『学校ってなんだろう』に登場する専門家たちは、学校を、「新しい知識を得、可能性を引き出し、選択肢を広げる場であり、社会性を育んだり、生活リズムを整えたりする意味でも、大事な役割を持っている」とする一方で、次のような意見も付け加えていました。
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学校は一つの学び場に過ぎず、本人が必要とするスキルが得にくい環境なら、他の場所も検討していい(前田佳宏さん)
対話を通じて相手を理解したり、自分の軸、スキルを持って行動したりする力を育めるなら、必ずしも形式的な「学校」にこだわる必要はない (鬼澤秀昌さん)
学校には役割があるものの代替えできないものではない(車 重徳さん)
無理してまで学校に行く理由は何もない。本人が安心できる場所で本人に合った学びができれば良い(政井マヤさん)
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また多くの方々が、学校の教育制度が、約150年間、ほとんど変わらないシステムで続けられてきたことを危惧していました。
そろそろ新しい教育システムへ変えていく時期ではないか、と考えておられました。
確かに、いくら何でも古すぎて、世の中の変化からも、海外の教育法の進歩からも遅れている日本の教育システムが、これから何十年も何百年も存続していくとは考えにくいです。
では、どんな風に変わっていけばいいのか考えを練っていく時、大切になってくるのは、今、不登校になっている子たちの存在なのかな、と感じています。
「学校に行きたくない」という子がいる時、ひどいいじめがあるとか、体罰があるとか、学校の管理が厳しすぎるとか聞くと、それは学校に行けなくもなる、と誰もが納得します。
その一方で、
「友達とも仲がいいし、先生も親切、勉強もそれほど大変でない、でも何となく行けない」とか、
「朝起きるのがしんどい、疲れた、電車通学がしんどい」とか、
「授業にずっと出るのはしんどい。体育や音楽といった好きな教科だけ学校に通って、友達と遊んで帰りたい」
と聞くと、
「甘えじゃないか? 怠けじゃないか? 将来、きちんと仕事に就けなくなるんじゃないか?」と、もやもやを抱えることになるのではないでしょうか?
虹色教室にも、“子ども”というざっくりしたくくりで眺めると、なぜ不登校になったのか、わかりにくい子らが何人かいます。
でも、じっくり一人一人の子と深く関わっていると、わがままという言葉だけで片付けられないさまざまな理由が見えてきます。
ある子は感覚が過敏で、繊細すぎて、ちょっとした刺激に圧倒されてしまうため、
ある子はディスレクシア、読字障害のハンディーキャップを抱えているため、
ある子は自分でじっくり考えるのが好きで、丸暗記で学んでいく学習が合っていないため、
ある子はずっと外の世界に合わせる暮らしを続けてきて、燃え尽き症候群の症状が出ているため(一時的に自分自身の内面を育む時間が必要となった)、
ある子はシックハウスのアレルギーがひどいため(学校で症状が悪化し、衝動性が増す)、
ある子はADHDによって、集団で椅子に座って学ぶという活動に、一般的な子の何十倍、何百倍も疲労を感じてしまうため。
そうした子たちは、その子に合った学びを提供すると、きちんと学ぶことができています。
そうした学び方の個性や身体的な特性などによって、知識を得ていく過程では、集団で学ぶのが難しい子たちも、友達を求めます。
友達と関わりながら、社会性や人間関係能力を育む必要もあります。
すると、「自分の好きな教科だけ授業に出る」、「学校は休んでいるけれど、放課後は友達と遊ぶ」と言う形で“登校”することとなります。
子ども側の「学校に行けない」に始まって、新しい学校との関わり方を模索していく中では、次々と課題が見えてくることもあるでしょうし、困った事態にぶつかることもあれば、心配することはなかったと胸を撫で下ろすこともあるでしょう。思わぬ成果もあるでしょう。
こんな工夫によって問題が解決した、とか、さまざまな外部の支援を利用した、とか、時には、子どもを取り巻く社会の暗部に気づくこともあるでしょう。
また、それまでに深い傷を負っている子には、まず心が修復していくまでの長い時間、見守る作業がいりますよね。
そうした時、寄り添う人も子どもも、何一つ前進しているように見えないかもしれません。
でも、「そこで足踏みしていること自体に価値があるのだ」とする精神的なものへのまなざしがいるのかな、と思います。何もしていないように見える時間の流れの中で、子どもも周りの大人も、きっと、深いところから変容していくのだと思います。
