福島ズボラーヌ

https://blog.goo.ne.jp/nekozora-f

大阪市福島区(並びにその周辺)をうろうろ徘徊。

福島天満宮

2013-02-08 | ・福島:風景・建築・史跡
通称、「上ノ天神」。福島三天神のひとつ。



ここがかつての村の中心でした。
なお、野田村の中心は野田恵美須、海老江は八坂神社。
今はこじんまりしていますが、昭和42年まではもっと広い神社でした。
(もっとも生まれる前なんで記憶はありませんが)
なにわ筋=浄正橋筋の拡幅のために境内地120坪を失い
今の状態になりました。
神社の近隣はこんな感じ(福島二丁目(3))で、風情があります。

神社のHPによると、907年(延喜7年)に鎮座。
大阪天満宮の創建は949年ですから、
もし福島天満宮の社伝が事実なら、大阪天満宮よりも古いということになります。
ただし、大阪の郷土史に詳しい三善貞司さんの著書には
「あくまでも伝承であり事実とは異なると思う」と書かれていました。

JR福島駅前にあるホテル阪神には天然温泉のスパがありますが
(全客室のお風呂も天然温泉らしい)
その温泉の名前が「徳次郎の湯」。
この徳次郎さんと言うのが、大宰府への旅の途中、福島で風待ちをしていた
菅原道真公をもてなした福島の里人の名前だそうです。

「ホテル阪神:阪神サウナのご案内 徳次郎の湯

当時、福島は「鹿飢島(餓鬼島)」もしくは「葭原島」という地名だったのですが
道真公が徳次郎さんら里人のあたたかさに感激し
「福島」という美しい名前を授けたと言われています。
古代の福島は「難波八十島」のひとつ、大阪湾に浮かぶたくさんの小島のひとつでした。
ちなみに野田は「野田洲」、海老江は「海老洲」。
鷺洲は「田蓑島」にあったのではと言われています。
(中之島の「田蓑橋」の由来は田蓑島に行く道筋にあるからかな?)
当時の様子を推測・再現した地図を見ると、
大阪湾には本当にたくさんの島(砂洲)が存在していたことが分かります。





歴史ある神社ですが、明治時代の「キタの大火」のために
社殿が被害にあい、歴史資料、宝物などが失われてしまいました。
そのため、明治以前の福島の歴史についての調べることが非常に困難なのです。
近くにある西善寺も焼けてしまいましたし、
例えば「砂町」について調べようにも
福島には史料が残されていないため、詳しいことは分かりません。
今の社殿は大正時代に再建されたもの、幸い第二次大戦の被害は免れました。

第二次大戦で焼失・再建を断念した「中の天神」は戦後、ここに合祀されました。
境内を見て回りましたが、「敵討天下茶屋聚」ゆかりの林神社は見つからず…。
たぶんどこかにあると思うんですが。

お芝居とのゆかりというと、何と言ってもここの地車講でしょう。
先日亡くなった中村勘三郎さんの「平成中村座」で上演された「夏祭浪花鑑」では
福島天満宮の地車講の皆さんが劇中のだんじり囃子を担当。
(お芝居に登場する神社は本当は高津宮なんですが)

「夏祭浪花鑑」はとても面白いお話なのですが、
残念ながら今は上方出身の歌舞伎役者さんがほとんどいない状態のため
大阪が舞台のお話なのに、江戸風アクセントの妙な大阪弁で演じています。
以前テレビで見た時はすごい気持ち悪かった。

このお芝居に限らず、歌舞伎の役者さんは東京中心なのに
有名な作品は上方が舞台になっているものが多いので
せりふを聞いていて「うへー」となることが多々あります。
みんな変やなとは思わないのでしょうか。
文楽は大阪弁ベースなのでしっくりくるんですが…。

福島天満宮
住所:大阪市福島区福島2-8-1



動画の3:10過ぎくらいから、だんじり囃子が流れます。

※「福島区の風景・街並み

福島二丁目(4)

2013-02-06 | ・福島:風景・建築・史跡
福島を散歩していた時、ふと
「この辺にポンプ井戸があったなぁ」と思い出しました。

私がポンプ井戸を見かけたのはかなり前のことで、
ABCアネックスが出来る前、まだ山陽自動車運送があった頃です。
(昭和33年、山陽自動車運送の社屋建設工事の際に逆櫓の松の石碑が出てきたのだそうです)

