沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩349 沖縄と日本

2011年10月05日 10時15分55秒 | 政治論
 自殺した芥川龍之介の我子らに当てた遺書に人生は死に至る闘いでありこれに敗れたなら父のように死ねという箇条があるが、人生に敗れるとはどういうことかと考えるに例えば敗北とは敗北感のことだとかいう小林秀雄の評言も気になるが敗戦当時日本人は一体国が戦争に負け己のよって立つ地表が必ずしも法的保証のもとに置かれない状態で「国の敗北」をどの程度自覚していたのだろうか、あるいは如何に自己深化する内容で敗戦を受容したのか、天皇制国家の国家が勝手にはじめ勝手にこけた戦争がまるで無関係な外的境遇のように見られたのかもしれないとしても皇民化教育の所為で制御され操られた体験として覚醒したとしてもそれだけでこの国の敗戦が何事もなかったかのように過ぎ去るようなことは国としても個人としてもないのだし10年、15年かけて通常以上の大飛躍を為し遂げた経済大国はそのことによって「成功者」面しそこからいくらか、重大な、国家としての敗北を薄く帳消しにした戦後日本の日本人の「お調子者」的浮薄傾向を見るというのは必ずしも不当ではあるまい。我々戦後世代は少なからず自己認識的に例えば明治の精神なんてものを想定し上述した芥川の言辞などから遠く精神的乖離を遂げた結果いかにも堕落した又は人間としての値打ちを下げたという意識がないこともない。例えば芥川の自殺を「敗北の文学」と評して断裁した宮本顕治において我々は自殺を敗北とししかも誰にもついぞ正確には理解されない理由で死に得る文化人というものがあることを象徴的に垣間見たとき(こじつけとでも言うしかない論評は数あるが)カフカのいう「この世には精神の世界しかない」事実に思い至り命より重い価値があるのじゃないかと考えるほどに今次大戦の「敗北」の重大さをあらためて受け止め直す気にさえなるのではあった。生き残るべきでない、「敗北したら滅びるべき国」がやまとだましいを論う資格はないし朝鮮民族が今更に反日言行を繰り返しても言い返す背景はないし、大震災にうろたえてろくな施策も打ち出せない政府の実態もなんとなく当然の体たらくと思えるし、アメリカの言いなりに半独立国体制で戦後少しも自律的精神に裏打ちされた目覚しい改変もこれなく経過した理由もさもありなんという感じであるし、沖縄が被っている琉球処分以来の近代日本における情けない仕打ちもまた戦後少しも改善されたことはなく、中空に吊り下げられてフラフラ風まかせに揺さぶられ続けている現状は、この国自身の情けない内情そのものの露骨な反映としてしか見られないのである。滅びてこそ価値のあるものがあるとすればあらゆる粉飾を取り払ってこの国を振り返るならそこに「敗北」し得るほどの価値として自身見出すべきものを見るのではないかとあらためて眺めるとむしろ空虚しか広がらない絶望感だけが残る。馬鹿に付ける薬はない。笛吹けど踊らず。馬鹿は死ななきゃ治らない。折角神が多大な犠牲を払って手を下した恐ろしい事態に直面したのにこの国は公務員宿舎建設にさえ机を叩いて「バカを言うんじゃない」と建設中止売却決定判を即断で突けない。福島県民と周辺住民を恐怖のど真ん中に放置してさえ愚にもつかぬ区域解除で収束に向かっている「かのように」めくらます、こういう官僚的事務的思考法がまかり通るこの国の土性骨も見えてくる。この先この国はこの「滅びるべき」実質とどう向き合いうるのか、暗澹たる思いに心胆寒からしむ以外方途はない。(中断)