何といっても沖縄県にとって最も深刻な問題は、この国がアメリカ合衆国の傀儡国家だという事実だ。次に決して見逃せない重大な瑕疵は、この国が現代琉球沖縄を恥ずかしげもなく軽んじていることだ。
少なくとも、戦後戦無世代のヤマトゥ政官界にあっては、沖縄県の実情に真摯に向き合い、その改善のために何らかの努力、誠意をみせたことはただの一度もない、というのは、人間としてどうかと思うわけだが。沖縄戦と近接していた戦後の、未だ戦争の記憶が、ある年代まで生々しくあったころにはこの国の政治家にさえ、琉球沖縄を思いやるくらいの気持ちはあったのだろうが、戦後米国占領統治(アメリカー世)27年間の複雑な「潜在主権」宙ぶらりん時代も、佐藤栄作による沖縄返還で思い知らされた「核付き非本土並み」の実情も、結局は上記日本国の正体を余すところなく暴露した先駆けに過ぎなかったのだった。
このような、国家とさえ言うもはばかられるような国家のそのまた属領のような扱いの中で、琉球沖縄が日本国憲法のもと、その生存生活を安定的発展的に営むことは到底望みようもないことは、残念ながら今となっては隠しようもない真実である。そしてかかる事実についてヤマトゥの常民たる日本人が、知ってか知らずかのうのうと便乗し、幻想に過ぎない日米安保の核の傘のもとで堕落した国民たる生存生活を続けている在り様には、沖縄県民も見るに堪えぬものがあると思っている。
と、ここまで考えてはたと立ち止った。ヤマトゥの捨石には決してなるまいが、太平洋の要石にもされてなるまい。所詮米軍海兵隊をして沖縄に留まらせているのは軍司令官たちの保守主義によるのであろう。それは既得された権益の確保にほかならない。それだけのことだ。このような不毛な日米政府政治家官僚たちの留まるを知らない封建遺制的なお代官仕事に付き合っている暇は沖縄県民にはないはずだ。つまり琉球沖縄が琉球国として再生し万国津梁の実を上げるには、どうしても日米安保の押し付けられた負担者としての現在の立場をなんとしてでも脱却せねばならない。と同時に日本国憲法の精神に則って、この国がしているあらゆる軍事的アプローチ、戦争につながる国策はこれを決して実践させてはならない。このふたつのことを同時進行で実行する場が辺野古米軍キャンプシュワブゲート前と辺野古崎海域である。(つづく)