今はどうなっているかいな?と、ろおじの奥をウロウロ。
残念ながらポンプは見つかりませんでした。



もしかしたら、この丸い所がポンプ井戸の跡かなぁ。



近くには煉瓦と敷石を組み合わせたかっこいい小道がありました。



近隣のお宅。
格子窓が素敵です。

※「福島区の風景・街並み





ミナミ株式会社(旧川貯蓄銀行 福島出張所)(2)

2013-02-05 | ・福島:風景・建築・史跡
以前の記事→ミナミ株式会社(旧川貯蓄銀行 福島出張所)

久しぶりに旧川崎貯蓄銀行の前を通りました。
数年前(たぶん)にリニューアル工事をしたので
以前の写真と比べるととてもきれいになっています。

「wikipedia:旧川崎貯蓄銀行福島出張所



以前は無かった案内板が設置されていました。



正面にフルーティング(縦溝)と柱頭の渦巻模様が特徴的な
4本のイオニア式ジャイアント・オーダーを配し、
端部を角型ピラスター(付柱)で納めています。
大正-昭和初期に多くみられた歴史主義様式の正統的な銀行建築にあって
ファサードの緩やかな凸曲面状のカーブや
弓型のペディメントなどのバロック様式の手法が取り入れられている点が特徴的です。
明治末期から昭和初期にかけて横浜で活躍した建築家、矢部又吉により設計されました。


竣工:1934年(昭和9年)
構造:鉄筋コンクリート造 地上2階+地下1階
建築面積:206㎡
施工:竹中工務店



横から見るとこんな感じ。



お隣の駐車場にあった石柱(?)。
何なんでしょうね、これ。
表面に文字が書かれているようにも見えます。

ミナミ株式会社
住所:大阪市福島区福島5-17-7

※「福島区の風景・街並み

大石内蔵助寓居跡

2013-01-27 | ・福島:風景・建築・史跡
三善貞司さんの「大阪伝承地誌集成」に、
旧上福島村あたりに、忠臣蔵で有名な大石内蔵助の仮住いがあったと書かれています。
出典は江戸時代に出版された観光ガイドブック「摂津名所図会大成」。
この本は有名な「摂津名所図会」とはまた違う書籍です。

その本によりますと、内蔵助が住んでいたのは浄祐寺(北区堂島)の西側。
そしてその家は「仮名手本忠臣蔵」に登場する大坂の商人、天野屋利兵衛の別荘でした。

「大坂見聞録 関宿藩士池田正樹の難波探訪」(渡邊忠司)という本にも
大阪の福島あたりに天野屋利兵衛の別荘があり、
そこに内蔵助が身を寄せていたという記述があります。
この本は江戸時代の武士の大坂赴任中の暮らしをつづった
「難波噺」という随筆について書かれたもので、
大坂の市中や郊外に観光に出かけた記録も掲載されています。



「wikipedia:仮名手本忠臣蔵」旧字体:假名手本忠臣藏。
「wikipedia:大石良雄」「良雄」は諱で、通称は「内蔵助」。
「wikipedia:天野屋利兵衛」十段目で天河屋義平として登場。

「大阪伝承地誌集成」には別項目に「天野屋利兵衛宅跡」があり、
浄祐寺の北にある「鵲の森」に
天野屋利兵衛の屋敷があった、と書かれています。
古い地図を何種類か見ましたが、鵲の森なる場所は見当たりません。
個人的な考えですが、浄祐寺の近くに架かっていた梅田橋にちなんだ地名ではないでしょうか。
江戸時代に大ヒットした「曽根崎心中」の中に、
梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星』という詞章があります。
芝居好きの人の間で、梅田橋を「鵲の橋」を呼ぶようになり、
梅田橋の北側にある森を「鵲の森」と呼んでいたのではないか。

内蔵助が天野屋と関わりをもつようになった経緯を詳しく書いた物語もありますが
実際に天野屋利兵衛が赤穂浪士に協力したという事実は無いらしい。
したがって、大石内蔵助が上福島に住んでいたという説はフィクションのようです。
(でも天野屋さんの別荘はあったかもしれないなぁ…)

