4歳のAくん、2歳の弟のBくんのレッスンの続きです。
紙コップで作ったかごを2つひもでつないだだけのエレベーター。
さまざまな場面で活躍します。
写真のようにひもをかけるブロックがなくても
椅子や家具の取っ手やカーテンレールなどにひっかけるとすぐに遊べます。
写真はエレベーター遊びの逆バージョン。
エレベーターを上げるために入れていたビー玉が入った重いコップを
人形が乗っている側のコップを引っぱることで持ち上げています。
ビー玉が入ったコップの下に紙箱と板で作った
てこ(一方が長いシーソーのようなもの)を置いています。
ブロックや積み木に平たいもの乗せるだけでも簡単に作れます。
エレベーターを持つ手をパッと離すと、ドスンッとビー玉入りのコップが下に落ちて
どらえもんが飛び上がるという案配です。
途中でAくんがいたずらして、ぼうろのお菓子を仕掛けていました。
食べ物をおもちゃにしたらいけませんが……
今回だけはしつけはちょっと甘めにして、いざ実験。
ぼうろがポンポンとびあがると、AくんとBくんまでピョンピョン跳ねながら喜んでいました。
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子どもたちの発見<位置をずらす>
「まずは重くしなくては……」と詰め込むだけ詰め込んだビー玉類。
これを落下させて、てこの先に置いた人形にジャンプをさせるつもりです。
でも、重さを調整するだけでは、思うように跳ねないのです。
そこで、てこに引っかけている輪ゴムをずらして、
支点の位置を変えることにしました。
こうした「位置をずらす」という作業は、ただ跳び上がる力が変化するだけでなく
新しい変化を生んでくれます。
カピパラのぬいぐるみを置く場所をずらして
お尻がてこの先にちょっと乗っているだけ……という状態にすると、
ビー玉の入ったコップエレベーターを落としたとたん、
くるくると回転しながら跳んでいくことがわかりました。
てこの支点用に紙箱の端をこんな風にカットしたものを使っています。
「回転しながら、トラの手で作った輪の中に入るように」と挑戦する子ら。
今度はトラの手でキャッチするつもり。
キャッチ成功。
しまいに自分たちの手でキャッチして遊んでいました。
Aくんが、カピパラがあまり跳びはねないようにする方法を見つけました。
この話題、タイトルの内容から脱線しながら書いているので
読みづらくて申し訳ないのですが、もう少し続けさせてください。
寝食を共にするユースホステルのレッスンでは、
子どもたちが数学的な考え方を扱う場面や
抽象的な言葉と出会う機会がたくさん見られました。
夕食中、わたしの前に座っていた3歳のAちゃんが、
「先生とわたしはお向かいだね」と言いました。
Aちゃんの口から「お向かい」という言葉を聞くと思っていなかったわたしが、
聞き間違いかと思って、「Aちゃん、先生とAちゃんは何だと言ったの?」と
たずねると、Aちゃんの隣に座っていた年長の姉のBちゃんが
「お向かいって言ったのよ。先生はAの向かい側に座っているから」と解説しました。
「ああ、そうね。先生とAちゃんはお向かいだわ。
それならAちゃん。Aちゃんの斜め後ろは誰かしら?」と問うと、
くるりと後ろを振り返ったAちゃんは、斜め後ろに座っているDちゃんのお母さんを
見ながら、「わからない」と言いました。
すると、BちゃんとBちゃんの友だちが、「Aちゃんは、Dちゃんの名前を知らないの。
Aちゃんの斜め後ろに座っているのはDちゃんのお母さんでしょ?
ねぇ先生?もしわたしの斜め後ろはっていうなら、別の人だけど」と言いました。
この場面、周囲にいた子は興味しんしんで耳を傾けていました。
食事中だったのでやめておきましたが、
こんな算数クイズを出したら面白いだろうな……と思いました。
<その人は誰でしょう?クイズ>
その人はAちゃんのとなりではありません。
その人はBちゃんのお向かいに座っていません。
その人はCちゃんの斜め前に座っています。
その人は誰でしょう?
