訂正:コメント蘭のKMさんのご指摘のように、私が康定橋と書いてある橋は「濾定橋」のマチガイです。全て読み替えてください。
ご指摘ありがとうございます。本来なら全て訂正すべきでしょうけど、書いた箇所の全てを見つけることは無理だと思いますので、この簡便方にてシツレイします。
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二朗山トンネルの入口は中国の門、城壁の門のようになっている。トンネルに入るとトンネルはトンネルで、コンクリートの壁が続くだけなので、国内最長といわれても面白くも何とも無い。
トンネルを抜けると遙か彼方まで連なる山々が見える。今度は下り坂となってぐんぐん高度を下げる。三国志に「七たび捉えて七たび放す」話がある、孔明が南方平定に向かう時もこの辺りを通ったのかな~。そんなことは無い浅い知識を張り合わせた妄想です、景色を楽しみ妄想に耽っているうちに海螺溝と康定の分かれ道に来て右の方、康定への道を行く。
康定は谷あいの町で、バスから降りた近くに大きなモニュメントがあった。康定橋奪取の模様を刻み、20数名の戦士のレリーフがある。中には氏名が記されていない人もいる。無名の勇士・・・余計に強烈な印象を与える。中国革命はこのような人によってなされたのだ。深く頭を下げた。
そこから河まで遊歩道として整備されており、毛沢東の書による祈念の言葉が水の流れの中に刻まれている。やはり心に残った場所なのだろう、この書はデザイン化されてホテルのロビーも飾っていた。行書体なので読まなかった、読めなかったかな。
康定橋の両岸には建物が建っている。城門のようなもので吊り橋の基礎を覆うように建っている、基礎の保護の為か、関門としてか、記念としてなのか分からない。質問しようにも言葉の壁がある。蒋介石軍がこの橋を切って落とさなかったところを見ると、この橋は目の前の戦闘に勝つかどうかという近視眼的なものを越える重要性があったのかもしれない。
”撤退する時はパリの全てを爆破せよ”というヒットラーの命令を実行しなかったドイツ軍司令官の気持ちに通じるものを康定橋の守備隊長は持っていたのか。数百年前にあの橋を架けるときは莫大な資金と労力を要したであろうことは見れば分かる。橋が無くなれば生活に多大な影響が出るだろう、何十年も。
橋とはいえ鎖だけになり対岸には敵の陣地がある、そこを鉄砲を担ぎ腰には蛮刀、手榴弾などを身に付けて鎖に取っ付いてにじり寄って敵に向かった紅軍兵士、ゆらゆら揺れる急流の上でしばし物思いに耽った。
攻める側守る側それぞれの想いはあっただろう、しかし勝敗を決したのは革命に命を捧げる情熱、身を挺して向かうという精神力が勝ちに繋がったと信じたい。戦争に美談は付き物だがその行為が後世どのように評価されるかが問題であろう。現代中国における評価を聞きたいものだ。
サボテンの実を食べながら、近くて遠い過去の武勇伝になっているのじゃないかなと思った。
橋を見物した後思わぬオプションの河下りーラフティングーが100元であった。説明をしたようだが言葉が分からず皆さんの後を追って歩いたら船着場に着いたので分かった。10数分の短いコースだが康定橋をくぐりチョットした荒波のある瀬では年甲斐も無くヒャッホーと喚いて充分満喫しました。
ご指摘ありがとうございます。本来なら全て訂正すべきでしょうけど、書いた箇所の全てを見つけることは無理だと思いますので、この簡便方にてシツレイします。
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二朗山トンネルの入口は中国の門、城壁の門のようになっている。トンネルに入るとトンネルはトンネルで、コンクリートの壁が続くだけなので、国内最長といわれても面白くも何とも無い。
トンネルを抜けると遙か彼方まで連なる山々が見える。今度は下り坂となってぐんぐん高度を下げる。三国志に「七たび捉えて七たび放す」話がある、孔明が南方平定に向かう時もこの辺りを通ったのかな~。そんなことは無い浅い知識を張り合わせた妄想です、景色を楽しみ妄想に耽っているうちに海螺溝と康定の分かれ道に来て右の方、康定への道を行く。
康定は谷あいの町で、バスから降りた近くに大きなモニュメントがあった。康定橋奪取の模様を刻み、20数名の戦士のレリーフがある。中には氏名が記されていない人もいる。無名の勇士・・・余計に強烈な印象を与える。中国革命はこのような人によってなされたのだ。深く頭を下げた。
そこから河まで遊歩道として整備されており、毛沢東の書による祈念の言葉が水の流れの中に刻まれている。やはり心に残った場所なのだろう、この書はデザイン化されてホテルのロビーも飾っていた。行書体なので読まなかった、読めなかったかな。
康定橋の両岸には建物が建っている。城門のようなもので吊り橋の基礎を覆うように建っている、基礎の保護の為か、関門としてか、記念としてなのか分からない。質問しようにも言葉の壁がある。蒋介石軍がこの橋を切って落とさなかったところを見ると、この橋は目の前の戦闘に勝つかどうかという近視眼的なものを越える重要性があったのかもしれない。
”撤退する時はパリの全てを爆破せよ”というヒットラーの命令を実行しなかったドイツ軍司令官の気持ちに通じるものを康定橋の守備隊長は持っていたのか。数百年前にあの橋を架けるときは莫大な資金と労力を要したであろうことは見れば分かる。橋が無くなれば生活に多大な影響が出るだろう、何十年も。
橋とはいえ鎖だけになり対岸には敵の陣地がある、そこを鉄砲を担ぎ腰には蛮刀、手榴弾などを身に付けて鎖に取っ付いてにじり寄って敵に向かった紅軍兵士、ゆらゆら揺れる急流の上でしばし物思いに耽った。
攻める側守る側それぞれの想いはあっただろう、しかし勝敗を決したのは革命に命を捧げる情熱、身を挺して向かうという精神力が勝ちに繋がったと信じたい。戦争に美談は付き物だがその行為が後世どのように評価されるかが問題であろう。現代中国における評価を聞きたいものだ。
サボテンの実を食べながら、近くて遠い過去の武勇伝になっているのじゃないかなと思った。
橋を見物した後思わぬオプションの河下りーラフティングーが100元であった。説明をしたようだが言葉が分からず皆さんの後を追って歩いたら船着場に着いたので分かった。10数分の短いコースだが康定橋をくぐりチョットした荒波のある瀬では年甲斐も無くヒャッホーと喚いて充分満喫しました。
康定県は瀘定県の約50kmの西北に位置します。最近、中国第2の高地空港(4280m)が開港したばかりです。ここから、海螺山の北側への観光開発が進められています。
なお、大渡河に関しては、ブログの「瀘定橋・海螺溝―四川雑感〔3〕―」(2005年7月5日付)をご覧ください。