犀川の河川整備を考える会

犀川の辰巳ダム建設を契機に河川整備を考え、公共土木事業のあり方について問題提起をするブログ。

辰巳ダム裁判>法廷で技術論争する意味のつづき5

2016年01月26日 | 辰巳ダム裁判
「独自の考え方である」のつづきと「起きる可能性がある」

(答えなくてもいいが)
 裁判では、自分の立場が不利になる、都合の悪いことは答えない。答えなくてもいいのであるが、技術の争いで答えないと裁判官は被告の方に軍配を挙げようとしても挙げようがない、何でもいいから主張をということになる。被告が技術の議論に深入りしたくない場合の答えが、「(原告の考えは)独自の考え方である」であり、そう考えるのはあなただけで、そんな考え方は通用しないと返すわけである。

(さらに「独自の考え方である」の例え)
 犀川の過去の出水のデータ、流量観測記録を様々に解析しても、100年確率の洪水が900から1000台の前半あたりで、どうひねっても1750にはとどかない。被告としては、俎上にのせられないのであり、流量確率評価はしたくない。原告が様々なケースの検討証拠を示しても、データ数が少ない、過去の流量観測記録は不正確で信頼出来ない、うんぬんかんぬんと言い訳めいた反論に終始して、反論に値するものではない、そのように考えるのはあなただけで一般に通用する考えではないとなり、一言で要約すると、「独自の考え方である」となる。技術の詳細に入り込みたくない時の返答であり、裁判で有効なよい答えだろう。

(定説があるようで無い時は「起きる可能性がある」)
 技術の考え方が定まっている場合、定まっていない場合について述べたが、定説の有無がはっきりしない場合もある。定説があるようで無い場合の答えが、「起きる可能性がある」と言えるだろう。きちんとした仕様書があってその通りにすれば、明確な答えが得られるというわけではない。辰巳ダムのケースでは、計画規模が100年確率でスタートして、科学的根拠が明確であるはずであるが、途中で曖昧になり、とどのつまりは「起きる可能性がある」という素人議論になった。起きるのか起きないのか、一義的に答えが出ない。はっきりしているのは、100年確率の対象降雨量(流域平均2日雨量)は314mmであり、「起きる可能性がある」と科学的根拠がはっきりしているが、以後の検討過程の予測雨量(3時間雨量、24時間雨量)も予測流量(24個の流量群)のいずれも確率は不明であり、「起きる可能性がある」という科学的根拠はない。にもかかわらず、予測しがたい自然現象を相手にするのだから、どんなことも起きるし、想定外のことも起きる、「起きる可能性がある」というような議論となった。このような素人議論を一つ、一つつぶしたつもりであったが、犀川流域とは直接関係のない福井豪雨などの関連情報を持ち出されて、結果的に「起きる可能性がある」という説に対抗できなかったということだろう。

(旧基準では定説であった「カバー率」は新基準では定説で無くなった ※1)
 また、被告らが主張する、「カバー率50%で基本高水ピーク流量を決めるのは、半分はカバーできない危険な計画だ ※2」というのも、カバー率100%値が起きる可能性があるという主張だ。100年確率値を求める過程での試算値であり、「起きる可能性がある」という、科学的根拠が不明確なものだ(100年確率値ではない!)。にもかかわらず、「起きる可能性がある」ものを排除できないという主張の方が通った。

※1: 旧基準ではカバー率50%値が科学的根拠あるものとしての位置付けであったが、新基準では科学的根拠はないと排除された。
※2: 原告はこんな主張をしているわけではなく、50%以上で慎重に決めるとしているが、議論を重ねる内にそれぞれ都合のいい主張を声高に主張されて声高の主張が結論になる!

(結論は)
 辰巳ダム裁判で技術的な議論のやりとりをしてみた経験を反芻してみると、技術的な定説の有無によって裁判の上でたどり着く被告の結論(=裁判官の挙げる軍配)はつぎのようになる。
「定説がない(定まっていない)」 → 「安全側を取る」
「定説がある(定まっている)」 → 「独自の考え方である」
「定説があるようで無い」 → 「起きる可能性がある」
というのが、今のところの当方の理解である。
(つづく)
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