食後に、職員の方から、「できる分でかまいませんから、
できるだけ同じ食器ごとに重ねて、返却コーナーに戻してください」と
いうお知らせがありました。
子どもたちに、「同じ食器ごとに重ねるってどういう意味かわかる?」と
たずねると、
「こうやって、おわんはおわんってすることでしょう?」と写真のように
重ね始めました。
忘れ物や落し物があった時も、数学的な考え方に触れる機会になります。
わたしの道具入れに混じっていたミッフィーちゃんのペン。
部屋にいた数名の子とお母さんにたずねると、
「わたしの物ではない」ということでした。
それなら、誰のペンである可能性があるのでしょう?
まず、部屋にいた人々のものではないことがわかったのですから、
今、部屋ではない場所にいる人の物である可能性がありますよね。
そんなふうに子どもたちと探偵のような推理を働かすのは面白いです。
こんなクイズにも発展します。
ピンクの消しゴムが落ちていました。
Aちゃん、Bちゃん、Cちゃん、Dちゃん、Eちゃんのいずれかの落し物です。
AちゃんとBちゃんは公園で遊んでいます。CちゃんとDちゃんはお部屋にいます。
Eちゃんは台どころにいます。公園に行って、落としものについてたずねたところ、
消しゴムの持ち主はいませんでした。
お部屋に行ってたずねましたが、そこにも消しゴムの持ち主はいませんでした。
消しゴムを落としたのは誰でしょう?
小3の女の子たち中心のユースホステルでのレッスンでの算数の時間。
遊び体験が豊富で工作好きの子どもたちです。
普段とはちょっと異なる目新しい課題を用意したところ、
ほとんどの子が「いつの間に身に付けたのかな?}と驚くほどの数学的な思考力を
発揮していました。
『スーパーエリート問題集 小学2年』に、
絵を描きながら難問と解くという問題集が付録としてついていたのですが、
2年生の問題集についていたとはいえ、初めてするなら高学年でも難しいような
内容でした。
「誰か絵を描いて解いてみたい人?」とたずねると、小3の4人がいっせいに
手を挙げました。絵を描いたり物を作ったりするのが好きな子たちなので、
未知の問題とはいえ、絵を描くと聞いただけでワクワクしたようです。
そこで4人で相談しながら描いてもらうことにしました。
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今日は まんかいの さくらの下で、お花見です。ごちそうは 金太郎あめと
銀太郎あめの やわらかステーキです。
金太郎あめは 銀太郎あめの3ばいの 長さです。
みんなで午前中に 金太郎あめと銀太郎あめを ちょうど半分ずつ 食べたところ、
のこりの 長さを合わせると 16㎝でした。
では、金太郎あめは もともと 何㎝ だったのでしょうか。
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金太郎あめはやたら太くて、銀太郎あめはただの棒では……とつっこみたくなるような
絵ではありましたが、「銀より3倍大きい金を半分にして、
銀も半分にしたということは、
半分にしたって、3倍というのは変わらないと思う」とひとりが言うと、
他の子らが、「それは、そうよ。最初が3倍なら、それぞれを半分にしたって、
何倍かっていう違いは変わらないもの」と口ぐちに言う姿に、
3年生ならではの知恵に感心しました。
「それなら答えは?」とたずねると、
「16㎝を金の側3つと銀の1つの4つに分けて、4㎝が元の金太郎あめだと、
3倍にしたのが元通りにするから、もうひとつ分あるって
ことだから24㎝ってことでしょう?」と、次々正解を出していました。
そうした子どもたちの姿に、いっしょに参加していた幼い子のお母さんは
とても驚いたようでした。
算数の時間に、『だいたい いくつ?数えてみよう・はかってみよう』という絵本を
みんなで楽しみました。
絵本の画面を埋め尽くす大量のハチを見て、「ハチはだいたいなん匹だと思う?」と
たずねると、「横と縦の一列に何匹ずついるか数えて、かけ算で計算したら、
だいたいの数がわかると思う」
「線を入れて切ってみて、その中に何匹いるか数えて、その切ったのが
いくつぶんあるか見たらわかると思う」などのアイデアが出ました。
これまでしたことがない一風変わった問いを投げかけると、
遊びの質の大切さを実感します。
縦にして並べた飛行機の半分弱のサイズ
が10mと示してある写真を見て、
「それならピサの斜塔は~mくらいだ、自由の女神は~mくらいだろう……」活発な
意見が交わされていました。
比で比較してだいたいのサイズを予想したり、
単位を変換して表現したりすることができていました。
何よりこうした頭の体操を心から楽しめているのがいいな、と感じました。
高さについてのおしゃべりついでに、「自分の身長がわかる人?」とたずねました。
身長がわかる子もいれば、わからない子もいました。
正しい身長がわかっている子たちのサイズを書きだしてから、
身長がわからない子のサイズを予測することにしました。
身長がわからないAちゃんの妹のBちゃん。
106㎝とわかっているもうすぐ3歳のCちゃんと120㎝のAちゃんといっしょに
並んで立ってもらうことに……。
話しあいの結果、「Bちゃんは、106㎝のCちゃんとの身長差の方が、
120㎝のAちゃんとの身長差より大きいこと」が判明しました。
また、Cちゃんとの差もAちゃんとの差も3㎝以上はあるようです。
とすると、Bちゃんは何㎝から何㎝の間の身長だと予測できるのでしょうか?