みんなに向けてパッキングされた教育を選ばないということは、不安や迷いを抱きながら、恐る恐る暗闇を探っていくようなものです。
他の人の投げかける言葉やまなざしに親も本人も傷つくことも多いはずです。
でも、そうした個別の歩みは、これから教育が変わっていく上で、よくも悪くも貴重な現場の声の蓄積となっていくんじゃないか、と感じます。それぞれの個性と向き合った工夫と努力の結晶ですから。
うちの息子は、不登校にはならなかったものの、学校のシステムにはかなり不満を抱いていたようです。
就職の際には、どのような働き方がしたいのか悩み抜いて、自分の個性に合った仕事を選んでいました。
学校が辛い子に知ってほしいこと の中で、就職して三年目に入ろうとする息子の言葉を綴っています。
前回までの記事に、★くんのお母さんからコメントをいただきました。
何一つ正解が見つけられない状況の中で、苦しみもがきながら、親としてできる最善を探っておられるのがよくわかりました。
★くんのお母さんも★くんも、今、真っ暗な闇の中にいるのでしょう。
そう思うと、ふと、ル・グウィンの「目をくらませる明かりの中ではなく、栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。」という言葉をお伝えしたくなりました。
長くなりますが、過去に書いた記事を貼らせていただきますね。
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ゲド戦記の著者として有名なル・グウィンの「左ききの卒業式祝辞」という文章を目にして、いろいろなことを考えさせられました。
誰もが一直線に成功を目指して、どのポジションについたか、何を獲得したかで人の優劣を判断したり、人生の価値を品定めしたりするのは、自分の持てるすべてで宝くじを買って、上位の当選を夢みて生きるようなものなのかもしれません。
宝くじが当たらなかった時、手元に残ったくじは、すべて紙屑と化してしまいます。
でも実際の人生では、成功という当たりくじは、親の期待やその時代の世間の見方が与えた幻想で、個人的な生きる喜びを感じることや自分を活かせる場、自分を高めていく機会は、はずれくじだと思っていたものの方にあるのでは……とも思います。
「目をくらませる明かりの中ではなく栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。」というル・グウィンの言葉が心に響き、ふいに、心理療法士のP・フェルッチのこんな言葉を思い出しました。
「(人生とは)試み、失敗、学習体験、そして成功などから成っている旅。より大きな意味と気づきへの進行形の旅。あるいは旅になり得るもの。」
「人は偶然や、間違いや、思いがけないことからトランスパーソナル・セルフ(生物的構造の中にある中核)を充分に実感することができません。
すべての注意を傾け、役立つものはすべて役立てる系統的なアプローチによってのみ、実感することができるのです。」
P・フェルッチは、境界、執着、所有、競争、死への不安などの上に築かれるわたしたちの通常の自己感覚に対して、トランスパーソナル・セルフにある自己感覚は、存在の純粋な気づきと「すべてのもの」との一体感に基づくものと説明しています。
ル・グウィンの「暗闇で生きてください」という言葉が、何について語っていたのか、想像するしかできませんが、わたしたちが「成功」のイメージをフェルッチのいう通常の自己感覚の枠内で設定するなら、ル・グウィンが語る暗闇とは後者の「すべてのもの」との一体感に基づく自己感覚が横たわっているところなのだろうと感じました。
暗闇といえば、まだ息子が小学生だった頃、息子の質問をきっかけに、こんな詩を書いたことがありました。
子どもたちと接していると、どの子にもいえることなのですが、自分の生きている世界や自分自身について深く考えるようになる年がくると、子ども時代の根拠のない万能感は失われていきます。
自分を客観視できるようになるほど、特別でも完璧でもない地球上に数えきれないほどいるちっぽけな自分が感じられるようになるのです。
そうして、身ひとつで、あちこちにぶつかりながら歩いていくことしかできません。
でも、そんな小さな存在が、頭の中に広大な宇宙を取り込んで思考していくこと、混沌から自然に立ち現れてくる秩序について気づき、夢想すること、自分の内奥を探っていく孤独な仕事に取り組みだす姿に触れると、人の不思議を思います。
