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どこ吹く風

旅のことを主に書く。

流行り廃り

2006年03月08日 07時44分27秒 | 懐かしい旅の記録
 むかし流行った所だが今は寂れてしまい見る影も無いというのは多い。
桜坂が前島に移りさらに松山へというのと同じ、那覇の飲み屋のことです。同じようなこと、話しは何処にでもある、台北にもあるその代表例が園環だと思う。

 かつてのガイドブックには紹介記事が載っている。ロータリーの中に店がゴチャゴチャとありおもしろい場所だと書かれている。
私も始めて台湾へ行った時同行の(というより連れて行った貰った人)にエンカンへ行きたいとお願いして寄ってもらった。しかしその頃から衰退の様子がありありとあった。その後も行ったが今の桜坂状態になっていた。

 この小父さん達の一員に台湾に詳しいという方がおられた、その方が”台北にきたら園環だ、エンカンへ行こうとしきりに皆んなを誘う。"居候の状態で参加した私だが始めて訪れるメンバーもいるので反対して士林夜市へと強引に変更させた。
 台北は任せておきなさいという話し振りだが今頃園環なんていう知識の古さには閉口する、何回も来ているはずなのに。 
不満ありありの顔だったが私には自信があった、タクシーに分乗し私はその方と一緒に乗り士林へ。

 士林夜市の雑踏道路を占拠して品物を並べて客の相手をする人を見るだけで熱気が伝わってくる。駄菓子にペット、雑貨に屋台、若者向けグッズから用途不明のモノまで何がなんだか分からないほどの賑わいだ、逸れない様に気をつけながら一軒の店に入り軽く食べた。
 みなさん喜んでいた。フロクで参加して小さくなっていた私は一躍面目躍如だった、まあこんな事でもお返しが出来て私も良かったです。

 ついでというか、誰しもが一応に閉口する臭豆腐を買って皆さんに振舞った。金の無い私だが屋台で臭豆腐を買う程度は持っている、アツアツに揚げられた豆腐を持っていくと臭さが全く無くなっているのにオドロキ、物珍しさで口に運ぶ、先ほどの店ではエビを奢られたが私の臭豆腐の方が話題性があった。

 私のビンボウ旅行、何でも見てやろう食ってやろうの経験が役に立った時でした。おかげで金も出さなかったのに精神的にラクになった。

写真は 臭豆腐を揚げている場面です。
   台北で異様な臭い、クサイと感じたら近くに臭豆腐の屋台があるはずです。

小父さんたちの台北

2006年03月07日 06時59分58秒 | バリ
 数年前のこと50前後の小父さん達5名で2泊3日の台北旅行をした。
私は失業中で金は無いが一行の一人が旅費を出すというので付いて行った。皆さんは喫茶店の経営者で小金を持っているのである。
メンバーの皆さんとは何回か飲んだ事もあるので顔見知りで、その中の二人は改装工事でお世話になった人なので気心は知っている。

 台湾は初めての方もおられる、かつて台北に”いい人”がいたとかいるとかいう方もいる。私は居候メンバーなので希望も言わずおとなしく振舞うつもりだった。この旅行の立案者は一番若い人で私を誘ってくれた人である、航空券だけを手配して宿は現地で探すとのこと。

 機内でたまたま知り合いの台湾のご婦人に会って話をしている、そのご婦人は那覇で食堂をしていてカツギ屋も兼ねている様なことを彼は説明した。で、宿が決まっていないなら知り合いを紹介するので一緒に台北まで行こうと誘われて彼女の迎えの車で出発した。ご婦人は台北でも食堂をしているようでその店で休んだ、レストランでは無くて食堂と言う感じの店だ。

 宿はその食堂の近くだった、宿泊のみの安宿だが私にとって不満は無い、旅費を出さないからという理由ではなくこのクラスの宿でも充分だし妻と一緒に泊まっても良いとおもっているからです。
夕食は台湾料理を食べに行った、芋粥に炒め物あれこれ盛り沢山の品を美味しく頂いた。
 時間も早いし散歩がてら観光しようということになりお決まりの龍山寺と華西観光通りへ出かけた。龍山寺は相変わらず賑わっている、線香の煙に油が燃える臭いそれにローソク代わりの豆球で山形になった光の山など雑踏に揉まれながら見物した。しかし小父さん達はあまり愉快そうな顔をしていない。そこで彼が買い物でもしようかと提案して場所を移動する。

 5名で行ったので移動するのに不都合だ、タクシーが2台必要になり場所が不案内なので運ちゃんに前の車を追う様に伝える。見覚えのあるところに来た、この通りは前に来たことがあるマックが在ってチョット歩いて筋に入って数件目のバー・・・と記憶と場所が一致した。
着いた所は林森北路。