図を描いて比べて考えました。
『だいたいいくつ?』の本に面積比べもありました。
Dちゃんのこんな考え方に感心しました。
「もとになる1平方センチメートルのクラッカーのだいたい4つ分が大きいクラッカー。
調べたい野球のCDは大きいクラッカーのだいたい5つ分(4つ敷き詰めた後、
半分に割ったものを底部分にふたつ敷くことができる)だから、
4×5で20平方メートルくらいじゃないかな?」
とのこと。確かに小さいサイズのものがいくつ分か考えるよりも、
先に大きいサイズで考えたほうが、すばやく正確に把握することができますね。
間違えやすい10000-3や10000-305といった
計算を、ミスしないように解く方法を学びました。
子どもたちにページ当てクイズを出しました。
9ページの次の一枚を抜かした後にあるのは何ページか?という問題。
3年生より幼い子たちは、「9の裏が10で、その次が11と12で、
その次だから……」とカウントしながら考える問題。
さすが3年生。「わかった、奇数になるでしょう?奇数が、9、11、13……
と続くことを考えて、11のページを抜かすから、答えは13でしょう?」とのこと。
紙に書いて説明してもらうと、
「9、11、13……と続いている奇数は、2ずつ大きくなるでしょ……」と
説明してくれました。
ユースホステルでの晩の勉強会で、
遊びや日常のどんな場面で、数学的な考え方に触れる機会があるか話しあいました。
子どもいっしょにとさまざまな考え方に親しむアイデアを共有しました。
その時期、その時期、子どもにヒットすることや、子どもがしつこいほど繰り返したが
ることは、その子の能力を最も成長させてくれるものであることがほとんどです。
先の記事で書いた「絶対、違うに決まっているでしょってことでも、
ちがうよ、こうだよ、と説明しても、少しすると、また同じことばかり言う」という
自閉症のAくんにしても、こちらが、特性によるこだわりだと一蹴せずに、
「抽象的な意味を伴う言葉の意味をわかった、そういうことか、と自分の中に落とし
こめるような体験を欲している」「言葉に対して敏感になっている」という
受け止め方をして、気になる言葉をさまざまな場面で目で確認し、体感できるように
してあげることは知力の大きな成長につながると考えているのです。
Aくんにとって、「大切」とか「重要」という抽象的な言葉は、耳で聞くだけでは
わかりにくいものです。
でも、Aくんが大切にしているものを、「大切だね。これは大切」と言いながら、
大切に扱うボディーランゲージをし、ゴミとして捨てるものを、「大切じゃない。
こんなの大切じゃない。」と言って、ぞんざいに扱う真似をするすると、
Aくんの中に、具体的な大切という言葉のイメージが蓄積されていくかもしれません。
重要などもそうです。
お母さんの話にあった鳥の羽根の話も、
「人が落としていったハンカチは拾いに戻るけれど、鳥が落としていった羽根は
拾いにもどらない。なぜなら、人間が大切じゃないなとポイッとゴミ箱に捨てたものと
同じで、鳥にとってもういらないものだから。
それに鳥は落としたことに気づいていないかもしれない」といったことをテーマにした、
ごっこ遊びや人形劇遊びをするとAくんが今敏感になっていることに寄りそうことに
なるのかもしれません。
発達の凹凸がない子たちは、Aくんのようにひとつのことにこだわって
同じ言葉ばかりを繰り返すようなことはありませんが、
その時期、その時期で、非常に敏感になっている思考のあり方があるし、
月齢ごとにより抽象化した概念に関心を寄せるようになっていることを