浄祐寺には赤穂浪士のお墓がありますし、
大阪市北区の円通院には内蔵助のお父さんのお墓があるので、
近くに内蔵助縁の史跡があっても変じゃないような気もします。
矢頭父子の借金は内蔵助が返済したそうですが
その時に内蔵助の使いの人がこの近辺に宿泊したというのが
後日誤って伝えられたというのも考えられる。

もしかしたら、現代には伝わっていないけれど
「假名手本忠臣藏」の大ヒットにあやかって作られた芝居の中に
上福島村に隠棲していたというエピソードがあったのかもしれないなぁ。

※「福島区の風景・街並み

上砂町・下砂町

2013-01-21 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(9)

梅田橋北詰には昔「上砂町・下砂町」という町がありました。
地図によっては「上砂丁・下砂丁」になっている場合もあります。
ちょうど梅田橋を境に東側が上砂町、西側が下砂町。







私は今、福島区を離れて東京の江東区という所に住んでおります。
江東区にも砂町という地名があります。
偶然ではなく、大阪・東京とも同じ人物によって新田開発された場所。
新田開発の主導者の名前は砂村新左衛門、地名は彼の名前にちなんでつけられました。
江東区には今も砂村→砂町の名前は残っていますが、大阪には残っていません。
古地図を色々と見ると、明治時代前半まではこの地名が残っていたようです。

「wikpedia:砂村新左衛門

砂村新左衛門は越前国鯖江の出身と言われています。
出身国の新田開発に携わっていましたが、のちに大阪に進出し
上福島村の曾根崎川北岸を開発(1648年頃)。
砂村一族はこの上福島の地に愛着があったようで、
後年、神奈川県横須賀市の内川新田を開発した際に
福島天満宮を勧請したり(久里浜天神社)、
平作川にかかる橋に「梅田橋」と名付けたりしています。

「福島ズボラーヌ:梅田橋跡

私は時々、旧砂村新田にあるスーパーに自転車で出かけることがあります。
その際に「福島橋」という橋の跡を通ります。
かつて十間川(のちの砂町運河)と言う運河に架橋されていたのですが、
今は運河は無く、親水公園の一部になっています。
橋は外され、銘板のついた柱部分だけが公園に残されています。

「江東ズボラーヌ:福島橋(南砂)

「大阪の上福島村と関連があるのでは?」と考えているのですが
橋跡の周辺には説明板も無く、詳しいことは分かりません。
近くの図書館で溝手正儀さんの著書「砂村新左衛門」を借りて読んだのですが
「福島橋」についての説明はありませんでした。
もしかしたら、明治以降に運河として整備された時に作った橋なのかなぁ。

砂村新左衛門」(溝手さんのホームページ)

西善寺が北陸への布教活動のために持っていた船(不退丸)に砂村家がかかわっていたのでは?
という推測も書かれていました。
しかし、キタの大火で福島天満宮や西善寺の資料が失われてしまったため
砂村家や新田について調べることが難しいようです。
大阪の郷土史家の中で、砂村家について詳しく知る人もいないらしい。

残念ながら、現在のところ「福島橋」の由来は分からぬままです。
江東区に住んでいる間に図書館でこつこつ調べてみたいと思っています。

※2013.10 追記
福島区内を流れていた井路川「聖天川」に昔「福島橋」があったそうです。
聖天川は埋め立てられて今は存在しません(昭和初期頃?)。
古地図で見ると、旧ホテルプラザの近くだと思われます。
この福島橋と、江東区南砂の福島橋の関連は分かりません。



「大阪市街全図」大正5年(1916年)


※「福島区の風景・街並み

梅田橋跡

2013-01-20 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(8)

