沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩349 沖縄と日本 10

2011年10月26日 17時06分47秒 | 政治論
 国会は代議士によって成り立ち、代議士は民選によって代議的に国政に関与する。この実質は結局、「民主主義」の効用を実現するために予め憲法が規定した制限措置である。
 代議士は特権階級だがその権力は憲法によって制限され、彼らは決定的に、民意の代弁者でなければならないと言える。民意の頂点は住民投票かもしれないが、それらは数次の実績を累積して、確定的に総括されたものである必要がある。
 実績的に確定された民意に基づき、国に示された普天間飛行場辺野古移設反対意見は、「国内問題」としてはあらゆる特措法の上位に置かれなければ民主的とはいえない。何故なら、民選された代議士が法案化するはずの特措法は、代議士の制限された権利(民意の代弁者としての権利)においてのみ成立可能な意味に置かれたはずなのだから。
 かくして沖縄県における県知事の許認可に集約する最高自治権は、あらゆる国家専権案件(国家の立法機関たる国会が、民意の代弁者としての権利行使に限定して、その権限が発揮される代議員のもとにあるので)に優位する。
 他の場合(突発的短期的問題)とは違うのだ(勿論この「非常事態」に対する事後的な国民意見は最大限尊重されるべきだ)。もしここで政府が、独断で知事許認可権を剥奪したなら立派な憲法違反であり、確実に際限のない国内泥沼闘争に落ち込む。沖縄を底なしの基地ストレス状態に叩き込むということだ。
 現に今「フクシマ」においてこの国は放射能問題につきダラダラと対処することで、福島県民のみならず近県各所のすべての人々を、見えざる不幸の予感のなかに突き落とそうとしている。
 アメリカのやり方は少なくとも現在のところ、日本「国内問題」として「沖縄問題」を回避しようとしているが、彼らの米国「国内問題」たる議会対策など知ったことじゃあないのだよ。ふざけるな。しかしながら己の実質を「民主的」と勘違いし、窮迫して繰り出す諸策を苦渋の決断と言い逃れ、結果的に最悪の方向を選びとるこの国の最高責任者というのは何時の場合も歴史的にしか断罪できないものか。残念ながら我々無力な人民は「非暴力」という抵抗によってしかおのれの立ち位置を選べないのだ。(中断)


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