遊びや会話の中で感じます。
前回までの記事にこんなコメントをいただきました。
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今回のユースホステルありがとうございました。
かわいい子ども達と出会い、とても楽しかったです。
毎日、仕事で子ども達と遊び、工作などをくり返す中で、
数学的思考が発達の凸凹のある子ども達にとって、社会を生き抜いていく中で、
重要な鍵になるのではないか‥‥と考えていました。
発達の凸凹のある子ども達は、あらゆる刺激の強さから、一対一対応でしか物事を
認識できないこと‥少しでも違いがあると別の物として認識してしまうことが
多くありますよね。様々な物が全く違った物として個別に存在しているので、
分類遊びは自然発生的には、なかなか出てきません。
例えばよくある事例では、
・Aちゃんを叩いてしまった時、注意を受けてとても反省していても、
Bちゃんは叩いてしまう。また注意を受けると「Bちゃんは叩いたらダメって言われて
ないもん!」と言う。
・「まっすぐ家に帰りましょう。」と言われると「そんなの帰れない!」と言い、
なぜか聞くと「曲がらないと帰れないから。」と言う。
こういった彼らの性質上の特性として片づけられてしまっている事も、
刺激の強さから抽象概念をとらえられず、遊びの中で充分に育まれにくい事から
起こるのではないか‥と感じていました。
物事を抽象的にとらえられる様になると、帰納的な考えや類似的な考え、
統合的な考えなどにつながりやすく、そういった考えは勉強だけでなく、
人間社会に多くある暗黙のルールをとらえられやすくなったり、変化に対する耐性や
柔軟さもでき、学校生活や社会生活の不安が少なくなるのでは‥と感じています。
発達の凸凹のある子ども達はくり返す事で(くり返すと思っていても、彼らには全く
違うことなんでしょうね。自転車が毎日、場所が1ミリも、角度が1°も違わず置いて
あることなんて、ないですもんね。違った状況を何度も照らし合わせて、
様々な角度から擦り合わせていく事で)意味として、獲得していくんでしょうね。
そこに、彼らの苦手とされる抽象的な表現や変化やユーモアなど取り入れると、
一対一対応ではなく大きな意味を持ったものとして、獲得していけるんだな‥‥と強く
感じました。
心と身体を解放して、全身で自分が何が好きか、何が心に響いているのか‥‥を
表現する子ども達。そんな子ども達に触れられて、とても幸せな2日間でした。
ご一緒させていただいたご家族のみなさん、ありがとうございました。
また、お会いできるの楽しみにしています。
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通常、ユースホステルのレッスンは、
幼児中心の日、小学生の女の子中心の日、小学生の男の子中心の日、
発達に凹凸のある子たちが中心の日などで分けて募集しているのですが、
今年は、十分な日程を確保できなかったため、発達に凹凸のある子、一般的な子、支
援の仕事をなさっている方のお子さんたちで年齢の高いお兄ちゃん、お姉ちゃん……と、
さまざまな年齢のさまざまなタイプの子らが参加することになった日を
設けることになりました。
こうした特別な日を作ると、
「発達の凹凸のある子のお母さんが相談したり気持ちを打ち明けたりしにくくなるの
ではないか?」「それぞれの子の学習時間がきちんと取れるのか?」
「まとまりのある体験ができるだろうか?学びを共有できるだろうか?」