 彼はある洋服屋に入って女ご主人と話をし彼女は電話を掛ける、そして彼が出てきて歩き出す。皆で付いて行き薄暗がりの事務所風のビルまで来ると男が出てきて二階に案内する。鉄製の扉の横に付いたインターフォンで連絡すると扉が開いた。
そこは洋品店で棚にはバッグが並びショウーケースにもバッグに時計、貴金属類が展示されている。もちろん売り子さんがいる。

 ブランド品を扱う店だが海賊版専門店のようだ。日本語が達者な売り子が”このビトンのバッグは新製品でまだ一般に出回っていないヨ。”とか”ホンモノの三分の一の値段ヨ。”とか売り込む。
生憎私は文無しなのでただ見るだけ、本物も気をつけてみたことが無いのでニセモノを見てもホンモノと比較できない。シロートが見て判るような品は置いていないだろうから珍しいものを見る目で見ていた。

 同行の小父さんは「空港で没収されないかネ。」
”どうして税関がわかる? ホンモノと同じヨ、商品を入れるこの袋はホンモノよりリッパよ。”と訳の分からない事を言うている。
奥さんへのオミヤゲの新作ヴィトンやローレックスを買っている。彼は持っているホンモノのバッグのイミテーションを買っている。ニセモノは普段持つのに使うそうだ、普段着と余所行きというところか。

台湾のニセモノ販売所はとても厳重な警戒をして販売している、当局の取り締まりが厳しいのだろう。我々以外にも日本人の若夫婦が来店したのでアングラ情報はけっこう流れているんだろう。

その店はまだ上手くやっているかな・・・

ことば

2006年03月06日 07時36分23秒 | 懐かしい旅の記録
 旅へ出るときは挨拶ていどの簡単な言葉を覚えるように努めている。
台北のマチヤ小(この場合は小をグァと発音する、ウチナー口です。)で買い物をしたとき”多少銭? トー シャオ チェン?”と言うと通じないらしく怪訝な顔をするだけ、何回も繰り返したが意味が通じない。しょうがないので”いくら?”と聞くと「ひゃく~ にーじゅうえん」なんて言う。
ムリして一生懸命中国語で言うたのに妻に笑われただけ。

 マニラで”Magkano? マッカーノ”と露天商のオバチャンに言うと通じて、「△○□ ×・・??・・」とタガログ語で返ってきたので全く分からない、このまま引き下がるのはチト面白くないので”マハール(高い)”と言うて立ち去った。

 付け刃的な言葉は役には立たないでも使うのは楽しい、例え通じなくても自己満足できる。
印象としてだが中国語は難しい、後で知ったのだが抑揚イントネーション、四声が違ったら全く別の言葉になってしまい通じなくなるとのこと。
つまりカタカナ中国語は通じない、理解されない。日本語はイントネーションが違っても多少の脱字があっても理解してもらえる、日本人が優しいのかな。

 フィリピンはカタカナ英語が通じるので日本人向きの英語といえる。欧米人には通じない発音でも通じるのが多い。もちろん日本には無い発音があるのでそれはムツカシイ。
それでもカタカナタガログ語をしゃべるのはひと言二言であっても楽しい、相手がタガログでしゃべってきたらオシマイだけど。(笑)
英語は通じるのにわざわざ知りもしないタガログ語でウチナー二世に話して「私はタガログはしゃべれません。」といわれた事もある。

 ハングルは読むだけなら半日で読めるようになる、もちろん大雑把な読み方が出来るという意味です。ソウルへ行く前に「高信太郎のマンがで覚えるハングル]を買って読んだ。空港から市内へ向かう途中車のナンバープレートに書かれているソウルという文字が読めた。

 地下鉄のホームで娘と地名をあーだこーだと読んでいると近くにいた人が正しい読み方を教えてくれた。外国人が自国の言葉を覚えようとする行為は嬉しいものに違いない、私もそう思う。
ただ読むことはできても意味が分からないの読める意味はあまり無い。食堂でプルコギとかビビンバは読めて意味が分かってもその他のメニューは読めても内容が分からない。結局周りの人が食べているのを見るしかない。
でも知らないよりも知る努力をする交流が生まれるのでそれはそれで楽しくなる。

 言葉は自分の意志を伝えようとするとある水準まで修得する必要があるが、知らなければ知らないなりの方法もある、なんとかなる。
私としては現地の言葉を少しでも覚えてしゃべりたい、独りよがりで通じなくても。

たびたび旅の逃げ口上

2006年03月04日 10時19分51秒 | 懐かしい旅の記録
 このブログを書き始めたのはスイスの旅をかつての山仲間に報告と自慢のために記録をしておこうという気になったからです。
ブログは日記風なので毎日更新しなければならないという自虐的な強迫観念に駆られてしまい、スイスネタが尽きたのでこれまでに行った旅を思い出しながら書いいる。

