沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩232

2010年11月13日 12時43分59秒 | 政治論
 非暴力不服従は当然積極的大衆運動としての有効性という観点から考えられる基本的姿勢であり、非暴力はいわゆる暴力に対して有効だというわけではない。この有効性の判断の根拠はむしろ暴力における定義の古典性が問題で例えば19世紀の戦争が機械化された重装備の軍隊による現代戦争資質と決定的な相違点をもつ理由は今更いわずともいい。すでに歴史的に証明された現代戦争のホロコースト化に対して「非暴力」を唱える馬鹿はいない。「非暴力」が有効なのは暴力化する議会制民主主義という観点、つまり多数決原理が有する非民主的一面に対する対抗措置としては一定の有効性を持つということだ。しかしながらアメリカ主導の21世紀的状況では所謂連携という名の国連機能が一極連動型に変質したり場合によっては度々国連決議さえ無視される事態に容易に流れる有様を見ては、最早「しかたなく」服従するという愚劣極まりない追従型対応には無反省な国家的欠陥を国民が容認している場合ではなく、「不服従」という運動に移行するしかないのだ。「非暴力不服従」は21世紀でも有効な大衆運動法といっていい。しかしいつの時代もこういう微妙なナイーブな問題は高度に政治的な状況で判断を求められ、歴史はその評価を多数の実例で明示している。沖縄に関して言えば正直に言ってこうした一般論は全く机上の空論としか思えない。運命論的な空疎な言い訳も「ふざけるな」というわけでどう考えても日本人日本政府民主政権菅内閣本土ナイチャー、アメリカ人アメリカ政府米軍海兵隊は沖縄の公害でありしかも人災公害の典型でありこいつらは人間じゃない。動物でさえない。こういう生物学的実情を有しない連中に「非暴力不服従」が何の意味がある?相手が人間だからこそ有効な方法なのにこれじゃあ暖簾に腕押し豚に真珠はいいとこで、ある日沖縄の煮えたぎるマグマが「暴力的」に噴出する光景を見ることは到底避けられまい。