人の中核にあるもの、能力や体験が生じてくる源を垣間見たような心地になります。
話が脱線しますが、トランスパーソナル・セルフについての話題が出たついでに、P・フェルッチが教育について述べている言葉をここに書いておこうと思います。
ここに書かれている教育について思う時、ただ、他者に勝利してよいポジションを勝ち取ることを教育のなかで後押ししていくことのむなしさに気づきます。
そこで自分の意志とは関係なく煽られる子どもたちはなおさらです。
成績で評価できるテストに合わせて、子どもの資質を価値づけして、伸ばしたり、無視したりしている現状をどうとらえるべきか、ひとりひとりの人の個性や才能を育んでいくには、どのような考え方を土台に据える必要があるのか、多くの人が、教育について、じっくりと考えをめぐらせていくことを願います。
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子どもや生徒のなかにトランスパーソナル・セルフの存在を認めることは、その人のなかの価値あるすべてのものにいのちを与えることを意味します。
本当の意味での教育とは、人がトランスパーソナルセルフへの道を歩むのを手助けすることなのです。
発明の才能、共感、勇気、集中、美の鑑賞、直観力、細部への注意、分析的な考え方や統合的な考え方、身体を通じて喜びを呼び覚ます能力、目に見えない世界への気づきと意識の広がり、苦痛への建設的な態度など、能力や体験はすべて、認知し、刺激することが可能なものです。
このような教育は、もはや単に情報を伝えるだけのものではなく、「ユニバーサル(普遍的)な人間」を呼び起こすものです。
『人間性の最高表現』P・フェルッチ 誠信書房 (一部を要約して引用しています)
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上のイラストは、子育て中(特に娘や息子の子育てで、困ったな〜という事態に遭遇した時)に書いた詩につけたものです。↓はその詩です。
『学校って何だろう』に寄せられたどの意見も、確かにそうだとうなずけるものでした。
中でも、臨床心理士の村中直人さんのこんな言葉が心に響きました。
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私は実は「絶対に学校に行かなくてはいけない」とは思っていません。
だから学校に“行かない・行けない“こと自体は、何も悪いことじゃないと考えています。
そして私は、学校に行くことよりも自分で学べる人になることのほうが、これからの時代を生きる子どもたちにとってとても大切だと思っています。
(中略)私は、これからの学校は、「一人ひとりの学び方を尊重できる」ようにならなくてはいけないと思っています。
(『学校ってなんだろう』ソクラテスのたまご編集部 編 P35 P36)
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村中直人さんによると、学校というのは、必要な学習カリキュラムを提供してくれる世の中にとって大切なシステムではあるけれど、100年前からあまり変わっていないため、さすがに古くなって時代に合わなくなっているそうです。
だから子どもたちに向けて、
いまの“学校”に違和感や問題点を感じたら、ぜひ「もっとこうして欲しい」と声をあげてください。
あなたが学校に合わせるのではなく、学校があなたの学びに合わせてくれる未来がきっとやってきます。
と声をかけておられました。
村中直人さんの「学校に行くことよりも自分で学べる人になることのほうが、これからの時代を生きる子どもたちにとってとても大切」という言葉を目にして、
★くんは自分で学べる子であり、今、★くんが学校に行くのが辛くなっている理由が、学校というシステムが、決まったやり方で決まった役割を子どもに押し付けるばかりで、子どもの中には、受動的に教わるよりも自分で考えながら学ぶ方が頭に入りやすい子がいたり、自分で学習計画を立てて進めたいと思う子がいたり、どの子にとっても自学する力を鍛える機会が必要だろうという想像力とか余白とかいうものがないからだとしたら‥‥‥それってどうなんだろう?と感じました。
ふと、かつて大学生だった息子と、学校のあり方についてこんな話をしたことを思い出しました。
(会話の記録を過去記事の中でアップしていました)
長くなりますが、よかったら読んでくださいね。