「つまらなかった、参加しづらかったという子は出ないだろうか?」と気を揉むことも
多いのですが、心配のほとんどは杞憂に終わり……
結果良ければ…じゃありませんが、特別な日は特別な日にしかないかけがえのない時間を
参加した方々と共有することができました。
晩の親の学習会では、発達に凹凸のある子にも一般的な子にも
とても大切だと感じている日常生活や遊びや親子の会話の中で、
「抽象概念の理解力」と「さまざまな数学的な考え方」をどのように育んでいくかに
ついて話しあいました。
この記事の初めに、「難関突破経験と子育ての実態」の調査で、
子どもの自主性や思いや意欲を大切にして、遊びの主導権を子どもに与えることの
大切さが示唆されたという話題を紹介しました。
子ども自身が考える余地を与えるような援助的なサポートをする
共有型の関わりが大事であることや、遊びの量より質が重要であることも書きました。
でも、実際、子どもの遊びを見守る段になると、
「考える余地を与えるようなサポートってどんなこと?量より質っていったい何を
どうすればいいの?」と疑問でいっぱいになったかもしれません。
虹色教室では、子どもたちの遊びの質を高めるためのさまざまな試みをしているので、
何がどのように子どもの思考する姿勢に影響を与えるのかよく把握しているつもりです。
子どもと遊ぶ時に、あれやこれや知識を与えようとするのは
子どもを考えることから遠ざけてしまうこともあります。
遊びながら知識をインプットしようとするのではなく、
子どもの中に形成されつつある数学的な考え方の芽を育んでいくことが、
考える力の土台を作っていく上で大切だな、と感じています。
また、日々の暮らしの中で抽象的な言葉の理解を深めていくことも重要だと思います。
数学的な考え方には、
『数学的な考え方を育てる課題&発問集/鈴木正則著(明治図書)』を参考にすると、
帰納的な考え方 類推的な考え方 演繹的な考え方
統合的な考え方 発展的な考え方
記号化の考え方 数量化、図形化の考え方
集合の考え方 単位の考え方
抽象化の考え方 単純化の考え方 一般化の考え方
特殊化の考え方 表現の考え 操作の考え
アルゴリズムの考え 概括的把握の考え 基本的性質の考え
関数の考え 式についての考え
などがあります。
言葉だけみると、大きくなってから数学の世界で学ぶように感じられる考え方も、
まだ2、3歳という幼い時期から、ざっくりと考えに触れたり、使ってみたり、
扱う中で洗練させたりしているものがたくさんあります。
幼い子向けの絵本や児童文学の世界でも、こうした考え方は多用されているものです。
たとえば、
数学的な考え方のひとつの帰納的な考え方というのは、
いくつかの場合を調べて、それらに共通するルールや性質を見いだし、
それを元に推測し、推測したことが正しいか新しいデーターで確かめていくことです。
帰納的という言葉こそ難しそうですが、
子どもたちが親と楽しそうにおしゃべりする様子を聞いていると、年少の子らでも、
「あれとあれとあれは、こういうところが似ているね。ということは、
あっちは、こうなるのかな?」と、共通に見られるルールに着目したり、
それをもとに予測したりすることを心から楽しんでいる子はけっこういるのです。
そういう子は、文字や計算のプリントを早い時期からするようなことはありませんが、
1を聞いて10を知るような利発さがあって、考えることを心から楽しんでいるのです。
Aくんが半分という言葉に関心を抱いていた姿を見て、
朝食後のレッスンで「抽象的な言葉にはどんなものがあるでしょう?
