どっちみちこの国のやることには違憲状態(選挙制度の違憲または違憲状態はいつまでも解消されてない)と憲法違背本質(憲法9条のことだ)がつきまとい、最終的にはどさくさまぎれに「この時とばかり」自分ら(取り分け自公政権乃至右翼タカ派)に都合のよい憲法をでっちあげることしか考えてはいないと見える。都合のよい憲法?為政者にとって都合がいい憲法とは何だろう。安倍晋三が言うには、この国も「人並みに」戦争ができるよう国法を整備し、国際社会(欧米)の軍事優先主義にも文字通り大手を振って軍事的に参加できる一人前の国家になることらしい。つまり欧米に軍事面で肩を並べたい、という為政者の対外的エゴ、体面もしくは劣等感である(国民がこれを自身の命を供してまでも望むというならエゴではないかもしれないのだがねえ)。世界3位の経済的優位性という、必死で富国の実を挙げたところまでは、日米安保の偏奇性という代償を度外視しそのツケを殆ど一県で背負った沖縄問題をスルーすれば、国民的成功譚として現実的には評価されるところではあった(誰も赤貧を故意に望みはしないのだろうから)。だが、此処に来て安倍政権が急速に右傾化し国軍の保持、戦争手段の確保という方向(強兵)へ雪崩を打って邁進し始めてから、歴史学的にさほど検証されてもいない明治期の藩閥官僚国家風「欧米に追い付き追い越せ」時代に突入するかの様相を呈し始め、苟も敗戦の苦い教訓に学びながら戦後培った「戦争回避憲法」による不戦非戦状態の70年に及ぶ恒久性がいよいよ甲斐もなく突き崩され、イスラム国テロ集団から標的化されるような宰相の舌禍に見舞われつつ、もう一度あの戦争時代の惨禍の中に国民を引きずり込もうとしているのである。我々は未だ安倍晋三の画策策略に、この国を再度奈落の底へ導く程の悪魔的な意図としては殆ど実感できないでいる。しかし戦前の雰囲気も同様ではなかったかと思われるがゆえに、それは大変危険な油断である。特にナチスドイツの実例からは、如何なる甘い状況判断も取り返しのつかない後悔の泥沼を準備することになる。辺野古のことを考えればわかる。彼らはおのれらの法的違背状態を棚に上げて「法に則り粛々と」米国のために新軍事基地を造ろうと、地元県知事の通告も無視し、今日も今日とて何食わぬ顔して掘削作業を継続している。彼らにどんな筋の通った意見を具申しても決してやめないのであろう。これはさながらチンピラ「ヤクザ」のふてくされの体である。自分の立ち位置がどんなに間違っていようとも必ずごり押して行くという無法者の所業だ。つまりこれが、戦後70年の時間が作り出し醸し出した、日本国のでたらめさだ。この事実に思いをめぐらすことがない国民は永久に何も知らずに国家に振り回されるだけの存在で終始するのであろう。
こうした国家的なあるいは政治的なでたらめさは、安倍晋三という個人がしからしめた極めて稀で特異な現象なのだろうか。この無頼な奴が消えてなくなれば直ちに解消することなのだろうか。否、民主政権のていたらくをみてしまった有権者は、官僚主導の政治が結局この国の習い性となり、「愚民視」扱いで決して民の為にはならない「民のための政治」を装った自公政権のようなまがいものをまたぞろつかまされるに決まっている。それでも安倍晋三の政治よりはましかもしれない。(つづく)