梅田橋は蜆川にかかっていた橋のひとつです。
古地図を見ると田蓑橋北詰の北にあったようです。



今の大阪中之島合同庁舎の前あたり。
この近辺に橋跡を示す石碑等はありませんが、
近松門左衛門の作品などの古典文学に梅田橋の名が登場します。

『曽根崎心中・天満屋の段』より
恋風の身に蜆川流れては、その虚貝うつヽなき、
色の闇路を照らせとて、夜毎に燈す燈火は、四季の蛍よ雨夜の星か、夏も花見る梅田橋


『曽根崎心中・天神森の段』より
梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星

『心中天網島・道行名残の橋づくし』
西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋 
今に話を聞渡る一首の歌の御威徳
かかる尊きあら神の氏子と生れし身をもちてそなたを殺し我も死ぬ


「wikipedia:曽根崎心中
「wikipedia:心中天網島

梅田橋はかつて梅田にあった墓地「梅田三昧」に行くために架橋されたそうで
蜆川の橋の中では一番古い橋。
墓地に至る橋ということで、昔の人はこの地名に
死のイメージを持っていたのかもしれません。
だから何度も心中物語の名場面に使われていたのかな…

「文化デジタルライブラリー:道行名残の橋づくし

古典文学の世界では有名な梅田橋ですが、今はその痕跡はありません。
石碑は作られなかったのか、それとも戦災で失われてしまったのか。
周囲をぐるぐる見回したところ、意外なところに梅田橋の名が。



梅田橋ビル。
蜆川があったころには無かったはずの現代的なビルディングです。
写真左手に見える白いビルはほたるまちのThe Tower Osaka。

『大阪の橋ものがたり』という本によると、かつて梅田はのどかな農村。
梅田橋近くの堤では「梅田の牛駆け」なる行事が毎年5月5日に行われていました。
大切な牛さんに感謝の意を表すための行事で、
牛さんたちを布や花で飾りつけ、堤の上で放して自由に走らせたのだそうです。
その際に農家の皆さんが粽をまくのですが、天然痘除けのおまじないに効くとのことで
みんな争って持ち帰ったとか。

5月5日は端午の節句。
今でもちまきを食べる習慣は残っていますが
梅田橋周辺で牛を放つのは無理だなぁ…。

「大阪中之島合同庁舎」
住所:大阪市福島区福島1-1-60

「梅田橋ビル」
住所:大阪市北区堂島3-2-1

※「福島区の風景・街並み

追記:
何かの本で、文楽・歌舞伎でおなじみの「菅原伝授手習鑑」の登場人物の名は
蜆川(曽根崎川)の橋にちなんでいるのだ、と読んだ記憶がうっすらとあります。
梅王丸→梅田橋、桜丸→桜橋、松王丸→たぶん緑橋。
『心中天網島・道行名残の橋づくし』の一節、
西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋
」から「あと追ひ松の緑橋」。

多くの書籍では、道真公の詠んだ歌、
「梅は飛び桜は散るる 世の中に何とて松のつれなかるらん」
がモトネタとされています。

追記2:
『心中天網島』、NHKで放映されます。

「NHKオンライン:古典芸能への招待
日時:2013年6月30日(日)21:00~23:00
詳細:NHKネットクラブ:古典芸能への招待 文楽「心中天網島」

浄正橋跡

2013-01-18 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(7)

上天神南交差点近く、「逆櫓の松」のお向かいに立つくすんだ色の石碑。
「浄正橋跡」と刻まれています。
これも蜆川(曽根崎川)にかかっていた橋のひとつ。
大阪市HPによると、「大正15年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てた」とあります。
逆櫓乃松の石碑も同時期に同じ団体の手によって建てられました。

「大阪市HP:福島区名所・旧跡 浄正橋跡碑(じょうしょうばしあとのひ)

堂島小橋や汐津橋の碑は作らなかったのかしら?
もしかしたら、戦災の時に失われたのかもしれないなぁ。
「逆櫓乃松址」の石碑も戦災瓦礫に埋もれてしまい、
昭和33年に掘り起こされたそうなので、今もどこかに埋もれているのかも…



「橋」の字の上半分が真っ黒になっているのは、
かつてはちょうどこの辺りまで地面に埋まっていたから。
道路工事の際に再び掘り返し、今の状態に設置しなおしたのだそうです。

売れてもうらない.com 今なにわ筋、昔浄正橋筋。昔から賑やかな商店街です

↑こちらのHPの写真を見ると、以前はかなり深くまで埋まっていたみたい。

野田+福島:こっそり教える商店街 商店街歩き入門

上記の「野田+福島」の記事によると、浄正橋筋と浦江聖天通りの界隈は
ちょっとした歓楽街で、昔は「北の心斎橋」と呼ばれていたとか。
今は残念ながら、面影ありませんねぇ。

この道(なにわ筋)がかつて浄正橋筋と呼ばれていたのなら、
堂島小橋や汐津橋のある道も堂島小橋筋・汐津橋筋と言われていたのだろうか?