具体的な言葉にはどんなものがあるでしょう?」というクイズを子どもたちに出しました。
聞き慣れない言葉に、最初はキョトンとしていた子どもたちも、
「具体的な言葉は、目で見て形がわかる言葉よ」と言ってから、
近くにあったホッチキスを指して、
「ホッチキスは具体的な言葉よね。この黄緑のホッチキスは、目で見て、
これって形がわかるわよねそれから、消しゴムも○くんの靴下も目で見て確かめられる
具体的な言葉よね。
抽象的な言葉は、あいまいでこれって指さして確かめられないような実態のない言葉よ。
勇気、重要、理想、正義……どれも、これだよって指さして見ることができないね」
と説明すると、小1のBくん、Cくんがわくわくした表情で、
部屋中の物を指しながら具体的な言葉を挙げてから、
「色は抽象的な言葉?」「理解は抽象的な言葉?」と質問しはじめました。
神妙な顔で考え込んでいた小3のDくんも、
「自然は抽象的な言葉?夢は抽象的な言葉?」とたずねては、
「そうよ。よく気づいたね」と言うと、心底うれしそうな笑顔浮かべていました。
そこで、子どもたちの前に1つのコップをかかげて、
「このコップは、ただの紙コップだけど、よく見るといろんな言葉が隠れているよ。
外側、内側、底、オレンジ色……」と言うと、
子どもたちから、「丸」「形」「白色」「薄い」といった声が上がりました。
わたしが、「円周、縁」と言うと、Dくんが、「安物!」と言いました。
「それは名称や色や形やサイズとは違う、意味を伴う新しい表現の仕方だね。
それじゃ、リサイクル可能、影」と言うと、子どもたちはこんな楽しいことはないと
いう様子で、思いつく限りに言葉を挙げていました。
言葉というのは、本当に面白いのです。
4歳のEくんが、「ぼく、タコが作れるよ」と作った作品は、
さっきまで眺めていた紙コップを材料としているけれど、
わたしたちからそれまでとは別の言葉を引き出してくれます。
「これは何でしょう?」
「タコ」
「どうしてタコだとわかるのかな?どうしてタコに見えるのかな?」
「下の部分、いくつも切っているでしょ?足に見えるから、タコってわかる」と
Cくん。
「Eくんがタコだって言ったから、タコってわかるよね。作者が言うんだから」
とわたし。
「全部見たら、ほら、頭の部分から足みたいなところまで形を見たら、
タコに似ているでしょ。だからタコってわかる」とBくん。
その場では黙っていた小5のFちゃんが、お母さんの耳に何かささやいていました。
後から聞いたところ、「欲望も抽象的な言葉」と言ったのだとか。
欲望というちょっと刺激的な言葉に、Fちゃんの周りで笑いが起きました。
それを小耳にはさんだDくんは、
「希望も願望も抽象的な言葉だ」とつぶやいていました。
実はEくん、お母さんからうかがった話では、算数は得意だけれど、
国語は苦手とのことでした。
Eくんが、抽象的な言葉についてずっと思いを巡らせているのを見て、
「Eくん。国語のいいセンスしているね。国語もきっと得意になるよ」と言うと、
Eくんは、うれしそうに照れ笑いを浮かべていました。
20代の子を持つ親(1040名)を対象に実施された
「難関突破経験と子育ての実態」に関する調査によると、
いわゆる難関突破した経験のある子の親とそうでない親の間に
子育てスタイルに大きな違いがあることがわかったそうです。
その違いとは、難関突破した経験のある子の親は、そうでない親に比べ、
遊びを重視する傾向があることです。
就学前の遊ばせ方の特徴として、
子どもの自主性、思いや意欲を大切にして遊びの主導権を子どもに与えています。
また、親もいっしょに遊んだり絵本の読み聞かせなどで、
ていねいに関わっていたお家が多いようです。
こうした調査をしているプロジェクトのメンバーである
お茶の水大学名誉教授・内田伸子先生は、
<今回の調査から、大学受験や資格試験などの難関を突破する力や夢を実現する力と、
就学前の遊ばせ方には相関関係があることが示唆されました。
子どもは、五感を使うことで脳が発達するため、
ちゃんと遊んでいないような子どもは“9歳の壁”に突き当たりやすいのです。>
とおっしゃっています。
9歳の壁とは、学習内容が具体的なものから抽象的なものへと変わる9歳の時期に、
勉強がわからなくなる子が増えることから呼ばれる言葉です。
調査結果を長年にわたり研究している内田先生によると、
難関突破経験者の親の3人に2人が、子ども自身が考える余地を与えるような
援助的なサポートをする共有型。
逆に難関突破未経験者の半分以上が、大人目線で介入し子どもに指示を与えてしまう