 書いていると楽しかった日々のこと、一緒に行った家族とのやり取りを思い出すので書くのが楽しみになった。4~5日の旅行でも思い出の記にすると10回分にもなる、ムリに引き伸ばして書いているわけでもないが次々と思い出す、それが場所や日時で纏まって思い出すのではなく断片的突発的とも思えるように脈絡も無く出てくるのである。

 それゆえに文章も流れが途絶えたり独りよがりのナットクで終わってしまったりする。(これは言い訳で、ホントのところ文章力・表現力の無さに起因しているのは承知している。でも言い逃れの格好の理由付けになるのでそう解釈しておくのが今後書く意欲を削がないだろう。)

 旅のことを思い出しながら文章に綴るとけっこう家族旅行へ出かけているのを改めて認識した。友人知人職場の人と旅行を共にしたのはたった1回だけ、台湾へ行っただけだ。それだけ共に恵まれず人付き合いが悪いということか・・・。
そういう訳でもないが縁が無かっただけです。友人達とは社会的存在もライフスタイルも違うので今となっては一緒の旅はムリだろう。この年になってもユースホステルの2段ベットに泊まるのを厭わない私と彼等との間には大きなミゾが在るような気がする、「金(かね)」の橋を掛ければ一緒の道を行けるが橋を掛けて渡らねばならないのは私の方だから結局ダメだ。(笑)

 これまでに6箇所の思い出の記を書いた、2箇所は台湾だが台湾はまだ書いておかねばならない旅がある、それだけ私にとって身近な所ということだ。
台湾以外にも記録に残しておきたい旅、気侭な旅はまだあるので書くつもりだ。

 一応バリ編は閉じる、何か思い出したら追加します。
写真も載せたいがスキャンしなければならない。デジカメを使い始めたのは何処の旅行からだったか、その写真もハードディスクが吹っ飛んでしまったのでバックアップはあったのか。

 次の旅の準備とブログに記録する旅のことにアタマを切り替えよう。

グァム

2006年03月03日 13時36分45秒 | バリ
 思い出を沢山作った楽しかったバリもお別れで夜の便で経由地のグァムに向かった。
早くバーが開かないものかと待ちきれずウロチョロしてスチュワーデスに追い返されたりもしながら連れや子供たちとワイワイ騒いだ。教育的見地からすると良くない事は確かだ。
応接間風にレイアウトされテーブルにはオードブルがありカウンターにはウィスキーのミニチュア壜が並んでいる。お相手してくれるのはもちろんスチュワーデスで、ウィスキーの銘柄を言うと必ず封を切ってから渡す。
子供たちはソフトドリンクにツマミを楽しんでいる。この無料バーがあるのを知らない人が多いようだ。大勢が詰めかけている様子はない、それとも無料だからとばかりに、鱈腹飲み食いするようなハシタナイ人が少ないということかな。

 グァムには夜中に着いた初めてのアメリカだ、行きは乗換の時間が短かったので入国しなかった。帰りのオキナワ便への乗り継ぎは朝まで待たねばならない入国手続きを済ませて待合室へ移動する。
良いが廻りベンチに寝入ってしまった、起きると家族の全員が白い目で見る、イビキが酷く恥ずかしかったとのこと。寝たらイビキをかいているという意識が無いので文句を言われてもどうしようもない

 夕べから危ぶまれていたのだがオキナワは台風で欠航になるという。24時間待機せねばならない。足止めを食ったのは勿論我々だけではない、世界のウチナーンチュ大会に参加されるハワイ県人会のおばさんたちもいた。大会で披露するのであろうかロビーでフラダンスの練習をして時間を潰していた。
添乗員、今回は添乗員が付いていたが子供連れ家族の旅行ということで自分の子ども同伴で来た。添乗員の仕事はあまり無いので我々と一緒に遊んだのが実情だ、その添乗員が県人が経営する民宿のような所に案内した、なぜか別途料金を請求された台風ような場合には旅行社は責任をとらないのかな。
しかし思いがけないグァム滞在となった。

 宿は急なお客なので食事の材料調達の買い物をスーパーまで行くと言う、散歩がてらご主人と一緒に行きスーパー見物(?)視察をした。
グァムはオキナワと同じ、基地の作り、道路、風景までも。魅力を感じなかった。一応アメリカなのでアメリカまで足を伸ばしたというだけのこと。誰かにグァムの自慢をされたら、僕も行った事があると嘯けるだけでもヨシとすべきだろう。

バリの方がグァムよりはるかに数段素敵な所だ。グァム

バッ・リッ

2006年03月02日 08時03分55秒 | バリ
 ”バッ・リッ”と書くより”ば~り~”がいいのか”ばり”がいいかやはり”バリ”か・・・
バリのイメージを表現する場合のことです。
妻や子どもにとって始めての海外旅行がバリ島だったのはラッキーだった。子どもが大人と同じように風景だに満足したとは思えない。楽しさから言えばデズニーランドの方が心底面白いだろう。