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息子 「学校が無作為に40人前後の人を集めて、人と関わる力を育てようという設定自体が、あまりに雑な対応で、無理があるよな。
もし、人に自分の思っていることを伝えたり、他人と協調して何か成し遂げていく力を育てるなら、同じ趣味を持ってる者同士とか、好きなものややってみたいことが重なる者同士とか、議論や会話や思いがそこそこ成り立つ前提と人数で、もう少していねいにそういった力を育てようとするべきでさ。
小学校の頃は、せめて、3年生までと4年生以降で、クラスの組み方を変えてほしいと思っていたな。
授業中は教科書を先に進んでもだめだし、わからないからと戻ってもだめって決まりが絶対だから、結局、クラスで最も理解が遅れている子のペースに合わせることになる。
そうしたことを6年間続けていて、学力にしても人間関係能力にしても、それだけの犠牲を払うほど何か得られるのかっていうと、疑問だな」
わたし 「確かに、海外在住の方が日本の学校を見学してまわった後で、今の小学校のあり方は、だれにとっても幸せではない、子どもにとっても先生にとっても。だれにとっても、実りの少ないものになっているって感想を言ってたわ。でも、改善するのは難しいわよね。A(息子)は、どんな方法を取ればいいと思うの?」
息子 「子どもの個性を大事にする教育と銘打って、どんなに公教育を改善しても、4,50人の生徒を無作為にひとところに押し込めて、急激に成長する時期にいつまでも同じスタイルで教育しようとしている限り、難しいよ。
そんな風に足し算しようと無茶するんじゃなくて、引き算の発想で、同学年の子全員に必要だと思う教育部分を減らして、午前中に基本の授業を終えたら、午後は、公民館、図書館、小さな学び舎などさまざまな学習の場を国が支援して、子どもの好みや学びの段階や学び方に合った教育をするとか、そうした選択をする人も認めるとか、週の半分くらいは自由選択の部分を作るとか。
子どもってだけでひとくくりにして、能力のちがいや好みのちがいや身体的なものや思考のちがいまで、ざっくりと大雑把にしか子どもの教育をとらえていないんなら、1から10まで自前でコントロールしようとするのをやめた方がいいんじゃないかな?」
わたし 「お母さんもそう思うわ。それに、教室に来る親御さんたちも、学校に対して、そうした考え方をする人が多くなったのを感じる。
というのも、勉強は2学年ほど先までできるし、友達も多い、社会性も育っている、でも、学校が苦痛で、学校に通えない、というこれまでと異なる不登校の子を教室でも何人か見るようになった。
不登校まで至らなくても、予備軍と言えるような同じ訴えをする子らが増えている。
支援級があるからかもしれないけど、勉強がわからないから学校に行きたくないという子は聞かなくなったけど、勉強が簡単すぎて、授業が苦痛でたまらないから学校に行きたくない、という話はよく聞くようになったわ。
学校がなくなればいいとまで思わないけど、共通に学ぶのが半日なら喜んで学校に通えるような子を不登校に追い込んでまで、今のあり方にしがみつく必要はないと思うわ」
息子 「学校はどうあるべきか、どんなに話しあったって、それはある子たちにとっていいあり方で、別のある子たちにとっては最悪のあり方かもしれないじゃん」
わたし 「そうよね」
息子 「周りが就活をするようになって、会社側は、何をやりたいのかという目的意識をしっかり持っているかどうかを求めてくるのを感じてさ。
学校で詰め込むような知識にしても、まず、先にその目的意識ありきで、そのために必要な知識を持っているかという順で見られるよ。
それで、ふと、小学校の読書感想文のコンクールなんかで、そこでなぜ賞を与えるのかってことについて考えたよ」
わたし 「どうしてだと思うの?」
息子 「小学生なのに、文才があるとか、こんなことができてすごいってことじゃないなって。それだけが目的の審査員はダメだと思う。
なぜ、それがすごいのかといえば、小学生の時点で何かしらに興味を持って、それがパクリでもいいから、自分なりの解決策を探ってみる、という一連の流れを学ばされるための賞じゃないかと考えてさ。
小手先のテクニックを教えて、賞を取りまくっても、あんまり意味がないよね。
やっているうちに、自分の中にやりたいことが明確化されていくことが大事でさ。」
