智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。
知情意活動である人の世の不如意を慨嘆し身の置きどころなく窮迫した挙句は詩や絵にレーゾンデートルを醸し出すという漱石の草枕は勿論奇妙奇天烈な「義」なんてものには一顧だに与えはしない。外国人講師をして学生中ただ一人モラルバックボーンを持つと言わしめた漱石の生来の道徳的高踏さは彼の意思とは関係なく彼の人生も文学も「国民作家」たらしめる肉体に裏打ちしたのだった。
追い求めず語られもしない「義」とは漱石において何だったのか、風流に遊び詩歌に興ずるだけのものならば「則天去私」はいらなかったろう。「門」の前に佇んで日暮れるのを待つ者が「私」を捨てる道理はない。「こころ」の先生は明治に殉じるにしろ若い世代がこれを是とするはずがないと自問する。一時代に極限して生死をつぎ込むという当たり前のことがわからなくなっている。
「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可也」は、道学者先生の単なる覚悟の意気込みだけではあるまい。「義」は重い。丁度この身に係る重力分だけ重いのだ。
政治的時代ははからずもあらゆる価値を淘汰した結果「義」を析出した。しかしヤクザでさえ「義理と人情」の義理の方を取る。このドマグレ連中が、裏街道において一文の得にもならぬ「義理」を押し立てる理由は歴然としている。裏切りとハッタリだけがまかり通る「命がいくつあっても足りない」ヤクザ社会で、全てを淘汰した先に見えた唯一の価値?が「義理」だった。
しかしながら我々の社会はむしろ信用、信頼、共依存の関係でつながっている。だから極論された「無私」の境地というのは門内(出家)にしかないと誰もが思う。
沖縄にある「共生」の意思は共死とも通底し、本土で考えられるところの「無私」が、ここでは共同体(ユイマール)において実現される。集団強制死は恐らくその実質を無残にも実証した実例として見られる。勿論皇国美談でもなんでもない。天皇乃至天皇制があってもなくともそれは起こり得た。但しその死は間違いなく日本軍の存在によって社会的に顕現したのであり、住民意思によって単独では決して起こり得なかったものだ。勘違いするな。
漱石に戻ると、彼が時代的に差し掛かった近代日本の精神的拠り所を個人主義というものに求めたのは間違いないだろうが、晩年の境地たる「則天去私」はその昇華と見ていいかというといささか疑問なしとしない。彼の個人主義は多分「私」主義でなくむしろ福沢諭吉の「独立自尊」に近い。つまり「則天」の私は初めから淘汰され捨てられた私であり、個人主義は同じく私を捨てた実質としての個人、つまりは社会的人格についての思潮媒体と言える。では漱石の「私」とは何か。
「自由」であろう。とすれば、「去私」における捨てられた「自由」が憧憬する対象である「天」とはなにか。後世の解釈はこれを文人としての漱石に極限しているらしい。あるいは「天」を自然天然とする。もし自由に解釈できるなら例えば「天下」としてもいいわけだがまさか「天皇」ではあるまい。あるいは老荘的な境地かもしれない。
いずれにしろ「天」は「私」に対峙しこの世ならぬもの(精神)を暗示する。「神」かもしれない。超越的価値。関係それ自身に関係する関係。
三島が天皇に仮託したとき彼は「いわく言い難いもの」を「天皇」に回避した(と思われる)。但しそれが日本人の国民的心性に合致しているとしても恐らく民衆には無縁である(民俗学は天皇を学的対象とはしなかった)。あらゆる政治的プロパガンダというものは、この「名付け得ざるもの」を、現実的に具象するものには仮託すべきでないと何となく思う。戦後教育は結果的にあらゆる復古主義に警鐘を鳴らす方向へ人を導いた。だから三島由紀夫の「義」は「虚」としてのみ有り得た。不如意ではなく不条理でもなく、不可能という「虚」である。(中断)