どこ吹く風

旅のことを主に書く。

クスコにて

2006年04月20日 15時56分46秒 | マチュピチュ
 インカの守り神はコンドル・ピューマ・蛇とのこと。
これらのものへの執着というか、思い入れというのは私の常識の域を超えている。クスコを建設したときからピューマを意識して街をピューマになぞらえているとの説明があった。(写真参照)
その説明を受けたのはサクサイワマン遺跡で行なわれた、そのサクサイワマン遺跡を頭部として山から谷間に向かって肩から胴体になり街全体がピューマの形をしている。

 図示したのが写真です。後世の学者が考え出したのか、そのような言い伝えがあったのか知らないが文献の資料を用いてガイドが説明していた。
このような例は街の中、広場から伸びる道路にもあり、ピューマや蛇が石組みの仲に現されている、説明を受けて気をつけて見たら何となくそういう形に見えた。
いろいろ詮索するより素直にそういう目で見たほうがロマンがある。

 クスコ、インカの首都クスコは見るのに気が重くなる街だ。石造りのリッパな家々に意思を土台にした塗り壁、石の一つひとつが古を偲ばせるけどそれがなお更辛い。
トルコでギリシャ・ローマの遺跡を見るのとはワケが違う。クスコはインカと繋がっている、連綿と生身の内臓同士が繋がって感じを受ける。日の光を浴びても明るく輝くことなく陰鬱に石組みの隙間からうめき声が聞こえるようだ。
石の隙間にはカミソリの刃も入らないほど見事に削ってあるが、目に見えない隙間から漏れてくる怨念の叫びが心を震わせ感情を高ぶらせる。
これも高山病の症状の現れだろうか。

 サントドミンゴ教会、インカの住民の精神破壊の象徴だ、あの造りはキリスト教の独善的精神が如実に出ていて、「神」をカサにきた人間の傲慢さ、特に神の使いを自称する神父の冷徹な仕打ちが数百年経った今でも感じられる。
教会を観賞するなんて気持ちになれない教会だ。私がペルーの権力者なら即座にあのサントドミンゴ教会をぶち壊し撤去して基礎部分つまりインカ時代の物だけ残して何も無い空間にしてしまう。

 教会それ自体を素直に観賞したらそれなりに素晴らしいが、あの場所はキリストの平穏よりも遠い昔のインカぼ人々の心の方が勝っている。
教会の壁や尖塔にだけに目を向けず、壁の向こう地の下を見つめていると体内に心に浮かんでくるものがある。

 市内から山手の遺跡に向かう。
前述のサクサイワマン遺跡、山の上なのに清水が枯れることなく流れているタンボマチャイ遺跡、クスコを守る関所プカプカラ遺跡などを廻った。プカプカラ遺跡はインカ道の起点となっていたようでその跡が残っている。峠の向こうまで続いているがその先は見えない、現在のペルーと同じで先が見えない。

 遺跡はただ立つだけで時間と空間が捻じ曲がり、過去の出来事と現在が溶け合う。ペルーは時あたかも選挙の真っ最中、権力者と人民の関係を、インカとスペインからインカの末裔と新しい征服者との戦いの図式に置き換えて妄想を膨らませた。

 牛(スペイン・現代の侵略者の象徴)をやっつけるコンドルかピューマが現れる日が来るのはいつのことか。