 しかしバカンスというのはこのような旅を言うのだとの見本を見せた面もある。バカンスなんて私も知らないが、映画を見たり本で読むと日本のパックツアーのように毎日時間通りの行動になっているのとは違う。家族や個人単位で一箇所に長期滞在してのんびり過ごしているように思われる。

 バリ旅行はそれを模した面もある、最初の二日間は全員一緒の日程を組んだが残りの日々は自由行動とした。もちろん子供たちも自由にさせた。
朝起きる時間も食事を取るかどうかも勝手にさせた、部屋割りの関係で子供たちとは別々の部屋になったので自由にさせやすかった。
前日”私は妻とあそこへ行きこうこうする。”一緒に行くなら9時にレストランにおいでと告げるだけにした。

 一緒に行動したり別々だったり、食事も取らずに寝ていたりプールで泳いだりと子供たちはこれまで味わえなかったフリータイムを過ごした。ただし海で泳ぐのは制限した。
ある時娘が髪を結ってきた、細い三つ網アタマいっぱい結うヘアースタイルである。海岸を散歩したら髪結いのオバアに誘われて値段交渉して結ってもらったとのこと。アタマ中数拾本の三つ網がぶら下っている、三つ網1本当たり10円ほどだったので結ってもらったと本人は言う。子供の小遣いで結える金額で可愛くなっていた。

 あのようなのんびりした旅はあのバリ以来無い、つまりたった一回のバカンス経験でした。インド洋に落ちる夕日を眺め、花の香りが漂う中のジャランジャラン、穏やかな人々の顔に緑の水田思い出すだけでも心が和む。
また行きたいな~
妻はその数年後にロンブク島まで足を伸ばしている。

バッ・リッ、ば~り~、ばり、バリ、文字で表現するバリ島は、気分によってどちらも使えるということにしておきます。

 余談だが、息子が高校2年生の五月の連休のときに、友だちの計画に参加するのか親と一緒に行くのか決めろと言うと、迷っている。
”友だちと行くのも楽しいが、お父さんなんかと行くと意外性があるからな~・・・”
その連休は息子も一緒に行動したか何処に行ったか覚えていないけど、高校生にもなる男の子が友達を取るか家族を取るかで迷う様を見て父親としてチョットだけ嬉しかった。

我々の家族は良い家族なんだ。

ガイドのダナさん

2006年03月01日 11時14分15秒 | バリ
 ガイドのダナさんは背が高く日本語が話せて勿論バリを知っていて・・・あとは・・
竹琴というかジュゴグも叩けて優しい人でした。

 6~7年前のこと私たちのツアーを企画した大黒柱の千ちゃんから連絡があった”ダナさんが来るのであつまろう!”と。
歓迎会は千ちゃんの自宅で催されたので私たち家族は全員で参加した。
彼の家は通りから暫らく歩かねばならない、車が通れないのだ、ただしスラム街ではなく風致地区なので建物の増改築を含めて街並みの景観維持に努めている結果なのです。

 通りはくらい、若い女性が前を行く、多分今夜の会合に参加する方だろうと見当をつけて声を掛ける、”サラマッ マラム”と。その女性はニコッと笑って「コンバンハ」と返してきた。
なぜ今夜のメンバーの一員と分かったかというと、その場での雰囲気・ムードがバリを醸し出していたということにしておこう。

 会場である彼の家に着く前からこうである、家は既に大勢のバリキチ、バリかぶれの皆さんで賑わっている。
彼千ちゃんを通してバリに縁が出来た人がワイワイがやがや思い出話に花が咲き、中央にはダナさんもニコニコ顔で坐っている。挨拶をしたがこれまで何人も受け入れているのですぐに思い出せないのもムリは無い。

 ただ数家族が一緒のグループは例が無いので思い出したようだ。子供たちも大きくなっている、改宗のお祝いの話をしたら娘を見て「あの時ウンコがしたいと言い出して自分の家まで連れて行ったよネ、」と言う。
あとで良い年に成長した娘は”あんなヘンナ事を覚えていて・・・"と不満げだった。

 ダナさんの今回の日本訪問は、大阪の人が何時もお世話になっているのでと招待してくれたついでにオキナワまで足を伸ばしたとのこと。
ダナさんは職務以上に世話をし、その人柄が好いので大阪の方もお礼で招いたのだろう。
 オキナワでダナさんに会えるとは夢にも思わなかったし、直接は知らないがこちらのバリ好きの皆さんともお近づきになれたのも全て大阪の方のおかげです。
ありがとう名も知らぬ大阪の人。