交差点の「浄正橋」はもう少し北側にあるのですが
本当の橋がかかっていたのは石碑の近く「上天神南交差点」付近。
大阪の自宅に20年くらい前に購入した道路地図があるのですが
その本では上天神南交差点の名前は「福島公設市場前」と書かれていました。
福島公設市場=ピコ福島が閉店したから、名称が変わったんでしょうかね。

ピコ福島の思い出はあまりないなぁ…
日曜日がパンの特価日だったのは覚えている。
関電病院のお隣なので、
ガーゼの寝巻など入院グッズが充実していたような記憶があります。
跡地は今なおシャッターが下りたままです。
新しい店舗は入居しないのかしら??

※追記

なんと福島公設市場は日本初の公設市場のひとつだったそうです。
開設されたのは大正7年(1918年)。
とても長い歴史を持つ市場だったのです。残念ながら無くなったけど…



大正13年「大阪市パノラマ地図」。

※「福島区の風景・街並み

逆櫓乃松址

2013-01-17 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(6)

以前の記事に2回も登場したことのある「逆櫓の松」(2012.10.142013.01.11)。
「上天神南」交差点近く、旧蜆川の北岸にあります。

「大阪市:逆櫓(さかろ)の松跡碑

今現在の松はこういう感じです。
本物の「逆櫓の松」は明治初期に枯れてしまったそうです。



マンションの花壇にひょろひょろ立っている松の木。
勇壮な「ひらかな盛衰記」とは似ても似つかない。
文楽の舞台にあった松の方が太いんじゃ…。
お隣にある石碑の方が立派です。



大正時代に作られた石碑。
説明板もあります。



説明の多くは源義経vs梶原景時の逆櫓論争の話に割かれています。
源氏の軍は屋島の戦いの頃、この辺に滞在していたのでしょう。

「wikipedia:逆櫓の松
「wikipedia:屋島の戦い

しかし、『吾妻鏡』『玉葉』の記述から、
このころ景時は範頼軍と行動を共にしていたという見解が有力であり、
『平家物語』のこの逸話は虚構の可能性が高い。


虚構なんですか…。まぁええけど。

説明板によりますと、「梶原景時に従ったのはわずか5艘」。
ちなみに「ひらかな盛衰記」の「逆櫓の段」に出てくる
松右衛門主催の逆櫓講習に参加していた船頭は3人でした。
松右衛門は捕まってしもたし、
講習の続きは権四郎じいさんが講師を務めたのだろうか。

劇中のセリフに
ノウ松右殿、船で妻子を養ひながら、恥づかしいがつひに逆櫓といふことは
ヲヽ知らぬ筈/\。なに事もおれ次第教へてやる
と言うやりとりがあり、逆櫓は福島の松右衛門家に伝わる秘法で
他の船頭さんは知らないという設定です。

説明板の残り数行には江戸時代の観光ガイドブックとして有名な
「摂津名所図会」についての記載があります。
たいそう立派な老松で樹齢千年で蛇のような形をしていたとか。
近くの玉江橋にも「蛸の松」という有名な松があります。
松、ていうのが観光スポットとして絶妙です。
桜は花の季節以外は誰も関心を持ちませんが、
常緑樹で枝ぶりを鑑賞する松なら、年間を通してお客さんを呼ぶことができます。

フリーペーパー「野田+福島」に「逆櫓の松」の図が掲載されていました。

「野田+福島:野田福島名所図会」(pdf)

この絵を見ると、確かにすごく立派な松です。
勇猛な武者が登ってもおかしくない。
蜆川(今は道だけど)ぎりぎりに立っていたわけではなく
個人のお屋敷の敷地内から、枝が伸びている感じですね。
こんな大木なら、確かに淀川(堂島川)を往来する船の目印になったことでしょう。



