 

でも、Bくんのお母さんがそれをしないのは、

Bくんの自己肯定感を高めたいという思い、

自発的に!意欲的に!能動的に!自分から動いてほしい、

自分の意見を持って、自分で感じ考えてほしい、という思いがあったからでしょう。

それと何より、どんなに子どもとぶつかったとしても、

「学校が嫌い、習いごとが面倒、人と関わりたくない、日々が面白くない」という

気持ちにはさせず、

「学校は大好き」「宿題をする時以外はずっと楽しいことばかり」とBくんに言わせる

ような関わり……つまり、どんな時も最低限の子どもの人権を守り、温かく辛抱強く

より良いものを与えようとする接し方を続けてきたからなのでしょう。

 

Bくんのお母さんから、宿題騒動のコメントをいただいたとき、同時に、

 「ユースレッスンで遊んでいたゲームの名前を教えていただけないでしょうか?

外国製ということで、同じものはないかもしれませんが・・・。

相当気に入ったみたいで、欲しい欲しいと言っていました。

ひとまず、自分で盤と駒を作っていましたが・・・。

それでいいかな、とも思いますが、教えていただけるとありがたいです」

という質問もいただきました。


わたしは「ひとまず、自分で盤と駒を作っていましたが」のくだりがうれしくて、

「そうそう、Bくんは、こんな子だな。こういうとき、自分で能動的に動いて

創意工夫することができる。

なければないで、あの並べるだけでも面倒なほどたくさん駒があるゲームを手作り

しようって言うんだから。

Bくんのお母さんも、Bくんのそうした才能や魅力は知っているし、認めてもいるのに、

それがBくんの自己肯定感を上げることに寄与してないのは

残念……」と考えていました。

何もそこで、ゲームを買わずに自分で作らせた方がいい、などという表面的な話を

したいわけではないのです。

 

どうにも、学校の宿題のように外の評価が関わるものと

こんなふうに生活の一場面で本人が自発的に動いてすることの扱いの差が

大きすぎるようにも感じたのです。

 

Bくんのお母さんは子どもの遊びを軽く扱う方ではありません。

また勉強以外のものへのBくんの興味にも心を配って、きちんと対応しておられます。

 

ここで、「扱いの差」と書いたのは、あくまでも

「Bくんはこんな子!」というお母さんの評価にそれがいかほど影響を与えているか、

という点での差異のことです。

 

 

わたしが小学生だった頃を振り返ると、かつてと今では、

『宿題』に対する大人のスタンスが、様変わりした印象があります。

 

教室の親御さんの話を聞いたり、小学生の子を持つお母さん方のブログを読んだり

していると、

低学年の子の宿題の話をしているのか、

納期までに完成品を納めなくてはならない仕事の話をしているのか

わからなくなることがあるのです。

 

宿題のみならず子ども自身についても、

ある時期、ある時期に、理想的な子どものあり様がある前提のもと、

それぞれの納期までに子どもの完成品を納めなくちゃならないのに……と、

(親が子どもの)宿題提出のたびに焦っているようでもあります。

 

それもそのはず。

就学前から通信教材のDMは、毎日、机に座る習慣をつけることがいかに大切か、

時に親の不安を煽りながら畳みかけてくるし、

ママ友仲間の掲示板やラインやブログでは、

「隣のクラスはこれだけ宿題が出ている」とか

「別のクラスはここまで進んでいる」といった、

これが理想形なんだという思いや不安感を刺激する情報が絶え間なく

流れているのです。

子どもがすることは何であれ、する前から親の頭の中は情報でパンパンになって

いることでしょう。

 

それこそ、「子どもの宿題」のような

 ネットや携帯がない時代なら、わざわざ本を買って調べるほどの情報でなし、

いちいち電話して確かめるほどの話題でなし、

子どもが学校に行けばもらってくるだろうし、もらってきたらどんなものか

わかるだろう……と適当に構えていたものにまで、

知らない間に頭でっかちになっていても誰も気づかないのかもしれません。

 

情報過多の何がまずいかというと、

レベル1段階の子を、

レベル10の視点でチェックしてしまう、ということがあります。

 

レベル1の課題に取り組んでいる子に、

最終段階の完成形を求めていじくって、

チャレンジ精神を枯らせたり、自分はダメだと思い込ませたりすることも

よくあることです。

 

たとえば、自由研究でしたら、

その子が無の状態からイメージして何かを作り出す力があるかいなかによって、

その子の今取り組めるレベルが決まってくるのでしょう。

言葉上で好き勝手なアイデアを出すのも難しく、

「何も思いつかない」とお手上げ状態なら、

わたしの子ども時代の子なら、友だちといっしょに宿題をして、

中身を少しだけ変えて真似をして、未完成なまま提出していました。

そうしたことが叶わない今の子なら、自由研究の本を見て、

できそうなものを選んで、その型にはめる形で、未完成ながら何とか空白を

埋めるくらいで十分なのでしょう。

 

大切なのは、取り組むのがレベル1の課題であっても、

レベル1内でしっかり身についていくものがあって、意欲や達成感につながったり、

責任感が生じたりするということです。

先生や外からの評価に合わせて、

本人の今のあり様とかけ離れたものを要求するよりも、

Bくんでしたら、自分が作ったラキューの作品やゲームの写真を撮って、

短い説明をつけて、ラキューやゲームについて調べたことを、書き添えておく……

くらいの自由研究が楽しくできたら、

Bくんの心の中に、「ぼくにもできるんじゃないか」「次もできそう」という

思いが芽生えるのでは? と思いました。

コメント