沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩586 琉球における精神的、道徳的な独立論

2015年03月31日 09時19分45秒 | 政治論

 なんだかんだと言っても、要は、140万県民の9割が住する沖縄本島の20%にも及ぶ広大な中心部に、国内74%の米軍専用施設を押し付けて、しかも「負担軽減」といいながら同じ県内に新たに機能拡充された米軍用軍事基地を造るなんてことは、国民の一人一人が「それはおかしい」と思わないということの方こそ問題なのです。これも何となく付和雷同し寄らば大樹を是とする国民性がしからしめた、戦後の薄弱な理念性に基づく「民主主義」のなれの果て、ということでしょう。

 日米安保が積極的に容認されているヤマトゥの8割の安保是認国民意識に対し、沖縄県では真逆の9割の反安保数値を提供している。これは勿論基地負担が如何に住民にとってマイナス効果で作用しているか、ということの表れであり、逆に言えばヤマトゥの国民が如何にその負担を不当に免れているか、ということも証明している。

 元来、国家対国民、なんていう対立構図は形容矛盾であり、まして日本国憲法の在り様は明瞭に国民主権を唱えている。国家専権事項なんてものは元々存在しない。国家が専権的に行えるのは、飽くまで国民的支持のもとに、であり、少なくとも琉球沖縄に関しては「住民の頭越しに日米政府2者間で合意した」事柄においてこれを専権的、と称していて、全くの不法行為、暴虐、蛮行に極まっている。

 抑々、憲法9条に違背している、米国「押しつけ憲法」のもとでのグチャグチャの軍事同盟やら自衛隊やら、沖縄に住する国民の一人として不快極まりない。大体が、戦勝国米国にあって戦前から取り組まれていた戦後処理の一環である日本国傀儡化施策下にある日本国が、すっきりした独立国の尊厳ある態度を取れない国情からすれば、こうした国家の属領じみた扱いの琉球沖縄がこの国の何度目かの「捨石」になど金輪際なるものかと思うのが当然の成り行きであり、「独立論」はむしろ明らかな精神的浄化と昇華のための、琉球が図らずも手にしている最大の恩恵にほかならず、それを具体的にするしないに拘わらず、琉球の本気で真剣に取り組むべき本筋の課題かと思う。それは精神衛生上の問題でもあり、堕落し切っているヤマトゥが逆立ちしても手にすることができない、純粋に道徳的なアプローチである。(つづく)



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