今年初めて読んだ本です。
ちょっと技巧的な文章校正になっているのですが、そのことよりも、「母語が使えない異国で暮らす」ということを非常に適格に表現している、と共感しました。
私がアメリカに行ったのは35歳の時だったと思います。直前に受けたTOEICのそれもIPテストは600点にあとちょっと届かないくらいの点数。それでも渡米まで毎日英語の勉強をして、英会話学校にも通い、それなりに準備をしていったつもりでしたが、ついてすぐ「先にラボに来い。ミーティングする。」とボスに言われて参加したラボミーティングは、それはもう悲惨でした。みんなが何しゃべってるか、まったくわかりませんでした。後でボスに「今話した内容をメールでくれませんか?」と頼んでようやく後で「読んで」理解しました。その最初のミーティングで話し合われた実験の日、細胞数の調整をするのに10の6乗っていうのが言えなくて、「きー」となったのを今でも覚えています。
とにかくその後も半年くらいは本当にもう嫌になるくらいわからないし、子どものデイケアで子どものクラスメイトに「わたし、赤ちゃん言葉はよくわからないのよね~」と言われる始末。私は中学時代から英語は苦手でしたから、TOEICの点数以上に英語力がなかったと思いますね。
だけど、言葉って自分を表現するものだから、それが不自由になると、ものすごくつらいんです。
ビザの書類やアパートの契約書類、保険の契約とか、すごい緊張感で読んでましたが、それでも理解不足があり、大失敗もありました。1年3か月の予定で渡米し、10か月目頃に「もうちょっと延長しないか」という話がボスから出たときには、「ええ~、このしんどいのをまだ続けるの?無理無理。」と思ったくらいです。
ホントにすごいストレスでしたね~。
そんな中、普通にちょっとしたことしゃべれるのはエチオピア人のエチオピアと中国人のチェンでした。二人とも英語は不自由なく使うけど、第2言語としてのそれでしたから、気持ちが共有できた。それからもう一人NY英語で早口で言葉はかなりわからんけどゴッドマザー的存在のパットがずいぶん精神的に助けてくれました。だけどそれでもやっぱり尋常じゃない緊張感で生きていたんですよ、あの頃の私は。
だから、母語が使えることがどれだけ快楽で自由か、身に染みてわかります。
もちろん英語が達者な人には私の例は当てはまらないでしょうけど、この「さようなら、オレンジ」に出てくるアフリカからの難民のサリマのことも、日本人研究者妻のさゆりのことも、すごく実感としてわかりますね。
日本に帰ってきて、今もこの「平安」を感じない日はありません。
母語、母国、それがどれほどありがたいものか。
何もしなくても、そのままの私でここにいていい。何の無理もなく自分の思ったことを人に伝えられる。それが母語であり、母国なのです。だから、異国で働き、生きていくというのは、本当にチャレンジングで厳しくて、母国では考えられないくらい自分が変わらざるを得ない、という経験になるのです。
だけど、本当にアメリカで暮らしてよかったと思います。今もなにひとつ忘れていない。楽しかったし、毎日充実していて、大事な大事な時間でした。
さようなら、オレンジ (ちくま文庫) | |
岩城けい | |
筑摩書房 |
ちょっと技巧的な文章校正になっているのですが、そのことよりも、「母語が使えない異国で暮らす」ということを非常に適格に表現している、と共感しました。
私がアメリカに行ったのは35歳の時だったと思います。直前に受けたTOEICのそれもIPテストは600点にあとちょっと届かないくらいの点数。それでも渡米まで毎日英語の勉強をして、英会話学校にも通い、それなりに準備をしていったつもりでしたが、ついてすぐ「先にラボに来い。ミーティングする。」とボスに言われて参加したラボミーティングは、それはもう悲惨でした。みんなが何しゃべってるか、まったくわかりませんでした。後でボスに「今話した内容をメールでくれませんか?」と頼んでようやく後で「読んで」理解しました。その最初のミーティングで話し合われた実験の日、細胞数の調整をするのに10の6乗っていうのが言えなくて、「きー」となったのを今でも覚えています。
とにかくその後も半年くらいは本当にもう嫌になるくらいわからないし、子どものデイケアで子どものクラスメイトに「わたし、赤ちゃん言葉はよくわからないのよね~」と言われる始末。私は中学時代から英語は苦手でしたから、TOEICの点数以上に英語力がなかったと思いますね。
だけど、言葉って自分を表現するものだから、それが不自由になると、ものすごくつらいんです。
ビザの書類やアパートの契約書類、保険の契約とか、すごい緊張感で読んでましたが、それでも理解不足があり、大失敗もありました。1年3か月の予定で渡米し、10か月目頃に「もうちょっと延長しないか」という話がボスから出たときには、「ええ~、このしんどいのをまだ続けるの?無理無理。」と思ったくらいです。
ホントにすごいストレスでしたね~。
そんな中、普通にちょっとしたことしゃべれるのはエチオピア人のエチオピアと中国人のチェンでした。二人とも英語は不自由なく使うけど、第2言語としてのそれでしたから、気持ちが共有できた。それからもう一人NY英語で早口で言葉はかなりわからんけどゴッドマザー的存在のパットがずいぶん精神的に助けてくれました。だけどそれでもやっぱり尋常じゃない緊張感で生きていたんですよ、あの頃の私は。
だから、母語が使えることがどれだけ快楽で自由か、身に染みてわかります。
もちろん英語が達者な人には私の例は当てはまらないでしょうけど、この「さようなら、オレンジ」に出てくるアフリカからの難民のサリマのことも、日本人研究者妻のさゆりのことも、すごく実感としてわかりますね。
日本に帰ってきて、今もこの「平安」を感じない日はありません。
母語、母国、それがどれほどありがたいものか。
何もしなくても、そのままの私でここにいていい。何の無理もなく自分の思ったことを人に伝えられる。それが母語であり、母国なのです。だから、異国で働き、生きていくというのは、本当にチャレンジングで厳しくて、母国では考えられないくらい自分が変わらざるを得ない、という経験になるのです。
だけど、本当にアメリカで暮らしてよかったと思います。今もなにひとつ忘れていない。楽しかったし、毎日充実していて、大事な大事な時間でした。
コメントどうもありがとう。
また会えたらいいんだけど。
今はまた外国なの?
楽しんでね!
あんまりしんどいことはしなくていいよ!
子どもの反抗期(荒れ期)はすごく大変だけど、その時十分向き合ったことが、あとでよかったなと思うことがあった。うちはその時に日本語学校をやめる決断をしたんだけど、それがよかったと思う。こどものストレスをひとつ減らすことができて、わたしもすごく気が楽になった。先のことを考えたら日本語の保持ってすごく大事だけど、そのときのしんどさを思ったらね、、、。
また、会おうね!
母国で母国語で生活できる事がどんなにありがたいか、
これはずっと私も感じていたことです。
夫、長男、次男、もちろん私も言葉のストレスと日々向き合いながら生活してるんだもの、時にはイライラしても仕方ないかっと気持ちが楽になりました。
(プラス今は長男の反抗期がすごくて、ヘトヘト・・・。)
ここで生活する事は大きな経験として将来振り返ることができる時がくると思って日々生活してます。
気持ちがすーっと楽になりました。
ありがとう。