「野田+福島」の他の号にも、逆櫓の松が紹介されています。
この松の木は福島天満宮の南西にあった杉本家の松なのだそうです。

「野田+福島:野田福島文学散歩」(pdf)

1739年上演の人形浄瑠璃『ひらがな盛衰記』に初めて逆櫓の松という名が登場する。
この浄瑠璃がヒットし、これ以降この大きな松を『逆櫓の松』と呼ぶようになったそうです


やっぱり、逆櫓の松は義経ゆかりじゃなく、松右衛門さんの松だったのだな。
「松右衛門さん家の松ってどんなん?」
と思われた方は、是非、大阪の文楽劇場へ。
今月25日まで公演しています。16日以降は第一部(午前の部)で上演しています。

「国立文楽劇場:初春文楽公演」2013年1月3日(木)~2013年1月25日(金)



文久3年(1863年)「改正増補大阪全図」。
「浄正バシ」の「浄」の上に黒いモヤモヤがありますが
これは松の木の絵ではないかと思うのです。
残念ながら、文字がつぶれてて正確な内容は分からないのですが。
画面右下にも松の木の絵がありますが(ピンクの○部分)、これは「蛸の松」。

※「福島区の風景・街並み

本遇寺

2013-01-16 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(5)

旧汐津橋北詰(福島側)にあるのが本遇寺。
蜆川や逆櫓の松について調べていた時に、こちらのHPにたどり着きました。
私はよそ者で福島区の歴史には全然詳しくなく、
とても面白く拝読しました。
(今は東京在住だから福島図書館に調べに行くこともできないし…)

本遇寺はここにあります

このあたりで聞こえる除夜の鐘はこちらのお寺さんのものだったのか。
いつもどこのお寺かなぁ、と思ってました。
(ふだんは鐘の音がしていないように思う)
先日見た「ひらかな盛衰記」、「逆櫓の段」の最後に鐘の音が響くのですが
もしかしたら、こちらのお寺さんの鐘という設定だったりして。

お寺のHP記事によると、かつてこの界隈には
「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた有名な俳人、上島鬼貫が住んでいたそうです。
ちなみに今、私が住んでいる江東区には松尾芭蕉が住んでいました。
立派な記念館が建っていますが、福島区内に上島鬼貫の記念館どころか
句碑も見た事無いなぁ。
知名度の差ですかねぇ…

「wikipedia:上島鬼貫

福島区の歴史に詳しい「なにわふくしま資料館」のページに上島鬼貫の句が掲載されています。

「暗がりの 松の木さへも 秋の風」
「吹く風や 稲の香にほふ 具足櫃」
「野田村に 蜆あへけり 藤の頃」

野田村、藤、っていかにも野田らしい句ですね。

尚、こちらのお寺に伝わる「絹本著色方便法身阿弥陀如来画像附本遇寺文書」は
大阪市指定文化財です。

「大阪市:絹本著色方便法身阿弥陀如来画像 附 本遇寺文書

※「福島区の風景・街並み

汐津橋跡

2013-01-15 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(4)

蜆川にかかる一番下流の橋が「堂島小橋」。
ではその上流側にかかっていたのはというと、「汐津橋」(塩津橋とも)。
地図を見ながら、大体このあたり…と検討を付けていたのですが
その周辺を見回してもそれらしき石碑などは見当たらない。
堂島小橋の石碑も無いし、ちょっとさびしい。



たぶん、関電病院の西側の道にかかっていたのだと思う。



大正13年「大阪市パノラマ地図」。

1863年の古地図複製を見ると汐津橋南詰西側には
「西本願寺舟入」と書かれています。
インターネットで検索したところ、
対岸(福島側)にある西善寺についての文章が見つかりました。



西善寺は江戸時代初期に大きな船を持っていて、
その船を用いて北陸方面に布教活動をしていたのだそうです。
蜆川は川幅が細いので大きな船は通れませんから、
堂島川側に着岸させていたのでしょう。
(舟入とは川舟の発着場のことらしいです)
船に乗っていた人は堂島を縦断して(狭いですが)
汐津橋を使って、北岸にあるお寺に出入りしていたのかな。

※「福島区の風景・街並み