強制型の子育てスタイルなのだそうです。
このことから、「遊びは量よりも質が大事で、特に親との関わり方は大切」
とのことです。
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話が少し飛ぶのですが、普段のブログで遊びの大切さはさんざん書いているので、
今回は、抽象概念の理解力についての話を……。
ユースホステルでのレッスンでこんなことがありました。
朝食時に5歳の自閉症のAくんが、「なおみ先生、なおみ先生」と繰り返しながら、
わたしのそばにやってきました。もう食事はすませた様子。
わたしがお尻をずらして席を半分あけて、
「Aくん、ここに座る?椅子の半分をあけたよ。ここに座る?」とたずねると、
わたしの隣に座っていた他の子のお母さんも反対方向に身体をずらして、
「Aくん、こっちにも半分、席があるよ。半分座る?」と、
茶目っ気たっぷりにたずねました。
わたしが、Aくんの目の前に半分ずつできた椅子の隙間を順に指さして、
「半分と半分、あっ、ひとつになっちゃった!」と告げると、
Aくんの表情が好奇心と喜びでパッと輝きました。
そこで、Aくんをその半分席に座らせて、朝食のソーセージを半分に切り分けて、
それぞれをフォークにさしてみせました。
「半分と半分……あっ、ひとつになっちゃった!」と言いながら、
切り分けたソーセージを元の一本に戻すと、Aくんはゲラゲラ笑いながら、
「半分、半分」と繰り返しました。
Aくんの心に、「半分」という言葉と概念が強く響いているようだったので、
皿にあったハッシュポテトでも「半分と半分、あっ、ひとつになっちゃった!」を再現。
それから、塩の小瓶を手にして、「半分だねぇ」と告げました。
白い塩の粒が瓶の半分ほどを占めているのを目にしたAくんは、
そこにできた空白部分と白い部分と半分という言葉のつながりに気づいたのか、
深く感動したようでした。
塩の小瓶を持って、「半分、半分」と言いながら、
他の子や親に見せてまわっていました。
Aくんについて前日の勉強会で、Aくんのお母さんからこんな話を伺っていました。
「とにかく同じことを何度も何度も言い続けます。
絶対、違うに決まっているでしょってことでも、ちがうよ、こうだよ、と説明しても、
少しすると、また同じことばかり言うので、返事をするのもうんざりしてしまいます。
他所の家の前に自転車が置いてあると、Aが「忘れているの?」と聞くので、
「忘れているんじゃなくて、置いているんだよ。あそこのお家の人の自転車だよ」と
説明するのに、
それからもその家の前を通る度に、毎回、「自転車、忘れているの?」と聞くんです。
それとか、道に鳥の羽根が落ちているのを見て、
「鳥が落としていったのね」と言うと、「取りに来る?」とたずねるので、
「鳥は落としていった羽根を、人間の落し物みたいに取りに戻ったりしないよ」
と説明しても、何度も何度も「取りに来る?」と聞くので、もう、どう答えたら
いいのかわからなくてイライラして、きつい言い方で返してしまうんです」とのこと。
「あきらかに間違っていることを何度も何度もたずねられる場合、
どう答えたらいいんでしょう?」という質問もいただきました。
「わたしは毎回毎回、初めて聞いたみたいに対応しています。
自閉の子の望む答えは決まっていることが多いですよね。
自分の言う通りに答えてもらいたがったら、相手の要望にそのまんまに答えつつ、
毎回、少しだけ返事のバリエーションに変化を加えて、
こちらの伝えたいことを目でわかる形で示すようにしています。
すると、うんざりするくらい同じことばかり聞いていたかと思うと、
ずいぶん経ってからですが、あれっと驚くほど、
コミュニュケーション能力や語彙の理解力のステージが一段上がったのを
感じる瞬間が来るんですよ」と返事をしたところ、
いっしょに勉強会に参加していた支援級の補助のお仕事をしておられる方が、
相槌を打ちながら、こんなことをおっしゃいました。
「その通りですよ。わたしも、何度も何度も同じことを聞いてくるのに
本人の望むように答えながら、少しだけ新しいことを加えて返事を工夫するように
しているんですが、半年、同じことを言い続ける時期もありますが、
そうやって対応していると、ある時、劇的な変化の瞬間を迎えるんですよ。
本当に!」
その晩は、他の年齢の自閉っ子のお母さんとも、
ただのこだわりだと一蹴したくなる質問にも、毎回ていねいに答えることと、
そうした同じ質問だからこそ、こちらも知恵を絞って、
プラスαに創意工夫を加えてみることの大切さについて、話が盛り上がりました。