わたし 「わかる、わかる。お母さんも、教室の活動の中で、一番大事にしている点だから。お母さんがこういう風に子どもに能力をつけさせよう、作り上げよう、何かを目指させよう、とするんじゃなくて、いっしょに、手や頭を使って、いろんなことをやってみるうちに、心の底から自分がやりたいと思うものは何かが見えてくるし、それに一歩近づけるのよ」
息子 「そうだよね。お母さんの教室は、自分の興味から、自分のこれからの方向性をつかんでいけるようにって工夫してるしね。そういうの、どの子にとっても大切だと思うよ」
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「子どもってだけでひとくくりにして、能力のちがいや好みのちがいや身体的なものや思考のちがいまで、ざっくりと大雑把にしか子どもの教育をとらえていないんなら、1から10まで自前でコントロールしようとするのをやめた方がいいんじゃないかな?」という息子が大人たちに向けて投げかけた疑問は、大学受験を前にして、自分にとって必要な学習をする時間が取れずに焦り、疲弊していく★くんの「10のうち1でも2でもいいから、僕に自分で学ばせてよ!」という切実な気持ちと重なるのじゃないかな、と思いました。
不登校の子の声に耳を澄ます 3 に続きます。
(上のイラストは、周囲の期待に応えようとがんばるうちに、自分を見失い苦しんだ若い頃の私の詩につけるため描いたものです。★くんが環状線から降りること、それは脱落ではなく、再び自分の意志で乗りなおすか、別の線に乗り換えるのかの撰択に繋がっていると思っています。詩はこちら↓)
先生が予言されたとおり中学3年になったとたん猛烈に勉強を始め、無事希望の高校に入学しました。今年高3になります。順調に学校生活も進んでいたのですが、最近「学校は疲れた。朝早く起きて電車通学して、つまらない授業を受けて、緊張して」と言いだし不登校になりました。「受験勉強がしたいのに毎日学校へ行くと疲れて、何もできなくなる。そもそも朝なぜそんなに早く起きなければならないの?塾の自習室で勉強したほうがいい。でも高校卒業しないと大学へ行けないから卒業はする。学校は体育をしたり、友達に会ったり息抜きをするところだ」これが彼の主張です。
奈緒美先生はよく息子さんと人生の話をされていらっしゃいましたね。最近よくそれを思い出します。息子さんが大学受験のとき、友達とキラキラ語り合っていたことも思い出します。まさか、ここにきて、息子が不登校になるとは。
学校は○○高校、といって、息子にはもったいないほどの進学校です。進学校なのに校風は自由で、宿題もありません。でも、とても疲れるのだそうです。時間の拘束や集団授業など。でも私は学校を中退というのは避けたい。ただ、毎日行けないのなら、もう他に方法がないのか、すこしずつ話し合いながら、家族で考えていこうと思います。
九九タワーが流行っていた頃の記事です↓
夏休み向けの『難問 算数クラブ』
周囲の大人は、今何もせず、何も考えず、★くんが自分の内面の声に耳を澄ませ終わるのを待つべきだし、★くんが語り出したら、それを終わりまで自分の意見を挟まず聞くべきと思っています。これからどうするかは、そのあとだと思っています。
ウルトラマンの戦いシーンが作りたいという小2のAくんの作品です。赤いビームが相手に当たるようにしました。
写真と下の文章は関係ありません。
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3年生の子の授業参観に行ってきた親御さんから、こんな話をうかがいました。
わり算の導入の授業だったのですが、9÷3について
考えさせるために10人の子を当てるものですから、
間延びしすぎて見ている大人も何が何やらわからなくなってしまった、
とのことでした。
少しして海外に出かけた時、現地の学校を訪れたところ、
日本よりずつと遅れていると思われてきた国だけれど、
授業が驚くほどいきいきしていて魅力的で、子どもたちも夢中になって
よく頭を使っていたとお聞きしました。
教室で子どもたちの勉強を見ていると、参観日だけでなく、
「みんなで足並みそろえること」や
「わかっていても自分の思考の筋道を無視して、先生が指導する通りになぞるように答えること」
に気を取られるあまり、
勉強というものが、「考えてはいけない」ものになっていくケースが、まじめな子ほどあるのです。
「考える」ためには、ただ公式をなぞるのではなくて、
自分の体感でそれがよくわかっていて、それを土台にして、自分の頭で考えていける、
ということが大事なはずです。
日本と海外、2つの参観日を覗いてみた親御さんは、日本の将来がとても心配になったそうです。