沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩550 辺野古 21

2014年08月18日 09時27分20秒 | 政治論

 「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」という、チャールズ・W・スイーニー著になる、実際に2個の原爆を、人類史上初めて無辜の民の頭上に炸裂させた当事者としての長たらしい「言い訳」がある。というより、彼の言い分の殆どは米国国民的認識、しかも誤った戦後教育的成果としてのそれに寸分たがわず合致しているものだ。従って、彼個人の本音以外には興味が惹かれない現在の筆者にとって、その彼自身の出生以来の来歴披瀝になるこの著書に殆ど何一つ「真実」らしいものを発見することはできなかった。その「真実」とは結局スミソニアンが「ゲンバク」展示を拒否した事実からも米国の逆の意味の真実に気づかされる、というようなことでしかない。アイゼンハワー将軍やニミッツなどは戦況からみて「原爆不要」や別途作戦あるいは投下警告発信をトルーマンに進言しているのだが、彼はこれに従うことなく終わった。トルーマンの投下決定にはJ・サミュエル・ウオーカーによれば5つの要件があったとされる。「1.戦争の早期終結、2.マンハッタン計画の妥当性証明、3.原爆不用説の非妥当性、4.対ソ交渉の有利化、5.日本人への人種的差別感」がそれだが、1を除けば全てこの行為がある種の国家エゴに拠っていることを示している。1に関しては「多数のいのちを少数の犠牲で救う」という考え方の重大にして複雑な問題性を指摘しなければならない。トルーマンの決定には明らかに「人道的な逡巡」という経過が欠けている。それは人間の尊厳に対する想像力の欠如であり、机上の決定が齎す深甚な現実的障害への配慮が失われることであり、何より、一人の権力把持為政者が、己の裁量により生じる実際的結果に如何に責任を持つかという問題を浮き彫りにする。

 この、安倍晋三による防衛省に対する「辺野古移設」進捗の強い要請(激しく叱責したとされる)は、現在この小さな島嶼の一角に猛然とした人民弾圧の官憲的暴力を横行させている。彼ら一般職員は上司の命令に従っているだけかもしれないが、その行為は逆に自分たちの生存の地盤である一般市民生活権をまさに敵に回したということにほかならない。しかも彼らの言い訳に使われる「市民の安全確保」自体がその市民を傷つけることになっているのだ。安倍晋三のファシズムはこのように、自己正当化だけに長けたヒトラー、ムッソリーニ等がしてきたことと何ら変わらない、おぞましい暴虐の実例なのである。(つづく)