犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

辰巳ダム裁判>2.28ブログの追記【既往最大主義から確率主義へ】

2017年02月26日 | 辰巳ダム裁判
 「既往最大主義」から「確率主義」へ変わったということについて、「統計」だけの世界から、「確率」の世界に変更されたとも言えるようだ。

 「統計」は、標本(サンプル)を集めた集団について、そのかたち、傾向、規則性などを分析することと考えられるが、大きく分けて、量的側面を捉えるか、質的側面を捉えるかである。雨に例えると、1年にどれだけの降雨があるかというのは量的側面、毎年の降雨の標本から、将来の降雨の傾向を分析することは質的側面と言うことができる。

 「確率」というのは、統計(質的側面)に「確率」を与えたときに計算できるということである。計算できるだけで、計算されて求めた降雨に因果関係はない。100年確率の雨が100年の間に必ず降るという因果はない。計算した結果があるだけである。現実とは必ず異なり、一致しない。一致したとしたら、それは単なる偶然にすぎない。

 ただ、適正なやり方で求めた結果は、現実に近似していると考えられるので信用してもよいだろうと考えるだけである。

 当然、適正と思っても適正でなかったりするので、現実と齟齬がでてくる、現実と齟齬がでてくれば、フィードバックして係数を再検討したり、計算式を代えたりする必要がある。あくまでも確率で求めたものは従である。現実が主であり、確率で求めたものは、架空のものであり、現実にあわせるように修正しなければいけない。

 現実と合わず、おかしいにもかかわらず、コンピュータで計算された数値を金科玉条のごとく、これが真実だと主張しているのが、国と県の姿だ。コンピュータ算出値といっても、無数の中から、特定の数値を選択して強弁しているだけだ。

 辰巳ダム計画では、46年間のサンプルから、100年確率として1750m3/秒を選択した。筆者は、裁判で70年間のサンプルから、100年確率の極限値として1269m3/秒が算出できることを提示した。裁判所は、70年は100年に満たないから、1269m3/秒を採用しないことは不合理ではないと判示したが、明らかに矛盾している。46年間も100年に満たないから、1750m3/秒を採用しないとしても不合理ではないということになるからだ。

 確率で求められたものが、肯定されたり、否定されたりして、簡単に逆転するのは、確率というのは、計算できるというだけで、現実に裏打ちされた確固としたものではなく、現実を表現しているかもしれないという存在にすぎないからである。現実にたどり着く、一つの手法に過ぎない。現実を近似的に表している場合もあるし、見当違いのこともある。現実は、現実をしっかり、みることでしか、わからない。

 はっきりしているのは、辰巳ダム計画において、確率主義は、現実を見る目を曇らせることに役立っている。

2017.2.28,naka,追記
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