ABCD(米英中蘭)包囲網による経済封鎖で国としての行き場を失ったがために日本国は米国と戦端を開いた、というのは、現時点で太平洋戦争の原因として定説となっているらしい。筆者は、この世に確実にあるだろうと思われるのは「民」という存在だと認識している。一方、誰も疑いなく信じきっているように見かけるのが「国」というものだとも思っている。つまり突き詰めれば「民」があって、しかる後に「国」のようなものがある、というのが筋道だ、ということだ。そしてこの筋道からすれば、「民」の生活生存環境に関し技術提供し管理し最善の整備を組織的系統的効率的に実行する機関総体としてあるのが「国」というものの機能的存在理由だろうと想像する。「国」は「民」に先駆けない、というのが、両者の関係性を良好に維持するために必要なルールだ。(この点では辺野古のことはルール違反そのものと言える)
「国」が「民」を先駆ける、という思想を国家主義と名付けよう。今まさに安倍晋三内閣がやっていることはこの国家主義的政治である。例えば、日米安保体制に関してその基地負担を国内74%引き受けている沖縄県が世論調査上90%以上の反対意見を持っているのに対して、負担が残り26%に過ぎない他県においてほぼ過半数の現状維持派を数えるという事実から、異国の軍隊がそこに存在する、訓練する、危険なオスプレイを配備する、来て欲しくない海洋に新基地を作るといった現状に際しては「民」がこれをほぼ誰でも忌避する心情に立ち至る、ということが言えるわけだ。まさにここ沖縄では「国」が「民」を先駆け、「民」の心情を損ない、凌駕し無視し、住自然環境破壊を積極的に推進しているのである。しかも第一に、日米安保による米軍駐留は現実には国内誰もそれを引き受けようとしないにも関わらず、ほぼ差別的に押し付けが効く沖縄県に集中的に偏在させ、新設、増設のための予算を「国」が進んで計上している。ここには「亡国」と称すべき、「民」の存在しない、為政者の頭だけの国家主義がまかり通っている。
太平洋戦争は残念ながら15年戦争の終結点に過ぎず、ABCD包囲網は必然的墓穴を掘ったのだが、国家主義者はそうではなく、太平洋戦争は米国ルーズベルト体制の陰謀であり、そもそも陸軍の大陸進出には「大義」があり、大東亜共栄圏構想に基づく東亜の解放を目途とし、欧米列強の手で植民地化され搾取されているアジア諸民族の全面的救出が戦争目的だった、と言いたいのだ。「大義」としては成り立つし、歴史的な裏付けも取れるだろう。しかし国内一億の民の「大義」でないことは明白だ。「欲しがりません勝つまでは」「打ちてしやまん」「贅沢は敵だ」などの標語は所詮(物量物資不足の国情からきた)軍部の差金であり、東條の「生きて虜囚の辱めは受けるな」こそ一億玉砕の逃げ場のない一本径を指し示している。沖縄戦の「集団強制死」がこうした国家主義の「民」における明瞭な罪過をいやでも証明しているであろう。(つづく)