犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

辰巳ダム裁判>裁判に対する期待と誤解

2018年04月23日 | 辰巳ダム裁判
 「悪法も法なり」という。法治国家の原理原則である。これは悪法だから、守らなくてもいいとなったら、社会が混乱する。改正するまでは守らないといけないのである。法は社会を安定させるための手段である。
 逆にいえば、安定させるために必要であったから、法ができる。

 河川法は、豪雨の際には川の流れの氾濫を防ぎ、平生は川の水を利用し、川の環境を活用するために、川を改造して制御する必要があったので作られた法律である。
 必要がなくなれば改正あるいは廃止される。
洪水氾濫がなくなり、水余りになれば、少なくとも川を改造する必要はなくなる。

 原告(住民)は、氾濫もない、水も余っているから、辰巳ダムはいらないと異議申立をした。一方、被告(国・石川県)は、氾濫する危険がある、水あまりはないと主張した。

 裁判所は、判示する前提として、「事柄の性質上極めて政策的、専門技術的なものであって、(国・石川県の)裁量を尊重して判断する」と宣言している。「社会通念上著しく不相当な点」があれば別だがなどと条件はつけているが、最初から行政側に軍配をあげることを示唆している。

 であるから、原告・被告双方の主張を聞き、双方の証人喚問による立証をさせるが、最初から結論は決まっている。裁判所は、被告(国・石川県)の主張を採用し、原告の主張には理由がないので請求を棄却すると判示する。

 それでは、裁判は意義がないかといえばそうではない。
 法は社会を安定させるための手段である。行政が信頼できないとなると社会が不安定化する。法の本来の目的に沿わないことになる。

 裁判所は法を実現するためのしくみであり、社会を安定化させる役割を担っている。そのためには、事実を無視するわけではないが、軽視せざるをえず、社会の安定を重視するために行政を支持することになる。原告の主張を支持できないとしても、裁判における長時間の陳述を通じて事実を無視できない事情はよくわかっているのである。
 
 行政も司法も巨大な社会的しくみである。急には舵を切れない。

 事実を直視しているのは住民である。いずれ変えていかねばならないのである。司法を変え、立法し、行政を変えないといけない。そのための積み重ねが必要であり、その一環が辰巳ダム裁判である。
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