あらゆるモダンイデオロギーの課題は理論と現実の整合性に集中するだろう。空想から科学へはマルクスに限らない。誰も非現実的な合理性など求めはしない。現代が優れて歴史的バランスを実現し国際的協調を得たかというと必ずしも肯じないのはしかたがない。では国連も無力として国家が安全保障を最優先課題とし軍拡競争のなかにあらゆる国家的アイデンテテイを注ぎ込んだとして、例えば戦後65年を経過した日本のような場合吉田ドクトリンの評価は高坂のいう「現実的な平和論」として生き続けるものだろうか。戦後焼け跡からの出発はまさに究極のリアリズムであったろう。敗戦は日本において又国際社会においてのっぴきならぬ現実であったし国家が生き延びることも避けようのない必然的行為にちがいない。しかし日本の敗戦は連合国の勝利だったしこの立脚するものの決定的な違いこそ日本の国家的主体性の可能性だったかもしれないとはいえないか。歴史の蓋然性を今更評しても仕方がない。問題は日米同盟が負っている運命的な関係性だ。経済的繁栄と経済現象学的リードオフマンの役目は非軍事性らしき国是に彩られながら、曲がりなりにも一時代を完全に閉幕した、と思われる。にも拘らず何故この同盟は軍事同盟として不変的に持続しているのか。敗戦国対勝者、防共協定の同盟国、第2次防共同盟国、この日米関係はまるで確定的既成関係として論を待たない究極の路線のごとく連綿と受け継がれるようだ。今や軍事費さえ増額を要求されているし、グアム移転の予定破綻の尻拭いまでさせられる状況だ。内政干渉の様相は露骨になり広島まで愚弄されようとしている。被爆関係者が沖縄県民同様、吹き上がる憤怒を静かに燃え滾らせながらオバマや米大使の「現実的平和論」を苦々しく聞くだろうことは容易に想像できる。こうした明瞭に人民と乖離した「現実主義」こそ非現実主義ではないのか。菅よ、あんたの先生の永井陽之助はもう過去の人ではないか。吉田ドクトリンも過去の遺物ではないか。今こそ21世紀の現時点の現実を直視し君の本来的な「現実主義」を宣言したらどうか。