(詳しくは別の機会に書きますが、この回のユースには、次に食べたいものと
その値段の話題ばかり繰り返す自閉っ子の小2の男の子が参加していたのですが、
いつもいつも繰り返す食べ物と値段の話題にその子の望む返事をしつつ、
消費税の計算や場合の数の考え方など算数の世界の新しい話題を少し加えて応えて
いると、その都度、新しい算数の問題に思いをめぐらすことに夢中になっていました)
4年生のAちゃんと弟の1年生のBくんが『旅ノート』を作ってきてくれました。
ふたりとも、新聞を作ったり、本を作ったりするのだ大好きな姉弟です。
旅行中移動したルートを示しながら、説明をしてくれました。
ふたりともお出かけ時にすぐ作れるよう
透明の袋に、はさみといっしょにノート、駅でもらってきたパンフレットなどを入れていました。
弟くんの旅ノート。
パンフレットをいっぱい切り貼りしてすてきなノートに仕上がっていたのだけど、
中身を撮影しそびれました。残念。
いろいろ体験したがるけれど、「ああ、楽しかった」で終わってしまう 3
の記事の最後に、
インプットとアウトプットが大きくずれるような子ではないけれど、
アウトプットするものの質が、外からの目ですぐわかるような価値でないため、
<いろいろ体験したがるけれど、「ああ、楽しかった」で終わってしまう子>として
見られる面があるDちゃんという子について取り上げています。
「アウトプットするものの質が、外からの目ですぐわかるような価値でない」
という子は、とても多いのではないかな、と思います。
親が何に価値を置くか、環境が何を評価するかとも大きくかかわってきます。
みなでお泊りする場に行くと、作った後で、
店開きして遊べるカフェ用の食べ物や飲み物作りというのは、
魅力的な工作です。
でも、同じようにせっせケーキやジュースを作っていても、
子どもによって作るものや作り方は異なります。
ひたすらデコレーションに励んで、おいしそうで見栄えのいいケーキや飲み物を作る子もいれば、
2段ベッド同士を食べ物が移動するレーンにする仕掛けに走る子もいれば、
展開図を描いて、三角柱や円柱のケーキを作る子もいます。ちらしや看板作りに忙しい子もいます。
かじった後の凹んだ形がどのようになるのか、そこに着目する子もいます。モーターを使って
わたがしマシーンなどを作る子もいます。
集団で自由に工作をする場は、そうしたさまざまなアイデアや可能性を
目で見て取り込む機会でもあります。
Dちゃんは最初、ガチャガチャの半球に穴を開けて、ストローを通して、
ふたつきのドリンクを作りたがっていました。
が、この半球はけっこう硬くて、熱で溶かすのでなければ、おそらく穴を開ける時点で
ひび割れるだろうと思われました。
それで、穴を開ける方法についてあれこれ相談した結果、穴そのものは開けず、
上からと下から、それぞれ別のストローを接着して作るのがいいのではないか、
という「ちょっとめんどくさい展開」になりました。
「誰もやったことがない未知のことである」と「ちょっとめんどくさい展開」になると、
たいていの子はあきらめるか、もっと安易はやり方(ふたをなくす)などに
流れます。
でも、このDちゃんは、必ずといっていいほど、
そうした困難さや難しさが伴う課題を選びます。
教室では、透明のフィルムを動かして見るのぞき眼鏡とか、複雑なポップアップ絵本の仕組みなどに
チャレンジしていました。
そうした課題も、実際やってみたら、簡単だったということもたまにあります。
でもたいてい、途中でどうやってもうまくいかず、長い間試行錯誤して
あまりパッとしない結果につながるんです。
エネルギーのほとんどが、きれいに仕上げることではなく、
はじめてだからうまくいかなくて、失敗してやりなおしたり、
どうやったらいいか考えたりする時間に費やされますから。
このDちゃんという子の魅力は、作業をメタな視点で眺めて、統合したり発展したり
する考え方につながるところで、
できあがったものが何かということより、
気づいたことは何かというところに価値があります。
たとえば、コップの周りにレースのリボンを貼り付けるとしたら、
長さはどれくらいか、どうやったら求まるかといったことに、
体験すれば関心が高まり、少し教えれば理解して納得します。
自分自身で、さまざまなことに気づきもします。
そうした活動を通して、頭の中の世界を変化させていく子たちは、
見えている世界ではそれほど目立つことをしない場合も多いです。
ひとりひとりの子の個性にていねいに接する大切さを思います。