軍事的な拡大行為に論理はないし、戦略上には常にだまし討ち、待ち伏せ、不意打ちがつきものであり、敷衍すれば軍人と軍隊の合目的的実戦行為には流れ弾、不慮の事故、突発的な負傷とその悪化、戦場神経症等が絶えず襲いかかることから、これに備えてあらゆる現実的な措置が準備されているし、そのためにはその防御と対策のためにははっきり言って手段は選ばれない。選ばれない対象にはしばしば周辺住民も含まれることは「沖縄戦」が実証している。このような視点を持った場合、沖縄の周辺住民が国を挙げての日米両国の軍事的な画策に極めてナーバスに反応するのは当然であり、これを日本政府が懸念するあまり、在日米軍関係の情報を決してそのままには伝達しないという傾向があるのだろうが、辺野古新基地建設のための海面埋め立て土砂を採取した跡地に兵員宿舎等福利施設を建設するという、特に辺野古ダムや自然環境の保全区域にかかるこの一帯に「開発行為」に似た環境変更施設をぶち上げようというような暴論は、当然に正規の環境アセスには馴染まないに決まっていよう。大体が辺野古環境アセス自体、アセスの名に沿わないとんだ食わせ物だったことは誰でも知っている。しかしそれが沖縄行政責任部署さえ取り込んで堂々とまかり通っていることは、それだけ軍事論理の非論理的情緒的横暴を証拠づけているということになる。こういう軍事マフィア、愚連隊を相手にまともな抵抗運動が通用するとも思えないのだが、この夏も辺野古、高江では老体に鞭打って汗水たらし、おじいおばあが来る日も来る日も座り込みを続けているのである。(つづく)