沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩543 軍靴 10

2014年07月12日 14時44分32秒 | 政治論

 琉球新報本日(7月12日)社説によれば、琉球処分(1979年明治12年)当時の国際慣習法に照らせば、明らかにこの処分(武断統治的囲い込み)の違法性が指摘できるとされる見解を国際法学者が示し、かつ現行法においては、その不当性の責任追及を現在の日本政府に対して可能な旨言及しているという。その根拠は琉米修好条約等、3条約としているが、これの開示を保管庁(事実上の没収による)である外務省が渋っているうえ、「経緯が明らかでない」から、という奇妙な理由で没収事由に関する回答を避けたという。つまり彼ら自身これらに関して不問に付していた、歴史的検証検討を怠っていたわけだ。

 琉球処分は島津侵攻のことは別として、原基的に琉球王国独立体を日本国版図(日本国領土、乃至属国)に位置づけ、江戸期における地方の一小藩と見做し処分後は琉球国王を華族として一旧大名扱いに付したとみられる。そして廃藩置県を後付して(王国を無理やり琉球藩としてからのち沖縄県にした)断行した。この経緯こそ、その後琉球王国の独立性を損ない、琉球民族の独自性と文化的単一性を根こそぎ本土同化させようという蛮行に至らせ、恐らく永久にこの地の人心に馴染まない皇国皇民化へ導き沖縄戦の悲劇に引きずり込んだ、最も重大な、国際外交上犯罪的な質における欺瞞的両国関係史を示している。類似するのは満州国建国の経緯だ。日韓併合もこれに似ている。そこに介在している脱亜入欧精神(アジアを蔑視し欧米に取り入る)には我が国のことながら嘔吐を禁じ得ない。(つづく)

 

 

 

 


詩543 軍靴 9

2014年07月12日 08時48分54秒 | 政治論

 軍事的な拡大行為に論理はないし、戦略上には常にだまし討ち、待ち伏せ、不意打ちがつきものであり、敷衍すれば軍人と軍隊の合目的的実戦行為には流れ弾、不慮の事故、突発的な負傷とその悪化、戦場神経症等が絶えず襲いかかることから、これに備えてあらゆる現実的な措置が準備されているし、そのためにはその防御と対策のためにははっきり言って手段は選ばれない。選ばれない対象にはしばしば周辺住民も含まれることは「沖縄戦」が実証している。このような視点を持った場合、沖縄の周辺住民が国を挙げての日米両国の軍事的な画策に極めてナーバスに反応するのは当然であり、これを日本政府が懸念するあまり、在日米軍関係の情報を決してそのままには伝達しないという傾向があるのだろうが、辺野古新基地建設のための海面埋め立て土砂を採取した跡地に兵員宿舎等福利施設を建設するという、特に辺野古ダムや自然環境の保全区域にかかるこの一帯に「開発行為」に似た環境変更施設をぶち上げようというような暴論は、当然に正規の環境アセスには馴染まないに決まっていよう。大体が辺野古環境アセス自体、アセスの名に沿わないとんだ食わせ物だったことは誰でも知っている。しかしそれが沖縄行政責任部署さえ取り込んで堂々とまかり通っていることは、それだけ軍事論理の非論理的情緒的横暴を証拠づけているということになる。こういう軍事マフィア、愚連隊を相手にまともな抵抗運動が通用するとも思えないのだが、この夏も辺野古、高江では老体に鞭打って汗水たらし、おじいおばあが来る日も来る日も座り込みを続けているのである。(つづく)