沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 沖縄タイムス記事

2015年03月29日 20時18分35秒 | マスコミジャーナリズム

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=109246

 今帰仁村字越地は筆者の住む集落の隣に位置する。ひやみかち、は一種の掛け声で「エイヤア!!」という感じらしい。

http://shiminryoku.ti-da.net/e2893355.html

 両隣の字同士で顕彰碑の話が出ているのだが、建立費用をどうするのか未だはっきりしてない。

 


詩583 たゆまない沖縄の市民とその抵抗運動

2015年03月29日 09時35分25秒 | 政治論

 明日、この国の農林水産大臣林芳正は、確実に、翁長沖縄県知事が既に沖縄防衛局に対し出した辺野古新基地建設作業停止指示の効力を一時的に無効とする発表を行う。言って見れば、辺野古推進派同衾の所轄官庁トップが、最初から結論の決まっている「出来レース」の決定を下す、というだけの意味しかないのだが、どういうわけかこの自民政権成立後取り分け安倍晋三が首相となってからは、正当性の欠如した国政上の決定事項が目白押しとなっていて、「何をやってもどうせ彼らの言うとおりにしか物事は進まない」と人々に思い込ませるべく働きかける風情が見て取れる。これはかつてナチドイツが行った徹底した綱領プロパガンダと同質である。テレ朝報道ステーションでの古賀茂明氏の当たり前の真相暴露事件は、この国のメデアマスコミジャーナリズムがこぞって資本主義的利潤追求のための理念性放棄姿勢に埋没し始めていることを証明していた。つまり政府官邸政権中枢による陰、陽にわたる圧力、弾圧、統制、恫喝、懐柔行為が、さながら逃げ場を失ったドブネズミの悪あがきのごとく繰り返され、いかにこの政権が元々2割程度の国民的実質支持しか持たない無残な没落政党であるかをまざまざと見せつけているのである。何故この党はまるで当たり前のように蘇ったかのような顔をしているのだろうか。当然選んだのは国民でありその後の驚異的な高支持率もその国民が献上している。これに対して多分多くの「良識ある」一方の党派、論陣、識者たちは苦虫をかみつぶしながらこの暖簾に腕押し的なこの国の「民主主義」の無力さを眺めているのである。問題は安倍晋三が目指している、欧米に伍するべく通常軍隊を有し国際社会でその人並みな位置を占めようという画策により、戦後70年で培ったはずの「戦争回避可能憲法」体制を突き崩し、テロ集団の標的となるリスクも辞さず、戦前並みの帝国日本へ突き進もうとしていることについて、明確な歴史的展望に立って批判し切れている論評が余りにも僅少なことだ。

 沖縄県がその市民運動の軸としているのはただ一つ、「沖縄戦」が惨たらしく垂れた血塗られた教訓、である。政党的保革の対立を超越し、やや性急に見えるが「オール沖縄」的な結束で「戦争への道」を断ち切ろうというのが沖縄県の市民運動にほかならず、ヤマトゥのあらゆる反戦運動と異なるのはその動機が自己自身の強烈な体験に根差しているということだ。その、「自己自身」の担い手は今まさに戦争を知らない世代に引き継がれようしている。一方この国の政権中枢にいる政治家はじめ官僚たちもまた戦争を知らない世代で占められている。つまり土俵は同じである。沖縄県が孤立し異属的なのはヤマトゥが経験しなかった住民巻き添えの市街戦をまるごと体験した事実に拠っているし、琉球沖縄として歴史的に被った一連の「バビロン捕囚」的な境遇に根付いている。しかし2個の原爆、大空襲、大戦が齎した数知れない惨禍もまたこれと同質といわなければならない。しかしこうした住民被害に対するヤマトゥの悲鳴は余りにも小さく局地的単発だ。歯がゆいばかりである。

 動機なき人道的見地というのは所詮弾圧統制圧力に会うと転向せずに済まない。テレ朝の醜態は、所詮このメデアもまた利潤追求の企業にすぎず、職業理念には遠い存在だ、というしかない。生き残りをかけるにしろ、もし資本主義が間違っていないのなら何故堂々と権力と対峙し正当な論議を展開する労を惜しむのか。何故公開の場でこれを市民環視の中実践しないのか。何故こそこそと体制におもねる行為へ短絡し、権力がやろうとしていることを暴露しないのか。

 明日からまた翁長県政はじめとして沖縄市民活動は「チルダイ」することなく継続され、新たな抵抗と不服従の非暴力運動が展開される。権力がいかに「理不尽に」不当な扱いで暴力的に向かって来ようともこの「草の根」の息遣いを止めることは決してできやしない。(つづく)