沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩631 沖縄を生きるということ、とは 3

2017年09月06日 08時47分31秒 | 政治論

 沖縄は今、旧盆(旧暦で行われる盂蘭盆会)の時季であり、旧の7月13日から7月15日まで、新暦で9月3日から9月5日までとなっている。因みに本土等で行われるそれは本来旧暦の7月15日を中心としていたが今は多くの場合月遅れの8月15日とするものらしい。勿論地域によって異なり一概には言えない。沖縄の盆の入りはウンケー(お迎え)と呼び習わす。ナカヒ(中日)、ウークイ(お送り)と続く。9月6日この地の盂蘭盆会は盆踊りエイサーで締めくくる。

 北朝鮮の威嚇的核実験、弾道ミサイル発射実験は、米国大統領との挑発合戦と米韓合同演習が煽っているものに間違いないが、この国のメデア・マスコミ・ジャーナリズムは相変わらず半可通な意味のない国家政府大本営発表に加担し、徒に北朝鮮孤立化を図って止まない。外交的流動的情勢のことは専門家にも予測不能な多面性を示しているが、如何にしても国民を守る手立ては非戦避戦反戦の一手しかないことを我々は厳しく自問自答しなければならない。少なくとも安倍晋三一派の好戦的軍産複合の悪手を許容してはならない。

 腐敗した精神性の渦中にある日本の右翼グループの、馬鹿の一つ覚えの大日本帝国復活なる茶番劇は一過性の物かと高をくくっているが、しかしながら、経済的凋落、不満、社会不安などが人心に影響する全体主義的傾向は既にヒトラーナチスやムッソリーニたちが示す歴史的事実が証明したように、いつのまにか何となく国民に浸透し、挙句狂熱的糾合の末避けようもなく大戦へ真っ逆さまに墜落するのである。何故この史実に学ばないか。所詮安倍晋三と言う稀代の大ウツケの愚劣で無恥な性向が国家をゲーム感覚でドラ息子遊び気分のおふざけに使うという、あきれ果てた白痴的愚行が現実化している悲劇だ。こいつのブレインが安倍を利して国家を思うように牛耳ろうとして官僚的エゴイズムを蔓延させている。モリカケ防衛省問題がこのブレインたちに漸く反安倍的な思いを加え始めたらしいが、こいつらの仲間割れなどに期待している暇はない。高江辺野古は国家犯罪が現実に実行されているのだ。人心蹂躙、環境破壊、人権殺傷、どこにもこいつらの国策なる犯罪を正当化する実質はない。明らかに沖縄県民を虐待しているのである。こんな国がどこにあるか。

 三島由紀夫の本質は憂国だが、今の国家的右傾化を煽る連中にはその欠片もない。言いっぱなしで言っているそれには一種の「反抗期的幼稚さ」が漲っている。理論もくそもないかれらの言い分に耳を傾ける必要はないのだが、正邪の別がない「親心」はいつも手加減して後の祭りに終始する。

 いずれにしても本土の国民がまんまと目くらまされて、高江も辺野古も国家政府の思い通りに進捗していると思い込まされているが、いま彼等防衛省防衛局がやっていることに何らの進捗保障はなく、多くの場合暗礁に乗り上げる先がそこかしこに見えている。しかしながら自然破壊、環境破壊、人権侵害、県民感情逆撫では確かに進捗している。この進捗はどんな場合も許しがたいものがあり、ここで抗議監視座り込みしている市民には休む暇さえなく、盆中にも工事強行する彼らの非人情なやっつけ仕事には怒り以外の何も出てこない。本土の国民はこの沖縄の実情をよくも見逃さず国家のしている米国追従の情けない実態に明確な批判の目を向けるがいい。それがあなた方の精神性をより良くする手立てでもあると思え。(つづく)